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2024.5東京 浜離宮庭園を歩く

2024年06月17日 | 旅行

日本を歩く>  2024.5東京 浜離宮恩賜庭園を歩く+日テレ大時計+築地本願寺

 4月に芝離宮恩賜庭園に出かけたとき、歩き疲れて浜離宮恩賜庭園まで足が伸びなかった。桜、藤は終わり、花菖蒲、紫陽花には早いが、5月早々、浜離宮恩賜庭園に出かけた。JR新橋駅から徒歩12分ぐらいだが、滅多に利用しないゆりかもめに乗った。若い人、外国人観光客で混み合っていた。東京湾沿いを高架で走るゆりかもめの沿線には見どころが多いようだ。
 一つ目の汐留駅で下りると、ジブリの映画を連想させる大きな時計が目に付く(写真)。「宮崎駿デザインの日テレ大時計」だそうだ。スマホを構え、見上げている人が何人もいる。時計は11:55で、12:00ちょうどに仕掛けが動くらしいので見学した。
 幅は18m、高さは12mの銅板製で、作業場や人形が丹念に叩き出された手作りのからくり時計のようだ。
 12時少し前に針がぐるぐると回り、12時ちょうどぐらいから右下の部屋の人形が鍛冶仕事を始め、左下の鐘が動き、左上の部屋の扉が開き、右上の部屋の人形が大きな歯車を回すと、右端の砲台が回転し始めるなど、あちらこちらが動き出す。数分の動作を終えて大砲が白煙を吹き、終了する。宮崎駿、スタジオジブリに拍手喝采したい。
 ヨーロッパの古都を訪ねたときに市庁舎や大聖堂などの仕掛け時計を何度も見たのを思い出した。仕掛け時計がヨーロッパの古都の賑わいづくりにも寄与していた。日本には人形浄瑠璃などからくり人形の歴史は古い。町の賑わいづくりに、日テレ大時計に匹敵する仕掛け時計を期待したいね。

  高層ビルの隙間から浜離宮庭園の森が見えるが、高層ビル、幹線道路、高速道路が行く手を遮る。高速道路を見上げながら、汐先橋交差点をまず北へ、信号が変わって西へ、もう一度信号待ちして南へと横断歩道をぐるりと横断して、浜離宮庭園の北端、大手門口から入園する。
 話しは飛んで、「徳川3代家光(1604-1651)没後、家光の長男・家綱(1641-1680)が 4 代を継ぎ、家光の 3 男・徳川綱重(1644-1678)は甲府藩主となる。4代家綱没後、3男・綱重は家綱より先に没していたので、家光の 4 男・綱吉(1646-1709)が 5 代を継ぐ。綱吉には嗣子がいなかったため、綱重の子・綱豊(1662-1712)を世嗣とし、綱吉没後、綱豊が家宣として徳川 6 代を継ぐ」ことはHP「2023.4東京 根津神社を歩く」に記した。浜離宮辺りは徳川将軍家の鷹狩り場だったが、1654年、甲府藩主・徳川綱重が海を埋め立て、別邸=甲府浜屋敷を建てた。
 綱重の子・綱豊が徳川6代家宣を継ぐと甲府浜屋敷は将軍家別邸となり浜御殿と呼ばれる。その後の歴代将軍が造園、改修を行い、11代家斉のときにほぼいまの形になった。
 明治維新後、浜御殿は皇室の離宮となり浜離宮と呼ばれた。関東大震災、戦禍で損傷を受け、1945年に東京都に下賜されて修復整備され、1946年から浜離宮恩賜庭園として公開された。その後、国の特別名勝、特別史跡に指定された。
 およそ東西550m、南北520m、250,000㎡の広さがある。北東には浅草、日の出桟橋を往復する水上バス乗り場があり、2016年8月にここから浅草まで水上バスを利用して隅田川の風景を楽しんだ(HP「2016寄席を楽しむ・水上バスを楽しむ」参照、現在、水上バスは運休中だそうだ)。
 
 浜屋敷→浜御殿は海を埋め立て屋敷周りを石垣とし、四方に海水を引いた堀割を設けていて(写真)、城をイメージさせる「大手門」を入ると小さいながらも枡形になっている。別邸でも城構えが意識されたのであろう。シルバー割引150円で入園する。
 左の内堀、右の延遼館跡の緑地を眺めながら南に歩く。藤棚は花を過ぎ、花菖蒲はまだ早い。中の御門前を歩き、花を過ぎたソメイヨシノ並木を過ぎ、南外れの新銭座鴨場(1791年築造)を右に見て、馬場跡を抜け、潮入の池に築かれた中島に架かる中島橋を渡る。
 潮入の池は、名前のように海水を引き込んだ池で、潮の干満にあわせて池の水位も上下するそうだ。中島には茶屋が建てられていて、庭園を眺めながら抹茶を味わうことができる(写真、西からの眺め)。
 中島には三方に橋が架けられていて、南の橋を渡り、富士見山に上る。潮入の池の北に松の茶屋が遠望できる(写真)。ほかにも鷹の茶屋、燕の茶屋が建てられていて、徳川将軍も趣を変えながら一服を楽しんだようだ。
 東京湾を眺めながら北に歩き、潮入の池に続く横堀に架かったお手伝い橋を渡り、松の茶屋あたりから庚申堂鴨場(1778年築造)に沿って北に歩くと内堀に出る(次頁写真)。内堀の先にぼたん園が設けられているらしいが、花は過ぎた。
 大手門に向かうと、徳川6代を継いだ家宣が浜御殿として庭園を整備した記念に植えられた松が勇姿を見せている(写真)。およそ300年になるので三百年の松と呼ばれている。堂々たる存在感を見せる松の生命力に驚かされる。

 大手門を出て道なり築地市場整備中の囲いに沿って北西に歩くと、築地場外市場に出る。細い路地に店が並んでいて、大勢の外国人観光客で賑わっていた。
 築地場外市場を抜けると築地本願寺に出る(写真、国の重要文化財)。
 1617年、江戸・浅草橋近くに京都西本願寺別院として浄土真宗浜町御坊が建てられたが、1657年の明暦の大火で焼失する。江戸幕府は火災対策で火除け地をとるなどの復興整備を進めていて、八丁堀の現在地に移ることになった。このあたりは海だったので、佃島の門徒を中心に埋め立てを進め、1679年に再建されて築地御坊と呼ばれた。1923年の関東大震災で本堂を焼失し、伊東忠太(1867-1954)の設計で、1934年に本願寺築地別院として竣工する。2012年から築地本願寺が正式名称になる。堂々としていて壮麗ながら、親しみを感じる。大衆に開かれた親鸞の教えを伊東忠太が建築化したと思える(HP「2008柴又帝釈天・築地本願寺」参照)。本尊阿弥陀如来立像に合掌し、家路につく。  (2024.6)

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