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2024.4東京 上野公園を歩く 桜+牡丹

2024年05月28日 | 旅行

日本を歩く>  2024.4東京 上野公園を歩く+博物館で花見

 上野公園にはよく出かける(HP「2015.2東京都美術館奇想の系譜展」「2015.9東京都美術館クリムト展」「2016.8上野を歩く」「2017.11西洋美術館北斎」「2018.1上野を歩く」など)。上野公園の正式名称は上野恩賜公園で、現在の広さは538,507㎡≒54ha、東西およそ900m、南北およそ1400mになる。
 1625年、徳川2代秀忠(1579-1632)は、天海大僧正の進言で江戸の北東=鬼門を守護する東叡山寛永寺を、京の北東=鬼門を守護する比叡山延暦寺に倣い、上野に建立する。最盛期の寛永寺境内は1,006,500㎡≒100haにのぼる広大な敷地だったらしい。
 天海大僧正が奈良・吉野から桜の苗木を取り寄せて上野に植えたのが、上野の桜の始まりである。1827年に発行された江戸名所花暦では東叡山の桜が人気の筆頭にあげられているそうだ。現在はソメイヨシノ、シダレザクラ、カンヒザクラ、オオシマザクラなど800本(1200本の説もあり)が人出を誘い、賑わいを作りだしている。
 1868年、新政府軍と旧幕府軍が上野で激突する(戊申戦争)。寛永寺に集結した彰義隊は新政府軍によって壊滅する。このときに広大な寛永寺の多くの堂宇が焼失する。明治維新後、寛永寺の境内は官有地となり、1873年、東京府公園に指定される。その後、不忍池の併合、博覧会開催、国立博物館開館、東京美術学校建設などがあり、1890年に宮内省管轄を経て、1924年に宮内省から東京市に下賜された。以来、上野恩賜公園が正式名称になる。その後も博物館、美術館、動物園、文化会館などの整備が進められて、現在の形になった(前頁案内図web転載)。
 
 花見の時期はたいへんな混雑になるので、今年も盛りを過ぎたころ合いを見計らい、東京国立博物館=東博の「博物館でお花見」に出かけた。桜も垣間見ることにして、JR上野駅広小路口から出る。中央通りの交差点を渡り、京成上野駅手前の階段を右に上る(前掲公園案内図下やや左)。
 上野は外国人にとって人気の観光地のようで、いつも外国人が多い。京成上野駅手前の階段の踊り場左に蛙の口から水を噴き出すかえるの噴水があり、外国人が記念写真を撮っているのを眺めながら、さくら通りを右=北に上る。中ほどに仕切りが設けられていて、右が上り、左が下りに分けられているので、人の流れはスムーズである。桜はだいぶ花を散らしていて、ピンク色が透け始めている(写真)。

 右に清水観音堂が建ち、手前の枝を円形に丸くした松が目を引く(左写真)。
 1631年、京の清水寺から天海大僧正に千手観世音菩薩像が奉納され、天海大僧正は京の清水寺(崖造=舞台造)に倣い、上野・擂鉢山(=摺鉢山)に崖造=舞台造で清水観音堂を建立する。天海大僧正没後の1694年(徳川5代綱吉の時代)、寛永寺に根本中堂が建てられたとき(現在の噴水広場あたり)、清水観音堂は現在地に移された。
 天海大僧正は、不忍池を琵琶湖に見立て、琵琶湖の竹生島の弁財天を勧請して、不忍池に不忍弁天堂を建立した。現在地に移された清水観音堂の舞台から不忍弁財天を見下ろすあいだに枝を丸くした通称月の松が植えられていて(丸があまりにも見事だから作為ではないだろうか)、歌川広重の名所江戸百景に「上野清水堂不忍ノ池」(前頁右写真web転載)、「上野山内月のまつ」の2枚も描かれるほど話題になったらしい。
 月の松は台風によって倒れてしまったが、2012年に月の松が再現された(前掲写真)。

 桜通りの左に「上野大仏」が安置されている(写真web転載)。1631年、上野の丘(=大仏山)に盧舎那仏坐像が建立された。地震などで倒壊、修復を繰り返し、1923年の関東大震災でまたも頭部が落下、頭部、胴部が解体されて寛永寺に保管されたが、胴部は軍需資源として供出されてしまう。1972年、頭部が大仏山に安置され、「これ以上落ちない」ということで受験生から「上野大仏」として参拝されるようになる。

 上野大仏を通り過ぎたあたりに「上野東照宮 春のぼたん祭」の案内があった。ぼたんを愛でることにして、上野東照宮に向かう。
 1617年、徳川2代秀忠(1579-1632)は、日光輪王寺貫首・天海大僧正のもと、神君家康を勧請する日光東照社を建立する。秀忠は1627年に、東叡山寛永寺境内に上野東照社を建立する。1636年、徳川3代家光(1604-1651)は日光東照社を現在に残る形に建て替え、1651年に上野東照社を現在に残る上野東照宮に建て替える・・1645年、朝廷から東照社に「宮」号の宣下があり、以後、東照社は東照宮と呼ばれる・・。
 推測するに、秀忠の東照社は豪壮だったであろうが急いで建てることに力点が置かれ、対して家光は時間をかけ、徳川の威信を象徴する絢爛さに力点を置いたのではないだろうか。
 大石鳥居で一礼する(写真web転載)。16633年、家康、秀忠、家光に仕えた厩橋藩(のちの前橋藩)主・酒井忠世の寄進で建立され、国の重要文化財に指定されている。
 参道の両側には屋台、露店が隙間無く並び(写真)、大勢の外国人観光客が東照宮参拝の行き帰りに腰を下ろし、飲食、歓談をしている。
 薬医門をくぐった左に「上野東照宮ぼたん苑」の入口がある。1980年、日中友好を記念して開苑され、中国品種、アメリカ品種、フランス品種を含め、110品種、500株以上の牡丹が栽培されているそうだ。入苑料1000円は、維持管理を考えれば妥当であろう。
 ぼたん苑は東照宮参道に沿った細長い敷地で、コの字が向きを変えながら連続する苑路に、島錦、八千代椿、島大臣、連鶴、花王、黄冠、聖代(写真)などが咲き誇っていた。 続く

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