吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
http://reyline.web.fc2.com/index.htm

刀のお守りで有名な八代の龍王神社の白龍 No377

2014-06-05 15:47:50 | 神霊界考察

屋根の上の黒龍は以前紹介しているが
祈祷所の鴨居に白龍が設置されたので写真を添付しておく。
この白龍はなかなかいい感じだと思う。
黒龍と共に一見の価値があると思うので是非参拝していただきたい。
※印刷しても綺麗なように画像サイズは1600×1200にしている。
最初にここに参拝したのは20年程前のことになる。
当時は普通の神社という感じだった。
今初めて参拝した人は外見から新興宗教と勘違いするかもしれないが
古くからある神社なので心配はいらない。
ただここの宮司が霊能ある方でお守りに龍神の念を込めたり
たちの悪い病巣に龍神の念を込めたりして
参拝者に有難がられたりしているうちに口コミで広がったようだ。
お守りetcの頒布金などの他に祈願者や宝くじ当選者などからの寄付金も集まり
それが新興宗教のような派手な建物と拝殿になっている。


以前から熊本県八代市のの八大龍王神を祀る龍王神社の紹介をしている。
2013-04-04『修正 刀のお守りで有名な八代の龍王神社 No348』
2010-09-29『刀のお守りで有名な八代の龍王神社 No168』
2010-04-03『八代にある八大龍王神を祭る龍王神社について No112』
2009-11-17『龍宮界の乙姫と八大龍王神 No033』
参照『八代の八大龍王神を祀る浅井神社 No167』

八代駅から歩いて15分程度であろうか、
龍王神社にも駐車場はあるものの土曜日などは祈願者も多く停められない場合も多い。

もし刀守りなどのお守りが欲しければ以下の看板を参考にして
月金土の朝早くに出向いて中で番号札をもらってからのんびりと待つのみだ。
お守りに霊力を入れていただく必要があるのでちょっと寄ってさっと買って帰るという訳にはいかない。
2時間や3時間は待つ覚悟が必要であるが
この待ち時間を無駄にしたくないがために1個2個はお守りを買う量が増えてしまう。
また自分の番が来ると結構待った分だけ
あれもいこれもと相談して時間を引き延ばすのも人間の性だ。
参拝者の中の半数以上がリピーターさんであり、
奇跡譚やこのお守りは効果が高いので是非求めるべきだ等の
話を聞くのも人間観察という意味でも面白い。






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追記 『火の國 熊本における水の神とは』 No376

2014-05-25 04:30:13 | 神霊界考察
前回の『火の國 熊本における水の神とは』
熊本人の気質のひごもっこすについて少し述べたが
この気質は歴史研究の中では少し役立っている部分もある。
この気質のひとつの特徴として過去を遡ると
「簡単になびかない 死をもいとわない」ということがある。
例えば戦国時代に肥後国衆一揆というのが起こっている。
全国を平定した豊臣秀吉が佐々成政を肥後の領主に任命したのだが
「太閤検地」に反発した肥後の領主と農民が
肥後国衆一揆と呼ばれる反乱を起こすのだ。
当然に結果は見えている。
秀吉は「国が荒れ果てても、ことごとく成敗せよ」と檄を飛ばし、
九州・四国各藩から約二万人の軍勢を送り
肥後を徹底的に弾圧して勝利することになる。
この結果肥後国衆はことごとく討滅されてしまう。
佐々成政は、秀吉から責任をとらされて切腹。
国衆一揆の翌年の天正十六年(一五八八)に肥後の新しい領主として
北の熊本市に加藤清正、
南の宇土八代に小西行長が任命されることになる。
この当時肥後を訪れた宣教師が「これほど貧しい国を見たことがない」と
書き残しているほど肥後の地は荒廃してしまっていた。
加藤清正は27歳で肥後入りをするのだが
入国後清正は治山治水、新田開発などに力を入れ、
またパンの原料となる小麦を特産品として南蛮貿易に乗り出し
硝石を輸入するなどしている。
そうやって積極的に領地経営を進めていき肥後国は復活を果たす。
加藤清正は肥後人の気質にうまくとけ込んでいったと思われる。

加藤家が改易された後に肥後に入国したのが
豊前小倉城主細川忠利だが、
肥後もっこすな県民はそれ以降も加藤清正公を神として祭り続ける。
今でこそ細川忠利が自分の事跡を「清正公のお陰」としたとの伝承となっているが
これも肥後人の気質に従ってのことにある。
これは奈良時代の初代肥後国司の道君首名が
現代でも肥後では神として祭祀されていることにも繋がる。
道君首名の功績は筑後守正五位下道君首名と云われるように
筑後にも多々あるのだが他県だと数百年で消えていく祭祀が
肥後では千年残っていく。

この肥後もっこす「簡単になびかない 死をもいとわない」
この例は複数あるのだがもうひとつ記載するとすれば
『神風連=敬神党の乱』がある。
1876年(明治9)に熊本市で起こった明治政府に対する神道の信仰心に基づく
士族反乱という位置づけになる。
もともとが林桜園を祖とする国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党員の中で
林桜園の私塾「原道館」を中心として神職に就いていて
明治政府への強い不満を抱き尊皇攘夷を掲げる構成員により肥後敬神党が結成された。
彼らの抵抗は勝利を目的としていない政治的クーデターでありいわゆる反乱ではないので
今では神風連の変ということになっている。
神道的な道義をもとに自らを糾す=糺すことを目的としている。
具体的には政府指導の『断髪令』『廃刀令』に反発したものだといわれているが
新開大神宮で「宇気比」と呼ばれる誓約祈祷を行い、神託のままに挙兵している。
この時における武士道とは攘夷であると考えていたようで
この攘夷には日本らしさを固持することが含まれている。
『断髪令』『廃刀令』などを含めた西洋化に対抗して自らを糺すとすれば、
それは神風特攻による玉砕.....
つまり今で言うカオス理論的なバタフライ効果を願うしかないと考えたようである。

神風特攻とは無駄死にみえるような行為であっても
それが神意を動かすことになることがあることを知っての上での行為だ。
自らを捨て駒と成す事で大きな成果を得るというのは
林桜園の思想であったのかは判らないが、
彼に学んだ吉田松陰なども自分の信念のために捨て駒である刑死を選んでいる。
もし吉田松陰がなぜ刑死を選んだのかを本当の意味で知りたければ
この観念の理解が不可欠であろう。
二十一回猛士と名乗るがむしゃらで猪突猛進の行動有りきの吉田松陰なら
本来脱獄してでも次の行動のチャンスを狙うのが猛士たるものの王道であるはずだ。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

吉田松陰は刑死を受ける事が自らの志の達成に繋がると思ったのだが
自分の死が弟子の発奮に繋がるから刑死を選んだわけではないし
信念を貫く事が刑死であったという訳でもない。
なぜ刑死が無駄死にとならずに志の達成に繋がると思ったのか
そのことを理解する事はすなわち「簡単になびかない 死をもいとわない」という
肥後もっこすの真髄の理解ともなる。

吉田松陰の句では大和魂というものが語られる。
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」
この大和魂とは本居宣長の創り出した言葉であるが
生・死・結果を超越した神をも動かす御魂の発露のことだと思っている。

ところで当時肥後では「学校党」「勤皇党≧肥後敬神党」「実学党」の三派閥が喧々囂々していたのだが
肥後敬神党は陣風連の乱で自爆し、
学校党は翌年の西南の役で西郷側に立ち熊本隊を立ち上げたが敗退している。


肥後国衆一揆にしても西南の役にしても熊本の被害は甚大で
立ち直り不可能と揶揄されるほどであるが
この荒廃からの復興は雛形経綸として
熊本霊ラインを通じて日本の復興に繋がっていると感じている。


