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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

第14回飯能新緑ツーデーマーチ1日目20km(埼玉県飯能市)

2016-06-03 10:26:38 | オールジャパンウオーキングカップ

5/27夕方 飯能新緑ツーデーマーチに参加するため福岡空港に向かいましたが、27日お昼頃発生した大韓航空機火災事故の為、

羽田便が欠航になり、あわてて博多駅に戻り、東京行の最終便の新幹線に飛び乗ることができました。

ところが、あわてて乗ったのでお弁当や飲み物を買ってなく、車内販売で買おうと思ってましたが、小倉駅、広島駅に行くに従い、

この新幹線は通路までお客さんがあふれ、通勤電車並みになりました。この状態は東京駅まで続き、結局東京まで何も食べられず、何も飲めませんでした。

宿泊のホテルには、午前1時半に到着し寝たのは2時半でした。それでも翌日5時には起床し、飯能の会場に向かいました。

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西武東飯能駅から歩いて5分。会場の飯能市役所中央会場に到着しました。会場内に入るとたくさんの数の中学生が・・・・・

この中学生、大会のボランティアです。会場入り口では、「緑のバンダナ新聞」といって中学生が自分たちで作った大会の案内紙です。

コースの見どころも書いてあります。

   

会場では、埼玉のKanonさんと会いました。Kanonさんとは、6年前の東京国際3DM以来の再会です。

出発式で並んでいると、埼玉のIさんご夫妻と会いました。Iさんは、先週の和歌山でもお会いしました。今日はお孫さんたちと歩くそうです。

実は、私、飯能の地は初めてですが、地名の名前の由来に興味を持ち、調べてみました。 

入間川の谷口集落として発達。「榛野(はんの)」や「萩野(はぎの)」が転訛した説、租税を半済に免除された土地・「半納(はんのう)」からとする説がある。 

古代朝鮮語・「ハンナラ(大きな村)」からとする説もあるという。(日本地名由来辞典より) また、古代の豪族「判乃氏」からという説もあります。西川杉の集散地。

この大会、参加者が多いとは聞いていましたが、20kは、目勘定で2000人ぐらいでしょうか、参加者の数が凄いです。

8:30 20kmコーススタート。

 

 

飯能市のマンホールは、中央部にウグイス、飯能の山、川、周囲は、ツツジをデザインしています。

 

  

コースは、宝蔵寺を通り、飯能桜の森へ。前日の睡眠不足の為か、あまりペースがあがりません。逆に息が上がっています。

  

飯能桜の森を経て、高麗(こま)峠へ。このあたりは、奥武蔵のハイキングコースになっています。歩いていて気持ちがいいです。

   

ドレミファ橋を渡って巾着田へ。ドレミファ橋は、日高市の巾着田内にある橋です。元々は桁がかかっておらず、橋脚をぴょんぴょんと飛び越えて渡っていました。

その際に「ドレミファ」と歌いながら渡ったので「ドレミファ橋」となったと言われています。

  

巾着田は、高麗川の蛇行した形が「きんちゃく」に似ていることから「巾着田」と呼ばれるようになりました。巾着田近くにある日高市のシンボル「日和田山」からは、

巾着の形を見ることができるそうです。秋の彼岸には、約500万本の曼珠沙華が赤いじゅうたんを敷き詰めたように咲き渡るそうです。(巾着田パンフより)

また、春に一面に咲く「菜の花」もきれいだそうですが、もう菜の花は、終わっていました。

 

  

近くの沼には、黄色の花が咲いていました。ホテイアオイでもないし、調べてみると、「浅沙(あさざ)」です。

  

  

天神橋の所に「高麗郷古民家」(旧新井家住宅)があります。平成26年4月25日に国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。

母屋は、木造の入母屋造(いりもやづくり)の2階建で、平面形式は六間取(むつまど)りです。西側の2部屋は、床(とこ)、違い棚、付書院を配する最も格式の高い書院造となっています。

元々の屋根は茅葺でしたが、平成5年に瓦葺きに改修されています。

客殿は、木造の入母屋造(いりもやづくり)の2階建で、明治39年に建築されました。1階中央に式台(しきだい)を設け、南側には床(とこ)、違棚、付書院を備えた

本格的な書院造となっています。

納屋は明治21年の建築で、漆喰と板貼りの壁からなり、横位置に「与力窓」を設けています。屋根の軒の反りは大変優美な姿です。

南土蔵は、家財道具などを収納するために明治時代中期に建てられたもので、納屋とともに屋敷構えを引き立てています。

北土蔵は、明治時代中期に食料品、食器などを収蔵するために建てられました。 

石垣は、高麗郷古民家(旧新井家住宅)全体の景観に重要な役割を果たしています。江戸時代末から明治にかけてこの地方で活躍した「八徳(やっとく)の三吉」による石積みとの

言い伝えが残されています。(日高市HPより)

   

日高市のマンホールは、中央に「カワセミ」が描かれています。日高市の地名の由来ですが、高麗村と高麗川村が合併する際に、各村名に使われている「」の文字の上に、

和田山」の「日」の文字を冠したとする説が、有力であるとの事。後に合併する高萩村にも「高」は使用されています。

  

  

高麗橋を渡ると左側に古い大きな山門が見えてきました。聖天院です。

由来を見ると、霊亀二年(716)国難を避け日本に渡来した高句麗人1799人の首長高麗王若光、侍念僧勝楽、弟子聖雲を始めとする一族の菩提寺として

奈良時代に創建され、僧勝楽により、開基、聖雲と弘仁により落成され、本尊には王が守護仏として故国より将来した聖天尊(歓喜天)を祀った。

故に聖天院勝楽寺と称する・・・・・以下略 (聖天院案内看板より)

  

この一帯は、「高麗郷」と呼ばれています。

  

高麗人の「高麗(こま)」は前37年頃~668年まで主に朝鮮半島北部から中国東北部にかけて繁栄した「高句麗(こうくり)」のことを指します。

日本では高句麗を「高麗」と記し「こま」と称しました。高句麗滅亡前後、多くの高句麗人が海を渡り日本へ渡来しました。日本では高句麗からわたってきた人々を

「高麗人=こまひと」と呼んでいたのです。

高麗郡に移住した高麗人たちは、以前は東国7ヶ国(駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野)に住んでいました。現在の県名でいえば、静岡、山梨、神奈川、千葉、茨城、栃木となります

大和朝廷は入間郡の一部に広がっていた空閑地を高麗郡とし、高麗人1799人が移住しました。彼らは生活の基盤を整えつつ、郡役所の建設、道路の敷設など郡として

必要な整備をしたと思われます。

高麗神社の所が休憩所です。ここでは、ソフトクリーム、サンドウィッチ、ミニトマトなどが販売されていました。私達は、ソフトクリームとミニトマトをいただきました。

このトマト、昔のトマトの味がしておいしいです。食べていると、30kmを歩いてこられたedcappaさんご夫婦に会いました。

高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。

若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、

若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。

若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。

 高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になります。(高麗神社HPより)

  

コースは、JR高麗川駅を通って行きます。

  

