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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

氷見キトキトウオーキング2016「2日目10km氷見海岸とまんがロード」富山県氷見市

2016-10-30 09:18:20 | オールジャパンウオーキングカップ

10/23 氷見キトキトウオーク2日目。今日は、旅館でゆっくり朝食を食べ「氷見海岸とまんがロード10km」コースにしました。

午前9時スタート。敦賀の車さんご夫妻と一緒に歩きます。

 

南部中学の信号を左折すると国道160号線氷見バイパスです。氷見トンネルを通り、ここから海峰小学校交差点まで歩きます。

海峰小学校から右折すると、「阿尾城跡」です。

  

阿尾城址は、大伴家持の歌に「東風が強く吹くところ」と詠まれた景勝地。海に突き出す断崖の城跡です。阿尾城跡は県指定史跡であり、16世紀中頃に越中と能登の交通の要であるこの地に

肥後の菊池武勝の居城として戦国時代末に築城されたといわれています。山を負い海に臨み、築城に適した地形であり、戦術上、「越中の府」といわれていた慶次郎ゆかりの地です。

現在は公園として整備され、伝本丸には3mくらいの展望台が設置されています。展望台からは氷見ならではの素晴らしい眺望を楽しむことができます。(富山観光ナビより)

現在は、榊葉乎布(さかきばおふ)神社が鎮座しています。

   

榊葉乎布神社は、榊葉乎布神社の創建年は不詳ですが越中国守大伴家持が勧請したのが始まりと伝えられています。阿尾菊池家初代武勝が当地に下向する際、

伊勢神宮の榊樹を持ち帰り阿尾城に植樹したところから榊葉神明宮を呼ばれるようになったとされ、以降、阿尾城の守護神として庇護されました。

明治12年(1879)に榊葉乎布神社に社号を改称し村社に列しています。(富山、歴史・観光見所より)

氷見の海岸にやってきました。ふと、横を見ると小さな祠があります。「魚取(なとり)社」と書いてあります。漁港の町「氷見」ならではの神社ですね。

「魚取社」は、漁猟に従事する人や漁を生業として海に生きる漁民等に大漁をもたらしたり、海上安全の守り神として崇拝されていました。

  

比美乃浜公園です。

  

右側には、「氷見番屋街」、氷見温泉「総湯」があります。車さんからいいお湯だったと聞きましたのでゴールしてから行ってみようと思います。

  

「ブリンス館」(ぷりんすではなく、ぶりんすです)がチェックポイント。6kmコースの人と合流し、チェックを受けるため長い行列ができています。

ブリンス館の横には、氷見海岸から見る立山連峰の写真があります。一度でいいからこういう景色を自分の目で見たいものです。

 

氷見商店街の「まんがロード」です。日曜日だからか、それとも休業されているお店が多いのか、シャッターが下りているお店が目につきます。

  

湊川に架かる「なかのばし」では、大伴家持の歌碑が建っています。

   

この後は、昨日通った「上日寺」を通ってゴールの「ふれあいスポーツセンター」へ。

 

     

11:55 ゴール これでオールジャパン42県目達成です。

ゴールでは、豚汁が振る舞われました。参加料は1000円でしたが、それ以上のおもてなしを受け、機会があればまた参加したくなりました。2日間の参加人数は、約1000人だそうです。

  

2日目10km氷見海岸と漫画ロードのGPSです。

ゴール後、車さんに教えていただいた氷見番屋街の温泉「総湯」に行ってきました。

この温泉、炭酸泉です。歩いた後の疲れも一遍でとれるようでした。

 

   

この後、今夜の宿「富山市」に向かいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


氷見キトキトウオーキング2016「1日目30km万葉の史跡めぐり」富山県氷見市

2016-10-29 05:58:43 | オールジャパンウオーキングカップ

朝起きて立山連峰の方向を見ると綺麗な朝焼けです。6時ごろには、立山連峰から朝日が昇ってきました。

今日の氷見キトキト30kmウオーキングは、7時15分迄に会場の氷見市ふれあいスポーツセンター集合。  ※注)キトキトとは、富山の方言で「新鮮」という意味。

旅館の朝食は7時からですので間に合わないのでフロントに言ったら「ます寿司」を用意してくれました。

  

旅館から会場まで車で約10分。会場では、平戸で一緒に歩いた車さんご夫妻、それと福岡のAさん、東京のMさんご夫妻とお会いしました。

7時半より出発式。式では本川氷見市長が挨拶をされました。本川市長は、まだ50歳前、若くてエネルギッシュな市長だと感じました。

  

出発式の後、バスでスタート地点の高岡市「二上山」に移動します。

   

二上山は、二上山(東峰)と城山(西峰)を2柱の神に見立て二神山と呼んだのが語源です。274m。晴れた日には、立山連峰、能登半島までの景観が見れるそうですが、

今日は霞がかかっており、見ることができません。

万葉歌人の大伴家持は、越中国司として高岡に赴任した時、二上山を題材に歌を詠んでいます。

二上山山頂付近は、南北朝時代に築城された「守山城址」があります。また、山頂には、世界平和を願って昭和45年に建立された「平和観音像」もあります。

8:20ウオーキング開始。参加人数は、ざっと目勘定で約150人ぐらいでしょうか?

  

二上山からの下りは、膝痛を持っている私には、つらいです。ゆっくり下りていきますが、どんどん追い越されていきます。

  

右側には、平和の鐘「大梵鐘」があります。この梵鐘、口径1,82m、重量11,25t、総高3,33mです。

高岡市の某企業は、梵鐘の国内シュア70%を占めています。約1時間で万葉歴史館まで下りてきました。

  

  

気多(けた)神社」は、養老2年(718)僧行基が創建したと言われています。また天平年間(757~764)に越中一ノ宮として能登一ノ宮の気多大社から勧請しました。

更に先に進むと昨日行きました「雨晴海岸」です。昨日は気付かなかったのですが、雨晴海岸には、JR氷見線が通っています。JR車内からの眺めも絶景だそうです。

   

氷見市に入りました。しばらくはコースに沿って歩きます。写真ばかり撮っていると家内はもう先の方を歩いています。

少しスピードアップします。島尾交差点から左折。

田子「藤波神社」は、746年、越中国守大伴家持に従ってきた橘正長が家持から授けられた太刀を祭ったのが藤波神社のはじまりと伝えられています。毎年4月中旬から年5月中頃、

鳥居の上まで美しく淡い紫色の藤が咲き誇ります。大伴家持は好んで藤の美しい情景を歌に詠み、その歌碑が拝殿の裏に建てられています。

また、佐阿弥安清(さあみやすきよ)によって作られたといわれる、幻想的な謡曲「藤」の舞台になったことでも有名です。(富山観光ナビより)

  

石武雄神社(いわたけおじんじゃ)を過ぎると少し上りにさしかかります。このあたりで家内に追いつきました。

11:50 チェックポイントのB&G海洋センターに到着。19km地点です。ここでは豚汁の振る舞いを受け、頼んでいたお弁当を食べました。

  

