吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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少彦名神考察 名前に隠された秘密についての考察 No369

2014-01-11 13:32:25 | 神霊界考察
まず吉田一氣の『少彦名神考察』本編は
http://reyline.web.fc2.com/sukuna/sukuna.htm
を参照していただきたい。

さて少彦名神はすくなひこなのかみと読むが
「な」が強調されるかのように二度繰り返されている。
この「な」には霊的には水の女神の響きが感じられる。
しかし以前より「な」が繰り返され強調されるのには
もっと深いわけがあることを感じていた。

神宮皇后と少彦名命の関係は神社の伝承は多いものの
記紀では磐余に帰ってきた誉田別皇子を迎えて歌った場面のみである。
この歌では少御神(すくなみかみ)と詠んでいる。
また以前『謡曲 「高砂」の意味するところ No032』で紹介したように
「秀真伝」によると酒の発見は、竹の切り株に雀が籾を入れてそれが発酵したのを
スクナミが発見したのが最初となっている。
この酒のことを『笹氣』と呼びスクナミはこれ以降「ササナミ」と呼ばれたとある。
沙沙貴氏が少彦名神を祖神とすることから考えると
酒を発見したというスクナミは酒の神でもある少彦名神のことと考えられる。
ただここでも「な」の強調は無い。

その理由を理解したのは魚の古い時代の魚の呼び名が
「な」であると知った時だった。
料理に使う俎板も真魚板からきているという話もある。

少彦名神は少名彦名という二つの名であり少名彦魚にもなるということも示している。

それであわてて理解したことを検証した。
それは古事記に記載されている敦賀=気比の地で、
伊奢沙和気大神と武内宿禰に連れられた誉田別命が名前を交換したという話だ。
その見返りが血まみれの入鹿魚=イルカ=魚=「な」であるという。
まず武内宿禰と誉田別命が気比に向かった訳は禊をするためであったそうだ。
何で禊をせねばいけなかったのかが伏線となっている。
禊の後に敦賀=気比の地から磐余に帰ってきた誉田別皇子を迎えて
先ほどの歌を神宮皇后は詠うのだが、
これは酒楽之歌=酒宴を張って言寿ぐときの詞となっている。

この御酒は わが御酒ならず 酒の司 常世に坐す 石立たす 少御神の 神寿き
寿き狂ほし 豊寿き 寿き廻し 奉り来し御酒ぞ あさず食せ ささ

まさに少御神が誉田別命に祝福を与えている。
神宮皇后 武内宿禰 誉田別命にとって少御神は特別な存在となっている。

同様な歌として
此の神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久幾久
というものがある。
これは大田田根子を祭主にして大物主神に酒を献上して
大物主神の祟りである疫病を防いだ際に高橋活日命が詠ったものであるが
これにより大物主神の祟りが解かれている。
つまりこの歌に出てくる少御神や大物主神は単に酒の神だから出てきたのではなくて
重要な役割を果たしているということになる。

さて神宮皇后 武内宿禰 誉田別命にとって特別な存在である少御神が
少彦名神すくなひこなのかみと古事記で呼ばれるのかであるが
「な」が二度出てくるのは伊奢沙和気大神という名と誉田別命という名の
二つを現しているように思える。
そしてそれが血まみれの入鹿魚=イルカの魚=「な」に掛かっている。

話が少し飛んで先ほどの大田田根子を祭主にして大物主神に酒を献上して
大物主神の祟りである疫病を防いだという話は
指示をした崇神天皇に何か後ろめたい事があった可能性があるが
大物主神と大田田根子は血縁関係があるという。
崇神天皇は10代天皇で御間城入彦五十瓊殖尊が和名であるが
9代は開化天皇=稚日本根子彦大日日尊
8代は孝元天皇=大日本根子彦國牽尊
7代は孝霊天皇=大日本根子彦太瓊尊
観れば判るように大日本根子彦が名前に付き
大田田根子もその系統である事が判る。
つまりはここ崇神天皇の10代で王朝あるいは天皇の血族が変わった可能性がある。

同様に神宮皇后 武内宿禰 誉田別命の一連の行動である禊と名前の交換と
酒楽之歌の宴会も政権交代もしくは政権奪還などを意味していると考えている。
さて『熊本の健軍神社の神話 No367』で本当の主祭神である健軍大神=
健緒組命=少名日子建猪心命=屋主忍男武雄心命は
九州を統一した12代景行天皇=大足彦忍代別尊として