  

大川医療福祉専門学校に到着しました。ここではお茶のおもてなしです。今日は、暑くすぐ喉が渇くのでお茶の接待はありがたいです。

  

13:30ゴールの飯能市役所中央会場が見えてきました。中学生のボランティアの方とハイタッチをしゴールします。

  

ゴールでは、先にゴールされたedcappaさんがPALさんと一緒に迎えてくれました。PALさんとも6年ぶりの再会です。

ゴール後、地元のIさん宅にお招きいただきビールや食事をごちそうになりました。途中、満腹になったため、うとうととしてしまいました。

お礼も申し上げず大変申し訳ございませんでした。その後Iさんの奥様から駅まで送っていただき宿泊先の所沢のホテルには、17時半ごろ到着。

ホテルに到着するや否や、そのまま寝てしまいました。今日は、長い一日でした。

今日の20kmのGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第5回きのくに海南歩っとウオーク2日目(歴史と文化を歩くコース)18km「和歌山県海南市」

2016-05-31 16:32:34 | オールジャパンウオーキングカップ

5/22(日)は、パワースポットコース18km 「総合体育館~杉尾神社~中野上公民館~野上八幡宮~南野上公民館~亀池公園~千種神社~とれたて広場~総合体育館」

参加しました。いつものように30kmと一緒にフライングスタート。

 

海南市のマンホールは、ホオジロ、ヤマモモ、サツキがデザインされています。

  

約2km行った所が30kと18kの分岐点。30kは、宇賀部神社の方に向かいます。

18kmコースを歩くと、とある会社に六文銭の幟が立っています。真田一族は、関ヶ原のあと、和歌山九度山に幽門されました。

先を行くと、「杉尾神社」があります。ここは、別名「お腹の守り神」「おはらさん」と呼ばれています。シャモジを供えて無病息災を祈願するそうです。

  

  

中野上公民館が最初のおもてなしポイントです。

お味噌汁のふるまいや手作りの風車をいただきました。私のリュックの後ろにつけましたが、自分の風車と喧嘩しないか心配です。

  

紀美野町に入りました。「君の町」という素晴らしいネーミングですね。平成18年(2006)野上町、美里町が合併して出来た町です。

紀州の「紀」、美里町の「美」、野上町の「野」をとって名づけられたそうです。

野上八幡宮の長い階段があります。見ただけでパスしようかと思いましたが、海南高校大成校舎の生徒さんが一生懸命呼びかけていましたので行ってみることにしました。

  

野上八幡宮は、創建は欽明天皇時代にさかのぼるといわれ、あの石清水八幡宮の別宮として、何百年も多くの人が信仰を寄せてきた由緒ある神社です。

この神社の絵馬は、海南高校大成校舎の生徒さんによる手作りです。神社内では、生徒さんによるお茶のおもてなしが行われていました。

   

コースは野上八幡宮を折り返してきます。途中の道の両側には、夏みかんでしょうか、その甘い匂いが漂ってきます。

南野上公民館が今日2回目のおもてなし。かき氷、手作りの柏餅、ひまわりの種がプレゼントされました。

かき氷のシロップは、ヤマモモを使った手作りです。暑かったのですぐ無くなりましたが、お代わりOKでした。ヤマモモも1個いただきました。

このぐらい大きなヤマモモでしたら、ヤマモモ酒をつくれば美味しいだろうなと思うには、私だけでしょうか?(笑)

ひまわりの種は、宮城県石巻からの絆リレーだそうです。このひまわり、ひょっとして神戸の「はるかのひまわり」かな?

 

  

南野上公民館を出て、亀池の方に向かいます。緩やかな登りです。

  

 

亀池は江戸時代(1710)溝ノ口村(現在の海南市野上新)出身の井沢弥惣兵衛 によって灌漑用池として造られた県下最大級の池です。 

満水面積約13万m2、 貯水量約54万m3、堤の長さ98m、高さ16m、周囲約4kmもあるこの池を、延べ55,000人で、約3ヶ月の短間に完成させています。

当時、この池のおかげで、付近の十か村(約300ha)の田畑がうるおい、米300kl(約7,000人分)ができるようになりました。

池の中島には、紀州徳川家の別邸・双青閣が昭和43年に移築され多目的広場も整備されました。(海南観光ナビより)

  

ここでは、巽まちづくり協議会の皆さんによる冷たいおしぼり、コーヒー、飴玉のおもてなしがありました。

  

「千種(ちぐさ)神社」があります。古くは、百草神社と言われ、現在でも「ももくささん」の通称で知られています。

足の神様として信仰を集め、履物を供え、足腰の無病を祈る風習があります。(歩っとウオークパンフより)

 

旧野上鉄道跡地に来ました。跡地は、健康ロードとしてウオーキングやジョギングに楽しまれています。

  

「とれたて広場」に来ました。ここから30k、18k、10k、5kのコースが合流します。

とれたて広場では、大会のゼッケンを見せるとミカンジュースが1杯50円でいただけます。暑くて喉も渇きましたので家内と2人分いただきました。

   

コースも終盤になってきました。5k、10kは、子供さん連れの方が多く、私のリュックの後ろに付けている「風車」をじっと見て行かれます。

どうもこの風車、子供さんに人気があるようです。(笑)

13:27 ゴール!

  

参加者向けの抽選では、ふきんが当たりました。大事に使わせていただきます。

初めての和歌山海南ウオーク。接待がいいとは聞いていましたが、こんなに凄い接待とは思いもしませんでした。

地元の皆様本当にお世話になりました。また、来年も参加しようと思っています。

5/22  18kmGPS

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第5回きのくに海南歩っとウオーク1日目(熊野古道コース)24km「和歌山県海南市」

2016-05-27 16:51:28 | オールジャパンウオーキングカップ

5/21から和歌山県海南市で行われた「第5回きのくに歩っとウオーク」に参加しました。

  

会場は、海南駅から車で約5~10分の所にある海南総合体育館。会場内には、痛車(いたしゃ)の展示やおまつりウオーカーと称したコスプレが受付中でした。

  

私が参加したのは、24kmコースで、海南総合体育館→JR海南駅→熊野古道→地蔵峰寺→善福院→塩津→大崎港→ゴールが下津市民交流センターです。

この大会は、お接待が素晴らしいと聞いていましたので楽しみです。9:15中学生の太鼓の伴奏と共にスタート。

海南駅に向けて歩いていると、どうも昔の線路跡を歩いているようです。

それもそのはず、ここは、「日方~登山口」間を野上電気鉄道が走っていた所です。1916年(大正5年)に開業し1994年(平成6年)廃止になるまで約70年間走っていました。

跡地は、遊歩道になっていました。

  

  

スタートして4,6km地点が「藤白神社」です。藤白神社は、藤白王子としても知られ、熊野参拝道の途中に設けられた九十九王子社の中でも特に格式が高いとされる、

五躰王子社の一つです。藤白神社には、「全国の鈴木さんいらっしゃい」と書かれています。

  

