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2023.4東京 根津神社を歩く

2024年04月15日 | 旅行

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 地下鉄千代田線・根津駅で下りて不忍通りを北に進み、根津神社入口交差点を左に折れると、つつじで知られる根津神社に着く。
 朱塗りの大鳥居の脇にはつつじ祭開催中の案内が出ている(写真)。亀戸天神社の藤は盛りが過ぎていたのでつつじも気になる。大鳥居で一礼し、境内に入ると左に斜面を埋め尽くすつつじが見える(写真)。
 根津神社のつつじは早咲き~中咲き~遅咲きが目を楽しませるといわれているが、惜しいかな、遅咲きも盛りは過ぎつつあり、花の色はくすみ緑色が優勢になっていた。
 当地が甲府藩主徳川綱重の山手屋敷だったころ、つつじの名所である館林からキリシマツツジを屋敷西側の丘に移植し、つつじヶ岡と呼ばれる名勝になった。
 昭和の戦禍で社殿とともにつつじヶ岡も荒廃したが、社殿修復にあわせつつじ100種3,000株が植えられて名勝が復活し、1970年から「文京つつじまつり」が開催されている。
 時期が合えばつつじの壮観に圧倒される(写真web転載)。想像をたくましくして、色鮮やかなつつじヶ岡を見上げた気分に浸る。
 外国人観光客も多く、つつじを背景にした着物姿や、朱塗りの千本鳥居でポーズを取り写真を撮っていた。
 神橋を渡る(写真、楼門左手前)。

 根津神社の由緒を拾い読みする。1900年前、日本武尊が東夷制定の途中、千駄木村(現東京都文京区)に素戔嗚尊を祭神とする社を創祠する。文明年間(1469~1486)、太田道灌が社殿を建立する。神仏習合により根津権現と呼ばれ、江戸時代に千駄木村から団子坂上(現東京都文京区)に移る。
 話は変わって、徳川3代家光(1604-1651)没後、家光の長男・家綱(1641-1680)が4代を継ぐ。家光の3男・徳川綱重(1644-1678)は1651年に甲府藩主となる。家綱没後、綱重は家綱より先に没していたので、家光の4男・綱吉(1646-1709)が5代を継ぐ。綱吉には嗣子がいなかったため、綱重の子・綱豊(1662-1712)を世嗣とし、綱吉没後、綱豊が家宣として徳川6代を継ぐ。・・甲府藩主・徳川綱重は冲方丁著「天地明察」(book544参照)で関孝和に暦を研究させた、として登場する。甲府城はHP「2022.9 山梨・舞鶴城公園=甲府城跡を歩く」参照・・。

 徳川綱重の上屋敷は桜田にあり、現根津神社あたりに山手屋敷があった。綱豊はこの山手屋敷で生まれ、根津権現を産土神とした。世嗣になった綱豊は1706年、山手屋敷を根津権現に献納し、6代家宣として社殿を天下普請で造営させ、根津権現を遷宮させた。根津権現は徳川家の崇敬を集めたそうだ。
 明治維新による神仏分離によって根津権現は根津神社に改められた。戦禍で損壊したが、1959年に権現造の社殿の復旧、1962年に唐門、透塀、楼門の修繕を終えて1706年当時の本殿・弊殿・拝殿、唐門、西門、透塀、楼門が再現され(前頁境内図web転載加工)、国の重要文化財に指定された。

 楼門で一礼する(前掲写真)。創建は1706年、間口3間、奥行き1間、桟瓦葺き入母屋屋根をのせ、左右に随神が守護する。1層は朱塗りだが上層の柱間、屋根の飾り金物には、徳川家の威信を示すかのように金箔が惜しみなく使われている。
 参道の先に唐門が構える(写真)。唐門の左右に延びる透塀は社殿の四方を囲んでいる。いずれも本殿などと同じ1706年に創建された。
 唐門は本柱+控柱の薬医門形式で、銅瓦葺き切妻屋根をのせ、東西の妻面を唐破風にしている。飾り金物に金箔を用いるなど、きらびやかさがうかがえる。
 唐門で一礼する。正面に拝殿が構える(写真)。銅瓦葺き入母屋屋根の南正面に千鳥破風を乗せ、向拝を唐破風としている。拝殿の奥に中の間=弊殿、その奥に本殿が建つ権現造である。いずれも金箔がふんだんに用いられ、壮麗さを感じさせる。
 6代家宣は、徳川3代家光により改修された日光東照宮、徳川4代家綱が家光の遺言で建てた家光の廟所・日光大猷院の厳粛さ+華麗さが念頭にあったのではないだろうか。
 拝殿で二礼二拍手一礼し、参拝を終える。

 根津神社社殿の西側、つつじヶ丘の麓に朱塗りの千本鳥居が並ぶ(写真web転載)。楼門の左=西に乙女稲荷神社の扁額をかけた石造の鳥居が建つ。石鳥居の先から朱塗りの千本鳥居が始まる。左がつつじヶ丘になり、つつじの時期であれば咲き誇ったつつじを楽しむことができるが、鳥居の柱間隔が狭いうえ着物を着た外国人観光客が写真を撮りあうなど、混雑する。
 千本鳥居を進むと、中ほどに乙女稲荷社が建っている。
 根津神社社殿の西門を出た少し南に、乙女稲荷神社の扁額をかけた朱塗りの木造鳥居が建っている。ここから石段を上ると、千本鳥居の途中に合流する。右=北に進むと乙女稲荷社である。
 乙女稲荷社の祭神は穀物の神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)だそうだ。1706年に根津権現の社殿を造営するとき、斜面の洞に倉稲魂命を祭る社を建てたのが始まりとされる。現在の社は昭和年代に寄進されたらしい。
 乙女稲荷社から千本鳥居をさらに北に進むと、乙女稲荷神社の扁額をかけた石造の鳥居が建つ。根津神社西口に近い。ここで千本鳥居は終わりになる。
 石造鳥居の隣に駒込稲荷神社が鎮座する。祭神は伊弉諾命、伊弉冉命、倉稲魂命、級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)である。1661年、徳川綱重が山手屋敷の守り神として建立した稲荷神社で、綱重の江戸別邸、桜田屋敷、三田屋敷、浜屋敷(=浜離宮)にも稲荷神社が祀られているそうだ。
 想像するに、山手屋敷で育った綱豊=家宣は父綱重が建立した駒込稲荷神社に参拝していて、山手屋敷を根津権現に寄進し社殿を造営するとき自らも乙女稲荷神社を建立、根津権現の崇敬が高まるにつれ、稲荷神社への鳥居の寄進が増え、千本鳥居に発展したのではないだろうか。
 根津神社西門から朱塗りの鳥居、石段を経て千本鳥居を歩き、乙女稲荷神社で一礼して西口から通りに出て、根津神社参拝を終える。 (2024.4)

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