よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く(加古川~西明石)

2014-03-31 17:52:34 | 山陽道(西国街道)を歩く

3/22 JR神戸線 姫路発7:55新快速で昨日ゴール地の加古川駅へ。加古川には8:05到着。やはり新快速は早いですね。

電車の本数も頻繁にありますので、本当に便利です。(一年前は、1時間に1本の岩徳線に乗っていたっけ・・・・・)

加古川駅前には、加古川のグルメ「カツメシ」のオブジェがありました。

戦後間もないころ加古川駅前商店街にあった「いろは食堂」で考案された 洋皿にご飯を盛り、牛カツをのせ、独特のタレをかけ、箸で食べるスタイルは気軽に食べれる洋食として

親しまれました。今では加古川周辺で100店舗以上で食べられます。

  

さて、今日は街道歩きをする前に「鶴林寺(かくりんじ)」に行ってみようと思います。駅構内の案内所で鶴林寺のパンフを探しますが見当たりません。

また、駅前のバスの時間を見ますが、始発は、10時頃のバスしかありません。仕方なく歩いていくことにします。歩くこと約20分、鶴林寺に到着。

「鶴林寺」は聖徳太子が16歳の時(589年)秦河勝に命じて建てた。仏教を広めるための道場が「四天王寺聖霊院」と称されたのがこの寺の始まりです。

国宝、重要文化財が数多くあり寺宝200余点を蔵し、播磨の法隆寺と言われています。

    

    

   

鶴林寺周辺は、公園になっており、桜の名所でもあります。見ごろは、4月初旬~中旬でしょうか?

鶴林寺から歩いて昨日のゴール地加古川駅に帰ってきました。時間は10:00になっています。

加古川駅の歩道橋は、面白い形をしています。真ん中のタワーは何を意味しているのでしょうか?

商店街を抜け、街道に入ります。町並みを見ると結納屋さんが目につきます。確か、商店街でもありましたし、やはり高砂市に近いからでしょうか?

  

左側に「胴切り地蔵」があります。

参勤交代の行列を横切った人が侍に斬られたが、不思議なことに本人は無事で、この地蔵の胴が切られ、この像が身代わりになってくれたと思い、それ以後

信心するようになったという伝承があります。

龍泉寺五輪塔

境内の西南隅に立っており、水輪は花崗岩製、他は竜山製。本来この塔は、現在地より約西100mの山陽道沿いにあり、昭和10年ごろ、拡幅工事の為現在地に移された。

康永3年(南北朝)の銘が記されている。

    

 先に行くと、野口町に入ります。「おりいの清水」があります。

昔、瀬戸内海を行く船がここで水を汲んだことが記されている。この井戸は、折井の水、織井水、細田の清水とも言われその前の坂を「おりい坂」と呼ばれています。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

宝篋印塔とは、宝篋印阿羅尼を納める塔、後に供養塔、墓碑塔として建てられました。ここの宝篋印塔は、昔から和泉式部の墓と伝えられいます。

和泉式部は、平安時代の女流歌人で各地に伝承が伝わっています。

  

野口村道路元標の先には「教信寺」があります。

平安時代前期の僧 沙弥教信がこの野口に庵を造りました。念仏を唱えながら仏の教えを説き、お百姓の手伝いをし、草鞋を作って貧しい人に与えたり、旅をする年寄りの荷物を運んだり、

大勢の人を助けたことから「荷送り上人」や「阿弥陀丸」とも呼ばれました。庶民仏教の普及に努めた庵跡に建てたのが「教信寺」です。

本堂の前には、大きな桜の木がありました。満開になれば綺麗でしょうね。また、入り口の前に、「西国街道」の石碑が建っていました。

野口神社」は、慶安4年(1651)社殿が、寛文6年(1666)鳥居が建てられました。山王五社宮(五社大明神、五社神宮寺)として約250年、社僧12代により栄えました。

明治になり政府は「神仏判然令」を出して神と仏を厳然と区別しました。

その結果神宮寺は撤去され、社名も五社宮から野口神社に改称されました。

  

    

