よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く(有年~播磨高岡)兵庫県

2014-03-26 08:22:33 | 山陽道(西国街道)を歩く

3/21博多発始発(6:05)の新幹線で岡山(7:48)へ。岡山から山陽本線で前回ゴール地の有年駅へ。有年駅9:15着。今回もDバックに「博多から・・・・」のプラカードを付けています。

有年駅は、工事中でホームから改札口まで少し距離がありました。

有年駅は、1890年に山陽線開通の面影を残してる駅舎でしたが、近代的な駅舎に変わろうとしています。

       

駅前から旧道沿ってに歩きます。角に「有年村道路元標」が建っています。横には「兵庫県」の文字が・・・・

旧道を歩くと2号線に合流します。ただこの国道、歩道がなく道路の端を歩きますが、休日というのに大型トラックが激しく往来しています。トラックに巻き込まれそうで怖いです。

     

「相生市若狭野」に入ってきました。相生市は、ペーロンの街です。相生市のペーロンは大正11年(1922)長崎出身の造船所作業員が紹介したのが始まりです。

今では5月の末ごろに相生港まつりとしてペーロン祭りが行われています。

    

 若狭野町からは、2号線を離れ旧道に入ります。

若狭野天満神社、円立寺を過ぎ、入野の信号で再び2号線に合流。

  

   

山陽線、新幹線のガードを抜け、神姫バス車庫裏を通ると「JR相生駅」に出てきます。

相生市は、人口約3万人、駅前は駐車場やホテルがありますが、市の中心は駅から約2kmの港の方にあります。

時間も11時半になりました。今日は朝が早かったのでお腹もすいてきました。休憩を兼ねここでお昼にします。

駅の南口に「狐塚古墳群」「陸(くが)天神社お旅所」の石碑が建っています。その横の公園には、西国道の道標(是より左あかほ城下道、是より右さいこくみち)があります。

  

 鮎帰川を渡ると大きな「ミモザ」の花が咲いています。その近くにはモニュメントが・・・・・

これは、生命の循環といって植物の種から発芽、成長し花を咲かせ実をつけていく・・・・永遠に続いていく生命の循環を市の花「椿」で表現しています。

   

街道は、たつの市揖保川町原に入ります。この辺りが「片島宿」です。片島宿は、隣の正條宿との間宿で元禄時代は「原八軒」と呼ばれていましたが、徐々に発展し「原八丁」と呼ばれるようになりました。

今でも国道から離れているせいか、旧家が立ち並んでいます。

    

 

竜野駅の向え側に大きな神社が建っています。興味津々で神社に入ってみると、ここは「神戸(かんべ)神社」です。

御祭神は、大己貴命、少彦名命。

秋例祭が菜しわずの祭といわれるのは、弘法大師が全国行脚の途次に菜を所望されたのを地元の方が固辞したため以後秋祭りの碑に菜を食べたものは、腹痛をおこすという伝承との習合によるもので

当神社を「なくわずの宮」ともいう。神社には他に石神さんもありました。

  

再び街道に戻ります。JR竜野駅前には、「ジェニオ広場」という円形の噴水がありました。

    

 片島宿から約1kmぐらいの所に「正條宿」があります。本陣は「井口家」。明治18年(1885年)明治天皇がご巡行されたときこの井口家で休憩されています。

その時の石碑が建っています。 揖斐川郵便局の横路には「道標」があります。(右、ひ免ぢ かうべ、左、た津の 山さき)

  

先に進むと「揖斐川」です。昔はここに「正條の渡し」がありました。近世の山陽道はたつの市揖保町から揖保川を渡り, 揖保川町原を通って 相生市那波野に抜ける道で,現在も町道としてつかわれています。

この山陽道で揖保川を渡る時には渡し船が使われていました。

「地水(ふだんの水の量)二文、中水八文、備水(大水のとき)十六文」という渡し賃を記した川札があったといいます。

ここでは数隻の高瀬舟が待機していたそうですが、大名行列にもなると舟が足りず、対岸の揖保村や真砂村から借りたといわれています。室津道と山陽道とが交わるこの地は,

交通の要所となり,かなりのにぎわいであったと想像できます。明治初期まで高瀬舟はあり乗客を待っていたそうです。(たつの市教育委員会社会科副読本編集委員会より)

  

 童謡「夕焼け小焼け」の作詞家「三木露風」は、今は、たつの市になっていますが、旧龍野町揖保の出身です。

マンホールや歩道のコンクリート蓋には「赤とんぼ」が描かれています。

三木露風は、5歳の時両親が離婚しその後、祖父によって養育されました。幼い露風には、子守奉公の姐やが彼を負ぶって子守しました。

♪おわれていたのは いつの日か♪ この歌詞、私は追われていたのは・・・・・と思っていましたら、背中に負われていたのは・・・・・なんですね。

揖保郵便局の近くには、「揖保村」の元標があります。時代と共に埋もれていき現在はようやく「揖保村」と読めるぐらいです。

 