鈴木姓」は、日本で2番目に多い姓です。全国で約200万人いらっしゃいます。

日本に200万人を超すといわれる鈴木さん。そのルーツを遡ると世界遺産である熊野に繋がる。

「鈴木」は熊野地方において神官を受け継ぐ家系であり、神武東征の折り天皇より賜った「穂積(ほずみ)」家の後裔だと伝わる。穂積とは稲の穂を積む「稲むら」のことを示し、

その中心に立てる一本の棒を熊野では「聖木(すすき)」と呼び、転じて「鈴木」となったといわれている。

熊野古道に点在する九十九王子の中でも格式高い五体王子のひとつ、海南市にある藤白神社。ここは法皇や上皇の熊野参詣の折、安全祈願などを行う重要な拠点であったため、

熊野から鈴木氏が神官として遣わされていた。「境内に残されている“鈴木屋敷”は、鈴木家25代・重秀が住み始めた邸宅で、その後、

122代昭和17年まで鈴木家が住んでいたといわれています」と藤白神社の吉田宮司は語る。

また鈴木姓が全国に広まった理由も、熊野神社と深い関係がある。それを裏付けるように、「熊野神社」が多く勧進されている東日本に「鈴木」姓が多い。

鈴木を名乗る神官たちは全国に渡り、熊野信仰とともに各地に根付いた。そして、信頼を集めた鈴木氏にあやかり、また熊野への憧れを込めて、

多くの人々が鈴木姓を名乗るようになったといわれている。現在、鈴木姓ゆかりの人たちが藤白鈴木会を結成し、ルーツの研究を深めている。

連綿と続く「鈴木姓」。そのふるさとが和歌山にある。 (和歌山県HPより)

因みに発祥の地和歌山には、約5300人の鈴木姓があるとのことです。

ここでは、今日最初の接待でお茶、種なし梅、しらすの試食がありました。

  

藤白神社を出るとここから「熊野古道」藤白峠に入ります。道はほぼ平坦ですので「ああ、これが熊野古道か?楽勝、楽勝・・・」と思っていたら、

  

   

このあたりから急坂になってきます。

   

 

   

   

藤白神社から約50分で地蔵峰寺に到着。ここまでは、きつくかなりハードな山道でした。

  

ここでは、オレンジジュースの接待がありました。汗を掻き掻き登ってきましたのでこのジュースは格別です。このジュース100%のオレンジです。

藤代塔下王子跡

  

地蔵寺の裏手には、「御所の芝」があります。ここからは和歌山市和歌の浦が見渡せます。

   

やっと平坦な道に出たと思いましたが、すぐ、急な下り坂が待っています。昨年、新潟山古志で膝を痛めましたので、ここはゆっくりゆっくり下りてきます。

  

  

「善福院」が最初のチェックポイントです。

  

ここでは、夏みかんのシロップ漬けです。夏みかんをシャーベット状にしていますので食べるとシャキシャキと音がします。

喉が渇いていますので美味しくいただきました。

 

   

  

狭い道路を歩いて行きます。

  

12:40  塩津港に到着。ここでは、待望のミニしらす丼が振る舞われました。

海苔とネギ、しらすの単純な組み合わせですが、これが非常においしいです。あっという間に食べ終わりました。この日、4回目のお接待です。

少し休憩して再び出発。

   

戸板を過ぎると、左側に「金鳥」の工場が見えてきます。ここ海南では、100年以上前から除虫菊を使った蚊取り線香の製造が行われています。

この「金鳥」もそうですが、地元の「紀州除虫菊」という会社も蚊取り線香の製造をここ下津で行っています。

  

更に先へ歩くと、「かき氷」の看板があります。今日は、非常に暑く、水分を摂っても摂っても喉が渇き、かき氷は、ほんと、生き返ります。

  

また、ここからのロケーションは、最高です。万葉歌碑もありました。

 

先へ行くと道路の両面に棕櫚並木があります。海南は、家庭用品の町でもあり、この棕櫚を使った箒などが造られているそうです。

  

大崎の町に入りました。キャッチフレーズが「げんき大崎 かざまち」です。

大崎港は、万葉の時代から風待ち港として栄えていました。ここで2回目のチェックポイント。

お接待は、寒天、かざまち揚げ(魚のミンチの天ぷら)です。

  

  

大崎を過ぎてから、少し上り坂になっていますが、ほぼ平坦なコースです。今までの遅れを取り戻そうと少しペースアップしていきます。

歩いていると右側に「紀伊国屋文左衛門船出の地」の碑がありました。

  

下津の橋を越え、駅前を通り、ようやくゴールの市民交流センターに着きました。時間は、15:30です。

予定では14:30でしたので1時間もオーバーしてしまいました。

  

然し、この大会、序盤は峠でアップダウンが多くかなり疲れましたが、地元の皆さんの心あるお接待にホント感謝・感謝です。

今まで歩いた大会の中でも№1のお接待でした。ホントにお世話になりました。明日は18kmを歩きます。

グーグルアース

 

 

 

 

 

 

 


第10回下総・江戸川ツーデーマーチ2日目20km(千葉県市川市)

2016-04-21 20:02:27 | オールジャパンウオーキングカップ

下総・江戸川ツーデーマーチ2日目。今日は、中山法華経寺コース20kmに参加。

帰りの時間を考え、8:30フライングスタート。

  

すぐ江戸川河川敷に出ました。

市川橋の所が20k、32kの分岐点です。20kは、このまままっすぐ進み、32kは、市川橋を渡り、江戸川の東京側を歩きます。

   

 

江戸川の河口に向かって歩いていると河川敷では野球の試合が行われていました。今日は天気もいいから気持ちがいいでしょうね。

河川敷には、たんぽぽが咲いていました。たんぽぽって漢字で書くと「蒲公英」です。

河口では、アサリ?でしょうか、潮干狩りをされていました。

  

 

林遊船所が9km地点です。コースは、ここで河川敷から左折します。民家の庭には、八重のヤマブキが咲いていました。

  

東西線「原木中山駅」、京葉道路を通ると、コンビニがありましたのでここで休憩します。

このあたりは、船橋市になります。船橋市のマンホールは、江戸を中心に関東近辺の海運に用いられていた海川両用の廻船「三大力船」と市の花「山茶花」が

デザインされています。船橋の名は、日本武尊が東征の折、川を渡るために船で橋を作ったのが由来とされています。

  

 コンビニでトイレ休憩とコーヒータイムをして再びスタート。

コースの矢印を見ながら歩いていたのですが、どうも道に迷ったようです。京成中山駅を通って法華経寺へ行くのですが、道がわからなくなりました。

近くの人に京成中山駅を教えてもらいやっとコースに戻りました。

  

市川歴史散歩図の地図を見ていたら、セロリーさんのお友達のR・Sさんに再び遭遇。競馬好きのR・Sさんは、「中山競馬場」は、法華経寺の裏手の方にあると

教えていただきました。私、競馬はあまり好きではありませんが、でも中山競馬場の名は知っています。法華経寺当たりの地名が中山ですのでこの地から

名をとったのですね。

 

  