40分ぐらい休憩して再びスタート。

柳田布尾山古墳が22km地点。柳田布尾山古墳は、地元研究者の踏査によって1998年(平成10年)に発見されました。

全長107,5mの規模を有し、前方後方墳としては全国9番目、日本海側に面する前方後方墳としては最大の規模です。

2回目のチェックポイントは、海浜植物園。

  

この海浜植物園あたりは、万葉集で「松田江の長浜」と呼ばれた所。越中国守大伴家持は、5年に渡る越中国守在任中(746~751)、布勢の水海遊覧や能登巡行の道すがら

波穏やかな有磯海(ありそうみ :高岡市の雨晴海岸から氷見市の海岸あたり。富山湾の一部)の彼方に遠く、立山や能登を望む松田江の長浜の景観は、万葉人の心に強く印象づけられたことでしょう。

  

  

氷見市の中心部に入りました。

  

朝日山公園に行く途中、「上日寺」。ここには、銀杏の大木があります。樹高36m、幹周り12m。白鳳10年(671)創建の際観音菩薩を安置した時の霊木として植えられたということですので

樹齢約1345年でしょうか?1000リットルもの実を結ぶそうです。境内には多数の銀杏が落ちていました。

 

   

氷見高校の横を通るとゴールのふれあいスポーツセンターが見えてきました。

14:00 30kmゴール久しぶりの30kmです。疲れました。 

  

氷見キトキトウオーク1日目万葉の史跡めぐり30kmGPS

ゴール後宿舎に帰り、温泉に入り一眠りしていましたら、歩友さんからメール。

6時前の富山のローカルニュースで氷見キトキトウオークが紹介され、私が映っていたとのこと。残念です。見れなかった・・・・・・・

今夜の宿舎の夕食です。

  

  

【追記】

氷見は、寒ブリで有名ですが、このブリ、出世魚です。ところが地域によって名前が違います。

九州北部:  ワカナゴ →  ヤズ →  ハマチ  →  ブリ

富山 :    コツクラ →  フクラギ → ガンドウ  →  ブリ

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ひらどツーデーウオーク2日目16kmコース(長崎県平戸市)

2016-10-11 11:46:57 | オールジャパンウオーキングカップ

10月8~9日は「ひらどツーデーウオーク」でした。

当初は、2日間とも参加予定でしたが、8日は、プロ野球パリーグクライマックスシリーズソフトバンクホークスVSロッテマリーンズの観戦の為ヤフオクドームに行っていました。

試合は、ハラハラドキドキの展開でどうにか我がソフトバンクが4-3で逃げ切りました。(翌日の試合も勝って12日からのファイナルステージへ進出)

  

翌日9日、福岡の自宅を午前5時に出発。一路平戸へ。会場の平戸文化センターには7時15分に到着。

会場では、茨城のKさん、敦賀の車さんご夫妻と会いました。会場からは平戸城が見えます。

平戸城は、松浦家26代鎮信は、慶長4年亀岡に「日の岳城」を築きました。しかし徳川家康は、豊臣秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしを向けた。

鎮信は、その疑いを払うため「日の岳城」を焼却、平戸6万1,700石と民を守りました。以来約90年間を「御館」で過ごしますが、30代棟となって1704年「平戸城」の再築を開始、1718年に完成しました。

明治6年廃城となり、昭和37年平戸市により復元されました。

   

8:30 30kと16k同時スタート。今日は、敦賀の車さん、佐賀・Dさんといっしょに歩きます。

16kmコースは、文化センターをスタートし、白浜→平戸大橋→平戸瀬戸市場→田平支所→昆虫自然園→田平天主堂→田平公園→平戸大橋公園→市役所前→文化センターゴールのコースです。

30分ぐらい歩くと平戸大橋です。今日は風が強くちょっと肌寒い感じがします。特に橋の上では突風が吹き、私のトレードマークの「風車」が飛んでいきそうです。

  

  

橋を渡ると田平(たびら)町です。

左折しると「平戸瀬戸市場」ふが見えてきます。平戸大橋が完成するまでは、ここから平戸行のフェリーが発着していました。

ここでは、給水の他に丸天が振る舞われました。

 

少しコースを外れて、松浦鉄道「たびら平戸口駅」に寄り道です。松浦鉄道は、1988年JR九州松浦線を受け継ぎ第三セクターとしてスタートしました。

この駅は、日本最西端の駅として知られています。

田平町は、昆虫の町でもあり、駅には、カマキリと貨車のモニュメントがありました。

     

里田原支石墓の所から右折します。ここから緩やかなアップダウンが続きます。

田平昆虫園です。田平昆虫園は、全国でも珍しい昆虫園です。1992年(平成4年)7月に当時の田平町の町営にて開園しました。施設面積は約4.1ヘクタールで、

敷地内は林地、池・水際、花壇・畑地、草地・裸地の4つのゾーンに分かれており、あらかじめ昆虫が住みつきやすい環境を整備して周辺から園内に集まり棲息している昆虫を観察するという形態をとっています。

付属施設として昆虫館が設けられており、昆虫に関する展示のほか、ビデオ・図書などの閲覧ができます。(Wikipediaより)

  

田平天主堂が最初のチェックポイントです。

  

 田平(たびら)教会は、1886年以降、黒島と出津(外海)から移住して来た信者が造り上げた。両地域とも潜伏キリシタンが多かったが、明治になってカトリックに復帰し、

フランス人神父が常駐して教会も建てられた。その後、人口が増えると、神父が田平に土地を購入して数家族が移り、次第に移住者が増えていった。

最初は民家を仮聖堂としていたが、本格的な教会の建設を計画する。信者の積立金に県内各地での募金やフランス人篤志家の大口寄付を加えて資金を調達し、信者の献身的な労働奉仕により、

1918年に念願の教会ができた。設計施工は鉄川与助で、多彩なレンガ積み手法、ススを塗った黒レンガによる装飾など、与助のレンガ造教会の最高峰とも言われる。

正面には八角形のドームを頂く鐘塔がそびえ、内部のリブ・ヴォールト天井も本格的である。教会は、平戸瀬戸を見下ろす高台に立地する。司祭館や門柱、石段、石垣などが残り、

周囲には墓地や畑が広がるなど、歴史的環境がよく保存されており、2003年に国の重要文化財に指定された。(長崎県の教会群インフォメーションより)

 

  

教会の中に入りたかったのですが、今日は日曜日でミサが行われていましたので外からステンドグラスを撮影しました。

       

全快参加した時は、北松農業高校で梨のお接待がありましたが、ちょうどこの日は高校の運動会です。梨は、ナシ。(笑)

  

コースは、田平公園へ。ここからの平戸大橋の眺めは、最高です。昨日は悪天候だったそうですが、今日は天気も良く素晴らしい光景に出合いました。

再び平戸大橋を渡ります。向かい風が強く歩くのも苦労します。橋の途中で30kmコースのトップの方が追い越して行かれました。時速8kぐらいのペースでしょうか、速いです。

平戸大橋を渡り大橋公園が2回目のチェックポイントです。ここが昼食会場。車さんたちは、お弁当を予約されており、ここで車さんたちと別れ、ゴールを目指します。

12:30 無事16kmゴールしました。受付時にいただいた金券で平戸のアゴを買い家路を急ぎました。

途中でカーラジオをつけるとパリーグCSホークスが勝利していました。あと4勝で日本シリーズです。頑張れホークス!

