よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く「播磨高岡~加古川」

2014-03-28 22:44:17 | 山陽道(西国街道)を歩く

3/22 姫路の朝は寒いです。スマートフォンの温度を見ると1℃。

昨晩食事に姫路駅周辺に行きましたが、町の大河ドラマ「軍師 官兵衛」のキャンペーンは凄いです。いたるところに官兵衛の幟旗が立っています。官兵衛の「あんまん」もあります。

姫路は官兵衛の生まれた町ですね。

      

今日は昨日廻れなかった人丸神社、稲岡神社などを廻り加古川に向かおうと思っています。

姫路駅発8:02の姫新線で播磨高岡駅へ。

姫路駅ではICカードでタッチして構内に入ったのですが、ここ姫新線ではICカードが使えないのですね。

高岡駅からバスで「青山出屋敷」へ。今日はここから歩きます。

初めに行ったのが柿本人麻呂を祀った「人丸神社」。

   

歌碑には「あおやまや あさかげ沼の こがくれに  あはんとすれど あふよしもなし」と書かれています。

柿本人麻呂が播磨守だったころこの地に遊行して数か月過ごした。離れて暮らす妻を愛でみて懐かしんで詠んだとされています。

人丸神社を降りると「稲岡神社」があります。

永禄12年(1569)西播磨守護代赤松政秀と姫路・黒田官兵衛の戦い「青山の戦い」の舞台になった所です。

この戦で亡くなった方をこの神社で祀っているそうです。

   

先に進みますと「播磨仙人了空翁生誕地」の石碑がある「教専寺」があります。

夢前川(ゆめさき)の手前には、五角形の道標が立っています。安政2年の作で「左 備前、九州、金毘羅、宮嶋」 「すぐ 姫路、大坂、京、江戸往来」と書かれています。

  

夢前川に差し掛かります。夢前川って何かロマンチックなネーミングですね。昔はこの川も戦場だったのでしょうね。

今では大きな橋ができていますが、江戸時代ここも渡しがあったのでしょうか?対岸には、常夜燈がありました。

  

橋を渡ると「下手野」に入ります。下手野の公民館の前には「西国街道」の石碑が建っています。兵庫県に入ると「山陽道」がいつの間にか「西国道」になっています。

空は真っ青です。民家の山茱萸の黄色と空の青がとてもマッチしています。

    

街道から少し入り込みますが、「船越神社」があります。ここは黒田官兵衛の「土器山(かわらけやま)の戦い」の場所でもありました。

大河ドラマの影響でしょうか、案内板も地元の自治会の方で新調されています。また、陣地跡の地図は手書きです。

    

説明文によれば

 永禄12年(1569)黒田官兵衛孝高は播州姫路城を攻略せんとする龍野藩主赤松下野守政秀を迎え撃つために此処土器山に布陣した。

時に官兵衛は24歳、正室幸圓(こうえん)は17歳のときのことである。

龍野城を出た赤松軍勢は龍野街道(旧山陽道)一路に青山桜峠にさしかかり、はるか東に望む姫路城を手中に治めんと意気を挙げ菅生川を渡りたむろした。

官兵衛は元来御着城小寺政職(まさもと)の家臣にあらずといえども旗下に属せしかば、其職を勤めんと官兵衛の父「職隆(もとたか)」の立場や義理、恩義をわきまえ、赤松政秀をむかえ打った。

官兵衛の胸中では何より姫路城中で生まれ育った郷愁の念が深く刻み込まれていった。それ故に何が何でも姫路城を指一本も他人にふれさせたくなかった。

此処土器山東方一里足らずに姫路城を控えての防戦。敵方より味方の不意を窺って襲来(おそいきた)り、急に囲い込むという戦法が功じて勝利する。

姫路城をこよなく愛した官兵衛の功績を賛美して史蹟とする。(下手野自治会)

官兵衛はこの戦いで家臣母里武兵衛などを失っています。

街道は、下手野東信号で2号線と合流し、今宿西から左折し旧道に入っていきます。

    