法華経寺(ほけきょうじ)は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山の寺院です。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。中山法華経寺とも呼ばれています。

山号は正中山。日蓮の説法と安息の地であり、境内の鬼子母神も広く信仰を集めています。

ここでも御朱印をもらってきました。

  

        

  

真間川の桜並木に来ました。両岸の桜が見事に満開です。この真間川の桜には、下記のようなエピソードがあるそうです。

真間川沿いの桜並木は、昭和24年の市川市制15周年記念事業の一環として市内の中学生の手によって植えられたと伝えられており、真間川本川の境橋(国道14号)から

国分川合流点までの区間(約2.5km)に約390本のソメイヨシノが見事な花を咲かせる桜並木として成長し、市川市内の桜の名所として広く市民に親しまれていました。

しかし、急激な市街化の進行により度々浸水被害が発生し、改修工事の実施が急務となりましたが、この改修工事の実施にあたっては桜並木の保存が大きな課題でありました。

現在の改修計画である昭和54年の総合治水対策特定河川事業の計画に際し、桜並木の保存の検討を試みましたが、真間川下流部約950m区間の桜並木を伐採し、

拡幅せざるを得ないという結果となりました。これを機に市民の桜並木の保存の気運は高まり、市民団体の結成ともに、約17,000人による街頭署名が集められ、

県議会や市川市議会に請願が行われるなど、市民と桜並木の保存に対する議論が続きました。

一方、このような中でも真間川の氾濫は度重なり、昭和56年10月の台風24号では、有史最大の被害となる狩野川台風に匹敵する大水害が発生し、

早急な改修の着手が必要となりました。

このような背景の中、昭和57年10月に地元関係者や市川市などとともに「自然と人間の共存」を基本理念とする「真間川緑化護岸構想」をとりまとめ、

河道の拡幅により伐採する桜並木の再生を図るとともに、川沿いの遊歩道の整備、地域のランドマークとなる親水公園、ポケットパーク、橋梁等を整備し、

真間川を「水と緑のオープンスペース」として整備を図ることとしました。(千葉県HPより)

しばらくは、この桜を見ながらのウオーキングです。

  

  

  

千葉県は梨の生産が日本一です。(因みに我が福岡県は第8位) そういえば船橋の非公認ゆるキャラの「ふなっし~」も梨の妖精ですね。

千葉県で梨栽培が始まったのは、江戸時代の1769年に、八幡地方(現在の市川市八幡地区)で、川上善六氏が取り組んだのが最初と言われています。

川上善六氏は、1742年八幡地方に生まれ、幼児より書を好み学識に富んでいました。殖産興業に熱心で、八幡地方にどんな作物が適しているかを探していたところ、

美濃国大垣辺で品質の良い梨栽培を見てその技術を学び、枝梢を持ち帰って八幡地方に広めました。

八幡地方で収穫された梨は江戸に運ばれ、高級品としてもてはやされていました。(千葉県HPより)

千葉県の中でも市川市は、梨の生産高県内2位です。

市川市のマンホールは、梨かな?と思いましたが、市の木「クロマツ」をデザインしています。

   

弘法寺の階段の所に来ました。ここからは昨日と同じコースです。昨日は、階段の前から左折しましたが、最終日ですので階段を登りました。

  

弘法寺は、奈良時代の天平9年(737)、行基菩薩が真間の手児奈(注)の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとされる。平安時代、空海が伽藍を構えて弘法寺と改称したという。

その後、天台宗に改宗した。鎌倉時代、日蓮の布教を受けて、時の住持・了性法印が法華経寺・富木常忍と問答の末やぶれ、日蓮宗に改宗した。常忍の子で日頂を初代の貫主とした。

大檀那の千葉胤貞より寺領の寄進を受ける。室町時代、山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展した。徳川家康より朱印地30石を与えられる。

江戸時代、徳川光圀が来訪し茶室に遍覧亭という号を贈る。紅葉の名所として知られ、諸書に弘法寺の紅葉狩りのことが記されている。明治時代、火災のため諸堂は焼失した。

その後、再建され現在に至る。境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天を祀る大黒堂、鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。

(注)手児奈・・・・・・市川の町を歩いているとこの手児奈(てこな)という名を目にします。山崎パンでは、手児奈パンという地域限定のパンを販売しています。

市川市の昔話から手児奈伝説を引用します。

むかしむかしの、ずうっとむかしのことです。真間のあたりは、じめじめした低い土地で、しょうぶやアシがいっぱいにはえていました。そして、真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、

その入江には、舟のつく港があったということです。

そのころは、このあたりの井戸水は塩けをふくんでいて、のみ水にすることができないので困っていました。ところが、たった一つだけ、「真間の井」とよばれる井戸からは、

きれいな水がこんこんとわきだしていました。だから、この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりましたので、井戸のまわりは、いつも、にぎやかな話し声や笑い声がしていたといいます。

 この、水くみに集まる人びとの中で、とくべつに目立って美しい「手児奈」という娘がいました。手児奈は、青いえりのついた、麻のそまつな着物をきて、かみもとかさなければ、はき物もはかないのに、

上品で、満月のようにかがやいた顔は、都の、どんなに着かざった姫よりも、清く、美しくみえました。

 井戸に集まった娘たちは、水をくむのを待つ間に、そばの「鏡が池」に顔やすがたを写してみますが、その娘たちも、口をそろえて手児奈の美しさをほめました。

  「手児奈が通る道のアシはね、手児奈のはだしや、白い手にきずがつかないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」

 「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」

 手児奈のうわさはつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にもひろまっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやってきては、

 「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も、かみにかざる玉も思いのままじゃ。」

  「いや、わしのむすこの嫁にきてくれ。」

 「わたしなら、おまえをしあわせにしてあげられる。洗い物など、もう、おまえにはさせまい。」

  「手児奈よ、わしといっしょに都で暮らそうぞ。」

 などと、結婚をせまりました。そのようすは、夏の虫があかりをしたって集まるようだとか、舟が港に先をあらそってはいってくるようだったということです。

 手児奈は、どんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。それをみた手児奈は、

 「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。

ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」

 といいながら、真間の井戸からあふれて流れる小川にそって、とぼとぼと川下へ向かって歩きました。手児奈のなみだも小川に落ちて流れていきました。

 手児奈が真間の入江まできたとき、ちょうどまっ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見て、

 「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」

 と、そのまま海へはいってしまったのです。

 追いかけてきた男たちは、

 「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」

 と思いましたが、もう、どうしようもありません。

 翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、井戸のそばに手厚くほうむりました。

 真間の「手児奈霊堂」は、この手児奈をまつったもので、いまでは、安産の神さまとして、人びとがおまいりにいきます。

 また、手児奈が水くみをしたという「真間の井」は、手児奈霊堂の道をへだてた向かいにある「亀井院」というお寺の庭に残っています。

弘法寺でも御朱印をいただきました。

      

弘法寺で朱印をもらって戻る時、ホロホロさんが家内と話しています。今日はフライングスタートしましたので会えないなと思っていましたが、偶然です。

やはり「SNSの絆」でしょうか?