  

 

 

 

 

 

 

 


日光ツーデーウオーク (2016) 2日目 世界遺産「日光の社寺コース」20km

2016-09-10 18:36:55 | オールジャパンウオーキングカップ

)9月4日(日) 日光ツーデーマーチ2日目。この日は、「世界遺産 日光の社寺コース」20kmに参加しました。

台風の影響か、お天気はあまりよくなくいつ降ってくるか心配です。一応リュックには、傘とポンチョを用意しました。

このコース前半は、稲荷川砂防堰堤までが標高870mあり、かなりのハードなコースです。

午前9:00スタート。

 

 

歩道橋を渡り右折。このあたりから徐々に上り坂になってきます。

日光小学校前を通り、稲荷川橋へ。

 

稲荷川は、神橋付近でで大谷川と合流します。

  

4km地点の「開山堂」が最初のチェックポイント。昔は、このあたりが日光参拝の中心地だったそうです。いろいろな史跡があるそうで一つ一つ見て廻ります。

 

開山堂は、日光を開山した勝道上人を祀る霊廟で、享保5年(1720年)頃に造営されたもので、唐様の重層宝形造り、総弁柄朱漆塗りの建物で、江戸時代中期の建築様式を現しています。

地蔵菩薩像が安置され、毎年4月1日に開山会法要が行われます。

観音堂:別名「産の宮」と呼ばれ、。聖観世音菩薩が本尊 堂の正面に並んでいるのは将棋の駒。出産を控えた女性がこの駒を借りだし自宅の神棚に供えれば安産と言われ、無事出産したなら

新しい駒をつけて返納する。昔は香車だけであったので香車堂ともいわれた。石の鳥居があるのは神仏混合のなごり。

仏岩:開山堂の裏手にあります。頭上の岩壁に仏の姿をした岩が並んでいたのが、地震で岩が崩れて消失し、仏岩の名のみが残ったともいわれる。

岩壁基部のくぼみには、梵天、帝釈天と四天王のうちの三体、不動明王の石像六体がならんでいます。

  

尚も坂道が続きます。石畳の上を歩くとどうしても慎重になり、歩く速度もだんだん遅くなります。もう汗びっしょりになりました。昔の人もこんなきつい坂を登ったのでしょうか?

北野神社: 学問の神様菅原道真(天神様)を祀る。寛文元年(1661)、筑紫安楽寺の大鳥居信幽が勧請したものである。祭日は8月25日。鳥居や祠の奥の巨岩に天満宮の梅鉢紋がみられる。

神馬(しんめ)の碑: 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの折、徳川家康が乗った名馬の碑。家康が亡くなった後も元和3年(1617)から寛永7年(1630)に亙たる14年間東照宮の御神馬として奉仕した。

            延宝6年(1679)梶 定良の建立。由来の碑文が刻まれている。

   

白糸の滝:  天狗沢にかかる名瀑。落差約10メートル。弘法大師修行の場と伝えられる。

         文明18年(1486)京都聖護院の道興准后が日光を訪れ、その時の紀行文「廻国雑記」に次の和歌が詠まれている。" 世々を経て 結ぶ契りの末なれやこの滝尾の たきの白糸 " 

別所跡: 東照宮の遷座以前、日光参拝の中心はこの滝尾周辺であった。日光責めで有名な輪王寺の「強飯式」(山伏が大盛りの飯を残さず食べろという儀式)もここが発祥である。

      明治になって別所は廃絶。永正6年(1509)日光に来た連歌師「宗長」の紀行文「東路のつと」には、「ここより谷々を見下ろせば、院々僧坊およそ500坊にも余りぬらん」とあり、

      盛時の様子が偲ばれる。

    

影向石: 影向とは、神仏が仮の姿をとってこの世に現れること。弘法大師(空海)が弘仁11年(820)この地に来て奥の大岩あたりで神霊の降下を祈願したところ

       美しい女神が現れたと伝えられている

運試しの鳥居: 元禄9年(1696)に三代将軍家光の忠臣、梶 定良が奉納したもので鳥居の頼束(中央の縦の部分)の丸い穴に小石を三つ投げ穴を通った数で運を試したという。

 

滝尾神社楼門: 重層入母屋造、総淡塗り。元禄10年(1697)に移転新築された。それ以前は、正面参道石段を登った付近にあり、おなじならいの門であった。

           江戸建築の重層な建物である。

滝尾神社:    伝えられるところによれば、弘仁11年(820)弘法大師が日光に入山し、滝尾において修行された際、女峰山の女神を感得して奉斎したことに始まるという。

           後に新宮(本社)、本宮(本宮神社)とを合わせて「日光三所権現」と称されるようになる。東照宮が日光に遷されるまでは、滝尾の周辺が日光山参詣の中心だったという。

   

滝尾稲荷神社: 弘仁11年(820)弘法大師が滝尾神社と共に稲荷神社も創建。祭神は、倉稲魂神(稲荷大明神)。昭和41年(1966)9月に台風で流出したため、昭和43年(1968)巴会により、再建された。

           3月25日が例祭。5月25日の講社大祭には多くの信者が集まる。昔、滝尾上人が朝のお供えを忘れると稲荷の神が化けて出ては催促したという伝説がある。

  

更に上って行くと10k、20kの分岐点があります。もうきついので10kmの方にコース変更しようかと思いましたが、折角来たのですから20kの方に歩きます。

 

稲荷川砂防堰堤に来ました。ここが標高870m地点です。

この稲荷川は、江戸時代の寛文2年(1662)の豪雨により土砂災害が発生しました。当時の記録によると、稲荷川水源の七滝あたりの崖が崩れて大量の土砂が300軒余りを押しつぶし、

被害は、死者140名を越えたと言われています。稲荷川では、古くから土砂災害が発生しているため大正7年(1918)から内務省(現国交省)が砂防事業を行っています。

 

 

今でこそ、土木工法も発展し間知ブロックなどがありますが、大正時代は、山から石を切り出し、ノミで削って人馬で運搬したそうです。

セメントもあったそうですが、馬などを使ってここまで運んできたのでしょう。大変な工事だったですね。

これらの「稲荷川砂防堰堤」は、2014年に「土木遺産」に認定されたそうです。

  

第3砂防堰堤の所が2回目のチェックポイントです。総合会館スタート地点では、集団の前の方でしたが、休憩したり写真を撮ったりしていたら集団の後方になってしまいました。

   

しばし休憩し稲荷川砂防を下りて行きます。上りに比べ下りは楽ですね。(笑)

下りていくと右側の山手から野生の鹿が現れました。あわててカメラを出し写しましたが、ちょっとぼけてしまいました。

大きな建物があります。東照宮美術館です。今歩いていたコースは、東照宮の裏手を歩いていたのですね。

  