熊本霊ラインの効果については
このブログの主題の『吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流』に従ったものであり
中央構造線の西端の熊本の影響が日本中に響き渡る現象のことを云っている。
その詳細は『神霊背景一刀両断』
『熊本霊ライン』を参照していただきたい。












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火の國 熊本における水の神とは No375

2014-05-22 23:03:09 | 神霊界考察
熊本は大火山として古代においても中国にまで知られていた阿蘇山や
八代海の不知火などの伝承から景行天皇の時代から火の國と呼ばれている。

伝承としては肥前国風土記によるものが第10代崇神天皇の時で
肥後国益城郡の朝来名峯の土蜘妹を
現在健軍神社の主祭神である健緒組=武雄君が征伐した後に、
健緒組は国中を巡察するのだが、
この時に八代の白髪山で日没となったことがあった。
宿営していると夜空にゆらゆらと光る火の光が現われてかがり火のように見えた。
不思議な火のことを崇神天皇に奏上したら、
今まで聞いたことのない不思議なことであるとして火国と名づけられ、
功を賞して健緒組を火君としてこの火国を統治させた。
(火の國は肥の國とも云う)

また日本書紀によると
九州巡幸中の第12代景行天皇18年5月のこと 
景行天皇が葦北より船出した際に洋上で日暮れになった。
その時に、遠方にゆらゆらと光る火の光に導かれて無事に着岸した。
そこは八代県の豊村(宇城市松橋町豊福あたり)であった。
火の光の主を問うと、主は不明で人の火ではなかった。
それでその国の名を『火の国』と名付けたとある。

いずれにせよ伝承はゆらゆらと光るかがり火のようなヒノタマの不思議が
火の國の由来となっている。

さて神といえばカミで火と水を以て神とする。
縦と横の仕組みともいうが火は厳霊であり陽で縦に昇り水は瑞霊であり陰で横に広がる。

また、ひふみは火と風と水と土を以てひふみよと為している。(四大エレメント)
ところで風は本来、空気のことで空気そのものは古代日本人においては、
たぶんいくらか虚無のイメージなのだが
人はそのエネルギーを風として感じている。
日本の古代においては火は山火事 風は台風 水は洪水 土は地震・山崩れと
恐れの対象でもあったわけで、そこに畏怖が感じられる。
ところで空気のことを古代日本人は何と呼んでいたのだろうか?
何故か調べても分からない。
留まっている空気には名前が無いのかもしれないが、
それを動かすふいごなどは古い言葉だ。
人間だれしも息を止めれば苦しくなることからそこに何かがあることは分かるし
水の中で息を吐けば何かが出てくることも視覚的に確かめられる。

日本書紀には燃える土燃える水のことが記載されている。
「越国献燃土与燃水」
しかし残念なことに燃える空気は記載がないので
空気を何と呼んでいたのかは分からない。
もちろん風は日本書紀に風浪高という記載もあるが古くから使われている。
阿蘇には日下という地名や人名が残るが
この日下は草香とも書くが臭いの語源ともいわれる。
臭いも空気に似てはいるが、
古代日本人が同じものと思っていたとも思えない。
古代日本人の空気の呼び名が分かるまでは空氣と記載することとする。

さて熊本では古い時代からの火祭りの伝承が多い。
ところが水の祭りについてはそう多くは伝承を知らない。
熊本は特別に水が豊富なところだ。
これは阿蘇の広大な外輪山が水を溜め込み地下水となるという
特別な構造があるからだ。
熊本で旱魃問題が全くなかったかというと農業被害は出ている。
ただ飲み水が無くなるまでの被害は無い。
前出の健軍神社の境内に降雨祈願で有名な雨宮神社がある。
古くは慶長年の加藤清正公の降雨祈願が記録に残り歌も残っている。
『我国に雨の宮とも崇めしを御垣の内の草かるるとは』
また明治中期にも雨乞い祈願をしたが
雨が降らないとして宮司が切腹したという話が伝わる。
阿蘇山は多雨で知られている。
阿蘇山上で年間降雨量3200mm程度。
カルデラ内での年間平均降雨量は2500mm程度であり
これらが地下水として浸透し湧き水となる。

熊本のこの湧き水は熊本市中心部を流れる白川の水源ともなっている。
白川水源には白川吉見神社が祭られているが
祭神は國龍大明神と罔象女神となっている。

(ここまで記載してパタリと筆が止まったが
これからの内容を文字に替えるのは面倒な作業だ。)


ネット上に風琳堂さまの[PDF]瀬 織 津 姫 神 祭 祀 社 全 国 分 布 図がUPされている。


肥前の佐賀と肥後の熊本は火の國にあたるが
この地においては瀬織津姫神の祭祀の形跡がほとんど見られない。
『龍神信仰 No075』のコメントで不知火にある十五柱神社に
瀬織津媛の祭祀の形跡がある等のコメントをいただいているが
調査した結果では海童神祭祀が原初と思われた。


火の國では水の祭祀は八大龍王神としての祭祀が6割で
残りが罔象女神ミズハメハのかみ3割や蒲池媛=蒲智比賣 渋江家河童祭祀等となっている。

ところで話が飛ぶようだが火の國に熊本には瀬織津姫神の祭祀の形跡がほとんど無いが
もうひとつ素戔嗚尊 須佐之男命の平安以前の祭祀の形跡も数少ないあるいは無い。
承平四年(934)第六十一代朱雀天皇の御代に武勇名高い藤原保昌が肥後国司として下向して
京都の祇園社(八坂神社)の素戔嗚尊の御分霊を勧請したという北岡神社系列の
十社程度の分祀された神社がある。
あと菊池市の七城町加恵には加恵須賀神社という謎の神社がある。

この二つから想像されることがある。

素戔嗚尊祭祀で最初に思い起こされたのは、
津島神社に祀られる素戔嗚尊に対し
嵯峨天皇が「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」として、
「日本総社」の称号と正一位の神階とを与えられたという話だ。
これはそれまでの天皇が崇敬してきた紀伊の「熊野大神」として現れる神霊を
素戔嗚尊と断定したものだと考えられる。
これにより熊野神社はかなりの数が素戔嗚神社に淘汰されたものと思われる。
熊本には熊野坐神社が現在も数多く残っている。
探せば二十社程度はすぐに見つかる。
祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命とされるところが多く
速玉之男神 事解男神が追加されている神社もある。
ところが祭神に素戔嗚尊は出てこない。
ここらが他県に比べて熊本に素戔嗚尊を祭る神社が少ない理由となるのかもしれない。
熊野本宮大社では熊野坐神は「熊野にいらっしゃる神」=家都御子大神とされる。
家都御子=木津御子ともされる。
また熊本県玉名郡天水町小天の天子宮由緒によると
熊本の初代国司の道君首名公が熊野宮を勧請し熊野嶽と名付たという伝承があるが、
それはそこが出雲に似ていたからだそうだ。
参照『小天・天子宮由緒石碑』
もしかすると熊本に数多く鎮座する熊野座神社は
島根県松江市八雲町熊野にある熊野大社からの勧請なのかもしれない。
だとすると祭神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命ということになる。
しかしこの御神霊も熊本では素戔嗚尊と同一視されてはいない。


物部氏は素戔嗚尊ー饒速日命ー大歳ー御歳系統を祭祀して来たと言われるが
この中で饒速日命は先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とされる。
ある時代に饒速日命を太陽神として祭祀してきた話は公然の秘密となっているが
実際には神を火と水の陰陽の神霊として饒速日命 瀬織津姫を夫婦神として
祀っていた時代があると思われる。