武内宿禰は日本武尊=13代政務天皇=稚足彦尊
≒仲哀天皇=足仲彦尊と記載している。
つまり足彦系となる。
ところが不可解な事に応神天皇=誉田別命は足彦系とはなっていない。
母の神宮皇后は息長氏系といわれているが
和名の気長足姫尊=おきながたらしひめのみことで
なぜか神宮皇后において息長氏系と足彦系の和合が成されている。
これは神宮皇后が神功天皇として立ったからかもしれない。
また誉田別命に足彦系の名がついていないのは
誉田天皇と応神天皇とは別系統であるからという説も考えられるものの
とりあえずはこの理由こそが名前の交換にあるのだと考えたい。

この時代の地理的歴史的背景については不勉強であるが
なんとなく出雲系王朝と九州王朝の統合が完全に成されたのではないかと感じている。
武に繋がる九州王朝と伊奢沙和気大神に繋がる出雲王朝の統合ということだ。

さて先ほど記載した血まみれの入鹿魚=イルカの魚=「な」に掛かっているということだが
これも政権交代を意味しているということであろう。
つまり蘇我入鹿天皇が藤原氏によって殺害され貶められたということを意味しているのだろうと
判断している。




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12 コメント

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日女尊と気長足姫尊 (禮月)
2014-03-22 00:14:13
吉田様
大変お久しぶりです。禮月です。
ここの所仕事の面で苦行の様な日々が続いていた為、あまりネットすらする機会がありませんでした。

所で2013年12月30日、2014年1月3日に見た天に現れた、悪魔の様な形相をした巨大な黒い魚ですが、色々と調べた結果、吉備国の穴海に住んでいた悪樓(あくる)の可能性が高いと思いました。悪樓は悪楼(あくろ)とも呼ばれており、景行天皇の時代に日本武尊が退治したとされています。別の伝承ではこの怪魚を退治したのは須佐男尊とも言われています。悪という感じは(お)とも読むので、(おろ)とも読めます。(おろ
と言えば・・・言うまでもありませんね。

更にこの悪樓・悪楼は古事記・景行天皇条に記述のある「穴戸神」と酷似しているとの事です。クナドの神との関連性をも感じさせます。穴戸とは後に長戸と呼ばれて時代が下るにつれて長門・長州(現・山口県)と名前が変わって行きます。

また穴戸国にはヒミコの冬の宮があったという言い伝えもあります。またはヒミコの漢字には「卑弥呼」の他に「日女尊」と綴る様ですね。卑弥呼は大陸側の蔑称だそうで、正しくは日女尊の漢字を充てるのだそです。ここで大日霊女とヒミコが密接な関係にある事がわかります。また、山口県には神功皇后との縁も深い様ですね。

ここである種の確信に至りました。
ヒミコ(日霊尊)と気長足姫尊(おきながただしひめのみこと)は同一人物であると。何故「気長足姫尊」としたのか、というと神功皇后には後世の女帝(斉明・持統両天皇)の治世のエピソードが入り混じっていると思われ、必ずしも気長足姫尊=神功皇后とは呼べないと思ったからです。

ヒミコは夫が無く、生涯独身であったと伝わっていますが、「夫が無く」は漢字への転記ミスで「夫が亡く」であれば寡婦という意味になります。実際日向地方に伝わっている大日霊女尊は42歳の時に夫である須佐之男尊に先立たれており、寡婦となった後は須佐之男と櫛稲田姫との間に生まれた嫡子・大己貴尊と共に共同統治者になりました。更にその大己貴尊にも先立たれると、今度は幼少の事代主(御饌津神や歳神)を擁立して日向から出雲ひいては播州(今の神戸の辺り)までの最大版図を築き上げています。事実上の西日本の女王です。

この事代主(御饌津神・歳神)は自身と夫である須佐ノ男との間に生まれた7子・8子であるとする説や、大己貴尊の末子にして嫡子(須佐之男の孫)とする説があります。しかしながらもっと別の説もあります。その別の説とは…氣比大社に伝わるエピソードとも関連性がありそうな感じがします。

ここから先は、あくまで私個人の勝手な推測に過ぎません。気長足姫尊は太陽神を祀る一族の巫女の長であると同時に、クナドの神を祀る縄文系のグループとのパイプ役もしていたのではないでしょうか?

