草津駅に向かう途中に東門院守山寺がある(写真、山門)。788年、伝教大師最澄が比叡山に一乗止観院(のちの延暦寺)を開基したとき、東西南北の境に門を構えたそうで、その一つ、東の麓に比叡山東門院守山寺が建てられた。守山は比叡山を守るという意味らしい。
坂上田村麻呂が七堂迦藍を建立寄進したとも伝えられる。江戸時代には本堂・庫裏・仁王門・護摩堂などが建ち並び、朝鮮人街道を通る特使の宿舎として利用されるなど栄えたが、1986年にすべて焼失し、いまは山門、本堂などが再建されている。本堂前で合掌する。
境内に残る石造五重塔は仏像の彫刻が風化しているが、鎌倉時代作で重要文化財に指定されている(写真)。
レンタカー返却まで少し時間がある。草津駅の南1kmほどの立木神社に寄った。社伝によると、767年、常陸国の鹿島神宮より白鹿に乗った武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大和国の春日神社への勧請の旅の途中の当地で柿の鞭を地面に刺したところ柿の木が生育し、この柿の木を崇めて社殿を建立し、武甕槌命を祀り、社名を立木神社と称した、そうだ。
HP「奈良を歩く22 2019.43春日大社1」に記したが、平城京遷都の710年、藤原不比等(659-720)は平城京鎮護のため常陸国鹿島神宮祭神で藤原氏の守護神である武甕槌命の分霊を御蓋山(みかさやま=春日山)に祀った。武甕槌命の分霊は白鹿に乗って鹿島神宮から御蓋山に飛来したとされる。48代称徳天皇(=46代孝謙天皇、718-770、母の光明皇后は藤原不比等の娘)は、御蓋山に武甕槌命を祀る第1殿、経津主命(ふつぬしのみこと、現在の千葉県香取神宮祭神、藤原氏氏神)を祀る第2殿、天児屋根命(あめのこやねのみこと、現在の大阪枚岡神社祭神、藤原氏祖神)を祀る第3殿、比売神(ひめがみ、天児屋根命の后神)を祀った第4殿を造営した。これが現在の春日大社である。
立木神社の社伝とHPに記した内容は少しずれがあるが、大意は類似する。
社伝には、801年、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討に出陣した際当社に立ち寄り、道中安全と厄除開運を祈願し、大般若経一部を寄進、1487年、室町幕府将軍足利義尚が近江守護六角高頼を征伐するとき、武運長久を祈願して四脚門=現神門を寄進、草津は東海道と中山道の分岐・合流点のため参勤交代の大名は当社で道中安全を祈願した、などが伝えられている。
立木神社の東が東海道で、東海道に面して石鳥居が建つ(写真)。左右には阿吽の狛犬像が置かれている。一礼する。
参道の先に桧皮葺切妻屋根の四脚門が建つ(写真)。1487年に足利義尚が寄進したと伝わる神門である。神門前に鹿像が置かれている。右は角の生えている雄、左は角のない雌である。
参道の奥に拝殿が建つ(写真)。銅板葺入母屋屋根で、風格を感じさせる。
拝殿を回り込むと本殿が構えている(写真)。唐破風の門を構え、左右に袖廊を伸ばす。唐破風は桧皮葺、袖廊は銅板葺き入母屋屋根である。手前に阿吽の狛犬像、奥に左が雄、右が雌の鹿像が置かれている。唐破風門の奥に本殿が建つ。3間四方に桧皮葺切妻屋根を乗せた流造である。門前で二礼二拍手一礼する。
神門、拝殿、唐破風門、本殿は風格を感じさせ、境内の整った雰囲気は厳かである。
境内に1680年建立の東海道伊勢と中山道美濃の分岐点を示す道標が移設されていた(写真)。立木神社の南に草津川が流れ、草津宿が延びていて、そのあたりが東海道と中山道の分岐点だったらしい。時間がなくなったので草津宿も東海道・中山道分岐点も見ないで草津駅に向かった。
草津駅から東海道線で米原駅へ、米原駅から新幹線で帰路についた。かつての体験、知見に新たな体験、知見が加わり、いい旅になった。 (2024.4)
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