よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№2 (山科~大津宿)

2016-03-08 10:13:06 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

№1からの続きです。

昼食をとり再び街道へ出発します。歩いていると「毘沙門堂」の案内板があります。徒歩15分ですので行ってみることにしました。

毘沙門堂は天台宗五箇室門跡のひとつで、高い寺格と鄙びた山寺の風情を伝える古刹である。ご本尊に京の七福神のひとつ毘沙門天を祀ることからこの名がある。

創建は大宝三年(703)文武天皇の勅願で僧行基によって開かれた。当初は出雲路(上京区・御所の北方)にあったことから護法山出雲寺といった。その後、たび重なる戦乱から苦難の道をたどり、

寛文五年(1665)、山科安朱の地に再建。後西天皇の皇子公弁法親王が入寺してより門跡寺院となった。伝教大師が唐より将来された鎮将夜叉法という行法は、

天台五箇大法のひとつとして当門跡だけに伝わる秘法である。

ご本尊の毘沙門天は、天台宗の宗祖で比叡山を開かれた伝教大師のご自作で、延暦寺根本中堂のご本尊薬師如来の余材をもって刻まれたと伝えられる。商売繁盛・家内安全にご利益があり、

一月初寅参りには福笹が授与され善男善女で賑わう。

境内の諸堂は近世の門跡寺院特有の景観を伝える貴重な遺構であり、その多くが京都市の有形文化財に指定されている。山科盆地を見おろす山腹に位置し、

春の桜、秋の紅葉は知る人ぞ知る京の名所でもある。(毘沙門堂HPより)

枝垂れ桜の名所ということですが、桜の方は、まだまだ先の様です。境内で朱印帳を買い、早速朱印をいただきました。この道中朱印帳を持っていきたいと思います。

   

     

 毘沙門堂から戻ってくると「琵琶湖疏水」がありました。この水路が蹴上まで続いています。

旧街道に戻ると、雪が降ってきました

  

途中、「四宮」の地名の由来になった「諸羽神社」がありましたが、雪の為パス。徳林寺・山科地蔵で雪宿り??しました。

山科地蔵・徳林庵は、旧東海道に建つ寺院です。地蔵尊は、小野 篁作で、852年に作られた六体の地尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にありました。

後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年街道の出入り口6か所に一体ずつ分置されました。

徳林庵は、1550年開創。境内には、人康親王、蝉丸供養等、荷馬の井戸、飛脚の釜などがあります。

江戸時代は、ここで荷物の受け渡しが行われたのでしょう。井戸には、大手運送会社のマークがついていました

 

  

雪も少し止んできましたので再び出発します。街道は、滋賀県大津市に入りました。プレスコの横には、「三井寺参道」と「小関越」の石碑が建っています。

小関越は、小関峠を越えて大津札の辻で逢坂山ルートの旧東海道と合流する約4kmの道程。中世以降の北陸道の一部だそうです。

東海道・東山道が通る逢坂の関を大関と呼ぶのに対し、小関と呼ばれました。その先の右側には、「車石」の説明版があります。

   

1号線の歩道橋を渡り、旧街道へ。

  

髭茶屋追分には、道標があります。「右、京みち、左、ふしみ」。右は、東海道、左は、京街道です。追分とは、馬子が馬を追いかけることからきたものです。

東海道のことを57次という説もありますが、これは、ここから伏見、枚方を経て大阪高麗橋までのことを言います。

徳川家康は大名が京都で公家と接触するのを禁止したため、大名行列は髭茶屋で京へ向う東海道と分れ、京を通らずに大坂へ向うことになりました。

髭茶屋というとこの追分あたりに髭面の人が営んでいた茶屋があったからでしょうね。

道標の反対側には、「柳ハ緑、花ハ紅」と書いてます。以前車がぶつけたのでしょうか、鉄で補強されていました。

  

また、雪が降り始めました。これから逢坂峠に入ります。

名神高速のガード下を潜り、国道1号線と合流します。1号線の横には、京阪電鉄京津線。

  

月心寺にやってきました。このあたりに一里塚があるのですが、見つけられませんでした。

月心寺は、江戸時代、名水「走井の清水」で有名な茶店で今でもその名水が湧き続けているそうです。庭園も素晴らしいそうですが、残念ながら工事中の為立ち入ることはできませんでした。

  

街道は、この先の歩道橋を上って行きます。渡るとすぐ百人一首「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」の歌が飛び込んできます。

