よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日光街道№8中田宿~古河宿(茨城県古河市)

2019-06-04 05:52:13 | 奥州街道(日光街道)

№7からの続き

JRの踏切を渡ります。踏切の先には、「中田の松原」があります。「日光街道踏切」辺りから原町入口の間には、寛永7年(1630)古河藩主永井信濃守尚政が植栽した松並木がありました。

「東海道にもこれほどきれいな松並木はない」と言われましたが、戦時中の燃料不足を補うため、全て伐採されてしまいました。近年になって松の再生が行われ、まだ松の木は若いですが、何十年経ったら

昔の松並木に戻るのではないでしょうか?

  

日光街道を歩いて感じるのは、「香取神社」が多く感じられます。九州にはないのではないかな?香取神宮は、千葉県香取市にある元官幣大社。祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)。

古来鹿島神宮と共に軍神として尊崇されました。

十九夜塔:旧暦19日に行う月待ちの記念として建てられた塔。十九夜溝は、女性が多かったそうで安産祈願、子供の無事成長祈願を行っていました。

原町の一里塚:明治時代に取り壊されたが、古河第二高校の校庭に復元されていました。ネット越しに撮ってみました。

  

古河宿に入りました。

古河宿は、江戸時代全期を通じて、古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣は1軒ずつ設けられ、旅籠が31軒

あった。宿内の家数は1,105軒、人口は3,865人であった。将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つであった。

日光社参のときには、従者の数が膨大になるため、通常の宿泊施設だけでは足りずに、城下の武家屋敷や町屋も割り当てられた。宿場は日光街道沿いの台町・一丁目・二丁目・横町

(現在の本町・中央町・横山町の一部)にあったが、渡良瀬川等による河川交通も発達していたことから、古河の町は日光街道から河岸へ向けて折れ曲がった石町・江戸町等にも広がり、T字型に形成されていた。

大名が宿泊する本陣は時期により異なるが、最もよく知られているのは二丁目にあったもので、現在、跡地には「本陣跡碑」がある。脇本陣も二丁目にあった。

本陣は吉沢家が務め、建坪は140坪ありました。

  

  

古河の町は、2016年(平成28年)4月、「古河まくらがの里花桃ツーデーウォーク」で一度歩いていますが、それも渡良瀬川の方で中心部も歩いたのですがあまり記憶にありません。

夕ご飯の時に「丸餃子」をいただきましたが、これってたこ焼きみたいな餃子ですが、本当においしかったです。今でも古河というとこの丸餃子が浮かんできます。

 

   

 

  

16:15今日のゴールJR古河駅に到着。

今日のGPS

   

 


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