13:00  20kmゴール!この2日間、膝の痛みもなく無事完歩いたしました。

これでオールジャパン36県目です。あと11県。

4/10 20kmコースのGPSです。 京成中山駅の所でコースを間違えました。

 

 ≪追記≫

今日(4/21)、熊本地震で中止になった久留米ツツジマーチの大会誌、記念品などが送ってきました。

14日の前震と16日の本震とたて続けての大きな地震でした。福岡でも横揺れがしましたが、幸い、大きな被害はありませんでした。

熊本城や益城町、南阿蘇・・・・・・どこもウオーキングで行った所ですが、テレビの画面からは悲惨な姿が映し出されていました。

そのあとも熊本地区は、余震が多く発生しており、被災者の方は心の休まることがないのではないでしょうか。

額では、ありますが、熊本地震に寄付をさせていただきました。

一刻も早く終息し、亡くなられた方のご冥福をお祈りし、また被災地の一日も早い復旧、復興を願うばかりです。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第10回下総・江戸川ツーデーマーチ1日目18km(千葉県市川市)

2016-04-14 10:40:24 | オールジャパンウオーキングカップ

4/9(土)千葉県市川市で行われた「第10回下総(しもうさ)・江戸川ツーデーマーチ」に参加しました。

会場は、JR市川駅からバスで約10分の所にある「市川市スポーツセンター」。

   

市川の桜もピークは過ぎましたが、まだまだ綺麗です。

第1日目は、大町自然観察園コース     33km

        堀之内貝塚コース        18km

        野菊の墓文学碑コース     11km

        水と緑の回廊コース        6km

この中の18kmコースに参加しました。33kmのコースには、とほ娘さんご夫妻、Kさん、神奈川のSさん、セロリさんの御親友R・Sさんなどの方が参加されていました。

18km出発前、ブロ友のホロホロさんが会いに来てくれました。ホロホロさんとは、何年か前のSNS仲間です。

鳥に詳しく、ブログには、珍しい鳥、希少な鳥などをアップされています。    ※ホロホロさんのブログ名「tek-tekウオーキング」

ゴール後またお会いしようと約束し、18kmスタートしました。

  

約1kmで「じゅんさい池公園」に到着。千葉県公式観光情報によると、池の名の由来は、国府台と国分の台地間に深く入り込んだ古くからの沼があります。

これを国分沼といいましたが、この沼にはじゅん菜がたくさん生えていたことから、じゅん菜池と呼ばれるようになりました。市川市では、公園の名にふさわしく、

じゅん菜の栽培につとめています。

  

公園の中は、まだ桜が楽しめます。また、池には、たくさんの種類の鴨が元気に泳いでいました。

  

 

 

北国府駅が18k、33kの分岐点。18kは、ここから矢切を通り葛飾大橋を渡り、東京都の江戸川沿いに歩きます。このあたりは、千葉県松戸市です。

矢切神社が右側にあります。

矢切の民家は江戸川沿岸にありましたが、宝永元年(1704年)6月の長雨により、江戸川が大洪水を起こし多数の死者を出しました。そのため、村民は、

災害から逃れるように台地に移住し、京都東山より稲荷を勧請して「稲荷五社大明神」を建立しました。祭神は、倉(うか)稲(の)魂(み)命(たま)で、食物・稲などの穀物を司る神です。

今日では、矢切神社と名を改め、社殿に向かって右側には、菅原道真を祀った天満宮の小社があります(松戸市の歴史から引用)

矢喰村庚申塚」ここでは、矢切村でなく、矢喰村と書かれています。案内板を見てみると、

温暖で平坦な下総原野が川と海に落ち込むこの矢切台地に人が住んだのは約5千年前朝に魚や貝を採り夕べに鳥や獣を追う平和な生活も下総の国の国府が

国府台に置かれた千3百年ほど前から武士たちの政争の場となりなかでも北条市や里見氏の国府台合戦は、この矢切が主戦場となり戦没者は一万余を数えました。

家は焼かれ田畑は荒らされ女子供年寄りは逃げまどい男どもは人足に狩り出され傷つき一家は離散。

この塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ親から子 子から孫に言い伝えられ

江戸時代中期に二度と戦乱のないやすらぎと健康を願い庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻み朝夕お祈りをしてきました

このたび先人たちの苦難と生きる力強さを知り四百年前の遺蹟と心を次の世代に伝えるため平和としあわせを祈りこの塚をつくります

               昭和六一年十月吉日              庚申塚保存会」

 

  

先へ行くと、「野菊の墓」文学碑があります。

政夫と民子は仲の良いいとこ同士だが、政夫が十五、民子が十七の頃には、互いの心に清純な恋が芽生えていた。しかし民子が年上であるために、ふたりの思いは遂げられず、

政夫は町の中学へ、民子は強いられ嫁いでいく。数年後、帰省した政夫は、愛しい人が自分の写真と手紙を胸に死んでいったと知る。野菊繁る墓前にくずおれる政夫……。

    

矢切橋に着きました。ちあきなおみさんの唄で有名な「矢切の渡し」は、この橋をまっすぐ行った所にあります。

 つれて逃げてよ ついておいでよ 夕暮れの雨が降る 矢切の渡し~ 

江戸初期、江戸川の両側に田を持つ農民が、関所を通らずに江戸と往来したことから「矢切の渡し」が始まったそうです。

このウオーキング、18kmのコースには、矢切の渡しが入って下りません。(11kmコースには入っている)

行って歌いたかったのですが・・・・・・・・

   

矢切のネギ」は、江戸川の氾濫で出来た土壌がネギの生育に適していたため、明治時代から植えられました。

矢切のネギは、太くて甘みがあり、焼いてよし、鍋にもよしと言われる高級品です。

    

松戸市のマンホールには、コアラとユーカリの木がデザインされています。松戸市にコアラがいたのかな   

調べてみると、 松戸市はオーストラリアのビクトリア州ホワイトホース市と姉妹都市を 結びユーカリが市の木に指定されました。

江戸川に架かる葛飾大橋を渡ります。橋の中央部が東京都との県境。

葛飾大橋の歩道を歩いていると、後ろから来た自転車が「おい、そこどけ!」と大きな声で怒鳴ってきました。一瞬私はカチンときましたが、ここは、抑えて抑えて・・・・・

何様と思っているのでしょうか、あなただけの橋ではないでしょう。

 

  

東京都に入ってきました。江戸川の河川敷は、寅さんの映画にも出てきますね。特に映画のタイトルバックなどに使われています。

河川敷では、パークゴルフ、野球、サッカー、ラグビーなどのゲームが行われています。今日は天気もいいし、気持ちがいいでしょうね。

時刻も12時近くなりお腹もすいてきました。。この江戸川マーチには、休憩する所が設定されてなく、仕方ないので江戸川の河川敷に座り、昨日福岡で買ってきたパンを

頂きました。

 

  

江戸川コースは、途中帝釈天、寅さん記念館に寄り道できるようにはなっていますが、河川敷だと車の心配もしなくていいのでこのまま歩きます。

ただ、7~8kmも同じような河川敷を歩きますので飽きてきます。

1時間ぐらい歩いて市川橋に来ました。ここからゴールまであと3km。市川橋の所には、「関所」がありました。

  

市川市内に入ります。真間(まま)の継橋を通ると、正面に弘法寺の長い階段が待っています。これを登るの???と思っていたら階段の前に左折の矢張がありました。

 

  

弘法寺を通り、千葉商科大学構内を通ります。隣には、和洋女子大もあります。文教地区なんですね。

大学構内の桜は満開で綺麗でした。

   

  

13:00  18kmコースゴール!

