よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№4 (草津宿~石部宿)

2016-03-14 12:39:03 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3/3(木)7:30ホテル出発。8時の気温は、8℃、今日はいい天気です。

昨日から気になっていた浜大津駅前の「三井寺力餅」、お土産に買おうかと思いましたが、日持ちがしないということで今日のおやつに

5本入りを買ってみました。

  

8:30昨日ゴールした草津宿追分に到着。宿場町を歩くと草津川堤防に出てきます。ここには、大きな燈籠を兼ねた道標が建っています。

高さは、3,9m、日野の豪商中井氏の寄進で文化13年(1816)に建てられました。今年で200年ですね。

道標には、左:東海道いせ道、右:金勝寺志がらき道。

   

栗東市に入りました。(栗東市のマンホールは、メジロとキンセンカ)

  

歩いていると「老牛馬養生所跡」の碑がありました。説明文によれば、栗太郡志等に 「この施設は和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て

その残酷さに驚きこれから老牛馬であっても息のある間は打はぎを止めるようと呼びかけ、天保12年4月、当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから

ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された。」と記されている。」

栗東というと、JRAのトレセンがあります。私感ですが、栗東の方の「おもいやり」がトレセン→栗東となったのでしょうか?

  

岡という集落に来ました。

岡という所が、昔の目川だったのですね。広重の石部宿の浮世絵には、目川の田楽が描かれています。

目川は、昔、草津宿と石部宿の間(あい)の宿でした。元いせやは、目川の立場でした。

ここで出された食事は、地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となりました。

   

   

田楽とは、室町時代に豆腐に味噌を塗り竹串を刺して熔るという料理が流行しました。その料理が田植え前に豊作を祈り、白い袴を履いて高足に乗って田楽踊りをする

田楽法師の姿に似ているということからこの料理を「田楽」と呼んだそうです。(ヤマキ酒店菊の水由来から)

   

上鈎(まがり)の交差点の近くに、九代将軍「足利義尚公」の陣所跡があります。足利義尚は、寛正6年(1465)8代将軍足利義政と正室日野富子の二男として生まれました。

滋賀県百科事典では、室町幕府第9代将軍足利義尚(1465~89)は、戦国大名佐々木六角高頼討伐のため動座し、鈎(まがり)(現、栗太郡栗東町)に陣所を設営した。

当時近江国は台頭する六角氏勢力に掌握され、山門領や幕府近習・奉公衆などの所有する荘園への押領ははなはだしく、幕府の権門体制を揺がすものといっても過言ではなかった。

1487年(長享元)10月4日将軍義尚は諸将を動員し高頼を討つべく近江国栗東郡の安養寺(あんようじ)に陣をはった。これに対して六角氏は、わずかな戦闘を試みただけで、

早々と甲賀(こうか)に逃亡した。同年10月27日、義尚はさらに陣を安養寺北西1kmの鈎にある真宝館にうつした。ここは山徒真宝坊の居館で、幕命により召し上げられたものです。

本丸・二の丸・三の丸から成り、堀・土手に囲まれていたが、しょせん寺域に手をくわえたものであったため堅固たる城郭とはいえなかったが直臣や有力守護を近辺におき、

みるまに寒村は小幕府と化した。ところが元来義尚は病弱なうえアルコール中毒であり、暗愚にまかせ連日遊興にふけったため、ついに25歳の若さで、鈎の陣所に没した。

現在、陣所跡とされる場所には永正寺(えいしょうじ)が建ち、栗東町指定史跡となっている。一説には、現鈎蓮台寺が陣所跡であろうとのの説もある。」

   

手原の町に入ってきました。町を歩いていると、「東経136度子午線」の碑が建っています。

  

  

手原駅の近くに「手原稲荷神社」があります。祭神は、稲倉魂神、素戔男尊、太市比売神を祀っています。

歌舞伎で今でもよく上演される演目の「源平布引瀧」の第三段「九郎助主家の段」で登場人物が手を産み落としたとして「今よりここを手孕(てはらみ)村と名づくべし」というおちが着く場面に

出てくる手孕伝説の手原村に鎮座する稲荷神社です。

東海道名所記には、「左の方に稲荷の祠あり、老松ありて傘の如くなり、笠松の宮という」と記され、江戸時代は笠松でも有名でした。

 ※ 注)手孕伝説:女性が身体の一部に男性の手が接触したのが原因で孕み片手を産んだという伝説。

手原村の地名は、この伝説から付けられたのですね。

 

 

手原の町を歩きます。旧家が多く、車の通行も少なく安心して歩けます。

  

ふと、旧家を覗いてみると、

小野村でも

六地蔵村でも

各その家の昔の屋号を玄関に架けていました。この東海道沿いにこのような商家が並んでいたのですね。

注)葉山村は、現在栗東市ですが、手原、小野、六地蔵は、旧葉山村でした。

  

ムカデ伝説の三上山が見えてきました。三上山は、その姿から「近江富士」とも呼ばれています。

六地蔵の「一里塚」です。

  

更に進むと「旧和中散本舗」が右側にあります。和中散とは、胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の道中薬として重宝され、その始まりは元和元年(1615)、本家是斎家(大角家)が、