      

庄屋弥右衛門賞彰功碑を通り、林田川を渡ります。渡ったらすぐ右折。太子町「鵤宿(いかるが)に入ってきます。

太子町は、聖徳太子と大変かかわりのある町、歓迎看板の下に聖徳太子のイラストが描いてあります。

空を見るとなんだか怪しくなり、雨がポツリポツリしてきました。急遽コンビニへ雨宿りします。

  

   

太子町を歩いていると、左側と右側に大きな工場が見えてきます。ここが「神戸燐寸(マッチ)」です。すぐ近くには大きなお醤油屋さんもあります。

斑鳩寺(いかるが)の門前に成立した鵤宿は、本陣があるだけで人馬の継立てはしない宿場でした。

  

斑鳩寺は、常夜灯の所から約400mぐらい行った所にあります。同じ「いかるが」でも宿場は「鵤」、お寺は「斑鳩」・・・・何か使い分けが難しそうです。 

伝承によれば、606年(推古天皇14年)、聖徳太子がが推古天皇から播磨国揖保郡の土地360町歩を賜り、大和国斑鳩から移住し当地を斑鳩荘(鵤荘)と命名、伽藍を建立した、とされ、これを斑鳩寺の始まりと伝える。

606年、聖徳太子が推古天皇に法華経を講義して、播磨国の水田を賜ったことは史実と認められ、その縁で当地に斑鳩寺が建てられたものと思われる。

長らく大寺院であったが、室町時代後期の1541年(天文10年)、守護大名である赤松氏・山名氏の戦禍を受け、灰燼に帰した。後に、播磨を地盤とする赤松氏等が発願し、

徐々に復興していったとされる。また復興を機に、従来法隆寺支院であったのを天台宗へ改めた。

聖徳太子の生誕地奈良県明日香村の橘あ寺と、墓所の大阪府太子町の叡福寺を結んだライン延長上に、この兵庫県太子町の斑鳩寺が位置する。(ウキペディアより)

  

  

鵤宿の本陣は、太子町役場付近にあったそうです。

再び街道に戻ります。東南口のバス停から国道179号線と合流します。又空模様が怪しくなってきました。

どこか雨宿りする所はないかな?と探していると前方に大型家電店があります。とりあえずそこへ入ります。大型家電店は消費税増税前だからでしょうか、お客様が多いです。

15分ぐらい雨宿りをして再び出発。

太田小学校の所に「鵤荘傍示石」があります。

案内板によれば

当地は聖徳太子が推古天皇から賜ったという法隆寺領播国鵤荘の故地である。鵤荘では、その境界を明示するために傍示石を置いていたが、法隆寺にある嘉歴4年(1329)の

鵤荘絵図には12か所に傍示石が描かれている。現在傍示石と考えられる石は、県指定文化財4ヶ所、参考地5ヶ所が知られ、これらは荘園の傍示というだけでなく

条里制との関連の上でも重要視されている。

これらの石は、聖徳太子の投げ石8大使が自分の領地の境界を決めるために檀特山の上から投げた石)と言い伝えられている。

  

時間はもう5時になろうとしています。今日の予定はこれから「山田峠」を越え播磨高岡までですが、関西は九州よりも日の入りが30分ぐらい早いので少し急ぎます。

行基菩薩作の「太田地蔵尊」があります。

行基は、奈良東大寺の大仏を建立したことで知られています。また各地に道や端、池などを造り人のために働きました。

黒岡神社」は秋に五穀豊穣と郷土の繁栄を願って江戸時代末期から伝えられた沼田獅子舞が奉納され田中地区の屋台が練り出します。

   

「題目碑」を通り再び国道と合流します。

「山田」の信号より「山田峠」に入ります。新幹線のガードの所で道に迷ってしまいました。散々迷った挙句、近くに農作業をされている方がおられましたので道を聞きました。

私達は少し行きすぎていたみたいです。

山田峠は思ったほどきつくなく、ただ頂上付近はちょっと肌寒さを感じました。

  

  

山田峠を越えると姫路市に入ります。

時間も5時半近くになっています。これから人丸神社、稲岡神社などを廻る予定ですが、日が暮れますのでここは明日廻ろうと思い、播磨高岡駅を目指して歩きます。

急ぎ足で歩いたせいか、播磨高岡駅には、6時12分に到着。6時17分の姫新線で今夜の宿の姫路駅に向かいました。

  

 

今日のGPS