これが本当の歴史を踏まえたものであったのかかどうかは分からない。
しかし嵯峨天皇の時代に天皇の氏神は素戔嗚尊として
各地の神社において素戔嗚尊が祭られることになり
それにあやかり神道界は素戔嗚尊の直系として
火水の祭祀 ニギハヤヒ セオリツヒメを火=日と水として祭祀し
これが素戔嗚尊祭祀とともに
各地に日本国の象徴として受け入れられて広まったようだ。

愛媛県松山市八反地に鎮座する、国津比古命神社 松山市高田の櫛玉比売命神社などには
その歴史が残っている。
それを指導したのが物部氏であるのかさらに他の部族も関与していたのかは
結論を得ていない。

瀬織津比賣を縄文の女神とするなら長髄彦の妹の登美夜須毘売(日本書紀では三炊屋媛)と
饒速日命の夫婦神を祭祀したと仮定すればよい。
登美夜須毘売は出雲神族の富氏のトミを冠し同時に櫛玉も冠する特別な存在の姫だ。

さきほど神を火と水の陰陽の神霊として饒速日命 瀬織津姫を
夫婦神として祀っていたと記載したが
実際には饒速日命 瀬織津姫という響きのいい名前は
後世に神を火・水と理論付けして祭祀した人物が付替えた名前なのだろうと思う。
3世紀の卑弥呼⇒火水呼などの呼び名も出来すぎていると思えるが
火と水の神霊を呼ぶ巫女ということなのだろう。

たぶんその人物は大祓祝詞等を作り出し神道を系統だてた人物か一族だ。
大祓いの神髄は『大祓詞の神漏岐・神漏美の命と祓詞の伊邪那岐大神 No347』
記載したことも参照にしていただきたいが
一般的には瀬織津比売神が河の神で速開都比売神が河口の神で
気吹戸主神が風の神 速佐須良比賣が根國・底國の神とされる。 
ただ霊的にはこの大祓いの浄化のエネルギーは
「ひふみよ」で現わされると思っている。
ひ=火炎で燃やし
ふ=風で勢いをまし
み=残ったものを水で流すことにより祓っている。
例えばこれは刀に魂を込める場合も同じだ。
ひ=火炎に鉄をさらし
ふ=フイゴで風を送り
み=水で冷やし魂を込めるという段取りとなっている。
だとすると
ひ=瀬織津比売神
ふ=気吹戸主神
み=速開都比売神 (速秋津比売神)となろう。

大祓いである以上はまずは天日で乾かし火で燃やすことから始めねばならない。
残ったものを風で飛ばし水で流して根の国底の国へと送り込むのだ。
日本刀が神霊を宿すのも大祓いに則り鍛造されているからだ。
この神霊界の神秘を理解したものが大祓祝詞を作成した事は間違いないが
火=日の効果が封印された際に改竄されたのだろう。

拍手かしわでも左手と右手を重ね合わせて後に音と風を出すが
ひだりては火足リで、みぎては水極で
火は上に登り水は降り広がる一連の陰陽和合を表している。
ちなみに手を合わせた後に左手を上に右手を下に中指関節ひとつ分ずらした後に
ぽんぽんと拍手を打つが
この際に軽く風が顔に当たるように意識してもらうといい音となっている。
風の仲立ちは必須ということだ。


さて熊本人は「もっこす」という信念を持つ。
肥後もっこすとも呼ばれる偏屈さが特質となっている。
これは熊本にいて痛感する性格である。
「薩摩の大提灯、肥後の鍬形」など言いえて妙だ。
細川藩の政策によるものなどと分析しているものもあるが
もっと古い時代からの気質である。
熊本の神道の歴史から産み出されたものであると思っている。

全国で火と日の神と水の神を夫婦として祭祀することが
流行した際に火の國だけがそれに従わなかったとしたら
それはどういう経緯があったのだろうか?

それには熊本の龍の信仰が関与すると思われる。
龍の信仰は水の信仰でもある。
また八岐大蛇の信仰でもある。
龍の信仰は役小角が広めた八大龍王神の信仰にも繋がる。
そしてその信仰の根底に阿蘇神霊界の頂点であったはずの
おそらく相当に古い時代から國龍神(くにたつのかみ) の信仰が熊本にはある。
現在はそれが阿蘇神の信仰になっている。
この國龍神と健磐龍命の新旧の関係には秘密があるが
いずれにせよ八岐大蛇退治の素戔嗚尊とは相容れないものであったのだろうと思われる。

また神を火と水の陰陽の神霊として饒速日命 瀬織津姫という響きのいい名前をつけて
夫婦神として祀ったのが物部氏だとしたら
阿蘇神は阿=我よみがえる=蘇神であり
蘇我氏同様に我よみがえるであり
神霊界を統率した物部氏に反骨の気質を示しているとも云える。


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鹿児島の川内の新田神社境内の可愛山陵の「えのやま」という読みについて No374

2014-05-05 00:17:04 | 神霊界考察
ニニギの陵については「日本書紀」に
「筑紫日向可愛山之山陵」という記載がある。

具体的には以下のように記載されている。
久之天津彦彦火瓊瓊杵尊崩。
因葬筑紫日向可愛(此云埃)之山陵。

※「此云」については、「日本では~という」の意
あるいは「日本では~という発音」の意

ところで日向可愛の山陵の場所については
明治7年(1874年)7月10日に明治天皇の裁可を経て
鹿児島の川内の新田神社境内が「瓊瓊杵尊陵」の指定を受けており
大正3年(1914年)には宮内省直轄となっている。

ところで宮崎県延岡市の北川町俵野にある可愛岳にもその伝承がある。

さて可愛山の読みであるが此云埃と記載されているから
塵埃=じんあいという熟語の読み通りにあいと読めば
可愛山=埃山=あい山と読めそうである。

しかし両方の場所で可愛はえのと読まれていて「えのやま」「えのたけ」である。
いくら調べても埃に「え」という読み方はない。
また厳密に言えば愛という字をえと読むのも
愛媛のように接頭辞の特殊な場合であり
愛される媛で意味が通る場合はいいが
愛知は愛される知では意味が通らずえちとは読まない。
そういう意味でぎりぎり「えやま」とは読んでも
「えのやま」とは本来は読まない事になる。


書記には埃宮という宮の名が記載されているが
そこは神武天皇東征の際の安芸国での行宮(あんぐう)の地となっている。
ここでも埃宮=えのみやと読まれているらしい。
しかし疑問なのは可愛の読みを埃とわざわざ記載しているが
可愛山はその字の通り「かあいやま」か「あいやま」と
読むのが筋ではなかろうか?
また日本書紀の埃宮は古事記では多祁理宮となっている。
多祁理宮の読みはたぎりのみやである。
漢字一文字で書けば滾である。
この錯誤には何か秘密がありそうだ。

日本書紀 卷第一 神代巻 第八段一書第二に
「素戔嗚尊、安藝國の可愛の川上に下り到る。」とある。

伝承地である安芸国高田市の吉田を流れる川を
可愛川=えのかわといい
下流は江の川と書いてごうのかわと呼んでいる。
川の場合の可愛は川合から来ている可能性が高い。
それならばやはり読みは可愛=かあいとなる。

可愛を「え」と読むようにしたなんらかの経緯がありそうだ。
吉田一氣が新田神社に参拝した感じでは
この地域が神亀山と呼ばれていたことも含めてこの地は出産にかかわり
えな山と呼ばれていたのではないかと感じた。
えなとは「胞衣」のことで出産時に胎児と共に出てくる胎盤の事だ。
とにかくここは古く偉大な歴史を持っていると感じさせる神域である。