輪王寺に着きました。輪王寺は、現在平成の大修理中ですが、今年は、この工事中の三仏殿がみられる「天空回廊」がコースに入っています。

工事用仮設階段を7階まで登ります。完成すれば工事用テントに描かれているような建物になるのでしょうね。

 

  

 

東照宮の参道に来ました。コースは、ここから「日光二荒山神社」に向かいます。

  

 

日光二荒山神社は、1200年以上前、勝道上人が開いた日光山。二荒山神社は日光山信仰の始まりとなった古社で、二荒山(男体山)をご神体としてまつり、古くから下野国の一の宮としてうやまわれ、

信仰を集めていました。二荒山神社の主祭神は招福や縁結びの神様、大己貴命(おおなむちのみこと)がまつられており、現在では縁結びのご利益でも人気の社です。

また、日光山内の入り口を飾る木造朱塗りの美しい橋「神橋」は、二荒山神社の建造物。世界遺産「日光の社寺」の玄関ともいえる橋になっています。

  

御朱印もいただきました。二荒山神社を出て日光ロマンチック街道に出ます。

  

日光奉行所跡: 元禄13年(1700)に日光山の守護として四十余年を日光廟に尽くした梶 定良の屋敷を役宅として日光奉行がおかれ、寛政3年(1791)役宅に接して役所が建てられた。

           日光奉行は、日光廟の警備、営繕、祭事一切を司る他、日光領の司政や裁判を行った。明治2年(1868)に日光県が置かれ、その庁舎にあてられたが、

           同4年(1870)廃県とともに建物も取り壊された。昭和35年(1960)8月日光市の文化財に指定された。

日光真光教会: 明治32年(1899)に建てられました。日光で初めての洋風建築で当初は木造でしたが、大正3年(1914)石造りに建て替えられました。重厚なゴシック式の石造り建物です。

金谷ホテル創業地: 1873年(明治6年)、東照宮の楽師をしていた金谷善一郎が、ヘボン式ローマ字綴りを考案したアメリカ人、J.C.ヘップバーン(ヘボン)博士の知遇を得て、

              自宅の一部を外国人の方の宿泊施設とした「金谷カッテージ・イン」を開業したと伝えられています。これが「金谷ホテル」の始まりです。

              当時の日本には長期のバケーションといった慣習も、リゾートという概念も、ましてや洋食(肉食)といったものすらない、そんな時代にホテルとして歩み始めました。(金谷ホテルHPより)

   

日光田母沢御用邸記念公園の所が給水所です。このあたりは、ほとんど平坦ですのでだいぶん歩く速度も速くなってきました。

日光田母沢御用邸記念公園: 日光田母沢御用邸は、日光出身で明治時代の銀行家・小林年保の別邸に、当時、赤坂離宮などに使われていた旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部(現在の三階建て部 分)を移築し、

                    その他の建物は新築される形で、明治32年(1899)に大正天皇(当時 皇太子)のご静養地として造営されました。その後、小規模な増改築を経て、大正天皇のご即位後、

                    大正7(1918)から大規模な増改築が行われ、大正10年(1921)に現在の姿となりました。昭和22年(1947)に廃止されるまでの間、大正天皇をはじめ、

                    三代にわたる天皇・皇太子がご利用になりました。

                    戦後、博物館や宿泊施設、研修施設として使用された後、栃木県により3年の歳月をかけ、修復・整備され、平成12年(2000)に記念公園として蘇りました。(田母沢記念公園HPより)

               

コースも終盤に差し掛かりました。あと5kmです。

清滝神社の所が3回目のチェックポイントです。

清滝神社: 当社は、弘仁11年(820)弘法大師が日光に来山し、岩壁より一条の滝が落ちいているのを見て、かつて、役小角と雲遍上人が中国の大鷲山の清滝というところで、奇跡に逢った時の話を思い出して、

ここが、その地形に似ていることから、この滝を清滝と名づけられ、祠を建てて、清瀧権現とし、大海津美神を祀った。配神には、高龗神・大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命を祀った。

5月15日には、全国的にも珍しい「湯立神事」が行われる。大釜で塩湯を沸かし、それに笹の葉をひたして、塩湯の滴り落ちる熱湯を神職が頭上より受けるものである。

この笹の葉は、家内安全と無病息災のご利益があるとされている。(栃木県神社庁HPより)

    

しばし休憩後再びスタートします。この大谷川の水は、透明感があり、きれいな清流です。

  

左側に「やしおの湯」が見えてきました。昨日と今日の2日間は、日光ツーデーウオークに参加されている人には割引価格で入れるそうです。

コースは、大谷川沿いに歩きます。右側には、たくさんのお地蔵さまが立っています。これは「化地蔵」というそうです。

化地蔵: 日光山を再興した慈眼大師天海の門弟たちが彫ったと伝えられています。憾満ヶ淵の探索路沿いに並び、かつては100体ほどありましたが、明治の大洪水で何体か流失し、

      現在、約70体が残っています。百地蔵、並地蔵などとも呼ばれ、みんな似たような姿なので数えるたびに数が違うことから「化地蔵」と言われています。

  

憾満ヶ淵: 男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝です。古くから不動明王が現れる霊地といわれる。川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、晃海大僧正が真言の最後の句

       「カンマン」を取り「憾満ヶ淵」と名づけたという。晃海はこの地に慈霊寺や霊庇閣、不動明王の大石像などを建立したもので、往時は参詣、行楽の人々で賑わった。

       元禄2年(1689)松尾芭蕉も奥の細道行脚の途中立ち寄っている。「合満」とも書くので「がんまん」と濁って読まれることが多いが、命名の由来から考えると「カンマン」と澄んで読むのが正しい。

  

憾満ヶ淵から橋を渡ります。大谷川には、釣りをしている方を見かけます。何が釣れるのでしょうか?(ニジマス?、やまめ?・・・・・)

  

「石升の道」というのがあります。

石升の道:  この通りに並んでいる「石升」は、近くの湧水を水源とし、自然石をくりぬいた升を石菅でつないだ大正時代の水道です。

         ほとばしる豊かな水は夏でも冷たく、冬は暖かいので是非触れてみてください。(案内文より)

  

今日のコース、ゆっくりゆっくり歩きましたが、やっとゴールです。時間は14:10.