車橋の碑」があります。説明文によれば

池田輝政が姫路城築城の際、石材や木材を車で運んだことから車橋や車門の付いたといわれる。碑が川から離れた所に建立された訳は謎。

一方、付近の水路にかかる橋の欄干が車輪に似ていたことから碑が建立された説もある。

  

地内(じない)という町に来ました。右側に大きなお寺があります。「本徳寺」です。

元和4年(1618)城主本多忠政が東本願寺(大谷派)の実如の要請により姫路に東本願寺の中心になる寺を造るため、もと池田家の組屋敷百間四方を寄進して建てました。

播磨における真宗大谷派の拠点となる寺です。

 

 

左側に姫路城の石垣が見えてきました。姫路城はすぐそこです。

船場川を渡ると「船場八景」の看板が見えてきます。江戸時代庶民が作った和歌から選出したものだそうです。

この中の「みどり橋」を通りました。

  

みどり橋を渡ると飲食街です。更に先に進むと「西二階商店街」に差し掛かります。ここが姫路で一番の繁華街。江戸時代には、本陣もありました。

商店街は、「軍師 官兵衛」の幟や垂れ幕などがたくさん掲げられています。私の地元「福岡」より凄いです。デパートには「官兵衛グッツ」売り場が特設されています。

  

    

商店街には、姫路ゆかりの人物や場所等の案内板が付けられています。

    

  

商店街でタイ焼きやさんを見つけましたので一つ買ってみました。タイ焼きに羽根までついて美味しかったです。

 

大手前通りを左折すると、国宝「姫路城」が見えてきます。姫路城は現在平成の大改装中。来年の今頃には、リニューアルされた姫路城がお目見えします。

   

   

姫路城の桜は、まだまだ蕾の段階でした。ネットで調べてみると28~29日ごろ開花予定だそうです。

姫路城に隣接する「護国神社」では、結婚式が行われるのでしょうか、鳥居に赤いじゅうたんが敷かれていました。

東光中学校の「外京口門跡」を通り、市川で2号線と合流します。

  

市川を渡るとすぐ右折、山脇を過ぎ、西御着には、「山陽道一里塚」があります。この一里塚、兵庫県に入り初めて見ます。

市街化の影響で昔の一里塚も無くなってきたのでしょうか?説明文には「次の一里塚は東が高砂市豆崎、西が姫路市下手崎」となっています。

新幹線、山陽本線のガードを潜ると「御着」に入ります。

    

  

御着城は、天川城ともいい、東西約227m、南北約214mの地域に此処を流れる天川の水面より約5mの丘地を城域としその本丸、二の丸は何れも約109m四方にあったので

御着茶臼山城とも呼ぶ。

初代城主加賀守小寺藤兵門尉政隆は村上天皇の第7子具平親王を祖とする赤松族宇野家末葉小寺豊職の子で永正16年御着に築城して之に移ったが、享禄3年浦上村宗に攻められ討死した。

政隆の子則職は政隆の歿後御着城に移り住み、その後は則職の子政職(まさもと)が之を守った。

その頃羽柴秀吉に攻められ政職一族の精兵は秀吉軍勢と一時辰巳の谷に退陣させ奮戦したが衆寡敵せず、遂に天正6年7月落城した。小寺城主は此地に三代に亘り64年間居城した。

政職の子久兵衛政則は城域御着を流れる天川の辺に住んだのでその名をとって小寺の姓を改め、天川久兵衛と名乗り大庄屋を勤めた。

天川久兵衛の子孫は代々此地に家系を継ぎ天川藤三に及びその一女みをは、龍野藩主脇坂家より眞雄を迎え、藤三の次代を継ぐ。眞雄の子、保を経てその長男、誠は太平洋戦争に戦歿し、

道子長男天川洋介は家計を継いで現在に至る。  昭和41年4月  (案内板より)

今でも、御着の町には、「天川」姓の住居多くが見られます。

町では「みくにの官兵衛まつり」が行われていました。小学生のボランティアガイドがそれぞれ御着の史跡を紹介するというものです。

今日はその模様を地元のテレビ局が取材していました。

 

