熊本は大火山として古代においても中国にまで知られていた阿蘇山や
八代海の不知火などの伝承から景行天皇の時代から火の國と呼ばれている。
伝承としては肥前国風土記によるものが第10代崇神天皇の時で
肥後国益城郡の朝来名峯の土蜘妹を
現在健軍神社の主祭神である健緒組=武雄君が征伐した後に、
健緒組は国中を巡察するのだが、
この時に八代の白髪山で日没となったことがあった。
宿営していると夜空にゆらゆらと光る火の光が現われてかがり火のように見えた。
不思議な火のことを崇神天皇に奏上したら、
今まで聞いたことのない不思議なことであるとして火国と名づけられ、
功を賞して健緒組を火君としてこの火国を統治させた。
(火の國は肥の國とも云う)
また日本書紀によると
九州巡幸中の第12代景行天皇18年5月のこと
景行天皇が葦北より船出した際に洋上で日暮れになった。
その時に、遠方にゆらゆらと光る火の光に導かれて無事に着岸した。
そこは八代県の豊村(宇城市松橋町豊福あたり)であった。
火の光の主を問うと、主は不明で人の火ではなかった。
それでその国の名を『火の国』と名付けたとある。
いずれにせよ伝承はゆらゆらと光るかがり火のようなヒノタマの不思議が
火の國の由来となっている。
さて神といえばカミで火と水を以て神とする。
縦と横の仕組みともいうが火は厳霊であり陽で縦に昇り水は瑞霊であり陰で横に広がる。
また、ひふみは火と風と水と土を以てひふみよと為している。(四大エレメント)
ところで風は本来、空気のことで空気そのものは古代日本人においては、
たぶんいくらか虚無のイメージなのだが
人はそのエネルギーを風として感じている。
日本の古代においては火は山火事 風は台風 水は洪水 土は地震・山崩れと
恐れの対象でもあったわけで、そこに畏怖が感じられる。
ところで空気のことを古代日本人は何と呼んでいたのだろうか?
何故か調べても分からない。
留まっている空気には名前が無いのかもしれないが、
それを動かすふいごなどは古い言葉だ。
人間だれしも息を止めれば苦しくなることからそこに何かがあることは分かるし
水の中で息を吐けば何かが出てくることも視覚的に確かめられる。
日本書紀には燃える土燃える水のことが記載されている。
「越国献燃土与燃水」
しかし残念なことに燃える空気は記載がないので
空気を何と呼んでいたのかは分からない。
もちろん風は日本書紀に風浪高という記載もあるが古くから使われている。
阿蘇には日下という地名や人名が残るが
この日下は草香とも書くが臭いの語源ともいわれる。
臭いも空気に似てはいるが、
古代日本人が同じものと思っていたとも思えない。
古代日本人の空気の呼び名が分かるまでは空氣と記載することとする。
さて熊本では古い時代からの火祭りの伝承が多い。
ところが水の祭りについてはそう多くは伝承を知らない。
熊本は特別に水が豊富なところだ。
これは阿蘇の広大な外輪山が水を溜め込み地下水となるという
特別な構造があるからだ。
熊本で旱魃問題が全くなかったかというと農業被害は出ている。
ただ飲み水が無くなるまでの被害は無い。
前出の健軍神社の境内に降雨祈願で有名な雨宮神社がある。
古くは慶長年の加藤清正公の降雨祈願が記録に残り歌も残っている。
『我国に雨の宮とも崇めしを御垣の内の草かるるとは』
また明治中期にも雨乞い祈願をしたが
雨が降らないとして宮司が切腹したという話が伝わる。
阿蘇山は多雨で知られている。
阿蘇山上で年間降雨量3200mm程度。
カルデラ内での年間平均降雨量は2500mm程度であり
これらが地下水として浸透し湧き水となる。
熊本のこの湧き水は熊本市中心部を流れる白川の水源ともなっている。
白川水源には白川吉見神社が祭られているが
祭神は國龍大明神と罔象女神となっている。
(ここまで記載してパタリと筆が止まったが