本当はもっと書きたい事もあるのですが、これ以上書いてしまうと大和政権成立以前の歴史学で定説のなっている事が悉く引っくり返ってしまうので、敢えてこの辺で止めておきます。また、「これ以上」の事には未だ確信も持てていないので、今の段階で書くのは早すぎるとも思ってしまいます。
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日女尊と気長足姫尊(追記) (禮月)
2014-03-24 00:01:28
私が日女尊(気長足姫尊)が縄文系民との橋渡し役も務めていたと考えるのには理由があります。大日霊女を信仰している神社の周辺には、ウナギやドジョウに対するタブーが伝わっている事と、近くに縄文遺跡がある事からその様に判断しました。

それともう一つ、「応神天皇は神功皇后が新羅へ遠征に言行っている時に、現地の新羅人との間に生まれた子供で、父親とされる仲哀天皇の血は引いていない」とする説を見た事がありますが、私はハッキリとこれは違うと思っています。応神天皇の父親は新羅系ではないでしょう。根拠は?と問われると「信用できないじゃないか!」と言われてしまいそうですが、私の霊感的なものを駆使して得られた直感からこの様に判断しました。
返信する
吉田一氣 (禮月さまへの返信)
2014-03-24 23:11:32
お久しぶりです。
なぜだか私も禮月さま同様に
仕事の面で苦行の様な日々が続いていて
ネットに触れる時間が全くありませんでした。
この状況に陥ったことが非常に気になりますね。
さて吉備国の穴海に住んでいた悪樓について
なるほどと納得しました。
しかしやはり吉備国にヒントがあるんですね。
私は吉備に行こうとするとなぜだかいつもトラブルが起こって
行けなくなるので未だ調査の機会を得ていませんが
そろそろ吉備国神霊界の究明の使命が回ってきそうな気がします。
ここで大日霊女とヒミコが密接な関係にある事については同意できます。
あと
必ずしも気長足姫尊=神功皇后とは呼べないと思ったとのことですが
このことについては私も心に留めておきたいと思います。
太陽神を祀る一族の巫女の長であると同時に、
クナドの神を祀る縄文系のグループとのパイプ役については
確かにその存在を私も感じています。
私はその役割を小童神系の系列に感じ取っています。
これからもご高察を宜しくお願いします。
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ヒミコと気長足姫尊と新羅 (禮月)
2014-03-26 21:07:50
ご存じのとおり、邪馬台国と卑弥呼の事は中国の歴史書である魏志倭人伝に出てきます。

魏志倭人伝に記載されている卑弥呼が古事記・日本書紀に記載されている神功皇后(気長足姫尊)の元になっている人物ではあっても、同一人物ではありません。これはきっぱりと断言できます。

異民族が住む海外の事情に関しては、細か過ぎる位の記述を残すのが古代中国国家の特徴です。そんな記述マニア(笑)の古代中国人であれば、「皇太后が先頭に立って指揮をして、が朝鮮半島の新羅を侵攻した」等という「重大事件」をき忘れる事など有り得ないからです。それに卑弥呼(日女尊)や神功皇后が生存していた時代に「新羅」という国家は未だ存在していませんでした。いわゆる新羅という呼び名が正式に海外の歴史書に登場するのは、AD391年以降の事で、日女尊≒気長足姫が生存していたとされる当時(AD151~AD247/8は斯盧国(しろこく)と呼ばれていました。因みに魏志倭人伝には皇太后と斯盧国との記述は“一切ありません”。

これは天皇家の成立を意図的に古く見せる為に、古事記・日本書紀編纂者が改竄や有りもしない事実を付け加えたを行ったとする方が、魏志倭人伝との記述に符合します。また、古事記・日本書紀に記述のある天皇ですが、そのうちの何人かは重祚していた可能性があったという事実も敢えて消しているとしか思えません。

福井県敦賀半島の氣比神宮のエピソードは、敦賀半島だけで起きた事を記載しているのではなくて、吉備国でおきた事件も混ぜこぜにして記載している可能性があります。敦賀半島の氣比は何故か(けひ)と読みますが、(きび)という読み方も可能だからです。

以前からも書いていますが、日女尊(卑弥呼)は特定の個人を示す名前ではなく、太陽神に仕える巫女の長である役職を示すものである可能性があります。つまりヒミコと呼ばれた女性は大和朝廷成立以前に複数いた可能性が高いです。最初からヒミコは歴史上、たった一人しか存在していないという「思い込み」を捨てないと、日本古代史の真実は解き明かせないでしょう。
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魏志倭人伝の卑弥呼=気長足姫尊+台与) (禮月)
2014-03-26 23:01:06
度々申し訳ございません。