大型マンション、大型ショッピングセンター、などを過ぎ、「東加古川駅」を通過します。

西谷八幡神社」 御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、つまり第15代応神天皇です。

かつて広い野であった西谷を高畑村と新在家村が開発をめぐって争っていました。奉行に委ねても折り合いがつかず、加古新町の長老である澤 才兵衛に意見を求めた所、

「新在家なら『東谷』であろう。高畑から見て西にあるので『西谷』は高畑の土地に相違なし」と釈明しました。

延宝7年(1679)高畑村が開発してできた村が西谷新町となり、澤 才兵衛が自らの村から勧請したのが西谷八幡神社です。

  

先へ進みます。高畑の信号の所に「長松寺(ちょうしょうじ)」があります。ここには道元禅師が若いころ宋にて修行したときの「天童山老典座和尚と若き日の道元禅師」の

石像があります。仏教体の言葉で書かれていますので内容がわかりません。

  

 五社大神、土山薬師を過ぎ、平岡東小学校を過ぎると「明石市」に入ってきました。明石市のマンホールは子午線が描かれています。

    

清水新田の宝篋印塔」があります。

江戸時代、この辺りは、西国街道があり、往来する人が数多く、旅の途中で命を落とすことも珍しくなく、行き倒れとなった人を供養し、地域に災いが生じないように清水新田の人々が

此の地に宝篋印塔を建立した。以前は現在の位置から約30m東北東にあり、幾方と場所や形を変えてきたようですが、老朽化が進み、倒壊寸前の状態だったので現在の財産区墓地に移された。

   

瀬戸川を渡ると、右側に明石市給水塔が見えてきます。

    

清水神社には、県指定文化財の「清水のオクワハン」があります。毎年田植え後の日曜日、伊勢講の講親4人が桑の木で作った小さな鍬「オクワハン」と御幣を持って水田を歩き、

今後の稲作の無事を祈るそうです。

  

魚住の町には、たくさんの「溜池」があります。

調べてみると、明石、高砂、加古川、播磨、神戸西区の一部に溜池があります。

瀬戸内海沿岸で一年間を通じて降水量が少ない地域でもあります。一昨日でも私は太子町で雨に遭いましたが、明石にお住いのブログ友達 Kちゃんの所は全然降らなかったそうです。

また、山からの湧水は、冷たいので冷たい水は稲作には適さず、一旦溜池でためることにより水温を上げることも考えられます。

そういえば、播磨地方は、山田錦の本場ですね。

  

明石市にはコミュニティバス「TACOバス」があります。明石というと「タコ」だからTACOバスなんでしょうか?

「大山寺道」の道標を行くと、「金ヶ崎神社」です。金ヶ崎神社は元は黒石神社と呼ばれていたそうです。

     

大池東の交差点で2号線と合流。左側にはコカコーラ、富士通の工場が立ち並んでいます。どういう種類の桜かわかりませんが、満開の桜がありました。

兵庫県はまだソメイヨシノの開花宣言はされていませんが・・・・・・・(3/28開花宣言されました)

大久保西の信号を右折。街道は2号線と並行して走っています。左側には「大久保駅」があります。

   

 時間も14:00を過ぎました。お昼はまだでしたので大久保駅前の喫茶店に入りました。喫茶店のママさんは「博多から歩いている・・・・」のプラカードを見てびっくりされていました。(笑)

30分ぐらい休憩し再びスタート。右側に「明治天皇大久保御小休止建物」と書かれた洋館が建っています。

昔は、大変モダンな建物だったでしょうが、今は誰も住んでないみたいです。ここが「安藤家」です。

安藤家は、大久保宿の本陣でした。今でも街道沿いに大きな建物が建っています。

   

  

15:40今日のゴール「西明石駅」到着。

明石というと「明石焼き」ですね。西明石駅の方に聞きますと、明石焼きのお店は、隣の「明石駅」に沢山あるとのこと。

電車に乗り明石駅へ。入ったお店は、ガードの下にありました。

初めて食べる「明石焼き」はタレを付けて頂きます。一口食べてみますと何か卵焼き感覚。中からは大きなタコが出てきました。美味です!!くせになりそうです。

    

次回は、桜の姫路城も訪ねてみたいです。

今日のGPSですが、途中GPSが間違った方向を示していました。

3/21~23のGPSです。