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2023.4東京 亀戸天神社を歩く

2024年04月12日 | 旅行

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 東京・江東区の亀戸天神社はまだ訪ねたことはないが、江戸時代からの名所として知られ、歌川広重(1797-1858)の錦絵「名所江戸百景 亀戸天神境内」にも手前に長く垂れ下がった藤、太鼓橋の向こうに藤棚が描かれている(図web転載)。
 藤まつりが開かれている平日に出かけた。JR秋葉原駅から総武線に乗り換え、錦糸町駅で下りる。錦糸町駅から北東を目指し、錦糸公園を抜け、横十間川に架かる天神橋を渡る。
 みごとな藤棚の下に行列できていた(写真)。江戸時代から続くくず餅の老舗船橋屋である。藤棚に下で「花より団子」、くず餅を食べる客もいるが、こちらの目当ては「団子より藤」、藤まつりに期待が膨らむ。
 船橋屋の先を左に折れると、参道に朱塗りの大鳥居が建ち、店が並び、賑わっている(写真)。

 正保年間(1644~1647)、九州太宰府天満宮の神官で菅原道真の末裔の菅原信祐が天神信仰を広めようと道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀しながら諸国を巡り、1661年、江戸本所亀戸村の天神の祠に天神像を奉祀した。
 1657年に明暦の大火が発生、大火後、江戸幕府は本所の復興を進め、徳川4代家綱は天神社を鎮守神として祀るよう社地を寄進、1662年、太宰府天満宮に倣って社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などを造営した。いまも心字池、太鼓橋など面影を残している(境内図web転載加工)。祭神は天満大神=菅原道真と天菩日命(菅原家祖神)である。
 太宰府天満宮に対して東宰府天満宮、亀戸宰府天満宮などと呼ばれたが、いまは亀戸天神社と号し、亀戸天神、亀戸天満宮とも呼ばれる。大鳥居の扁額には亀戸天満宮と記されている。
 
 大鳥居で一礼する。境内に四角い心字池が広がり、大鳥居から心字池を抜けて北に参道が延び、心字池に手前から太鼓橋の男橋(写真web転載)、平橋、太鼓橋の女橋(写真web転載)が架かり、その先に拝殿・本殿が構える。3つの橋は過去・現在・未来を表し、橋を渡ることで身が清められるといわれている。
 「名所江戸百景 亀戸天神境内」の太鼓橋は木造だが、昭和年代にコンクリート造で架け替えられた。

 行き交う人、写真を撮る人をかき分け男橋、平橋、女橋を渡り、拝殿で二礼二拍手一礼する(次頁写真)。拝殿は銅板葺き入母屋屋根、南正面は唐破風と千鳥破風を重ね、東西にも千鳥破風を伸ばす。北奥に本殿が建つ。拝殿と本殿あいだに合いの間がある権現造のようだ。
 社殿の向こうに東京スカイツリーが伸び上がっている。外国人の参拝者が亀戸天神社+東京スカイツリーに自分を入れて自撮りしていた。

 参拝を終え、心字池の左右に設けられた藤棚で藤を愛でる(写真)。藤を愛でる気風は古く、枕草子84段に「・・色あひ深く花房長く咲きたる藤の花・・」と記されているそうだ。万葉集にも登場するらしい。
 例年は50株の藤が咲き誇るそうだが、惜しいかな、今年は暖かさを通り越した暑さが早く、かなり花が散っていて、花房は寂しくなっていた。それでも訪れた人は、思い思いの記念写真を撮っていた。

 参道をそぞろ歩く。本殿手前の参道左側=西側に鷽の碑が置かれている(写真web転載)。多くの天神社、天満宮では鷽替え神事が行われる。
 鷽=うそ=嘘にあやかり、前年に神棚に飾っておいた木彫りの鷽を新しい木彫りの鷽に交換すると、前年の不幸や凶事が吉に替わると信じられた神事である。亀戸天神社では1月に開かれらしいが、この日も木彫りの鷽が売られていた。

 心字池の右側=東側の参道に「しばらくは 花の上なる 月夜哉」と刻まれた芭蕉の句碑がある(次頁写真)。
 芭蕉が吉野に旅したとき満開の桜を詠んだ句で、凡人の理解では、満開の花(春の季語)に秋の季語の月までも動きを止めそうに感じるほど花に感動した、ということだろうか。
 芭蕉百年忌に弟子たちが亀戸天神社に句碑を奉納したそうだ。解説がないと藤棚に咲き誇った藤を月も楽しんでいる情景を思ってしまう。俳句は奥が深い。

 参拝と藤鑑賞を終える。老舗船橋屋にはまだ行列ができていたのでくず餅は諦め、地下鉄半蔵門線錦糸町駅に向かう。 (2024.4)

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