よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日光街道№6幸手(さって)宿~栗橋(埼玉県幸手市~久喜市)

2019-05-31 21:13:40 | 奥州街道(日光街道)

№5からの続きです。国道4号線と合流した後、上高野小学校の信号から旧道に入ります。東武の踏切を渡って突き当りが日光御成道(おなりみち)と合流します。

  

日光御成道は、東京文京区・本郷追分から幸手宿の手前で日光街道に合流するまでの12里(48km)。もともとは、鎌倉時代の奥州へ通じる幹線道路「鎌倉街道中道」でした。

慶長5年(1600)この道を北上して上杉征伐へ向かった家康は、小山宿で石田光成の挙兵を知り、直ちに引き返して関ヶ原の合戦で勝利し、やがて征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。

家康はその遺言により、日光東照宮に祀られました。以来歴代将軍の日光社参が幕府の大切な行事となります。そのための特別な道が「日光御成道」です。

志手橋の所に神明神社があります。宝暦5年(1755)伊勢神宮の分霊を祀りました。境内には、「たにし不動」があります。たにしを描いた絵馬を奉納して祈願すれば眼病に霊験あらたかということです。

 

明治天皇行在所御跡碑:明治天皇は、明治9年(1876)6月奥羽巡幸の際、明治14年7月、同年10月山形・秋田・北海道巡幸の際、29年10月近衛師団の演習天覧の際に幸手を通られ、明治9年には

元本陣の知久家に、あとは、右馬之助町の元名主であった中村家に宿泊しています。

 

幸手市街地に入りました。「幸手(さって)」という地名は、この日光街道を調べていくときに初めて耳にしました。地名の由来を調べてみると、この地に日本武尊が東征の際、「薩手ヶ島」に上陸、田宮の

雷電神社に農神を祀ったという言い伝えが残っており、幸手の地名はその「薩手」に由来するという。その薩手は、大落古利根と中川の間の沖積地に位置します。地名はアイヌ語から解され、乾いた(サッツ)

原野からその名が起こったという。埼玉の地にアイヌ語・・・・・どんな繋がりがあったのでしょうか? 現在人口は5万人。

 

幸手宿は、日光御成道、筑波道の要衝を控え、権現堂河岸には江戸舟運の廻船問屋が軒を連ね賑わっていました。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、宿内家数は962軒、うち、本陣1、

旅籠は、27軒で宿内人口は3937人。

  

 

聖福寺は、日光社参の将軍や例幣使の休息地でした。山門は、勅使門。本堂「将軍の間」の欄間は左甚五郎の作と言われています。

聖福寺の入り口には、芭蕉と曽良の句碑が建っています。

  「幸手を行ば 栗橋の関」(芭蕉)  「松杉をはさみ 揃ゆる寺の門」(曽良) 

  

幸手の一里塚  江戸日本橋より12里目

  

4号線と合流地が「内国府間」。難しい地名ですが、「うちごま」と呼びます。この先には「外国府間」(そとごま)があります。

多分、下野国分寺(栃木・下野)と下総国分寺(千葉・市川)の間に位置するからその名が付いたのではないでしょうか?

  

歩いていると右側の方に権現堂公園があります。三郷の歩友Oさんお薦めの所ですので行ってみることにしました。

関東の桜の名所として有名な幸手権現堂桜堤は、約1000本のソメイヨシノが1kmにわたって咲き誇り、堤の周辺の菜の花とのコントラストは 見事で、花見を楽しむ来園者で賑わいます。

また、6月には色とりどりの紫陽花、9月には真っ赤に染まる曼珠沙華(彼岸花)、1月には白い可憐な水仙が見ごろを迎え、 1年を通して権現堂桜堤をお楽しみいただけます。

行ったときは、もう桜や菜の花が終わっており、係の人がアジサイにの手入れをされていました。

 

  

権現堂堤の先の方に「明治天皇権現堂堤御野立所」があります。権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。 しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、

明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治8年6月に着工し、10月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです。

(現在は国道4号線がその上を通っています。)   明治9年6月に、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られてその労を感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、

費用の一部が下賜されました。   人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです

  

行幸橋を渡るとすぐ左折します。ここからは4号線と並行して歩きます。「筑波道追分道標」があります。この道標は安永4年(1775)日光街道と筑波道が分かれるこの場所に建てられました。

道標には、「左日光道」「右つくば道」「東川つままいばやし」と刻まれています。「川つま」とは、現在の茨城県猿島郡五霞町川妻、「まいはやし」は茨城県古河市前林のことです。

 

  

雷電社湯殿社は、外国府間村の鎮守。

小右衛門の一里塚:江戸日本橋より13里目。小右衛門は、この地の新田を開発した者の名前です。

  

時間も16時を過ぎました。今日はここまでとします。最寄りの駅は南栗橋駅。南栗橋駅は、ここから歩いて15分ぐらいかかりました。

今日(4/29)のGPSです。

  

 


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