まだお振舞の「豚汁」はあり、おいしくいただきました。疲れましたが、20kmを選んでよかったです。

ゴール後、オールジャパン栃木県のスタンプを頂きました。達成まであと6県です。

  

今日「日光の社寺」20kmコースのGPSです。スタート当初GPSの調子が悪く日光小学校から記録されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日光ツーデーウオーク (2016)1日目 ギネスブック 「日光杉並木コース」20km

2016-09-08 16:29:00 | オールジャパンウオーキングカップ

9月3日(土) 「第17回日光ツーデーウオーク」に参加しました。今年は、日光開山1250年記念として、1日目は、ギネスブックにも登録されている「日光杉並木コース」20kmにエントリーしました。

日光杉並木は、日光街道、日光例幣使街道、会津西街道のうち、旧日光神領内にあたる大沢 - 日光間16.52キロメートル、小倉 - 今市間13.17キロメートル、大桑 - 今市間5.72キロメートルの3区間の両側に

スギが植栽された並木道の総称である。総延長は35.41キロメートルに渡り、世界最長の並木道としてギネスブックに登録されている。

徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた松平正綱が、主君家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に約20年の歳月をかけてスギを植樹し、東照宮に寄進したことに始まり、

江戸時代には幕府の日光奉行の元で手厚く保護された。明治以降は幾度も伐採の危機に瀕するものの、官民双方の有識者の努力によって大規模な伐採は避けられてきた。

中でも、地元出身の林学者で「杉並木博士」と呼ばれた鈴木丙馬は、杉並木の研究と保護に生涯を捧げ、保護運動の中心となって活躍した。

周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、寄進碑や一里塚も現存するなど、江戸時代の街道の景観をよく伝えており、

歴史的にも植物学的にも特に重要とされ、日光杉並木街道 附 並木寄進碑(にっこうすぎなみきかいどう つけたり なみききしんひ)として、日本で唯一、国の特別史跡および特別天然記念物の

二重指定を受けている。また、日光杉並木街道は、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」のひとつとして選定を受けているほか、読売新聞社選定の

「新・日本街路樹100景」(1994年)にも選定されている。現在も生活道路として利用されているが、街道を通る自動車の排気ガスや沿線の開発による根の切断などによって樹勢の衰えが進行し、

毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消している。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていない。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ、

これを打開すべく保護活動も盛んに行われている。(Wikipediaより)

 

会場は、JR日光駅からバスで約10分の日光総合会館。会場には、栃木・Kさん、埼玉・Iさん、福岡・Sさんなどの方がが参加されていました。

この大会参加者名簿が作られていませんでした。小栗日本ウオーキング協会名誉会長の挨拶の後、午前9時20kmコーススタート。

(日光仮面は、栃木県のゆるキャラです)

   

      

神橋(しんきょう)は、二荒山(男体山)をご神体としてまつる二荒山神社の建造物で、日光山内の入り口にかかる木造朱塗りの美しい橋。

奈良時代の末に勝道上人が日光山を開くとき、大谷川の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めた際、深沙王(じんじゃおう)が現れ2匹の蛇を放ち、その背から山菅(やますげ)が生えて

橋になったという伝説を持つ神聖な橋。別名、山菅橋や山菅の蛇橋(じゃばし)とも呼ばれています。現在のような朱塗りの橋になったのは寛永13(1636)年の東照宮の大造替のとき。

明治35(1902)年にそのときの橋は洪水で流されてしまいましたが明治37(1904)年に再建され、日本三大奇橋の1つに数えられています。(日光旅ナビより)

   

   

神橋を渡って左側には、「天海大僧正」の銅像が建っています。案内板を見てみると、

天海は、比叡山で天台宗の奥義を極めた後、徳川家に仕え、日光玉の貫主となった。当時の日光は、秀吉に寺領を没収され荒廃の極めにあった。

家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移し、東照宮創建に尽くした。日光山中興の恩人である。

天海は、寛永20年(1643)108歳で大往生した。この銅像は、日光出身の彫刻家「倉沢 実」の作品である。

その銅像の横には、日本の美味しい水「磐裂霊水」が」あります。ここも案内板には、

1200余年前、日光開山の祖「勝道上人」がこの地に清水を発見し、以来修道者が神仏に供えた霊水と伝えられる。この水は、男体山系湧水で日本で最も美味しい水として定評がある。

その迎え側には、国登録有形文化財である、日光金谷ホテル系列の「日光物産商会」があります。

 

スタートして2kmぐらいの地点が最初のチェックポイントです。

  

それから東武日光駅前信号から「日光杉並木」に入ります。七里大橋を渡った「日光だいや川公園」が2回目のチェックポイントです。

日光だいや川公園は、日光の自然と悠々・文化へのいざないを基本テーマに、広域レクリエーション活動の拠点として、オートキャンプ場やフィールドアスレチック、ニュースポーツ、緑の相談所等の

施設が充実している。大谷川のせせらぎ、湖畔の木々の木漏れ日、日光の大自然に囲まれた快適スポットです。

   

  

  

大谷だいや)橋の所から右折し、今市の町に入ります。東武日光線ガードの所が中間地点(10km)。時間は、11時丁度。いいペースで歩いています。

   

春日町の交差点を右折すると「二宮尊徳終焉の地」「今市宿」の看板があります。

二宮尊徳は、文政4年(1821)に下野国(現在の栃木県)に移り住みその後、半生を下野の復興に全精力を注ぎました。安政3年(1856)、今市報徳役所内で70歳の生涯を閉じました。

今市宿は、日光街道20番目の宿場町で、もと今村と呼ばれていましたが、宿駅となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿になりました。

日光街道の他、壬生道、会津西街道、日光北街道などが集まる交通の要衝でした。今市宿は、天保14年(1843)の記録によれば、本陣1、脇本陣1、旅籠21、家数は、236、人口1122人の規模でした。

今市宿の碑のすぐ先が「今市宿緑の広場」です。ここが3回目のチェックポイント。

  

瀧尾神社を過ぎ、再び「日光杉並木」に入ります。杉並木の側道には、水路が流れています。これも尊徳が造ったのでしょうか?

   

 

  

ウオーキングコースは、杉並木から再び「だいや川公園」に入ります。

  

  

県道248号線に出ました。この道も来るときに通った道です。大谷(だいや)川の所に「二宮掘・五ヶ村の歴史」の石碑がありました。

二宮掘」は、二宮尊徳(金次郎)設計の二宮堀の一つで、大谷川から取水して 千本木地区まで流れる灌漑用水路です。

和泉村、平ヶ崎、千本木の三ヶ村の懇望によって開かれ、 後に七里、野口の両村が加わって五ヶ村用水となり嘉永七年に竣工しました。

  

コースは、大谷川沿いを通り、途中からJR日光線の跨線橋を通ります。

  

東武日光駅の所から霧降大橋に向かいます。それから神橋近くを通り、東照宮と向かいます。

 

 

輪王寺です。輪王寺の創建は天平2年(766)、勝道上人が現在の四本龍寺附近で祈祷していたところ、急に紫色の雲が発生し男体山の方へたなびくのを見た事から、

この地を四神守護(青龍、朱雀、白虎、玄武)の霊地と悟り開創したのが始まりと伝えられています。さらに現在の本宮神社附近に男体山の神を勧請し、天応2年(782)には山頂に登り

二荒山神社奥宮を建立し、延暦3年(784)には中禅寺湖畔に男体山の遥拝所として二荒山神社中宮祠と中禅寺湖を開いています。嘉祥元年(848)には慈覚大師円仁が中興したとされ

三仏堂、常行堂、法華堂などの堂宇の建立や境内の整備を行いました。中世は歴代領主や権力者によって崇敬、帰依され寺運が隆盛し「日光三所権現」として山岳信仰も盛んになりますが戦国時代末期になると

輪王寺が北条氏領で関係が深かった事から豊臣秀吉により寺領を没収され一時衰退します。江戸時代に入ると天海僧上が再興し元和3年(1617)には江戸幕府の初代将軍徳川家康を祭る