ここ2、3日は何故か卑弥呼、大日霊女尊、気長足姫尊そして神功皇后の事が非常に気になります。と、思ったら天皇・皇后両陛下が伊勢神宮に参拝されて、三種の神器の一つである天業雲剣の剣璽の事がニュースになっていたではありませんか。

もう一つ気になるのが、魏志倭人伝の卑弥呼≒気長足姫の寿命が当時としては、信じられない位の長寿である事です。卑弥呼の生没年は不明ですが、現在ではAD151~AD247/8が有力な説とされているみたいです。満年齢で計算しても95歳か96歳まで生きた事になるので、100歳と記録されてもおかしくはありません。100歳と言えば、神功皇后も100歳で没したと記述がありますから、魏志倭人伝の卑弥呼は間違いなく古事記・日本書紀の神功皇后のモデルの一人になっています。因みにこの卑弥呼の生没年は日向地方に残る大日霊女尊の生年没年と同じです。従って日向地方の大日霊女=魏志倭人伝の卑弥呼≒気長足姫は確実であると思います。

日霊女が称号であるならば、日霊女と神功皇后の生没年も二人の治世を足したものであればどうでしょうか?気長足姫尊とその後継である台与の治世を足すとほぼ100年間になるのではないでしょうか?恐らく播磨風土記だったと思うのですが、卑弥呼の後継者である台与は13歳の時に卑弥呼の後を継ぎ、その治世は22年か23年間だったという事です。台与(トヨ)が誰なのか?という事も卑弥呼に次いで様々な説が多く存在していますが、私は萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)が最も可能性が高いと信じています。彼女が気長足姫の後を継いで日女尊になったのでしょう。

日向地方に残る大日霊女の治世の記述ですが、大己貴命にも先立たれると今度は幼少の事代主を擁立して…とあります。この事代主は後の天火命との説もあります。因みに播磨風土記では、天火命の父親が大己貴命と書かれているので、夫大己貴を亡くした後で、妻であるトヨが事代主の摂政に立ったのではないか?と考えています。

ただ、古事記・日本書紀を読む限りでは萬幡豊秋津師比売命は、神話時代に生きていた神様という事になります。なので第15代天皇応神天皇の母である気長足姫尊よりも遥かに過去の人物となってしまいますが、ここは播磨風土記や日向神話等、大和朝廷以外の歴史書や神話に書かれている内容を軸に考察して行くと、卑弥呼=大日霊女尊=伊勢神宮の天照大神≒気長足姫と考えれば、納得が行きます。

氣比と吉備、敦賀湾の入鹿魚と吉備の悪樓そして誉田別伊奢沙和気大神との名前の交換についての考察はまた別途書きたいと思っています。
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神功皇后の妊娠期間 (禮月)
2014-03-27 23:40:23
神功皇后は懐妊した状態で海を渡り、高句麗・百済そして「何故か新羅」という国へ向かったといいます。渡航中又は陣頭で出産してしまわない様、月延石や鎮懐石を腹部に押し当てて出産を遅らせた伝説が残っています。

AD201年当時と言えば未だ弥生時代です。この時代に出産を意図的に遅らせる医術が存在していたと考えるのは野暮と言うものでしょう。また、神の力を借りたと言えばそれまでですが、私はこのエピソードと気比神宮での名前の交換の儀式がリンクしていると直感しました。そして応神天皇(誉田別尊)を出産したとされる土地が筑紫(福岡県)の辺りである事にも着目しました。

神功皇后(ここではモデルになった人物の一人であるは確かに気長足姫はAD200年頃確かに妊娠はしていた。けれどもその子は生まれてくる事はなかった。だが、子供を流産(死産)したとあらば、夫である日本武尊と縄文系の民との橋渡しをする家に生まれた自分との間の直系の子孫が絶えてしまう。縄文系との橋渡しをする家の血を引く人間が天皇になって貰わないと、国はまた戦乱の世になてしまう。こうなったら…

話は飛びますが、宇佐神宮(宇佐八幡宮)の境内には八街彦・八街媛・そしてこの2柱の子である久那土神を祀った祠もあります。ヤチマタと言えば八岐大蛇(九頭龍)です。大陸からの渡来人が来る前、宇佐神宮は縄文神の夫婦とその子供を祀っていた様です。つまりは、気長足姫が生きていた時代は縄文系の民が未だ住んでいたのではないでしょうか?