京都の名医半井ト養(なからいぼくよう)の娘をめとって、和中散や小児薬の奇妙丸の製法を伝授され、大きな梅樹の木蔭で旅人に売るようになったと伝えられています。

また、慶長16年(1611)、徳川家康が野洲郡永原陣屋で腹痛を起こした時、典医が和中散を勧めたところ、たちまち快癒したとあります。

また、この家の当主大角家の庭は、国指定名勝に指定されています。予約していれば見学できたのですが・・・・・・

  

六地蔵の地名の由来となった「法界寺」です。

昔は、この寺に六地蔵がありましたが、現在は、国の重要文化財になっている「木造地蔵菩薩立像」が一体安置されています。

   

地蔵尊を出ると、地元の方から是非「新善光寺」に行ったらいいと言われ、またまた寄り道です。(笑)

  

    

時刻は、11:30を過ぎました。小腹も空きましたので、ここで今朝買った「三井寺力餅」を頂きます。黄粉の中にお餅が入っており、口いっぱいに

さわやかな甘さが広がります。美味しいです。日持ちがすれば、お土産に買って帰るのに・・・・・・・

街道は、名神高速のガードに近づきます。事前に地図で確認していたのですが、街道は、直進したり、ガードから右折したりしています。

調べてみると、直進すると野洲川沿いの道、右折すると堅物の代名詞、「石部金吉」の由来になった「旧石部金山」を通ります。

昔、野洲川が氾濫すると野洲川沿いの道は通れなくなり、う回路として石部金山の廻る道路が出来たそうです。

私達は、その石部金山の方を通ります。

  

このあたりから、湖南市に入ります。ゴーシュウの工場の先で下道と合流します。

このあたりには、元禄二年(1685)山の中を通過するために安全を願って五軒の茶屋が石部宿から移転してきたそうです。

  

石部宿に入ってきました。西縄手には、東海道五十三次の図が掛けられていました。

 

石部宿は、本陣2軒(小島本陣、三大寺本陣)、脇本陣0、旅籠32軒を含む458軒が両脇1,6kmの間に建ち並んでいました。人口は、約1600人。

「鈎の手道」という案内板があります。見てみると、「街道が鈎の手に2カ所設置されていて敵がむやみに侵入しにくい構造・・・・・」

確か、長崎街道武雄宿でも同じような構造でした。

  

宿場の中ほどに「小島本陣跡」があります。

  

本陣跡近くに「石部宿休憩所」がありましたのでそこで休みます。

休憩していると、ここには、東海道ウオーカーがやって来られます。私達が入った時には、東京から歩かれている女性がいらっしゃっていました。

この方、熊本の出身だそうです。私の知っている熊本弁でお話ししましたが、わかってもらえたかな・・・・?(笑)

  

  

  

吉姫神社(女神様)は、石部西の吉御子神社(男神様)と対の関係にあります。社蔵の木造狛犬は南北朝時代の作という。境内には万病に効くという宮前の湧水が湧いています。

  

先ほどからお腹が空いてきており、食堂か,コンビニを探しますが、見つかりません。

いつもは、テーブルロールのパンをリュックに忍ばせているのですが、今日に限って用意しませんでした。腹減った~

街道は、三雲地区に入りました。

 

湖南市には、3つの天井川がありました。そのうちの一つが「家棟(やのむね)川」ですが、昭和54年(1979)家棟川の平地化に伴い廃止されました。

  

現存する隧道(天井川)は、由良谷川と大沙川です。いずれも総石造りです。

  

「夏目一里塚」このあたりが夏目立場と言われ、何軒かの茶店があり、名物トコロテン、銘酒桜川を売っていました。

  

 

大河ドラマ「真田丸」に出てくる「猿飛佐助」の里という幟が立っています。

僕等が子供のころ、猿飛佐助は、ヒーローでした。架空の人物と思っていましたが、実在するとは・・・・・・

司馬遼太郎説によると、佐助は、甲賀五十三家で吉永山に城館を構える三雲城の「三雲新左衛門賢持の子、三雲佐助賢春である」。子供のころは、三雲城で剣術や

忍者の修業をしていたそうです。

  

大沙川の堤防には、大きな杉の木があります。「弘法杉」と言って樹高26m、周囲6m、樹齢750年とかなりの大きさです。もともとは、2本あって並行していましたが、

洪水の為に堤防が決壊し1本は倒れたそうです。

   

それにしてもお腹が空いてきました。今日は、水口まで行く予定でしたが、もう体力が持ちません。(三井寺の力餅を食べたのですが・・・・・)

三雲駅でゴールしたいと思います。

  

15:20JR三雲駅に到着。駅前に酒屋さんがありましたが、閉まっており、自販機でビールを買いました。汗をかいた後のビールは格別ですね。

昔の人は、京から出発の時、「京立ち石部泊まり」と言って一日に約40kmぐらい歩いたそうです。

それに比べ私達は、3日間で石部までです。次回はもう少し歩いてみたいです。

東海道のチェックシートです。

今日3/3のGPSです。