新田神社の可愛山陵墓看板

出生にまつわる伝承が埋葬にまつわる伝承に替わったとすれば
そこにどんな理由があるのか?
今は結論は出ていないがこの新田神社の地は「胞衣」を埋めた山であることから
えな山と呼ばれていたのが読み方はそのままにニニギの陵墓とするために
可愛山としたと仮説を立てている。
では誰の胞衣なのかであるが、ここは天津彦彦火瓊瓊杵尊としたい。
記紀で高天原からの天孫降臨と記載している以上は
ニニギの命の胞衣は降臨する前であるから高天原にないとつじつまが合わない。
それで胞衣山が稜墓とされたと仮定する。
ならば本来の陵墓である読みでいえば「あい山」があるはずだが
残念なことに見つけ出せていない。

ちなみに天照大神の胞衣伝説として
中央アルプスに胞衣山=恵那山=えなさんという山がある。
イザナギ、イザナミの命が天照大神を産んだときに
胞衣を埋めたので胞衣山という。
ここの山頂は標高2,191 mであり古代においては簡単に登れる山ではなかったので
高天原から降りてきてここに埋めたという伝承にも違和感が無い。

古代において胞衣を埋める行為はふつうであり
神功皇后が品陀和気命を産んだ時の胞衣については
胞衣を箱に入れて埋納したということから付けられた福岡市の筥崎宮や
和歌山県の衣奈(えな)八幡神社に伝承がある。






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思うように出来ていない神業の反省 No373

2014-04-13 13:09:32 | 神霊界考察
昨年(2013年)の10月12日のことだが、
本妙寺の裏の本妙寺公園に建つ加藤清正公銅像に参拝した帰り
熊本市の西回りバイパス道路延長中の先端部分を通ったが
ちらっと見えた工事中の先の小山がとても気になり様子を見てきた。

『熊本人の信仰篤い清正公=せいしょこさん』

回り込んでみるとやはりそこはかなり濃度の濃い神域であることが分かった。
いわゆる神奈備 パワースポット イヤシロチとよんでいい土地のようだ。
見る限りは西回りバイパスの延長はこの神域を避けて通るように思えた。
   
   


   
日常の空間とは異空間が広がっている。
熊本ではこのような神域が都市開発のためにほとんど消えてしまっているので
貴重な場所と言える。

やっと4月になって消費税増税を見据えた駆け込み需要も消化し仕事が落ち着いてきたので
早速この神域に参拝して御神酒を献上しようとした。
ところが行ってみると道路は相変わらず工事が進んでいないのだが
神域の小山が忽然と姿を消していた。
場所を間違えたのかと思ってgoogleマップで確認してみた。

『工事中道路の左側の階段のある小山が目的の神域』

どうも削られて更地になってしまったようだ。
時すでに遅し。




自分を呼んだ御神霊に対して実に申し訳ないと反省した。
取り崩される前に祭祀をすべきであった。
調べてみるとこの神域の管理は島崎の石神八幡宮がされているようである。
工事に関しての祭祀方法や工事後の祭祀に関しては特に問題があるとは思えない。
ということは祭神に関しての考慮が必要であったという事なのだろう。
山王権現社のような気配であったが少彦名神系か?
昨年転職してから思うように神業が出来ていないが
こんなことではいけないとつくづく反省した。




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鈴の音の効果 No372

2014-04-08 23:02:31 | 神霊界考察
お稲荷さんや小さな神社で鈴が掛けられている神社がある。
この鈴を鳴らす事で魔を祓うとういう意味があるのだろうと思う。
ただ自分の参拝時には鈴が掛かる神社であってもあまりこの鈴を鳴らさない。
個人的問題ではあるが集中が途切れるからだ。
神域に踏み込んだときから、鳥居をくぐった時からが
正念場という気持ちでいる。
例えて云うなら将軍に直訴する気持ちである。
とはいっても鈴の音を聞いて身を引き締めて参拝するというのが一般的だ。
妄想の話で良ければ、神霊が降臨する時には
かぐわしい香りと柔らかな光と鈴の音のような音が響く。
菩薩が降臨するときもサンタクロースが降りてくるときにも鈴の音がするらしい。
鈴を鳴らす事により神霊の降臨を願うという意味もあるのだろう。

この鈴であるが語源は湿地帯に生える植物である葦や茅や薦の根に
鉄バクテリアが作り出した褐鉄鉱の塊が付く事があるが
これを「すず」といったことにはじまるという話がある。
数十年掛かって出来たすず塊は数センチの塊に成長し振ると鈴同様に音がするそうだ。
この「すず」を集めて土器を焼くときに一緒に焼くと精錬されてすず鉄が出来るとの事だ。
このことは真弓 常忠著作の「古代の鉄と神々」に記載されている。
800度弱の温度でもこの鉄は鍛造出来る。
縄文末期の人はこの作用に神霊的なものを感じたのだろう。
このすず鉄の塊は高師小僧と呼ばれる。
自分もかつて探したことがあるが、
たくさんとれる所は国の天然記念物とされるぐらいで九州ではなかなか見つからない。
ヤフーオークションで手ごろな値段でよく出品さえているので手に入れるのは見つけるより簡単だ。



果樹の実が鈴なりになるの「鈴」とは神楽鈴のことから連想されたものであるが
そのもとは高師小僧がたくさん付いていることを願ったものなのかもしれない。
古代の鉄のもととなる高師小僧は貴重であったはずだ。
そういう縄文時代の苦労を思いながら鈴を鳴らせば霊験あらたかであろう。
物理学的に云えばエントロピーは増大し無秩序化するのが常であるが
自然の偉大なる力と炎の熱によりすず鉄の塊である高師小僧は鉄の道具に化ける。
局部的にエントロピーが極小となるところには神霊が宿る。
それは鉱物の成長しかり植物の成長しかりだ。

大神神社の頒布品に「鈴なり」という鈴がある。
最高級の鈴は「さはり=佐波理」という材質で作られたものであるが
この「鈴なり」という鈴はその最高級の音とは別のとてもここちよい音が響く。
三輪山に登った方なら判ると思うがあの貸し出されるたすきについている鈴と同じものである。
あのたすきの鈴がほしいと思って狭井神社で尋ねたら大神神社の社務所で授与しているとのことだった。
今では自宅の神棚になくてはならないものになっている。



この鈴の音を聞くと三輪山が思い出されて気が引き締まる。












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「唐國に往き足らはして帰り来む大夫武雄に御酒たてまつる」の歌の考察 No371

2014-03-02 17:10:24 | 神霊界考察
愛国百人一首という選があるが、掲題の歌はその一首である。
多治比鷹主が天平勝宝四年(752)閏三月に衛門督大伴古慈斐の家で
入唐副使の大伴古麻呂宿禰を餞する宴に参席した際に読んだ歌だそうだ。

唐國に往き足らはして帰り来む大夫武雄に御酒たてまつる

この当時の船舶航行技術はまだ未熟であり
ちょうどこの頃の鑑真大和尚が5回も渡航失敗している話は
皆が知るところだ。
歌の意味は遣唐使として唐国にて無事任務を果たすであろうあなた様に
謹んで御酒を献上させていただきます。
無事にご帰郷くださいませ。というようなところだ。

この中で大夫武雄とはますらたけおと読まれている。
どうも「ますらお」=益荒男=丈夫という意味らしい。
偉丈夫という言葉は確かによく聞くし益荒男といえば
たくましい武人 兵士を指す。
大夫は丈夫の間違いという事だろうか?