  

ウオーキング会場の市川スポーツセンターは、昔「下総(しもうさ)国総社」があった所です。地名も市川市国府台(こうのだい)。

下総は、北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接していました。

  

会場で完歩賞をもらっていると、出発前お会いした「ホロホロさん」が待ってくれてました。ホロホロさんは、6kmに参加されたそうです。

ホロホロさんから頂いたビール、焼き鳥で歓談していると、33kmを歩かれたとほ娘さんご夫妻がゴールされました。

とほ娘さんご夫妻とホロホロさんは、ご近所だそうですが、今回初のご対面でした。

下関・はなまりんさんの言葉を借りるなら本当に「SNSの絆」ですね。

   

4/9 18kmのGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古河(こが)まくらがの里花桃ウオーク(茨城県・古河市)2日目15KM

2016-04-06 04:30:02 | オールジャパンウオーキングカップ

3/27 古河まくらがの里花桃ウオーク2日目(渡良瀬遊水地の自然を訪ねて)。

            30KMコース    はなももコース

            20KMコース    たんぽぽコース

            15KMコース    すみれコース

             7KMコース    つくしコース

このうち、帰りの時間もありますので15KMに参加。それも30KMコースの方と一緒にフライングスタートです。8:20スタート。

  

渡良瀬川の堤防に、「古河城本丸跡」の碑があります。

古河城は、江戸時代古河藩の中心として城郭の象徴ともいえる御三階櫓を有していました。御三階櫓は、寛永11年(1634)江戸幕府大老だった土井利勝が標高約20Mの本丸土塁の上に

築いた外観三層、内部四階建の櫓で、高さ七丈三尺余(約22M)もある、古河のランドマークタワーでした。

江戸時代が終わり、明治6年(1873)の廃城令により、古河城も御三階櫓をはじめとする建造物はすべて撤去され、堀と土塁だけの城址になりました。

更に、度重なる洪水対策として明治43年(1910)から始まった渡良瀬川改修工事により古河城跡の堀と土塁は崩され。城跡の一部を残し完全に消滅してしまったのです。

大老クラスの大名が城主となった巨大城郭が跡形もなく破壊された事例は古河城の他にはありません。(案内板より)

 

  

「三国橋」を通ります。ここは、一旦河川敷に出てまた戻ってくるという変則なコースですが、係り員の方もいなく、皆さん河川敷に行かずに橋を渡られていました。

ちょっとここは、難しかった・・・・・・

三国橋の中央部が茨城と埼玉の県境です。

茨城と埼玉だったら「二国」でいいのでは?という疑問が湧いてきます。

調べてみると、かつての三国橋は、現在より上流の渡良瀬川と思川の合流地点に架けられました。そこは、下総(茨城)、下野(栃木)、武蔵(埼玉)を跨ぐ所でしたので「三国橋」と名づけられたそうです。

  

  

堤防の所にカスリーン台風決壊地という碑があります。

カスリーン台風とは、1947年(昭和22年)9月、東海道から房総半島の南端をかすめて進んだ台風。雨台風で関東地方に大水害をもたらせました。

  

渡良瀬遊水地に着きました。渡良瀬遊水地は、地図で見ると、ハート型しています。

  

 渡良瀬遊水地をHPで見てみると、

 明治23年、29年の洪水を契機に、渡良瀬川下流部の洪水被害とともに、足尾銅山から渡良瀬川に流れ出した鉱毒による被害は明確になった。

これに対し、渡良瀬川の改修や最下流部に遊水地計画が打ち出され、当時、渡良瀬川は栃木県管理であり、明治37年県議会可決後、明治38年から明治40年までの間に

930町歩余りが買収された。その間、明治39年(1906)には谷中村は藤岡町に合併廃村となった。明治43年には、内務省による改修事業が始まり、昭和5年には渡良瀬遊水地が完成した。

その後、昭和10年、13年、22年と相次ぐ大洪水を契機に渡良瀬遊水地を、より効果的に活用するために、渡良瀬川、思川、巴波川に沿って、新しく囲繞堤や越流堤を設け、

調節池化を図り、大きな洪水の時だけ調節池の中に川の水が入るようにし、従来より洪水調節機能を増大させる事業(調節池化事業)を実施した。

  

  

昨日の「ヨシ焼き」の跡です。まだ周囲は煙たかった。時々風でヨシの燃えカスが宙に舞っています。

  

 

ゴールの公方公園に入ってきました。公園には、「古河桃むすめ」さんが通られましたので写真を撮らせていただきました。

11:30ゴール!距離は16KMでした。

  

2日間の参加者です。これでオールジャパン35県クリアしました。あと12県。

11:40公園から臨時バスで古河駅へ。古河発12:26で東京に行き、14:40の新幹線のぞみで博多へ。

  

今日2日目16KMのGPSです。遊水地がハート形になっているのがわかりますか?

 

 

 

 

     


古河(こが)まくらがの里花桃ウオーク(茨城県・古河市)1日目20KM

2016-04-05 07:07:34 | オールジャパンウオーキングカップ

3/26~27日 茨城県古河(こが)市で行われた「古河まくらがの里花桃ウオーク」に参加しました。古河は、初めての地です。

古河では、今、花桃祭りが行われています。出発式まで時間がありましたので満開の花桃を楽しんできました。

                

  

古河というと、すぐ、財閥の「ふるかわ」と読んでしまいますが、ここは、「こが」と読みます。私も福岡で古河までの切符を買う時「ふるかわ」と言ってしまいました。(笑)

古河は、古くは「許我」と呼ばれ、万葉集にも詠まれています。奈良時代から渡良瀬川の渡し場として賑わいました。

「まくらが」とは、万葉集の古河にかかる枕詞と言われています。

会場は、古河公方公園。参加者名簿がないため、誰が参加されているかわかりませんでしたが、会場内では、とほ娘さんご夫妻、地元茨城のKさん、藤沢のSさん達が参加されていました。

1日目のコースは、20K・・・・・・古河名所旧跡コース

            15K・・・・・・桜と街道コース

             7K・・・・・・歴史と美術館コース

私達は、20KMコースに参加しました。出発式のあと、9:00スタート。

  

古河公方公園内には、古河公方館跡があります。

古河公方館跡(県史跡)は、御所沼と呼ばれた沼に突き出た所に位置し、「鴻巣御所」とも呼ばれていた。ここは古河公方足利成氏が古河城の別館として築城したものといわれる。