現在の宇佐神宮の一之殿には応神天皇、二の殿には比売神(宗像三女神)そして三之殿には神宮皇后が祭られています。しかしながらクナドの神というキーワード殿ネット上を検索していたら、宇佐神宮の事に関する記事を見つけました。宇佐神宮の再古の際神は一之殿の相当する場所に久那土の神、二之殿に相当する場所に顕波々木神(アラハバキ)そして三ノ殿に八街彦・八街媛を祀っていたのだそうです。

気長足姫は暴挙とも取れる手段に出た可能性があります。縄文系の民の子を自分が生んだ子供として養子にしてしまったのでは?と思うのです。この説は荒唐無芸で飛躍しすぎているとしても、応神天皇の諡号に足(タラシ)の文字が無い事から、気長足姫と応神天皇には血の繋がりが無い可能性は残ります。

ただこれは、あくまで私が3/23日の電車に乗っている時に見た白昼夢の内容です。史実かどうかも確認をするすべはありませんし、日本古代史を長年研究されている研究者の方々に言わせれば「無知な輩の妄言」と一蹴されてしまう事は確実です。夢の中に気比神宮が出てきて、土公の前で哀しそうな顔をして祈っている、上古時代の衣装を纏った若い巫女さんか女神様の姿が見えました。恐らく気長足姫か台与のどちらかだと思いますが「、この御子は天地開闢の頃よりこの地をお守りなさっている或る大神様の現身(うつしみ)。」というメッセージが私の頭に響きました。

更にこの夢を見る数日前に、とある有名掲示板の過去ログに大阪人を名乗る人物が行った書き込みで「応神天皇と仁徳天皇は同一人物。このお方は生粋の日本人土着民で渡来系の血は一滴も受け継いでいない。今は神となられている仁徳天皇が本気を出されれば、日本に仇為す諸外国共等目ではない。日本と純粋な日本人を、お守りになるのがこのお方の役割。大阪にはこの様な都市伝説がある。」というものがありました。この“自称”大阪人さん曰く仁徳天皇は応神天皇が重祚したものだというのです。

「大陸から渡来人がやってくるまでは、日本に文化など無く、原住民は原人さながらの生活をしていた」という説を未だに信じている人達にしてみたら、私の書き込みは物凄く危険なものにもなるでしょう。

また、気長足姫を魏志倭人伝の女王と同一人物とするのであれば、気長足姫の母方の祖父が大陸・半島系の「新羅」人である可能性は0に近いでしょう。何故ならば、魏志倭人伝の時代には、多婆那国出身の昔氏(しゃくし)吐解尼師今(とかいにしきん)が始祖の昔氏朝ですが、この昔氏は倭国出身と三国史記にはっきり記載されています。

また魏志倭人伝の卑弥呼と没年が極めて近い助賁尼師今(じょふん にしきん)の治世には、確かに倭人が大群で押し寄せてきた、とありますがその倭人の軍団が女王(皇太后)に指揮されていたとは一言も書かれていませんし、魏志倭人伝でも助賁尼師今と卑弥呼の関係は、一言も言及されていません。
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新羅ではなくて斯盧 (禮月)
2014-03-29 01:32:52
魏志倭人伝や隋書倭国伝の記述を軸に考えるのであれば、3世紀の倭国の女王が朝鮮半島で所領していた土地は任那(にんな・みまな)か伽耶(かや)でなければおかしいのです。

「3世紀~4世紀前半に書かれた事が確実」とされるもので、倭国の女王・皇太后が朝鮮半島の辰韓に大軍を率いて遠征を行った事実が記載されている、1級資料の存在を私は知りません。もし仮に存在しているのであれば、倭国の女王・皇太后が攻め入った国は斯盧国と書かれている筈です。

因みに3世紀~4世紀前半の斯盧国は、中国大陸系(秦の末裔と言われている)・中国東北部系(ツングース系)そして倭人等、様々な民族で構成されていました。因みにその民族とは、現在の朝鮮半島に住んでいる民族とは異なる民族です。