  

  

  

この時代、御着城の方が姫路城よりも規模が大きかったそうです。

私、この日もDバックに「博多から~」のプラカードをぶら下げていましたので御着の方が丁寧に説明していただきました。

姫路市東出張所は、御着城を模して造られたそうです。

  

御着の町並みは、昔のままのたたずまいが残っています。

    

御着を出ると別所町に入ります。池にはレンコン畑でしょうか、ハスの枯れた茎が見えてきます。左側には「弁慶地蔵」があります。

弁慶の母は、福居村(別所)の生まれで山廼井といい、父は熊野神社別当であるという。書写山に預けられた弁慶が京からの途中、福居村庄屋の娘玉苗と一夜を共にしたのが

この地蔵堂であると伝えられている。

六騎塚」は、「太平記」巻十六によれば延元元年(1336)足利尊氏が大軍を率いて九州から東上してくるのを備後守範長が迎え撃ったが、戦いに敗れ最後に主従6騎となり、

阿弥陀宿の辻堂で自害したという。

 

   

高砂市に入ってきました。高砂市のマンホールは、松が描かれています。豆橋の歩道橋を渡り山陽線のガードに差し掛かります。

曽根駅高架の下には4基の道標があります。

   

街道は、2号線魚橋西を交差し再び旧道に出ます。左側に「正蓮寺」があります。正蓮寺は工事中で中に入れませんが、ここは、「月の沙漠」「お山の杉の子」を作曲した「佐々木 英(すぐる)」の生誕地です。

明治25年に阿弥陀町魚橋に生まれ、阿弥陀尋常小学校、姫路師範学校を卒業。しばらく郷里の小学校で教鞭をとった後、援助を得て東京音楽学校(現東京芸大)に入学。卒業後、

浜松師範学校の教諭になったが、大正11年に作曲家を志して上京、翌年「月の砂漠」を作曲して童謡作曲家としての地位を確立した。作曲のほか、青い鳥児童合唱団を主宰するなど、

一生を音楽活動に捧げ、その功績には特筆するものがあります。入口の碑は森繁久弥さんの筆です。

  

正蓮寺の先には、登録有形文化財になっている「土田家住宅旧魚橋郵便局舎」があります。

土田邸を改造して明治7年12月6日業務開始した。開設された当時兵庫県印南郡阿弥陀村と呼ばれていた。

印南郡の中央部に位置しており、印南郡役所が所在し、旧山陽道が村の中央を東西に貫通していた。

街道は、魚川橋を通り、2号線のガードを潜っていきます。

  

ガードを通りしばらく行くと山片蟠桃(ばんとう)が幼年期を過ごした家や結婚記念に寄進した生田神社の常夜灯があります。

山片蟠桃は、幼時から大坂の両替商である升屋に仕え、若くして番頭となり手腕をふるい傾いていた経営を軌道に乗せた。また財政破たんした仙台藩に建議した。

  

JR宝殿駅より加古川市に入ります。

宝殿駅には、結婚式で謡われる謡曲の「高砂」のモニュメント「尉(じょう)と姥(うば)」があります。

     

平津の交差点で2号線に合流、加古川を渡ります。渡ってすぐ左折、そのまま直進します。

加古川の寺家(じげ)商店街が見えてきました。このあたりが「加古川宿」です。寺院がこのあたり莫大な領地を所有していたことからこの名がついたそうです。

ここ加古川でも「官兵衛」ゆかりの地です。官兵衛の正室「光(てる)」が加古川・志方城主櫛橋家の出です。

本陣跡には、新しい家が建っていました。

  

   

   

17:00今日のゴール加古川駅に到着しました。駅周辺を見てみるとブログ友達ちゅうさんお薦めの「えきそば」があり食べてみることにしました。

中華めんに和風だしのミスマッチですが、なかなか美味しかったです。

帰りは、宿泊ホテルの姫路まで新快速で帰りましたが、たった10分で姫路に着きました。朝から何時間もかけて加古川まで歩いてきましたが、やはり電車は早いですね・・・・・・・・

 今日のGPSです。