また最後の古河公方義氏の遺児氏姫が古河城からここに移され、その死まで住んだ所でもある。現在は「古河公方館跡」の碑が立っており、近くには堀と土塁を見ることができる。

  

公方公園を出て、コースは、渡良瀬川河川のサイクリングロードに出ます。渡良瀬川は、利根川の支流の一級河川です。

渡良瀬川というと、熊本出身の森高千里さんが歌った「渡良瀬橋」があります。

     渡良瀬橋で 見る夕日を  あなたはとても好きだったわ きれいなとこで育ったね  ここに住みたいと行った・・・・・・

その渡良瀬橋を探しますが、残念ながら古河ではなく、栃木県足利市の方にあるそうです。

河川敷に来ると、一瞬火事」 かな?と思うぐらい煙が上がっています。これは、「ヨシ焼き」といって渡良瀬遊水地のヨシを焼いて害虫駆除をするそうです。

   

7,6KM地点が1回目のチェックポイントです。このあとコースは、古河第二高校内を通ります。

  

13,3KM地点の野木神社が2回目のチェックポイント。この野木神社は、栃木県です。

およそ1600年前、仁徳天皇の時代の建立。平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂が延暦21年(802年)にここに詣で、勝どきをあげたといわれています。

坂上田村麻呂は、蝦夷の反乱を抑えられたのは「神の助け」として、そのお礼に社殿を新築し、宮地を現在の場所に定めたのです。

鎌倉時代になると、源頼朝が社領として田地を寄付したり、源実朝が神馬を奉納するなど、源氏の信仰が厚かったようです。

江戸時代には、古河藩主の崇敬も厚く、現在の社殿は、文政2年(1819年)に土井利厚によって再建されたものです

    

境内を見ると、「二輪草群生地」とあります。

二輪草というと、川中みゆきさんが歌った「二輪草???」

   あなた おまえ 呼んで呼ばれて 寄り添って・・・・・・

キンポウゲは、見たことがありましたが、その仲間の「二輪草」は、初めて見ました。そうですね、歌の歌詞みたいに寄り添っているように見えますね。

 

  

コースは、再び渡良瀬川河川に。

ここには、「古河」を歌った万葉歌碑がありました。

  「まくらがの 許我(こが)の渡りの からかじの 音高しもな 寝なへ児故に」

      意味は、(まくらがの古河の渡りに唐楫(からかじ)の音の高いように、噂が高くたったなあ あの子と共寝したわけではないのに」 ※唐楫・・・唐風の楫、柄のついた楫

  「逢はずして 行かば惜しけむ まくらばの許我(こが)漕ぐ船に 君も逢はぬかも」

     意味は、(あなたと逢わずに行ったら心残りだろう。まくらがの古河を漕ぐ渡り船であなたとお逢いできないものかな)

    

コースは、日光街道の方に行きます。「雀神社の大欅」があります。この欅は、元来2本あった木が合体したので「夫婦欅」とも呼ばれています。

目通り周囲8,8M、根元周囲18M、樹高25M。

  

  

  

古河歴史博物館の所が3回目のチェックポイント。このあたりに古河城出城があったそうです。

   

鷹見泉石記念館は、歴史博物館の別館として開館されました。もともとは古河藩の武家屋敷でしたが、鷹見泉石が晩年を送った住まいで古河に現存する唯一の武家屋敷です。

   

長谷観音に来ました。長谷観音は、鎌倉、奈良の長谷観音と共に日本三大長谷と呼ばれています。

古河城の鬼門除けとして明応2年(1493年)、古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より勧請したもので、累代古河城主が祈願をこめたところとされています。

背丈2メートルあまりの十一面観世音菩薩立像が安置されています。日本三大長谷のひとつです。

ここでも朱印をいただきました。

    

香取神社を過ぎると国道沿いに大きなファミレスがあります。「ばんどう太郎」です。お店の前の駐車場は、お昼時で車がいっぱいです。

確か、テレビの「ケンミンショー」で見たような気がします。ばんどう太郎は、茨城が発祥地なんですね。

公方公園に戻ってきました。公園内は、花桃の花見客でいっぱいです。アトラクションでバルーンも上がっています。

古河では、花桃のあとは、桜の花見ですね。ここを歩いた時は、桜は蕾の状態でしたが、もう満開になっているでしょうね。

このように古河の人は、花見が2回できるのですね。

  

13:28 無事ゴールしました。今日は、膝の痛みもそんなに感じなく平均速度5K/hぐらいで歩き、ました。全快までもう少しです。

 本日20KMのGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第6回唐津・虹ノ松原ツーデーウオーク(佐賀県唐津市)15km

2016-03-20 09:54:14 | オールジャパンウオーキングカップ

3/19(土)第6回唐津・虹ノ松原ツーデーウオークに参加しました。今年から会場が浜玉公民館に変わりました。

天気予報では、曇りでしたが、朝から霧雨が降っています。

         

出発式の後、8:00 25kmコーススタート。先ず、日本三大松原の一つ「虹ノ松原」を歩きます。

  

天気がよければ、唐津湾がきれいに見えるのですが、今日は、雨の為見えません。

膝の痛みがまだ完治してませんのでマイペースで歩きますが、それでも皆さんのペースに合わせると少しハイペースになってきます。

途中で膝が痛くなり、休み休み歩きます。5kmぐらいで東唐津唐津シーサイドホテル前に着きました。

  

唐津の老舗旅館「洋々閣」です。明治・大正の風情のある旅館です。一度は、泊ってみたくなる旅館です。

舞鶴橋を通り、唐津城へ。

 

今日(3/19)は、福岡で桜の開花発表が行われました。ここ唐津城も桜の名所です。何輪かは、咲いていましたが、本格的な見ごろは、来週末ぐらいでしょうか?

  

  

唐津城の急な階段を上ってきたからか、また、膝が痛くなりました。

唐津城を下りた所が、25k、15kの分岐点です。このままでは25kmは、歩けないな~と思い、15kmコースへ変更しました。

  

ゴールまでの時間はたっぷりありますのでここからは、ゆっくりゆっくり歩くことにします。

東唐津給水所では、「松原おこし」が接待で出されました。私の子供時代、学校の遠足によく「鏡山」「虹ノ松原」に行ってました。その時のお土産は、この「松原おこし」でした。

食べてみると、懐かしい味がしました。あのころは、こんなに綺麗なラッピングではなかったと思いますが・・・・・・

県立唐津東中学・高校は、佐賀県が行っている中・高一貫教育です。県内には、この唐津東の他、3校計4校あります。

  

3/20のコースに入っている「鏡山」。今日は、雨で霞んでいます。

  

コースの帰りも虹ノ松原を通ります。

  

松原を抜けると浜崎の町の中です。

「たばこや」さんという食堂があります。昔はたばこやさんだったのでしょうか?

