よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

4月例会「福岡の政治家の名残を訪ねる」ウォーク(福岡市中央区)

2021-04-04 17:50:23 | ウォーキング

4/3(土)ふくおかウォーキング協会4月度例会は、「福岡の政治家の名残を訪ねる」ウォークでした。

現、菅内閣の福岡出身の閣僚が、麻生副総理、武田総務大臣です。

その福岡には明治、大正、昭和と激動する世界の中にあって旧福岡藩士が中心となって、日本の独立を守り、アジアの開放を目指して活躍した※玄洋社が自由民権運動の中で明治12年(1879)

誕生しました。以来昭和21年(1946)解散まで67年にわたり福岡を本拠地として活動を続けました。現在、中央区舞鶴のドコモビルの所に玄洋社跡地にお記念碑が建っています。

「玄洋」という名は、玄界灘の事で古くは、玄界洋とも呼ばれ、これを略して玄洋と呼ばれていました。

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集合場所は、地下鉄西新駅横の西新緑地。参加者48名。

西新緑地には、※頭山満が家の庭に幼少の頃、植えたクスノキがあります。その楠も大きく育っています。

その後方には、筒井條之助記念碑が建っています。筒井條之助は、頭山満の甥で西新4丁目で生まれ、九州日報社(現西日本新聞)の記者として多方面で活躍、大正9年(1920)、福岡市との

合併に尽力、その功労を記念して記念碑が建てられました。

   

9:30スタート。

 

先ずは、金龍寺へ。

ここには、政治家ではないけど江戸時代の本草学者、儒学者「貝原益軒(かいばらえきけん)」の墓所があります。

貝原益軒は、福岡藩士。黒田藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれる。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。

1648年(慶安元年)、18歳で福岡藩に仕えたが、1650年(慶安3年)、2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなる。1656年(明暦2年)27歳、3代藩主・光之に許され、

藩医として帰藩。翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道佑らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が来訪した。7年間の留学の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。

藩命により『黒田家譜』を編纂。また、益軒の上申から黒田藩が1688年(元禄元年)に『筑前国続風土記』の編纂を認めている。

1699年、70歳で役を退き著述業に専念。著書は1712年(正徳2年)に上梓した『養生訓』を始め、生涯に60部270余巻に及ぶ。 退役後も藩内をくまなくフィールドワークして『筑前国続風土記』の編纂を続け、1703年(元禄16年)に藩主に献上している。

1714年(正徳4年)に没するに臨み、辞世の漢詩2首と倭歌「越し方は一夜ひとよばかりの心地して 八十やそじあまりの夢をみしかな」を残している。

  

金龍寺の向かい側には、浄満寺です。江戸時代に志賀島で発見された「金印」を鑑定した「亀井南冥(かめいなんめい)」の墓所があります。

続いて鳥飼八幡宮へ

鳥飼八幡宮には、戦前の政治家「中野正剛(なかのせいごう)」の銅像があります。中野正剛は、明治19年2月12日福岡市に生まれる。早稲田(わせだ)大学卒業。東京朝日新聞記者を経て

1920年(大正9)から衆議院議員に連続8回当選。犬養毅(いぬかいつよし)を尊敬し革新倶楽部(くらぶ)に入ったが、その後、憲政会、立憲民政党を経て、1932年安達謙蔵(あだちけんぞう)らと

国民同盟を結成した。満州事変のころから国家社会主義を信奉し、1933年(昭和8)思想団体東方会を組織、1935年国民同盟から離脱、1936年に東方会を政治結社に改組した。

1940年大政翼賛会常任総務となったが、同会に失望して翌1941年辞任。戦時刑事特別法改正を契機として東条英機(とうじょうひでき)首相と激しく対立し、『朝日新聞』1943年元旦(がんたん)号に