ただ大夫は領地を持った貴族のことで
調べてみると日本では五位以上の男性官吏を指す称号らしい。
入唐副使の大伴古麻呂を表わすのに適切に思えるが
益荒男=丈夫=ますらお=たくましい武人 兵士というのには違和感がある。

どうも御酒たてまつるといえば
『少彦名神考察 名前に隠された秘密についての考察 No369』でも記載しているように
酒の神であり水の神でもある少彦名神が思い起こされる。
私には武雄とは屋主忍男武雄心命=少名日子名建猪心命=少御神に御酒たてまつる
という別の意味を裏に含ませているように思えてならない。
少彦名神は海の神でもあったはずである。
無事帰国できることを大伴古麻呂宿禰は少彦名神に祈ったのではないだろうか?

残念な事に今のところ空想の域を出ない話ではある。

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火君(ひのきみ)一族の古墳 No370

2014-01-28 22:16:56 | 神霊界考察
熊本の八代郡の氷川町の古墳は、
古墳時代後期(6世紀)に築かれているものが中心らしいが
火君(ひのきみ)一族の古墳と云われている。
前回から記載している健軍神社の祭神の健緒組が
『肥前国風土記』や『肥後国風土記』逸文によると火君の祖と云われている。
もともと健緒組がどこを拠点としていたのかははっきりしないが
佐賀県武雄市から熊本の八代郡の氷川町までを移動した可能性がある。
氷川町の火君の古墳で特筆すべきは国指定史跡の大野窟古墳であるが
墳長約123mの前方後円墳らしい。
つい最近まで円墳と思われていたのだが平成20年までの調査で
前方後円墳であることが判った様だ。





この朱はベンガラか。





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少彦名神考察 名前に隠された秘密についての考察 No369

2014-01-11 13:32:25 | 神霊界考察
まず吉田一氣の『少彦名神考察』本編は
http://reyline.web.fc2.com/sukuna/sukuna.htm
を参照していただきたい。

さて少彦名神はすくなひこなのかみと読むが
「な」が強調されるかのように二度繰り返されている。
この「な」には霊的には水の女神の響きが感じられる。
しかし以前より「な」が繰り返され強調されるのには
もっと深いわけがあることを感じていた。

神宮皇后と少彦名命の関係は神社の伝承は多いものの
記紀では磐余に帰ってきた誉田別皇子を迎えて歌った場面のみである。
この歌では少御神(すくなみかみ)と詠んでいる。
また以前『謡曲 「高砂」の意味するところ No032』で紹介したように
「秀真伝」によると酒の発見は、竹の切り株に雀が籾を入れてそれが発酵したのを
スクナミが発見したのが最初となっている。
この酒のことを『笹氣』と呼びスクナミはこれ以降「ササナミ」と呼ばれたとある。
沙沙貴氏が少彦名神を祖神とすることから考えると
酒を発見したというスクナミは酒の神でもある少彦名神のことと考えられる。
ただここでも「な」の強調は無い。

その理由を理解したのは魚の古い時代の魚の呼び名が
「な」であると知った時だった。
料理に使う俎板も真魚板からきているという話もある。

少彦名神は少名彦名という二つの名であり少名彦魚にもなるということも示している。

それであわてて理解したことを検証した。
それは古事記に記載されている敦賀=気比の地で、
伊奢沙和気大神と武内宿禰に連れられた誉田別命が名前を交換したという話だ。
その見返りが血まみれの入鹿魚=イルカ=魚=「な」であるという。
まず武内宿禰と誉田別命が気比に向かった訳は禊をするためであったそうだ。
何で禊をせねばいけなかったのかが伏線となっている。
禊の後に敦賀=気比の地から磐余に帰ってきた誉田別皇子を迎えて
先ほどの歌を神宮皇后は詠うのだが、
これは酒楽之歌=酒宴を張って言寿ぐときの詞となっている。

この御酒は わが御酒ならず 酒の司 常世に坐す 石立たす 少御神の 神寿き
寿き狂ほし 豊寿き 寿き廻し 奉り来し御酒ぞ あさず食せ ささ

まさに少御神が誉田別命に祝福を与えている。
神宮皇后 武内宿禰 誉田別命にとって少御神は特別な存在となっている。

同様な歌として
此の神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久幾久
というものがある。
これは大田田根子を祭主にして大物主神に酒を献上して
大物主神の祟りである疫病を防いだ際に高橋活日命が詠ったものであるが
これにより大物主神の祟りが解かれている。
つまりこの歌に出てくる少御神や大物主神は単に酒の神だから出てきたのではなくて
重要な役割を果たしているということになる。

さて神宮皇后 武内宿禰 誉田別命にとって特別な存在である少御神が
少彦名神すくなひこなのかみと古事記で呼ばれるのかであるが
「な」が二度出てくるのは伊奢沙和気大神という名と誉田別命という名の
二つを現しているように思える。
そしてそれが血まみれの入鹿魚=イルカの魚=「な」に掛かっている。

話が少し飛んで先ほどの大田田根子を祭主にして大物主神に酒を献上して
大物主神の祟りである疫病を防いだという話は
指示をした崇神天皇に何か後ろめたい事があった可能性があるが
大物主神と大田田根子は血縁関係があるという。
崇神天皇は10代天皇で御間城入彦五十瓊殖尊が和名であるが
9代は開化天皇=稚日本根子彦大日日尊
8代は孝元天皇=大日本根子彦國牽尊
7代は孝霊天皇=大日本根子彦太瓊尊
観れば判るように大日本根子彦が名前に付き
大田田根子もその系統である事が判る。
つまりはここ崇神天皇の10代で王朝あるいは天皇の血族が変わった可能性がある。

同様に神宮皇后 武内宿禰 誉田別命の一連の行動である禊と名前の交換と
酒楽之歌の宴会も政権交代もしくは政権奪還などを意味していると考えている。
さて『熊本の健軍神社の神話 No367』で本当の主祭神である健軍大神=
健緒組命=少名日子建猪心命=屋主忍男武雄心命は
九州を統一した12代景行天皇=大足彦忍代別尊として

武内宿禰は日本武尊=13代政務天皇=稚足彦尊
≒仲哀天皇=足仲彦尊と記載している。
つまり足彦系となる。
ところが不可解な事に応神天皇=誉田別命は足彦系とはなっていない。
母の神宮皇后は息長氏系といわれているが
和名の気長足姫尊=おきながたらしひめのみことで
なぜか神宮皇后において息長氏系と足彦系の和合が成されている。
これは神宮皇后が神功天皇として立ったからかもしれない。
また誉田別命に足彦系の名がついていないのは
誉田天皇と応神天皇とは別系統であるからという説も考えられるものの
とりあえずはこの理由こそが名前の交換にあるのだと考えたい。

この時代の地理的歴史的背景については不勉強であるが
なんとなく出雲系王朝と九州王朝の統合が完全に成されたのではないかと感じている。
武に繋がる九州王朝と伊奢沙和気大神に繋がる出雲王朝の統合ということだ。

さて先ほど記載した血まみれの入鹿魚=イルカの魚=「な」に掛かっているということだが
これも政権交代を意味しているということであろう。
つまり蘇我入鹿天皇が藤原氏によって殺害され貶められたということを意味しているのだろうと
判断している。




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霊的感応と幻覚 No368

2014-01-03 14:14:51 | 神霊界考察
人間の感情とは基本的には人格に付随するものであり
本能的・経験的なものだと思うが
脳科学的には神経伝達物質の分泌により
その感情そのものの起伏がコントロールされていることが判っている。
神経伝達物質とはドーパーミン ノルアドレナリン アセチルコリンなどだ。
さらにドーパーミン ノルアドレナリンのバランスを調節するセロトニンなどがある。
これらは自律神経系の交感神経を刺激するノルアドレナリンや
副交感神経にからむアセチルコリンが交感神経を抑制するなど
興味深い自律作用を持つが
この神経伝達物質の増減により感情が大幅に起伏する。