走井餅は、現在石清水神社の前に店舗があります。

     

広重の絵には、茶店の前で走井の清水が湧き出ています。

蝉丸神社(村社)の由来を見てみると、

当社は、天慶9年(946)蝉丸を主神として祀っております、蝉丸は、盲目の琵琶法師と呼ばれ、音曲芸道の祖師として、平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され、当宮の免許により興行したものです。

その後万治元年(1660)現在の社が建立され、街道の守護神、猿田彦命、豊玉姫命を合祀してお祀りしております

  

うなぎで有名な老舗「かねよ」を通ります。ここは、お庭もきれいだそうです。入ってみたい気もしましたが、お昼にたくさん食べましたのでまだお腹が減りません。

  

   

逢坂の関は、東海道と中山道が逢坂関を越えるため、交通の要となる重要な関でした。平安中期以後は、不破関、鈴鹿関とともに三関の一つでした。

  

石碑の所では、工事中の為、押しボタン信号で向かい側にわたります。先へ行くと左側にまた、「蝉丸神社上社」が見えてきます。蝉丸神社は、かねよの前が村社、ここが上社、

そしてこれから行くのが下社と3つの神社を総称して蝉丸神社と呼んでいるそうです。

  

安養寺の所を斜左に渡ります。ただ今16時ちょうど。気温は2℃を指しています。寒いです。

左を見ると踏切の向かい側に神社があります。これが3つ目の蝉丸神社下社、通称「関蝉丸神社」です。

  

入口の石碑には、「音曲芸道祖神」と書かれています。蝉丸は、琵琶の名手

  

  

謡曲「蝉丸」のあらすじは

延喜帝(醍醐天皇)の第四皇子蝉丸は盲目として生を受けたが、ついに父帝の勅命によって逢坂山にうち捨てられることとなった。廷臣の清貫は蝉丸を剃髪し、簑・笠・杖を与え都へ帰っていく。

一人残った蝉丸は、それを伝え聞いた博雅の三位の計らいにより粗末な藁屋に雨露をしのぎ、自らの哀れな身を慰めるように琵琶を弾くのだった。 

一方、醍醐天皇の第三皇女逆髪は何の因果か心乱れ、髪が逆立つ異様な姿で物狂いとなり都をさまよい出でた。異様な姿を笑われた彼女は、たしかに我が髪は逆さまだが、

皇女を庶民の身分で笑うのも逆さまであり、順逆は見方によるものだ、と言い返す。 やがて逢坂山にやってくると、村雨の降る中ふと耳にする、都での懐かしい思い出を誘うような琵琶の音。

音に引かれるように藁屋に近づくと、中から聞こえてきたのは弟・蝉丸の声だった。 姉と弟は手を取り合い、互いの境涯を嘆き悲しむが、

やがて逆髪は、いつまでこうしていても名残はつきないと、またいずこへともなく立ち去っていく。その後姿を見えぬ目で見送る蝉丸がただ一人…。                
 

    

び街道に戻ります。東海道線大津トンネルを越えると、

このあたりから京阪電車が路面を走ってきます。4両編成の電車が路面を走るなんて見たことはありません。

  

街道筋には、昔懐かしい「銭湯」があります。あとで気づきましたが、大津は銭湯が今でも何カ所か残っているのですね。

さて、本陣跡を探すのですが、見つかりません。商店の人、大手新聞社大津支社の人などに聞きますがわからないとの返事。あれっ、大津の人って自分の町の歴史は知らないのかな?

ある方が曳山案内所で聞いたらと教えてもらい、やっとわかりました。札の辻という所にあり、ここは、京阪電車がカーブして路面に入る所です。

  

大津は、東海道や中山道、北国街道などいくつもの主要街道が通り、交通の要衝でした。宿場町と琵琶湖の物資が集散する港町の機能を持った大津宿は、江戸日本橋から

京・三条大橋を結ぶ東海道53次の53番目の宿場で全ての宿場の中でも最大の人口を有し、賑わいました。元禄のころには、百カ町があり、18000人もの人々が住む大都市でした。

本陣は2カ所、脇本陣1か所、旅籠72か所。

 

今日は、久しぶりの街道歩きで、しかも途中で雪に遭い思うように歩かれませんでした。明日は、頑張ります!

今日(3/1)のGPSです。

今回より東海道に印をつけていきます。