これからの内容を文字に替えるのは面倒な作業だ。)
ネット上に風琳堂さまの
[PDF]瀬 織 津 姫 神 祭 祀 社 全 国 分 布 図がUPされている。
肥前の佐賀と肥後の熊本は火の國にあたるが
この地においては瀬織津姫神の祭祀の形跡がほとんど見られない。
『龍神信仰 No075』のコメントで不知火にある十五柱神社に
瀬織津媛の祭祀の形跡がある等のコメントをいただいているが
調査した結果では海童神祭祀が原初と思われた。
火の國では水の祭祀は八大龍王神としての祭祀が6割で
残りが罔象女神ミズハメハのかみ3割や蒲池媛=蒲智比賣 渋江家河童祭祀等となっている。
ところで話が飛ぶようだが火の國に熊本には瀬織津姫神の祭祀の形跡がほとんど無いが
もうひとつ素戔嗚尊 須佐之男命の平安以前の祭祀の形跡も数少ないあるいは無い。
承平四年(934)第六十一代朱雀天皇の御代に武勇名高い藤原保昌が肥後国司として下向して
京都の祇園社(八坂神社)の素戔嗚尊の御分霊を勧請したという北岡神社系列の
十社程度の分祀された神社がある。
あと菊池市の七城町加恵には加恵須賀神社という謎の神社がある。
この二つから想像されることがある。
素戔嗚尊祭祀で最初に思い起こされたのは、
津島神社に祀られる素戔嗚尊に対し
嵯峨天皇が「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」として、
「日本総社」の称号と正一位の神階とを与えられたという話だ。
これはそれまでの天皇が崇敬してきた紀伊の「熊野大神」として現れる神霊を
素戔嗚尊と断定したものだと考えられる。
これにより熊野神社はかなりの数が素戔嗚神社に淘汰されたものと思われる。
熊本には熊野坐神社が現在も数多く残っている。
探せば二十社程度はすぐに見つかる。
祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命とされるところが多く
速玉之男神 事解男神が追加されている神社もある。
ところが祭神に素戔嗚尊は出てこない。
ここらが他県に比べて熊本に素戔嗚尊を祭る神社が少ない理由となるのかもしれない。
熊野本宮大社では熊野坐神は「熊野にいらっしゃる神」=家都御子大神とされる。
家都御子=木津御子ともされる。
また熊本県玉名郡天水町小天の天子宮由緒によると
熊本の初代国司の道君首名公が熊野宮を勧請し熊野嶽と名付たという伝承があるが、
それはそこが出雲に似ていたからだそうだ。
参照『小天・天子宮由緒石碑』
もしかすると熊本に数多く鎮座する熊野座神社は
島根県松江市八雲町熊野にある熊野大社からの勧請なのかもしれない。
だとすると祭神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命ということになる。
しかしこの御神霊も熊本では素戔嗚尊と同一視されてはいない。
物部氏は素戔嗚尊ー饒速日命ー大歳ー御歳系統を祭祀して来たと言われるが
この中で饒速日命は先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とされる。
ある時代に饒速日命を太陽神として祭祀してきた話は公然の秘密となっているが
実際には神を火と水の陰陽の神霊として饒速日命 瀬織津姫を夫婦神として
祀っていた時代があると思われる。
これが本当の歴史を踏まえたものであったのかかどうかは分からない。
しかし嵯峨天皇の時代に天皇の氏神は素戔嗚尊として
各地の神社において素戔嗚尊が祭られることになり
それにあやかり神道界は素戔嗚尊の直系として
火水の祭祀 ニギハヤヒ セオリツヒメを火=日と水として祭祀し
これが素戔嗚尊祭祀とともに
各地に日本国の象徴として受け入れられて広まったようだ。
