☆ はじめに ☆
5年前から街道歩きをしていますが、一昨年(2014年)11月に長崎・出島~京都・東寺まで踏破し、もう街道歩きは、これまでと思っていましたが、
また街道歩きの虫が騒ぎだし、東海道を歩くことにしました。折角長崎から京都まで歩いていますので私の東海道のスタートは、京都から日本橋を目指します。
東海道は、江戸時代の徳川家康が整備した五畿七道のうち、東海道にある53の宿場を指します。当時の浮世絵や和歌の題材にも取り上げられた東海道は、
現在までに多くの人に旅された由緒ある街道です。
東海道は、公称492km。道草が好きな私たちは、さて、何キロかかるでしょうか?
☆ スタート ☆
3/1 博多発6:32のぞみで「おとなび」を使い新大阪へ。途中、山口と広島間が大雪の為、徐行運転となり新大阪着は、20分遅れ。
新大阪から在来線で京都へ。更に地下鉄で京阪三条へ。三条着10:30。
弥次・喜多さんの銅像前で記念写真。
10:45スタートです。
鴨川に架かる三条大橋を渡ると右側に「高山彦九郎先生皇居望拝之像」があります。
高山彦九郎(1747~1793)は、群馬県太田市出身。18歳の時以来、前後5回上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように京都御所に向かって拝礼した。
明治維新を成就した勤王の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだといわれる。
彦九郎のことを調べてみると、我が福岡にも何回か来ており、最後亡くなったのが、久留米です。
久留米といえば、幕末の尊王攘夷派の「真木和泉」がいますが、ひょっとして交流があったのでは?と思いましたが、彦九郎と真木は、年代が違いますね。
鴨川の畔には、「花の回廊の碑」がありました。枝垂れ桜が有名だそうです。あとひと月もすればきれいでしょうね。
歩いていると、民家の屋根に雪が少しですが、残っています。
東山の駅を過ぎ、橋を渡り、すぐ右折。しばらく歩くと「明智光秀首塚」があります。今日最初の道草です。
街道に戻ります。ユースホステルの片隅に「坂本龍馬・お龍結婚式場跡」の石碑が建っています。
坂本龍馬とお龍は1864年8月初旬、内々の結婚式をしました。その場所は当時の青蓮院の旧堺内です。この場所が選ばれたのは、お龍の父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためといわれています。
京都における龍馬とお龍の重要史跡として、2009年に遺跡が建てられました。
1年半ぶりの街道歩き、地図を片手にウロウロきょろきょろして歩いていますが、なかなか先へ進みません。左側に平安神宮が見えてきました。
3年前、JWA京都ウオークに参加した時の会場です。
蹴上発電所を過ぎると「ねじりまんぽ」という隧道があります。隧道の上に書かれている文字は、「想奇観雄」????あとで調べてみると、「雄観奇想(ゆうかんきそう)」と読むそうです。
南禅寺には、琵琶湖疏水が通っています。琵琶湖疏水について、調べてみると、兵庫県養父市のHPに記されていました。
琵琶湖疏水(びわこそすい)は、明治になり衰退していく京都市の産業を復興させるために、当時の京都府知事であった北垣国道さんが計画した事業です。伊藤博文や三条実美などの中央政府の要人と連絡を取って実施しました。
この疏水の事業の一貫として、日本で初めての水力発電所も建設されました。疏水は、大阪・琵琶湖間の舟運、農業・工業用水、防火用水そして飲料水と多目的に利用され、京都の発展に大きな役割を果たしました。
琵琶湖疏水の一部として作られた、船を台車にのせて移動させるシステムであるインクライン(傾斜鉄道)は平成8年に国指定の史跡となりました。このインクラインの基礎には、三条通から南禅寺に行くためのトンネルが作られています。
このトンネルに北垣国道さんが書いた文字が掲げられています。 アーチ形に煉瓦を積んだトンネルの上部に、扁額の形で文字が書かれています。文字は、篆書(てんしょ)による「雄観奇想」(ゆうかんきそう)という文字です。
琵琶湖疎水が完成した姿を「雄観」という大変すばらしい景色として讃え、電力、水運、上水道に利用する水の多目的な利用を「奇想」という思いで文字に書いたのでしょう。
「雄観奇想」という意味は、辞書などでみると「優れた眺めと思いもよらない考え」という意味になります。琵琶湖から水を引くという疏水事業の完成を祝福して、その思いを感慨深く示したものでしょう。
この疏水事業によって日本で最初の水力発電所が京都市につくられ、日本で最初の電車が京都市を走りました。そしてこの疏水の水は、現在も京都市民の飲料水として生活を潤しているだけでなく、
水力発電・農業用水・工業用水、そして防火用水などに利用されています。 (以上養父市HPより引用)
そういえば、2年前11月、西国道踏破の翌日に南禅寺の紅葉を見学しました。南禅寺には、「南禅寺水路閣」や「インクライン」などがありました。
その先の右側には、蹴上浄水場です。斜面にはたくさんのツツジが植えられ4月ぐらいには満開のツツジで綺麗でしょう。
このあたりが、「日ノ岡峠」。蹴上浄水場を過ぎると右側に「車石」があります。説明文によると、
平成9年10月、地下鉄東西線開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し、三条通りの4車線化及び歩道の整備事業を実施した。本事業の完成を記念して
三条通りの舗石として敷設されていた車石を利用し、往年の牛車道模した広場を設置した。
車石を過ぎると街道は、斜め右に入ります。道は狭く、主要道路のう回路になっているのか次から次に車が来ます。そのたびに道路の横側に避けます。
このあたりに一里塚があるはずですが、見つけることができませんでした。
約30分で大通りに出ます。出ると「天智天皇陵」があります。折角だから行ってみることにしました。
天智天皇というと中大兄皇子で645年に大化の改新を行いました。子供の頃歴史で習いましたね。
街道は、JR東海道線を潜り、京都薬科大学の所から左折します。しばらく歩くと民家の玄関口に「おたふく面」が付けられている家が何軒かあります。
調べてみてもわかりません。
山科駅前に着きました。「明治天皇御遺跡」の石碑を発見。
説明文によると明治元年(1868)、明治天皇が京都から東京行幸の時、奴茶屋があったこの地で休憩されたという。
その先には、山科三条商店街の方が建てられた石碑と「車石」の説明があります。
石碑には、「京三条はしまで1里半、大津札の辻まで1里半」と書いてます。丁度ここが京と大津の中間点です。
「車石」は、昔の東海道の逢坂山峠と日ノ岡峠は、雨が降ると道ぬかるんでしまい、多くの物資を積んだ牛車にとって通行が困難でした。
京都の心理学者「脇坂義堂」は、文化2年(1805)に1万両の工費で大津から三条大橋にかけての約12kmの区間に牛車専用通路として轍(わだち)を刻んだ花崗岩の切り石を敷き並べました。
轍の中に車輪を入れることにより牛車の通行は大変容易になりました。この石を「車石」と呼んでいます。
然し、個人の献金で1万両でしょうか?現在の価値で3000~5000万円です。若し個人の献金で行ったとしたら凄いですね。
時間も13時を廻りました。久しぶりの街道歩きで疲れました。山科駅前に食べる所がありましたのでそこに入ることにします。