『ADHDとnarcolepsy症状のSOREMPと霊的感応 No362』という記事を記載しているが
飲み始めたストラテラという薬剤の効能であるところの
「ノルアドレナリントランスポーターを選択的に阻害する作用による
ノルアドレナリンの増加」が、
精神にどういう影響を与えるかをまず報告したい。
AD=注意障害とは精神の緊張感が全方向的でなく特異な部分に向けられているために
自分にとってささいなことに思えることが疎かになるのだが
ノルアドレナリンの増加により緊張感が増強され全方位に気配りが出来るようになる。
具体的には家を出るときに携帯電話を持っていくのを忘れることが無くなったり
電車の切符をどこにしまったかの記憶がはっきりしたりする。
また作業継続能力を増加させる。
この点がHD=多動性を制御する作用といえる。
自分の場合はCAD図面作成を飽きずに継続できるような効果も実感できた。
ただしこの薬剤はドーパミンの増加をもたらさないので
動機付け部分には効かないために好奇心旺盛になったり行動的になったりはしない。
ノルアドレナリンの増加は感情的には不安と怒りを増強させる。
したがって摂取量を20mgから80mgに増やした際には
不安感と怒りの感情コントロールが数時間制御不能となってしまった。
要するにささいなことが重大な事に思えるし
その原因に対しては攻撃的な怒りが爆発するのだ。
まさに臥薪嘗胆状態となる。
ただ感情コントロールの制御不能は一時的なもので
ノルアドレナリンの量は適量にフィードバックされるために
交感神経が張り詰めた状態が継続するというようなものではない。
抗コリン作用(副交感神経末端の作用のブロック)はあるようで
食欲不振や動悸、血圧上昇、排尿障害、睡眠障害などだ。

さて本題の霊的感応についてであるが
この薬の服用による変化というものは感じられない。

一般に幻覚症状はドーパーミンとの関係があると言われるが
霊的感応の脳科学的所見はセロトニンとドーパミンのバランスに
起因するのかもしれない。
ドーパミンの分泌が過剰となるとよく幻聴が起こり
それが継続すると命令的な幻聴が聞こえたりする。
この場合は抑圧された感情により不快なものとなる。

私の霊的感応という表現の場合は、
柑橘系他に不思議な香りなどを感じる事をはじめとして
時にやわらかい風が吹いているように思えたり
微かながら何か偉大な意識の存在感と導く方向性を感じることがある。
それは言語的なものではなく右脳的情緒的な感応が主である。
それが妙に懐かしい感覚や暖かい思いや動機を刺激する。
不思議な事に言葉でない方法による啓示を受けることもある。
繊細で壊れやすくそこに注意を向けようとすると
しゃぼん球のようにすぐに消えてしまう。
この繊細さが霊的感応においては一番大切なことだと思っている。
はっきりしない所を見極めようとする努力にこそ報われるものがある。
微妙に手の届かない高度な意識を参拝で感じてその答えを
別の神社での参拝でふと理解する事がある。
感応により得るべき答えは直接的なものではなく
いつも思索を要求されているように思える。
どうも右脳がキャッチした霊的感応を左脳が論理思考をフルに働かせて
言語的なものに翻訳しようと努力しているようだ。
神霊はひとつの方向に導こうとしているのではない。
何かの成長を促しているような気がする。
私のような霊的感応者はその大きなシステムの歯車のひとつだ。

もしドーパミンの刺激により霊的感応がよりはっきりと
感じられるようになったと仮定すると
言語的なものにより翻訳されたものの
その方向性はより明確になるはずだが、
そこに含まれる真理が本当に濃くなるのかは判らない。
幻覚は幻覚以上でも以下でもなく
そこに現れる真理は脳の障害を示すというように考えている。
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熊本の健軍神社の神話 No367

2013-12-21 23:31:01 | 神霊界考察
私は熊本市立健軍小学校を卒業したが
校歌で健軍を『たけみや』と読ませるのが不思議だった。
どう調べてみても軍は『みや』とは読まない。
まあ健軍神社があるからお宮という意味なんだろうと程度に考えていた。
しかし神話ではあるが、いろんな経緯の結果
この健軍の地に古代の都があったから『たけみや』と呼ぶのだろうと思うようになった。
では健=たけとはどういう経緯で付いたのだろうか?
健軍神社の住所は健軍村竹宮と呼ばれていた時代があり
確かに竹林が周りを囲んでいた。
しかしこの健軍神社の本当の祭神は健緒組命(たけおくみのみこと)という話がある。
健軍神社の入口の由緒書きの立て看板にも健軍大神(健緒組命)と書かれている。
つまりこの健緒組命の統治から健宮となったという説だ。

健緒組命については肥前風土記や肥後国風土記に記載があるらしいが
肥前風土記によると
崇神天皇の御代に熊本の益城の朝来山に拠点を持つ土蜘蛛を
健緒組命が天皇の命令により討滅した。
その帰りになぜか国道443号線の道を辿らず
遠回りの445号線の道を歩み八代の白髪岳あたりで日没となったそうだ。
その時、大空に霊的なかがり火が現れたという。
たぶん不知火のことではない。
健緒組命は崇神天皇にその不思議を奏上し、
天皇はそれゆえにこの国を「火国」と名付け、
健緒組命を火君として「火国造」に任命し統治させたという。
この統治した都が今の健軍神社あたりだということになる。
古い時代の肥後の国造は火国・葦北・阿蘇の三つで
吉備津彦命の子の三井根子命が初代葦北国造となり
その子供が大伴金村の命で軍を率い任那を制圧した阿利斯等でさらに日羅と続く。
それから阿蘇国造の方は健磐龍命の子とされる速瓶玉命が初代阿蘇国造となっている。
ただこの三つの国造の中では「阿蘇国造」が最初だろうと思われる。

また風土記の記載では火国造は天皇の配下のごときの記載だが
実際は健緒組命は偉大なる『天子』であった可能性が高い。
ところが健緒組命として祭祀する神社は健軍神社一社しかない。
そんなはずは無いと思っていたが
ネットが発達してくると検索により武雄市の武雄神社の由緒等で
武雄市の名称の武雄が武内宿禰の父親である屋主忍男武雄心命の事であり
屋主忍男武雄心命が健緒組命と繋がっている事が判ってきた。
屋主忍男武雄心命であれば全てが納得出来る。

ここまでくると自分にとっての全ての謎が解けてくる。
屋主忍男武雄心命は紀の国造である莵道彦(宇豆比古)の
娘である山下影媛を妃とし武内宿禰を生んでいる。
たぶん健軍神社のもともとの祭神は
1.健緒組命=屋主忍男武雄心命
2.山下影媛
3.武内宿禰
と考えて良かろう。
それに阿蘇神社祭神の健磐龍命も健の字が示すように
健緒組命に繋がっていく血縁のはずだ。

さてだとすると健軍神社を産土とする自分の信仰のうち
豊玉姫は海人族の血を引く山下影媛との縁であろうと推察される。
ではもう一柱の少彦名神はどうであろうか?
記紀によると大彦命の兄弟に少名日子名建猪心命=少彦男心命=少彦名許士尊
がいるとされるが、
血統的に健緒組命=屋主忍男武雄心命=少名日子名建猪心命=少彦名命となる。
つまり少彦名神は健緒組命に懸かる神霊という事だ。
驚いた事に熊本の健軍神社の主祭神は少彦名神だった訳だ。
健軍神社を創設するように命じたのは小童神であったというが
なるほど少彦名神が肥後国の安寧のために租を祀るように指示したという訳であろう。