   

浜崎と言えば、「けいらん」ですね。豊臣秀吉が朝鮮出兵で名護屋城滞在中、浜崎の諏訪神社に戦勝祈願した際に地元民が献上したものと言い伝えられています。

またこの時、秀吉が「戦に勝つまで帰らん」と言ったエピソードがあり、「帰らん」という言葉が菓子の名称の「けえらん」の由来となったとの言い伝えもあります。

米を蒸した生地で餡を包んだシンプルなお菓子ですが、食べると、結構病み付きになります。

  

12:00浜玉公民館にゴール。8時にスタートしましたから15kを4時間もかかってしまいました。

早く膝が治らないかな・・・・・・・

  

ゴール後、雨で濡れた体を温めるため、会場近くの「凪の音」に行き、ひと風呂浴びました。

ここのお湯は、汐湯でぬるぬるしています。ここも「美人の湯」でしょうか?じっと入っていると温まってきました。

  

お昼は、国道沿いのレストラン「蜂」でハンバーグセット」をいただきました。

明日(3/20)は、膝をいたわるため欠席します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2016年「指宿菜の花マーチ」2日目、指宿は雪です。

2016-01-27 06:30:00 | オールジャパンウオーキングカップ

1/24(日) 指宿は、深夜からの雪で一面真っ白です。

  

実行委員会のツイッターを見ると、一部変更はあるが、開催するとのこと。

(6:00発表)
本日(1月24日)開催のいぶすき菜の花マーチは、荒天のため、参加者の安全を考慮した結果、一部コースの変更がございます。

■30kmコースは、20kmコースに編入いたします。
ただし、編入した20kmコースの山岳地帯(魚見岳)を変更します。...
30kmコースを編入した20kmコースは7:00にスタートいたします。

■当初の20kmコースは通常通り8:30にスタートいたします。
こちらの20kmコースも、山岳地帯を変更し、実施いたします。

いずれのコースもリーダーに従って歩行ください。

ご参加の皆様におかれましては、お越しになられる際は十分にご注意いただき、お気をつけてご来場ください。

◎問い合わせ先
 いぶすき菜の花マーチ実行委員会
 TEL:0993-22-5519(大会本部)

ホテルからの送迎バスで会場に行ってみると、会場内は真っ白です。出発式は体育館で行うとのこと。

20kmのコースにエントリーしていましたが、10kmに変更しようかな?と思いましたが、外を見るとまだ雪が絶え間なく降っています。

  

  

スマホで鹿児島の交通機関の運行状況を調べると鹿児島空港は、雪の為閉鎖。指宿から鹿児島市内への高速バスも運休。

もう歩くどころか、果たして帰れるかどうかが心配になってきました。大会は、パスし帰ることにしました。(もう一つの理由は、私の膝の具合がよくないこともありました)

会場からタクシーを探しますが、この雪です。車もほとんど通っていません。仕方なく指宿駅まで歩きます。

  

雪の中、約30分かけて指宿駅に到着。

然し、駅の掲示板には、信号機の故障で電車が動いていません。

  

こうなると、最後の手段は、タクシーしかありません。9人集めジャンボタクシーを呼んでもらいました。

料金は、9人で割れる金額です。

約1時間半で鹿児島中央駅へ。鹿児島市内も雪です。(5年ぶりの大雪だとか)

  

指定席を買おうとみどりの窓口に行きますが、大行列です。(私達、JR九州のアクティブ65全九州用のチケットを利用していました)

これじゃ、いつ買えるかわからないので新幹線自由席で帰ることにしました。

11:40鹿児島中央駅発「さくら」で博多へ。

  

  

  

電車は、10分遅れで博多駅に到着。指宿駅を出てから約5時間半で博多に帰ってきました。(この後の電車は、軒並み1時間ぐらいの遅れだったそうです)

今回のいぶすき菜の花マーチは、記憶に残る大会でした。いつかまたリベンジしたいですね。

 

 

 

 

 

 


2016年「指宿菜の花マーチ」1日目25km (鹿児島県指宿市)

2016-01-26 09:34:08 | オールジャパンウオーキングカップ

私自身、今年最初のウオーキング大会「指宿菜の花マーチ」に参加しました。今年で7回目の参加。

1日目の会場「フラワーパークかごしま」までは、ホテルからバスで送っていただきました。

今日は、朝方雨が降っていましたが、会場に着く頃は、その雨も止んでいました。

この大会、全国のウオーカーが参加されており、全国の歩友と逢えるのも楽しみです。

  

  

8:30 25kmスタートです。今回、札幌のSさんと一緒に歩きました。最初、コースは、フラワーパークかごしま内を1周します。

  

テーマガーデンは、今年の干支の「猿」です。

  

ガーデン内には、早咲きの桜が咲いていました。この品種は、「伊豆の踊子」だそうです。

  

  

  

 

  

約2kmのフラワーパーク内を歩きました。ここで私の膝が痛み出しましたので痛み止めを飲み、ノルディックポールを用意しました。

先を行くと、前方に映画「幸せの黄色いハンカチ」もみたいな黄色い旗が立っています。ここでは、しょうが湯、キンカンの接待が行われました。

寒いときには、しょうが湯があったまりますね。

  

  

コースは田園地帯に入ります。ここからの開聞岳は、実に美しいです。

  

  

 山川中入口を通過。この地点が8,5kmと表示されています。私の万歩計を見ると、とうに10kmは越えています。

マップを見ると、40kmが8,5km地点、25kmは、10,4km地点です。25kmコースも距離を表示してほしかったな~。

コースは、これから上り坂になります。ふと、道路の畦道を見ると、つくしが立っています。

  

  

急な坂を登ると、今度は、急な下り坂が待っています。膝痛の私には、酷な下りです。膝に負担がかからないようゆっくり下って行きます。

この道は、「鰻・西郷どんの道」といって、佐賀の江藤新平を指宿まで送って行った林道だそうです。

  

鰻温泉が最初のチェックポイントです。鰻温泉は、1874年(明治7年)征韓論に敗れた西郷隆盛が約1か月間逗留したことで有名です。記念に残された襦袢が今も保管されています。

ここの楽しみは、温泉のスメ(巣目)で蒸した卵やイモ、茶ブシなどです。今年もおいしくいただきました。有難うございました。

  

  

鰻池を下り次のチェックポイントを目指します。コース上には、梅やコブシ(蕾ですが)の花が咲いています。

  

途中、バナナの花がありました。

   

  

JR西大山駅の看板が見えてきました。この駅は、日本最南端の駅です。因みに日本最北端の駅は、北海道・稚内駅です。

今日、一緒に歩いているSさんは、札幌の方です。

  

ここで2回目のチェックポイント。あと3kmです。

ここから開聞岳が綺麗に見えます。開聞岳と菜の花、列車・・・・・・この組み合わせが一番いいのですが、列車は、5分ほど前に出発していました。

開聞岳の上には、雲がかかってきました。明日は、雪の予報ですが、大丈夫かな?

  

14:30 やっとゴールしました。目標は、13:30でしたが、ちょっとゆっくりしすぎました。でもいろいろな風景に出会えて大変満足でした。

  

ここで先にゴールしていた北九州のNさんと合流。Sさんと歓談しました。

会場から、シャトルバスでホテルへ。すぐホテルの砂蒸しに直行。

疲れが吹っ飛びます。最高です!