よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日田街道(宰府往還・朝倉街道)その3-3朝倉市比良松~朝倉市杷木

2021-04-29 18:47:52 | 日田街道(宰府道・朝倉街道)

その3-2からの続き

恵蘇八幡宮の階段を下りてくると、向かい側に「水神社」があります。その神社の中に古賀百工(こがひゃっこう)の頌徳碑があります。

※古賀百工についての説明⇒ ふるさと人物誌3  堀川の恩人 「古賀 百工」(こが ひゃっこう) | 朝倉市 (asakura.lg.jp)

筑後川の中流域に位置する朝倉

1662~3年(寛文2~3年)に大干ばつが起こり、これを契機として筑後川から水を引くための用水工事が行われ、翌年には150町歩余りの水田を潤す「堀川用水」が完成しました。

それ以降も、改良改造が加えられましたが、水田面積の増加にともない、堀川用水のかんがい能力は限界に達して、堀川用水の恩恵をあずからないところでは、常に干ばつに悩まされることとなり、

年貢米も納められない厳しい状況となっていました。

下大庭村(現在の朝倉町)庄屋古賀百工は、解決策として、堀川用水の拡張を藩に願い出ます。事前に提灯やタライを使った高低差等の測畳を行い、綿密に練った計画をもって願い出たことから、

藩もこれを認め、5年後には「新堀川用水」は完成しました。

百工70才の時、根本的に水害、干害から住民・土地を守るためには、筑後川取入ロの全面改修が必要であるとの思いから、筑後川本流山田堰の大改修の計画を立てます。

しかし、これにも難題がありました。湿害を被るとして、工事に反対の農民もいたのです。百工は、日夜全力を挙げて説得にあたりました。

まさに命をかけてこの事業を実現しようとする百工の思いは藩に届き、ついに1790年(寛政2年)完全な山田堰は完成することとなりました。

百工は山田堰の完成後8年経った1798年(寛政10年)81才で亡くなりますが、その生涯は、かんがい工事に全てを尽くしたものでした。(農林水産省HPより)

 

  

 

 

この山田堰をアフガニスタンで応用したのが、「ペシャワール会」の中村哲医師です。

2019年12月に亡くなった中村哲医師は2010年に山田堰をモデルとした取水堰をアフガニスタンに築造しました。現在では1万6500haの荒野を農地に変え、アフガニスタンの復興支援の

灌漑用水モデルとして活用されています。

山田堰は、水流に対して石を斜めに敷き詰めた、現存する全国唯一の「傾斜堰床式石張堰」。全国の堰を訪れ山田堰にたどり着いた中村医師は、何度も山田堰を視察し研究を重ね、

2010年に7年の歳月をかけて全長25.5kmのマルワリード用水路を完成させました。さらに、2019年にも山田堰を徹底的に模倣した堰を完成させています。

中村医師は、世界各地で「山田堰」について発信し、堰の保全や知名度アップに貢献されました。今後も、中村医師の功績とともに、山田堰の技術は世界の人々に希望を与え続けます。(朝倉市HP)

水公園から100mぐらいの所に今年3月に「中村哲医師の記念碑」が完成しました。

 

 

 

山田堰から再び国道に戻ります。大分自動車道の高架下を通り、本陣橋の信号から左折します。ここから志波に入ります。本陣橋というと、昔、志波は宿場町だったのでしょうね。

福岡県は日本一甘柿(富有柿)の産地です。なかでもここ志波で作られた「志波柿」は、トップクラスです。柿畑が南斜面にあり昼と夜の寒暖差が激しいことから富有柿の栽培に適しています。

 

歩いていると柿畑が見えてきます。秋には、美味しい柿が店頭に並ぶでしょう。

 

杷木町志波の町並みです。

 

志波の町では、各町内を紹介するパネルが付けられています。

  

光宗寺が小石原道との追分です。日田街道はここから右に進みます。

 

原鶴温泉入口で国道に再合流。

 

平成ビューホテルの看板を左折。左折すると「大膳楠」があります。

「黒田騒動」の主人公 栗山大膳

黒田52万石を救ったとして知られる栗山大膳にまつわる言い伝えがあります。

栗山大膳は、関ヶ原の戦いで活躍した黒田長政が筑前の国に入ったおり、筑前六端城の一つ左右城(麻低良)の城代となった栗山備後利安の嫡男。

昔、この楠木の側に大きな池があり「大亀が住んでいました」

村人から「大亀が住みついて旅人を襲うので退治してほしい」、一方の村人からは「村の守り神だから殺さないで」と頼まれます。

ある日現場に出向いた大膳は、池の中央で甲羅を干している大亀が長い首を出し睨みつけるのを見て、鉄砲で撃ち殺してしまいました。

とたんに黒雲が一面を覆い、激しい雨が降り出し地面が揺れて高山の半分が崩れ落ちてしまいました。

そのがけ崩れで池も付近の民家も埋もれてしまったけれど、楠木は無事に残りました。

地元の人はこの楠木を「大膳楠」と呼び、がけ崩れを「大膳崩れ」と呼んだそうです。

現在の楠木は、その後に火災で焼失した木の根元から生えた木が大きくなったものとのことです。「杷木町史から」

  

旧道から国道を見ると道の駅原鶴の所にたくさんの鯉幟が泳いでいます。

 

街道は、久喜宮(くぐみや)に入ります。久喜宮も昔は宿場町だったとか?

 

愛宕神社を過ぎると、旧道沿いにお寺が密集しています。

 

 

 

歩いていると、左側に旧久喜宮小学校があります。2017年の集中豪雨の際は、ここに松末小、志波小、久喜宮小、旧杷木小が仮校舎になっていました。

この4つの小学校は、2018年統合して「杷木小学校」になり、杷木中学のそばに移転しました。

この旧久喜宮小学校跡地には、朝倉市の防災拠点施設に生まれ変わりました。校庭だったところは、集中豪雨で家を失った方の住宅になるそうです。

 

浜川の信号で国道と合流します。そしてガソリンスタンドの所から右の旧道を歩きます。

 

 

昭和橋の信号を直進して杷木神社に向かいます。杷木神社の祭神は、伊弉諾尊、伊弉冊尊、大己貴命、武甕槌命。

由緒を見てみると、第26代継体天皇の御代の筑紫の豪族磐井が反乱を起こしたときに朝廷では鹿鹿火大連(あらかいのおおむらじ)に討伐を命じたが、磐井があまりにも強力なため

苦戦に陥った時、この神社の前に幣帛を捧げ、祈願されてからは、草木の風になびくが如く平定することが出来たといわれている。

珍しい行事としては、春秋2回行われる鎮祭があります。日本の神々は、10月に出雲大社に神集いがあり、それに行きますが、杷木神社の祭神は、それには参加せず、一年中氏子の

安全と方策を守って働き続けているので年2回はゆっくりと休まれることになっています。これが鎮祭で大きな声を出すことは勿論、歌舞音曲を停止、下肥のにおいをさせず、

生の木や竹を切ることも禁じられています。(杷木神社由緒)

この神社には、狛犬ならぬ狛ウサギがあります。大己尊命(別名:大国主命)が助けた兎(因幡の白兎)が眷属(けんぞく)として仕えた事から、兎が祀られているとのこと。

 

今回は、この杷木神社までとします。朝、杷木からバスで30分かけて甘木迄行きましたが、甘木から杷木迄は歩いて5時間少々かかりました。