愛媛県松山市八反地に鎮座する、国津比古命神社 松山市高田の櫛玉比売命神社などには
その歴史が残っている。
それを指導したのが物部氏であるのかさらに他の部族も関与していたのかは
結論を得ていない。
瀬織津比賣を縄文の女神とするなら長髄彦の妹の登美夜須毘売(日本書紀では三炊屋媛)と
饒速日命の夫婦神を祭祀したと仮定すればよい。
登美夜須毘売は出雲神族の富氏のトミを冠し同時に櫛玉も冠する特別な存在の姫だ。
さきほど神を火と水の陰陽の神霊として饒速日命 瀬織津姫を
夫婦神として祀っていたと記載したが
実際には饒速日命 瀬織津姫という響きのいい名前は
後世に神を火・水と理論付けして祭祀した人物が付替えた名前なのだろうと思う。
3世紀の卑弥呼⇒火水呼などの呼び名も出来すぎていると思えるが
火と水の神霊を呼ぶ巫女ということなのだろう。
たぶんその人物は大祓祝詞等を作り出し神道を系統だてた人物か一族だ。
大祓いの神髄は
『大祓詞の神漏岐・神漏美の命と祓詞の伊邪那岐大神 No347』に
記載したことも参照にしていただきたいが
一般的には瀬織津比売神が河の神で速開都比売神が河口の神で
気吹戸主神が風の神 速佐須良比賣が根國・底國の神とされる。
ただ霊的にはこの大祓いの浄化のエネルギーは
「ひふみよ」で現わされると思っている。
ひ=火炎で燃やし
ふ=風で勢いをまし
み=残ったものを水で流すことにより祓っている。
例えばこれは刀に魂を込める場合も同じだ。
ひ=火炎に鉄をさらし
ふ=フイゴで風を送り
み=水で冷やし魂を込めるという段取りとなっている。
だとすると
ひ=瀬織津比売神
ふ=気吹戸主神
み=速開都比売神 (速秋津比売神)となろう。
大祓いである以上はまずは天日で乾かし火で燃やすことから始めねばならない。
残ったものを風で飛ばし水で流して根の国底の国へと送り込むのだ。
日本刀が神霊を宿すのも大祓いに則り鍛造されているからだ。
この神霊界の神秘を理解したものが大祓祝詞を作成した事は間違いないが
火=日の効果が封印された際に改竄されたのだろう。
拍手かしわでも左手と右手を重ね合わせて後に音と風を出すが
ひだりては火足リで、みぎては水極で
火は上に登り水は降り広がる一連の陰陽和合を表している。
ちなみに手を合わせた後に左手を上に右手を下に中指関節ひとつ分ずらした後に
ぽんぽんと拍手を打つが
この際に軽く風が顔に当たるように意識してもらうといい音となっている。
風の仲立ちは必須ということだ。
さて熊本人は「もっこす」という信念を持つ。
肥後もっこすとも呼ばれる偏屈さが特質となっている。
これは熊本にいて痛感する性格である。
「薩摩の大提灯、肥後の鍬形」など言いえて妙だ。
細川藩の政策によるものなどと分析しているものもあるが
もっと古い時代からの気質である。
熊本の神道の歴史から産み出されたものであると思っている。
全国で火と日の神と水の神を夫婦として祭祀することが
流行した際に火の國だけがそれに従わなかったとしたら
それはどういう経緯があったのだろうか?
それには熊本の龍の信仰が関与すると思われる。
龍の信仰は水の信仰でもある。
また八岐大蛇の信仰でもある。
龍の信仰は役小角が広めた八大龍王神の信仰にも繋がる。
そしてその信仰の根底に阿蘇神霊界の頂点であったはずの
おそらく相当に古い時代から國龍神(くにたつのかみ) の信仰が熊本にはある。
現在はそれが阿蘇神の信仰になっている。
この國龍神と健磐龍命の新旧の関係には秘密があるが
いずれにせよ八岐大蛇退治の素戔嗚尊とは相容れないものであったのだろうと思われる。
また神を火と水の陰陽の神霊として饒速日命 瀬織津姫という響きのいい名前をつけて
夫婦神として祀ったのが物部氏だとしたら
阿蘇神は阿=我よみがえる=蘇神であり
蘇我氏同様に我よみがえるであり
神霊界を統率した物部氏に反骨の気質を示しているとも云える。