だからこそ時代が下って奈良時代に初代肥後国司となった道君首名公は
赴任と同時に発生した天然痘の流行に対する疫病平癒祈願で
初代国造である健緒組命=少彦名命が
初代国司となった自分を認めていないと判断し
初代国造である健緒組命=少彦名命を少彦名神の神霊として
その偉業を顕彰し玉名天子宮や味噌天神で祭ったと云う訳だろう。

ただそこで疑問なのは天子宮という名称だ。
健緒組命が天皇の配下であれば天子宮とはしない。
つまり健緒組命と武内宿禰は天皇そのものであったはずだ。
だとすると健緒組命は九州を統一した景行天皇であり
武内宿禰は日本武尊=政務天皇であったといえよう。

上記のことを踏まえて健緒組命について今一度考察すると
まず組は君ということと同意語と考えられる。
それは磐井の乱(いわいのらん)で有名な筑紫君磐井の研究をすれば
九州においての君の意味が判って来るかと思う。

緒については少名日子名建猪心命の猪(い)か
あるいは健緒組命の緒(お)の発音が正しいのかということになるが
書記には少彦男心命と出てくるところをみると緒(お)で良かろうと思える。
それで結論的には少彦名武雄の君というところが妥当であろう。







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ムカデが意味するところの警告 No366

2013-11-30 10:53:30 | 神霊界考察
八大龍王神は仏像としては龍を背負う人の姿で現されるが
私がいう八大龍王神は龍体そのものだ。
しかしもともとは龍樹の「ナーガールジュナ」が
龍の守護を受ける聖仙あるいは菩薩であるように
龍の守護を受ける人の姿をした龍族聖仙を指すのであろう。
この日本には密教的儀軌によりその地に長く留まる龍体が複数ある。
それにはもともと国防等の目的があったのだが
時代が変わりその目的が陳腐化してしまったために
その役割を終えた龍体も多い。
私には八大龍王神たる龍族聖仙と龍体とが一体のものであるか
主従の関係にあるのかは理解しかねているのだが
不動明王の場合は変化身として倶梨迦羅龍王となるとされている。

日本においては役小角と八大龍王神の関係においても
空海と八大龍王神との関係においても仏教を核として
純粋な祈願により龍体は従っている。
空海は帰国の時に暴風に会い、
中国将来の不動明王像に祈願して不動明王が
波切不動という龍体となり空海を救ったという伝承があるが
これは間違いなく仏縁あるいは神縁により
龍宮の主たる八大龍王神が救いの手を伸べている。
前回記載した成田山新勝寺での国防祈願のときに
不動明王像に祈願して八大龍王神が顕現していると同じだ。

従って密教的な儀軌によりその地に長く留まる龍体の開放には
不動明王の力を借りるのがいいのかもしれない。
ただ私の場合は不動明王との仏縁が今のところないので
少彦名神との縁によりて水の女神に頼り祈願している。
具体的に云えば少彦名神・豊玉姫神・玉依姫神・善如龍女神に祈願している。
また指導的存在として神宮皇后・武内宿禰公に頼っている。

※以前は白山菊理姫と十一面観音を拠りどころとしていたのだが
現在はある理由により中断中。

ところがもっと古い時代の八岐大蛇の龍体の封印が
最近いくつかの場所で解けてきている事が分かった。
このあたりのことは過去ブログにも記載している。
『素戔嗚尊と八俣大蛇 No320』

八大龍王神と八岐大蛇の龍体にどういう縁があるのか
非常に説明が困難というか自分にも確信が持てないのだが
自分にはこの調査と報告が義務的なものに感じられている。
三輪山・日吉大社・松尾大社・麻賀多神社等での一連の神事での経緯により
約束とされた気もする。

とはいうものの、
この事に関しての警告は継続していて例えば
『自宅の庭に蛇の抜け殻が No317』に記載しているが
自宅でムカデに刺されたのは2008年9月となっている。
『Xの悲劇 No313』で記載した警告は2011年11月となっている。
そして今回再び警告を受けている。
自宅の庭でありえない怪我をしてしまった。
病院に行く必要のある怪我など学生時代以来のことだ。
不注意といえばそれまでなのだが
自分にはそれが警告であることが直感的に理解できた。
ところがその場所では警告の徴(しるし)を見つける事が出来なかった。
でも自分の怪我に治癒後にその徴がでてきた。
  
大ムカデにかまれたような二つの刺し傷のような跡が最初あったが
治癒後にはまるでムカデのような傷跡がどうも数字の7に見える。

ところでこれらの警告は悪意のものではなく
ある意味では善意のものともいえる点に注意が必要だ。
霊的な悪意は一撃必殺で起こり警告などない。
特に数字の7にはタリスマン的な悪意の封印の意味がある。
過去にも何度かこのことについては記載している。
『七の封印について フレンチ・ブルーダイヤモンドの封印 No236』
『七の封印について 空海の東寺 No260』

前回自宅の中でムカデの警告を受けたのも琵琶湖の霊的な歴史を調査中で
しかも協力してもらっている東京の友人宅で就寝中にムカデが出たけど
ガサガサという音で間一髪難を逃れたというメールを受けたばかりの時だった。
その事件以降、毘沙門天の加護の可能性を検証していたのだが
今回の出来事も含めてやはり毘沙門天の警告だという思いが強くなった。
このあたりのことは
『麻の六芒星の復活 No257』に記載しているように
信貴山の千手院の毘沙門天に感応した知人が
2年前にとうとう毘沙門天にかしずく為に得度した経緯等にもよる。



さて今後、縄文時代よりの神霊である八岐大蛇の祭祀を
あるいは封印をどうするのか?ということになるが
難しい問題ではある。
しかし誰かが糺す必要があるのも事実だ。

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初心に戻って六殿宮参拝 No365

2013-11-24 23:43:11 | 神霊界考察
初心に戻って雁回山の六殿宮の少彦名神社に参拝してきた。
この神社は道君首名公と少彦名神を初めて結びつけた神社だ。
詳細は『少彦名神考察HP』の『少彦名神考察に至る背景』を参考にしていただきたい。

 六殿宮の少彦名神社 

この摂社の前にある御神木は
天社宮の御神木とは反対で左回りとなっている。
  

『渦とスパイラル No074』でも述べているが
スパイラルの回転方向によって全く正反対の氣を持つようになる。

この雁回山の六殿宮は熊本霊ライン構成の五山のうち花岡山に強く影響している。
  
上記写真は六殿宮の参道の写真であるが
この参道の直線の先に花岡山山頂の仏舎利塔が見えるが
筆者はこれを偶然の結果ではないと考えている。
六殿宮の裏山からは熊本市内が西の端から東の端まで一望出来る。
熊本城を望む

六殿宮創建時には武蔵国の六孫王大権現を勧請したという伝承がある。
武蔵国の六孫王大権現は源経基のことであり
下総の平将門と常に敵対しており平将門の乱や藤原純友の乱を追討し
最後には源経基は鎮守府将軍になっている。
従って関東から東北にかけての将門信仰とは相反するものがある。

源経基は清和源氏の初代となっている。
源経基の父が清和天皇の第六皇子貞純親王であったことから
「六孫王」と名乗ったとされる。
京都府京都市南区壬生通八条角に嫡子の源満仲が建立したという六孫王神社がある。
神として祀られることになったのは臨終に臨み
「霊魂滅するとも龍神となり西八条の池に住みて
子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と
遺言されたからだとされている。
確かに源氏二十一流の中で最も繁栄している。