日光東照宮が創建され、承応2年(1653)には3代将軍徳川家光の霊廟である大猷院が建立され、翌年の明暦元年(1655)には後水尾上皇から「輪王寺」の寺号を賜ります。

明治時代初頭に発令された神仏分離令により古来から神仏混合だった日光山全体を日光東照宮、二荒山神社、輪王寺と「二社一寺」に分離され輪王寺も一時称号を没収され本坊が火災にあうなど憂いを

被りましたが明治15年(1883)に輪王寺の寺号が許され、堂宇も随時再建されました。現在でも古建築、寺宝など多くの文化財を所有し日光東照宮、二荒山神社と共に「日光山内」として国指定史跡に指定され、

「日光の社寺」として世界遺産に登録されています。 (日光旅ナビより)

現在本堂が約50年ぶりの大修理が始まっています。工事用の仮囲いに本堂の写真がプリントされています。

「日光」の名前の由来ですが、「二荒(にこう)山」が「にっこう」となったそうです。

  

輪王寺護摩堂、輪王寺黒門の御朱印。

  

輪王寺の上を登って行くと、「日光東照宮」です。この鳥居は、我が福岡藩主黒田長政公の寄進によるものです。

今日は、土曜日のせいか、観光客の方がたくさん来られています。特に外人の方も多く見受けられます。

日光東照宮は、御存じのとおり徳川家康をお祀りしています。現在の社殿群は、そのほとんどが寛永13年3代将軍家光による「寛永の大造替」で建て替えられたもの。

境内には国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟の建造物が並び、その豪華絢爛な美しさは圧巻です。全国各地から集められた名工により、建物には漆や極彩色がほどこされ、

柱などには数多くの彫刻が飾られています。現在陽明門と三猿の工事が始まっています。

  

拝観料を払い中に入ろうとしましたが、現在時間は、13:20。ウオーキングのゴールの制限時間が16:00 

今から見て廻ると2時間以上はかかるし・・・・・と迷い、チケットを見ると日付が入っていません。「このチケットで明日入場していいかどうか」係りの人に聞きましたら、チケットの有効期限は本日までです。

との返事。仕方なく明日でも行こうとチケットの払い戻しをしました。

  

今、気づいたのですが、会場の日光総合会館は、東照宮のすぐ近くなんですね。坂を下り、地下道を潜ったら「ゴール」のゲートが立っていました。

13:35無事ゴール。

  

今日は、台風前で蒸し暑かったのか、もう全身汗でびしょびしょです。早くホテルに帰り、ホテルの温泉に入りたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第19回いわて花巻イーハートーブの里ツーデーマーチ2日目20km花巻温泉郷コース

2016-08-29 05:43:08 | オールジャパンウオーキングカップ

イーハートーブの里ツーデーマーチ2日目は、30km 「光太郎と賢治出会いのコース」、20km 「花巻温泉郷コース」、11km 「イーハートーブの里・賢治の道コース」、5km 「日居城野運動公園コース」です。

私達は、20kmの「花巻温泉郷コース」に参加しました。

20kmコースは、最初「釜淵の滝」がコースに組まれていましたが、熊が出没したとの連絡があり、急きょ他のコースが組み入れられました。

7:40 30kと20kの合同出発式の後、30kに続いてスタートします。

  

今日も花巻駅東口地下道を通ります。

  

花巻市内には、たくさんのお花が咲いています。市民の皆様がお花を愛されているからでしょうね。歩いていて和みます。有難うございます。

コースは、田園地帯を歩きます。田んぼでは稲穂が頭を垂れています。もうすぐ収穫ですね。

  

花巻市体育館に来ました。体育館には、今年の国体のポスターが貼られていました。今年の海上は、「岩手県」です。

     

ここから「北上・花巻温泉自転車道」を通ります。

この自転車道は、大正14年に創業した「花巻電鉄」という軽便鉄道の花巻温泉線跡地です。

駅は、花巻温泉 → 松山寺 → 北金谷 → 瀬川 → 花巻グランド → 花巻駅 の6つでした。

昭和47年(1972)の廃線により自転車道として生まれ変わりました。

  

かつての駅「松山寺前」は、このあたりでしょうか?

この駅があった所に昔の駅名をいれた看板でも建てられたらどうでしょうか?

  

花巻温泉郷が見えてきました。

   

「花巻温泉」は、大正11年(1922)、台温泉からお湯を引いて造られた温泉街には、桜並木や松並木、バラ園などがあり、東北随一の温泉リゾートとして全国に名を馳せています。(大会誌より)

本当は、ここから「釜淵の滝」に行くコースでしたが、先日クマ出没情報があり、コースが変更になりました。

釜淵の滝の写真を花巻観光協会のHPから引用させてもらいました。

花巻温泉を流れる台川にある滝です。高さ8.5m、幅30mの大きな岩の上を清流が幾筋にも分かれ、滝壺に落ちていくさまは爽快です。

名前の由来は、滝つぼから釜の形をしているから等さまざまです。

釜淵の滝周辺の森林は1周20分ほどの遊歩道になっており、木漏れ日のなかを歩ける手ごろな散策コースです。 次回は是非コースに入れてほしいな~

コースは、花巻温泉から折り返して花巻広域公園の方に向かいます。

  

今日は、雨の心配はしなくていいですが、台風9号の影響か、かなり蒸し暑いです。水分を補給するのですが、すぐ汗に変わりますので、また補給するという循環を繰り返しています。

コンビニもないし・・・・・・・・ 歩いていたら老人施設に自販機がありましたので、清涼飲料水を買い一気飲みします。

12,2km地点の花巻広域公園が最初のチェックポイントです。

花巻広域公園は、広々とした敷地の中に9ホールあるゴルフ場を始め、テニスコート、円形広場、池、展望台等が整備されています。(大会誌より)

  

少し休憩して歩き出すと、公園の関係者のかたでしょうか、手作りのおもちゃをお孫さんにどうぞとくれました。

イヤイヤ、こんなに面白い物だったら私の手遊びにしますと言ってお礼を言って別れました。

  

また田園地帯を歩きます。遠くには、山が見えますが、あれを越えたら秋田県だそうです。

自転車道に咲いていた大きな花弁の芙蓉の花は、地元の人が改良してあの大きな芙蓉になったそうです。芙蓉もハイビスカスの仲間、朝開いたら夕方には萎みます。

 

 

18,8km地点の日居城野(ひじょうの)公園が2回目のチェックポイントです。

市内西北の端に位置した野球場、陸上競技場、テニス場などがある運動公園。中央を花巻温泉~北上・展勝地までのサイクリイングロードが通っています。

元々ゴルフ場だった場所なので芝生広場、多目的球場などもありました。

ここでは、豚汁の接待がありました。

  

先を歩くと、「花巻東高校」が見えてきました。ご存じのとおり、西武・菊池雄星投手、二刀流の日本ハム大谷翔平選手の母校です。

菊池投手は、盛岡市の出身、大谷選手は、奥州市の出身です。大谷選手は、指を怪我して現在、投手の方は、休養中ですが、DHとして打者専任中です。

彼がDHとしてスタメンに入ってから日ハムは凄い勢いで我がホークスを追いかけています。

ホークスは、この大谷選手に相性が悪いのか、どの投手も彼を苦手にしています。ホークス戦にはホントよく打ちます。

投手も打者としても非凡な所を持っているのですね。ホークス愛に燃える私は、校門に向かって「どうか、ホークス戦にだけは、打たないで!」と祈りました。

学校の神様、どうか願いを聞いてくださいね。

  

花巻東高校を出ると、あと2kmの標示がありました。

  

12:45 2日目20kmコースゴールです!