「戦時宰相論」を寄稿して東条を激怒させた。同年10月21日、直接行動で倒閣を図ったとされた東方同志会事件で逮捕され、25日身柄を警視庁から憲兵隊に移されたが、

小林健治裁判官が勾留(こうりゅう)を却下したため26日釈放された。しかしその深夜、日本刀で切腹自殺を遂げた。自殺の原因はいまも謎(なぞ)に包まれている。(コトバンクより)

  

鳥飼八幡宮の隣は、平野神社。幕末の志士「平野國臣(ひらのくにおみ)」を祀っています。「我胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」は、彼が詠んだ有名な和歌です。

  

黒門の信号を左折。

   

鳥飼八幡宮に銅像があった「中野正剛」の屋敷跡です。その近くには、貝原益軒の屋敷跡です。年代が違いますので二人が接触したことはありませんが、同じ町内でした。

  

荒戸町から大濠公園へ。

  

NHK福岡放送局前の美術館入口には、「廣田弘毅(ひろたこうき)」の銅像があります。廣田弘毅は、作家城山三郎の「落日燃ゆ」のモデルになりました。

廣田弘毅(こうき)は、福岡県出身者で初めて総理大臣になった人物です。天神三丁目の細い路地に「廣田弘毅先生生誕之地」と書かれた石碑が建っていますが、弘毅はこの地で、

働き者の石工・廣田徳平とタケの長男として生まれました。この石碑は、出光石油の創業者・出光佐三(さぞう)氏の揮毫によるものです。

廣田弘毅は、少年時代から頭山満の玄洋社に出入りし、その影響を受けました。

廣田弘毅は大名小学校、中学修猷館、第一高等学校、東京大学へと進み、外務省に入省します。アクロス福岡の前に水鏡天満宮がありますが、南側の鳥居に掲げられた「天満宮」の文字は、

丈太郎(弘毅の幼名)が書いたものです。外務省に入省した廣田弘毅は駐ソ連大使や外務大臣を経て、昭和11年3月、2.26事件の後を受ける形で総理大臣に就任します。

しかし、軍部の横暴に抗しきれず、翌12年1月23日に総辞職します。ちなみに文化勲章は、彼が総理在任中に創設したものです。

昭和12年6月に発足した第1次近衛文麿内閣で、再び外務大臣に就任。同年7月7日、廬溝橋での一発の銃声により日中戦争となり、その後、昭和16年に第二次世界大戦に突入します。

終戦後、極東国際軍事裁判で広田弘毅はA級戦犯として起訴されます。平和外交を希求してやまなかった廣田弘毅ですが、一切自己弁明をすることなく、昭和23年12月23日、

巣鴨刑場の露と消えたのです。(福岡市中央区HPより)

  

福岡城址に入ります。

 

  

赤坂から警固の方に行く途中には、「緒方竹虎(おがたたけとら)」の生誕地があります。

緒方竹虎は明治21年、山形県に生まれました。竹虎の祖父は有名な蘭学者で、緒方洪庵と義兄弟でもありました。幼少の頃に福岡に移り住み、修猷館中学へ進みます。

そこで、親友の中野正剛と出会いました。その後、社会人となった竹虎は、33年間にわたりジャーナリストとして活躍します。25才の時、「大正」という元号をスクープしたことでも有名です。

昭和19年、56才で新聞社を退職した竹虎は、政界へと進出します。同27年には、衆議院選挙で福岡1区(当時)から出馬し、当選を果たしました。人格や見識が高く評価され、翌年には

早くも副総理に就任します。昭和30年に保守合同を成し遂げた後、次期総理候補と目されていましたが、残念ながら同31年、竹虎は病気のため68才で急逝しました。(福岡市中央区HPより)

尚、女性国連難民高等弁務官だった「緒方貞子」さんは、三男緒方三十郎氏の奥方です。

 

今回の例会は、寄り道が多く、時間もかかっていますので、地下鉄赤坂駅で仮ゴールとなりました。

頭山満他、玄洋社の墓地は、東区「崇福寺」にあります。廣田弘毅の墓地は、聖福寺です。

  

今日のGPSです。