しかしなぜ源経基は龍神信仰を持ち自ら龍神とならんとしたのかという疑問が沸く。
源経基の生涯を紐解くと二十代のときのしょぼい人格と実績の人物が
神として祀られることがとても不思議に思える。
源経基は21歳の時武蔵介として現地に赴任すると、
早速在地の豪族である足立郡司で判代官の武蔵武芝とひと悶着起こし
経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い略奪を行っている。
このときに下総の平将門が私兵を引き連れて武芝を救出している。
経基はあわてて京へ逃げ帰って将門の謀反を朝廷に訴えているのだが
将門の謀反は事実無根と認められて逆に経基の方が拘禁される。
しかし将門は京への忠誠心を無くし次の年には将門は関東を制圧して
新皇と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが
平貞盛、藤原秀郷ら追討軍の攻撃を受けて、
新皇自称後わずか2ヶ月程度で滅ぼされてしまう。
この時に源経基は征東大将軍藤原忠文の副将の一人に任ぜられるが
遅れて出発し何の実績も上げず京に引き上げている。
藤原純友の乱では941年に追捕凶賊使となり、
小野好古とともに藤原純友の乱の平定に向かうが、
ここでも小野好古が平定した後に到着する。
それでも武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任した結果
最後には鎮守府将軍となっている。
将門を討った藤原秀郷は近江三上山の百足退治の伝説の俵藤太としての方が有名であるが
琵琶湖の龍神が美女となって俵藤太に近江三上山の天敵のムカデ退治を願い出て
快諾した俵藤太がムカデと対峙して弓を射るがなかなか倒せずに
最後の1本の矢に唾をつけ八幡神に祈念して射るとムカデの左目を射て
無事退治することができたという話だ。
大津市瀬田2-1-8に龍王宮秀郷社があるが諏訪乙姫龍神と藤原秀郷が祀られている。
この神社の由緒書きによるとムカデとは平将門のことだそうだ。
琵琶湖の龍神は褒美として俵を与えたので俵藤太の名前が付いたそうだし
平将門を倒す秘訣も教えたことになっている。
また三井寺にある弁慶の引き摺り鐘は
もともとは琵琶湖の龍神の褒美のひとつだったといわれている。
http://www.shiga-miidera.or.jp/pickup/2009/pickup02.html
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/kinki/touta_kane/01.html
将門の調伏は寛朝大僧正が朱雀天皇より平将門の乱平定の密勅を受け、
弘法大師が敬刻開眼された不動明王と天国宝剣を奉持し
今の成田山の場所で不動明王の祈願をしたといわれている。
平将門が討たれた背景には風の流れの変化がある。
「将門記」によれば戦いの序盤においては、将門が「風上(順風)」にあり、
敵方である藤原秀郷・平貞盛は「風下(咲下)」にあった。
轟々と吹き荒れる強風は、両軍の「盾」を軽々と吹き飛ばしてしまったため、
両軍ともに「盾を捨てて合戦した」ほどである。
木々の枝は風に鳴り、地鳴りとともに砂埃が舞い上がる。
強烈な追い風(順風)が将門に味方したのである。
官軍は瞬く間にその数を減らし、3,000もいたはずの兵が、
いつの間にやら300にまで激減してしまっていた。
悠々と本陣へ帰還しようとしていた将門の背後から、
そのときとんでもない突風が吹きつけた。
今までの風が急反転。風上は風下に変わり、
そしてその風が一本の矢(神鏑)を乗せてきた。
この矢が将門を射抜き将門は倒れるのである。
まさに神風であるがこの神風をあやつるのは弘法大師の時代から龍神である。
『龍神信仰 2 No159』

きっと源経基はその秘密を知り龍神の力を得ようとしたのだろう。
そしてそれはたぶん成功している。
経基を始祖とする清和源氏の繁栄が如実にそれを物語っている。










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福井の九頭竜湖の女性遺体遺棄事件と熊本の竜門ダムの女性遺体遺棄事件との相関 No364

2013-11-12 23:20:34 | 神霊界考察
とうとう熊本まできたかという気がしている。
何が来たのかと言うと、
表現を変えて西端までの封印が解けたと言いかえたい。

まずこの件のスタートとなる記事は
『素戔嗚尊と八俣大蛇 No320』
『八岐大蛇の封印のほころび No322』を読んで頂きたい。
それからコメント欄に以下のコメントを残している。
「間違いなく越の八岐大蛇は福井九頭竜のことでもあると思います。
九頭竜湖の事件も同じ封印解除の暗示だと思います。
八岐大蛇から抜き取られた天叢雲の神格は
八岐大蛇が完全復活すればそちらに取り戻されることになろうかと思います。
これから滋賀をスタートとしてまだまだ開示現象が
続いていく可能性を感じています。」
つまり熊本でも八岐大蛇の封印が解けると同時に生贄が求められた訳だ。
古事記によると一年に一人の生贄を八岐大蛇に差し出していて
最後の一人となった生贄が奇稲田姫だったのだが須盞嗚尊に八岐大蛇は退治されてしまう。


今後私の神業は急展開しそうな気配がある。
須盞嗚尊の神業の前に
豊玉姫 少彦名神 道主貴 神宮皇后・竹内宿禰の偉業の顕彰と
地球を修理固成された八大龍王神 善女龍王神への
感応を高める必要を感じている。
そうすれば縄文神由来の八岐大蛇の本質の見極めが出来るはずだ。
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天皇への敬愛と崇敬とは No363

2013-11-03 20:15:16 | 神霊界考察
強制するわけではないが天皇に対しての国民の思いは
敬愛と崇敬であるべきであると思っている。
敬愛とは尊敬し、親しみの心を持つことであり
崇敬とはあがめ敬う事である。
いうまでもなく天皇は日本国家の象徴である。
このことはかなり熟考しないと本質を理解しえないが
その本質とは我々国民は天皇から國を預からせていただいているということに尽きる。
三権分立で國を治めているけど
それは天皇の授権によるものということになる。
天皇陛下から総理大臣と最高裁判所長官が任命を受けるのだが
それはそういうことなのである。
その他の国事行為も然りである。
ということはどういうことを意味するのかを
国民はもう少し考える必要がある。
もちろん形骸化したものであることは誰もが知っている。
それでも国民の気持ちとしてその儀式を尊んでいる。

我々国民は天皇から國を預からせていただいている以上は
例えば今回の原発事故などの人災を起こした場合には
まず国民は天皇に対してその不始末を申し訳なく思い
それを詫びる必要があるという事である。
逆に天皇は宮中祭祀で国家と国民の安寧と繁栄を祈願し
それでも天災が起こった場合は
天皇は責任を感じると同時に国民を慰撫し救済を願うのである。

それが日本国民が選択した日本国家の象徴たる天皇制という事であろう。
天皇に対する不敬といってもこの本質を理解していないと
単なる失礼となってしまう。

天皇を崇敬する心には、
國を預からせていただいているのに
こんな始末で申し訳ありませんという
謝罪の気持ちが併存するのがあたりまえなのだ。
国民にこの気持ちがあればこそ
天皇は国民の心情に思いを馳せ
祭祀での天皇の祈りが神霊界を貫くのだ。

日本国民にとっての天皇に対する原罪意識とは
まだまだ自分は尽くせる筈という思いと
こんな始末で申し訳ありませんという謝罪の気持ちで
さらに頑張ることにある。
これにより国民は結果として奇跡の力を得るのだ。
自分はそれをまざまざと見てきた。

このシステムが今後残るのか
それとも外国の王室のように
完全に形骸化するのかは国民が本質をどれだけ理解しているかによる。
正直なところ私は近年深い失望を感じている。








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