  

これでオールジャパン40県目クリアしました。達成まであと7県。

来月は、日光、10月は、氷見、12月名護を予定していますので来年度には達成しそうです。

今日20km花巻温泉コースのGPS

 

ゴールしてから花巻温泉に向かいました。この時間でしたら、お風呂は貸切みたいです。疲れがとれました。

  

 

 

 

 

 

 

 


第19回いわて花巻イーハートーブの里ツーデーマーチ1日目20km賢治文学散歩の道コース

2016-08-27 15:06:11 | オールジャパンウオーキングカップ

8/20(土)岩手県花巻市で行われた「第19回いわて花巻イーハートーブの里ツーデーマーチ」に参加しました。

「イーハートーブ」というのは、一説によると、「岩手県」をエスペラント語で発音すると、イーハートーブになります。

宮澤賢治の造語で、賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉です。賢治は、岩手県を理想郷としたものと考えられます。

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1日目のコースは、40km「東和・大迫・石鳥谷ぐるっとコース」、20km「賢治文学散歩の道コース」、10km「花巻の水辺と新渡戸ロードを歩こうコース」、5km「イギリス海岸を歩こうコース」です。

私達夫婦は、20kmの賢治文学散歩の道コースをエントリーしました。

「花巻」という地名の由来は、いわての文化情報大事典によると、

中世は「鳥谷ヶ崎(とりやがさき)と呼ばれていた。

1、「花の牧」という名馬を産する牧場があったことから

2、北上川が水深く渦を成し、春には花弁が水上に浮かんで美しい風景を見せたことから

3、アイヌ語「バナ」で川下に開けた土地

4、「端(ハナ)牧」の意味で、川が合流する三角州の牧のこと          以上のことがあげられるそうです。

会場は、花巻駅そばの「なはんプラザ」。宿泊したホテルの横ですので会場まで徒歩1分の距離です。

天気予報は、曇りで一時にわか雨で台風のせいでしょうか、非常に蒸し暑いです。

  

午前9時、小学生の「激」でスタートしました。

  

スタートしてから花巻駅を過ぎ地下道を通って駅の東口に行きます。ここには、大正4年に創業した「花巻軽便鉄道」の電車が展示されています。

  

しばらく行くと、左側に「賢治ゆかりの梨の木」があります。賢治が農学校教師時代に植えられたもので現在2本残っています。

10月の中旬には、収穫祭が行われるそうです。

花巻は、地名のごとく市内の道路脇にたくさんの花が植えられています。因みに市の花は、ハヤチネウスユキソウ、市の木は、コブシです。

  

文化会館の前には、賢治が教師を務めた「花巻農学校跡」があります。

 

  

賢治の菩提寺は「身照寺」です。寺の裏手に賢治のお墓があるそうです。

「鼬弊(いたちべい)稲荷神社」があります。鼬幣とは、何かと調べましたら地名だそうです。難しい地名ですね。

  

歩いていると「賢治母イチの実家」の看板を目にしました。賢治はこの母親の実家で生まれていました。

その時産湯に使った井戸が今でも残っています。賢治の両親は、宮沢家同士で結婚しています。

  

上町商店街に入りました。この商店街には、賢治の絵が歩道のインターロッキングに埋められています。

 

商店街の中心地には「賢治の広場」がありました。

  

賢治の生家です。現在人が住んでおられますので外から写真を撮らせていただきました。

  

同心家屋」という所に来ました。ここでは、給水、お漬物のサービスがありました。

「同心家屋」とは、天正19年(1591)九戸の乱の時、鳥谷ヶ崎城の守護にあたった一族の浅野重吉は配下の一隊30人を残して引き揚げ、花巻同心組となり、城内二の丸馬場口御門の下馬場に

住居を与えられて住みました。延宝8年(1680)御同心三十人は、向小路の延長100間の東側に15軒、西側に15軒に移り住み、これが現在保存されている同心家屋です。

今の所在地は、保存の為昭和55年3月に移築したものです。(大会誌より)

  

このあたりには、賢治の詩碑がたくさん建っています。

  

  

有名な「下ノ畑」の詩碑です。

  

北上川を歩く頃から、雨が降ってきました。あわてて傘を出しさして歩きます。

河川敷では、今晩行われる「イーハートーブ花火大会」の準備が行われていました。このウオーキング大会参加者には、桟敷席が用意されていますので今から楽しみです。

雨が早く上がらないかな~

  

北上川」というと、私が小学生の頃流行った「北上夜曲」があります。歌っていたのは、マヒナスターズと多摩幸子さんという綺麗な方でした。

                                匂い優しい 白百合の

                                         濡れているよな あの瞳

                                         想いだすのは 想いだすのは

                                         北上河原の 月の夜

この「北上夜曲」の歌碑は、北上市に建っているそうです。

  

又、雨が降ってきました。今度は大降りです。すぐ、ディスカウントショップの店の前に行き、雨宿りします。

  

花巻新渡戸記念館というのがあります。

「願はくはわれ太平洋の橋とならん」の信念のもと、国際人として活躍した新渡戸稲造。(5千円札の肖像)。彼は盛岡が生誕地ですが、彼の先祖は1598年(慶長3年)から約230年間、

花巻の地に居住し、花巻城士の文武両道にわたる指導にあたるとともに、新田開発に情熱を傾けた一族でした。

新渡戸稲造の祖父、傳(つとう)は、1855年(安政2年)、不毛の地だった三本木原への上水開削に着手し、父(十次郎)、兄(七郎)と三代にわたって、現在の十和田市発展の基礎を築きました。

雨はすっかり上がりましたが、非常に蒸し暑くなりました。もうシャツはビショビショです。

イーハートーブ館にやってきました。ここが2回目のチェックポイントです。豚汁のおもてなしがあります。

  

ここから宮沢賢治記念館にいけますが、「熊目撃情報」の看板を見ると足が竦みます。

  

  

釜石線新花巻駅の踏切を渡った所にもコンビニがありました。暑いのでここでガリガリ君を買いました。

  

ここから田園地帯を歩きます。田んぼの稲は頭を垂れ始めています。来月には稲刈りが始まるのかな?