いずれにしても、その人物が存在していた時代よりも後世(200年以上後)に書かれた資料の内容は、同じ時期に書かれた他の資料。(できればその人物やその人物が敵対していた人物でもない、中立の立場で書かれたものが望ましい。)も照らし合わせる事が一番重要だと思います。特に神話とごっちゃになっている様な資料の場合は、その人物が存在していた時代と近い時代に書かれた事が明らかな資料と共に考察を行わないと、とんでもないミスリードをしてしまう事になります。
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三国史記と三国遺事の成立は高麗時代 (Unknown)
2014-03-29 23:30:07
紀元前100~高句麗・百済・新羅の滅亡までが書かれている三国史記と三国遺事ですが、この二書が編纂されたのは共に高麗時代(AD918~AD1392の事です。高句麗という名前が歴史上に登場してから1100年以上経ってから書かれた資料であり、高句麗・百済・そして新羅の黎明期から卑弥呼の時代に書かれた書物ではありません。

しかも三国史記に至っては、終始新羅側の視点でかかれており、新羅建国年数も意図的に高句麗より古く見せる為、BC57を建国の年としています。大陸側の資料に初めて辰韓の詳しい記述が登場するのは、魏「AD220~AD265)の時代の事であり、それ以前に書かれた書物で、辰韓地方に触れられているものは存在しない事はありません。しかしながら、触れられているのはわずかな2,3行のみで、とても詳しく記述されているとは言えないのです。つまり紀元前後に成立したとされるもので、新羅の成立時期について客観的にかつ詳しく記述されている資料は、今の所皆無と呼べる状態なのです。

因みに中国の魏の時代は、卑弥呼の治世後半と台与の治世に丁度バッティングします。従って私は魏氏倭人伝の記述は概ね正しいものと考えています。

また、新羅国の始祖とされる赫居世や、気長足姫の血縁とされる“新羅人”とされている昔氏一族ですが、この二人が本当に新羅(斯盧)国の建国に携わったか可能性は低いのではないか?という見方も存在します。(故・井上秀雄氏等は、三国史記の元になったとされる資料の実存性を疑っていました。中国側の歴史書との記述とも、矛盾する箇所は勿論、全く書かれていないエピソードまで無数に存在する様です。相当な改竄や改変があった事は事実の様です。)

どういうわけかBC100年~AD793までは、日本・朝鮮半島共に日本と新羅の関係をやたら強調する資料ばかりが出てきています。中国の歴史書が日本と新羅の関係をはっきりと書いているのは飛鳥時代(AD593~AD694)以降の事です。
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無題。 (禮月)
2014-03-30 16:44:43
吉田様、度々何度も申し訳ございません。
三国史記と三国遺事の成立は高麗時代を書いたのも、私・禮月です。私は、大日霊女=卑弥呼への感応を元に縄文神の長である久那土神との対話を目指せないものか?と考えています。

なのでヒミコという人物の事をもっと良く知る為に、魏志倭人伝・隋書倭国伝・後漢書東戎伝等の資料も調べ始めました。「史実」を知らずして、ベストな祭祀の方法を模索するのは不可能だと思うからです。
返信する
岡山県真庭市の二宮(ふたみや)神社 (禮月)
2014-04-01 23:14:52
岡山県・真庭市の二宮(ふたみや)神社は、堂々と久那土の神を祀っている神社です。

それも境内神社の久刀神社で久那土の神を、菟上神社で岐神を祀っているので、二重に久那土の神を祀っています。

岡山県には縄文神に対する信仰を随分と後世まで残していた痕跡があります。しかも二宮神社には「神太市媛尊」という女神様も祀っています。この「神太市媛」ですが、日本書紀の系譜では須佐之男の妃の一人にして大年神と宇迦ノ御魂の母とされています。間違いなく卑弥呼か台与のどちらかになると考えて良いでしょう。

そればかりか卑弥呼(台与かもしれませんが)が大己貴命の後亡き後に擁立したと言われている事代主も長田神社に祀られています。この真庭市の二宮神社は事代主が日本土着の神である久那土神への敬意と、血の繋がりの有無は別として、母(実母・養母・祖母いずれの可能性もありますが)を弔った場所ではないか?と思うのです。

滋賀県・兵庫県の神戸より西側の地域・岡山県・そして徳島県には久那土の神との関係が密接な地域がある様です。また、滋賀県は外れますが、兵庫県相生市から北九州市にかけては、毛利元就・輝元で有名な毛利氏の領土とぴったり重なるのも興味深いです7ね。
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