よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日光街道№10間々田宿~小山宿(栃木県小山市)

2019-06-07 19:42:36 | 奥州街道(日光街道)

№9からの続きです。間々田の町を歩くと「間々田のじゃがまいた」の文字が目に入ってきます。

              

  

じゃがまいた」というのは、「田植えの時期を前に五穀豊穣と疫病退散を願い行われる。祭りの日には、「蛇がまいた、蛇がまいた、4月8日の蛇がまいた」という、子どもたちの掛け声が町内に響き、竹、ワラ、藤ツル、

シダなどで作った15mもある竜頭蛇体が町内を練り歩く。国選択無形民俗文化財に指定されている。かつては旧暦の4月8日に祭りを行っていたが、祭りの担い手が子どもである為、学校が休みの

5月5日(こどもの日)に行われるようになった」。

祭りの舞台となる「間々田八幡宮」へ。

 

 

境内には、芭蕉の句碑古池や蛙飛込む水の音」が建っています。松尾芭蕉は、奥の細道の旅の二日目に間々田宿に宿泊しました。もちろんこの句はこの場所で読まれたものではありませんが、その見事な筆致により、多くの方が拓本を取りに来られます。 句碑裏には、『地元の名士であった田口久七は、北越遊歴中に病に倒れた際に、当八幡宮を心に浮かべて一心に祈ったところ、病たちまち癒え、無事故郷に帰ることができた。このことを後世に伝えるため、この句碑を奉納した』と書かれています。嘉永6年(1853年)奉納。

力石 :重さ二十八貫(約110Kg)の力石。大正2年に神社から持ち去られた石を、3人の力自慢が友沼宿から一度も地上に下ろさずに持ち帰ったと伝えられています。 このほか、弁天島の松の根元には三十八貫の力石があります

  

じゃがまいた祭りの写真は下記です。朱印もいただきました。

  

再び街道に戻ります。千駄塚古墳は、思川の東側の台地に築かれた古墳です。径70m高さ10mの円墳で2段に築かれ、墳丘のまわりには幅20mの堀がめぐらされています。円墳としては、県内でも指折りの大きさです。古墳の上に浅間神社がまつられていることから、別名浅間山古墳ともよばれています。

西堀酒蔵は明治5年(1872)創業。酒造は国登録有形文化財です。純米酒の「愛 米 魅(あいまいみー)」はいいネーミングですね。

  

安房(あわ)神社:遠い昔千葉県館山市の安房神社を祀る人々の一部が良き土地を求めてここに永住し、神を祀り、粟の栽培をしたと言われています。主祭神は、天太玉命・莵道稚郎子です。

天慶2年(939)藤原秀郷が平将門討伐に際し、戦勝を祈願して守護神とした。小山氏や古河公方の信仰が篤かった。境内の「モミの群落」は市天然記念物です。

 

 

 

天満宮辺りが、小山宿江戸口(南口)でした。

空が暗くなってきた。今日のゴール小山駅まではもうすぐですので少し先を急ぎます。

「小山評定」で有名な「須賀神社」に行ってみます。

小山評定:、徳川家康は、慶長5年(1600)7月24日、上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かっていた途上、下野国小山に本陣を置きました。その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、

急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転西上して石田を討つべきか」を質したのです。これが世に言う「小山評定」です。家康に従う諸将のほとんどは豊臣家譜代の武将で、

大坂に妻子を残してきており、その去就が家康にとっては興亡の境目だったのです。 このとき、尾張国清洲(愛知県)城主の福島正則が家康のために命を投げ出すことを誓い、続いて遠江国掛川(静岡県)城主の

山内一豊が、「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言しました。一豊らの建議が諸将の気持を動かし、家康支持で固まったのです。家康は特にこの時の一豊の建議を、「古来より最大の功名なり」と

激賞しました。 こうして家康率いる東軍は、石田三成討伐のため西上することに決したのです。   そして9月15日、美濃国(岐阜県)関ヶ原に東西両軍約20万の大軍が相まみえて天下分け目の一大決戦が行われ、

東軍が勝利したのでした。関ヶ原の戦の直接の勝因は西軍小早川秀秋らの土壇場での寝返りでしたが、西軍が当初から足並みが揃わなかったのに対し、東軍は結束しておりました。

東軍にこの結束をもたらしたのが「小山評定」でした。 もし、「小山評定」が無かったならば、東軍は結束することができたでしょうか。このようにして見ると家康が勝利を収めることができたのは関ヶ原の戦であっても、

その栄光の道筋は、小山から始まったといっても過言ではないでしょう。 「天下分け目の関ヶ原の戦」と良く言われておりますが、実は、「天下分け目の小山評定」だったのです

   

  

長い参道を戻ってきて再び街道を歩きます。

小山宿】小山は壬生通り、結城道、佐野道が集中する要衝で賑わいました。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、小山宿の宿内家数は、423軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠74軒で

宿内人口は、1392人(男636人、女756人)でした。

 

 

14:52今日のゴール小山駅に着きました。何とか雨には遭わずにすみました。

 

5/1のGPS。日光街道も半分を歩きました。次回は11月ごろ予定します。

  

 


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