詩の森公園が最後の給水所です。ゴールまであと3kmぐらい。近くには「イギリス海岸」があります。

イギリス海岸は、瀬川と北上川が合流する地点の西岸にあります。白い泥岩層が川に沿って露出しているこのエリアを、宮沢賢治はドーバー海峡の白亜の壁を連想して

「イギリスあたりの白亜の海岸を歩いているような気がする」といって「イギリス海岸」と名付けました。平成18年7月28日付で、国指定名勝「イーハトーブ風景地」の一つに指定されています。

ここ十数年は、河川管理が進んだために、川の水位が下がった時にしか泥岩層が見られなくなりました。

  

あと2kmになりました。

  

コースは花巻城跡、イトーヨーカ堂を通り、新渡戸稲造父祖の菩提寺「雄山寺」へ。

  

雄山寺は、慶長3年(1598)に花巻郡代(花巻城の城代)であった北松斎が四男愛邦の死を悼み建立した寺院です。慶長18年(1613)に北松斎が92歳で死去すると雄山寺の境内に葬られ菩提寺となり、

法名「萬猷院殿節叟忠公大居士」が与えられています。享保3年(1718)には後裔である北可継によって石堂が建立され供養が行われ、さらに、宝暦12年(1762)の松斎150回忌には

北筋継により寺領15石が寄進され、文化9年(1812)の200回忌には堂宇の修復が行われ松斎の墓碑が建立されています。その為、様々な北家縁の遺品が寺宝として伝えられ、

特に甲冑(岩手県指定文化財)は北松斎の愛用のものとされ、華美に飾った戦国武将のものとは異なり質実剛健の実用的なものとされ「三社の甲冑」と呼ばれ、天照皇大神宮、八幡大菩薩、

春日大明神の文字が象嵌されています。三つ葵の紋付の羽織は北松斎が2代将軍徳川秀忠から拝領したと伝わるもので、北松斎が74歳の時書写した「太平記」や古文書類も

花巻市指定文化財に指定されています。又、新渡戸稲造を輩出した新渡戸家の菩提寺でもあり、祖父で花巻地方兵学の塾祖として知られる新渡戸維民の墓碑が建立されています。

「雷神」と呼ばれて獣のミイラがある事でも知られ、猫の姿をしているものの、手足が偉容に長く信仰の対象となっています。(花巻市観光・歴史・見所より)

  

花巻駅に戻ってきました。ゴールはすぐそこです。

14:02 ゴール!「雨ニモマケズ、夏ノアツサニモマケズ」無事ゴールしました。

  

今日の20kmのGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第14回「縄文の杜あおもりツーデーマーチ」2日目縄文満喫コース20km

2016-08-06 21:39:28 | オールジャパンウオーキングカップ

8/1(月)縄文の杜あおもりツーデーマーチ2日目。この日も4コースがあり、私達が参加したのは、「縄文満喫コース」20km。

このコースには、江戸時代から知られている縄文時代の遺跡「三内丸山遺跡」があります。文献では知っていましたので、興味津々です。

今日は、天気も回復し、紫外線も強くなりそうですので、私も紫外線対策をしました。昨日痛めた膝は、だいぶん回復しました。

  

出発式の後、7:00バスで小牧野遺跡まで移動します。小牧野遺跡を見学し、コースは、ここから三内丸山遺跡を通り、八甲田丸メモリアルシップまで戻る20kmです。

 

小牧野遺跡は、土地造成と特異な配石で構築された縄文後期前半(約4000年前)の大規模な環状列石(ストーンサークル)を主体とする遺跡です。

  

国の史跡小牧野遺跡のストーンサークルは、細長い石を縦横に並べる独特な石の組み方をしており、これは「小牧野式」と言われています。直径2.5メートルの中央帯、直径29メートルの内帯、

直径35.5メートルの外帯の三重の輪のほか、さらに外側に、一部四重となる弧状列石や、直線状列石、直径4メートルの環状列石などがあり、直径は55メートルにおよびます。

小牧野遺跡では人が死ぬと最初に土葬をして、次に肉が腐ると骨だけを甕棺土器に入れて再葬した跡が残っています。土葬用の穴が50基に対し再葬用の穴が3基しかないことから、

再葬は有力者のみが行ったと思われています。

縄文時代の大規模なストーンサークルは、北海道、東北、などに多くみられるそうです。残念ながら私が住んでいる北部九州には、あまりみられません。

やはり、縄文文化を創った民族の違いでしょうか?

この小牧野遺跡は、1989年(平成元年)に地元の高校生たちによって発見されたそうです・

 

  

  

午前8時コースの説明を受け、小牧野遺跡どんぐりの家を出発します。

  

1,5kmほど下りて行った所に「縄文の里小牧館」があります。入ってみようかと思いましたが、開館時間が9時からなのでパスしました。

  

4,6km地点の高田小学校が給水所。今日は、昨日と比べて蒸し暑くなく、そんなに喉もかわいていないのでパスしました。

家内は、このころから、青森の女性の方と一緒に歩いています。私も話の中に入ろうかと思いましたが、やはり女は女同士ですね。(笑)入る余地がありません。

  

高田と細越の間に「旧大橋村跡」の碑がありました。江戸時代天明の飢饉で廃村になったそうです。

東北地方は、1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、

7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。

このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。

空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、人々は不安げに空を見上げることが多くなった。約30年前の宝暦年間(1751年-1763年)の4年、5年、13年の凶作があったときの天気と酷似していた。

被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えている。(ウイキペディアより)

現在では、新幹線や高速道の間に田園地帯が広がっていますが、こんな悲しい出来事があったとは、信じられません。

 

   

昔からの「村」があったからでしょうか、民家には、古い「蔵」が残っています。

細越神社の由来 :     慶長年間、この地域には、大橋村、枝村、中村、細越村、漆新田村、長沢村の六つの集落があった。往時、相次ぐ凶作や災害により、大橋村、長沢村の住人は困窮し、

やがて離散し、今は住家も住人もいない。明治の頃、枝村に深山神社、漆新田村に三輪神社があり、それぞれ異なる慣習、祭事があり、それが互いの対立意識を煽り、すべての事に争い事が絶えなかった。

事を憂いた若者達は、再三、両神社の合併に依る和平をはかった。遂に、大正五年、地域のほぼ中央の位置に大字名、細越を入れ、細越神社として、両神社の祭神の鎮座を仰ぐにいたった。 (細越村郷土誌より)

神々を尊び、地域の融和を願い、力を尽くされた先達を偲び、我々も又、その偉業に追従する事を誓い、過ぎし事、ここに記し、建立する。

   

青森自動車道の所の信号から左折。コースは、青森道と並行します。家内と一緒に歩いているK・Mさんは、野草に詳しく野草の名前を教えてくれます。

葛の花は、初めて見ました。

  

10:20 チェックポイントの「三内(さんない)丸山遺跡」に到着。ここで11,2km。ゴールまであと8kmです。

  

三内丸山遺跡は、江戸時代から知られている有名な遺跡です。県営野球場建設の為、平成4年(1992)から始まった発掘調査では、縄文時代前期~中期(約5500年~4000年前)の大規模な

集落跡が見つかりました。そういえば、佐賀県吉野ヶ里遺跡(弥生遺跡)も大型工場用地造成の際に発見されたそうですので何か、似ていますね。

出土品には、沢山の竪穴住居跡、堀立柱建物跡、盛土、大人や子供の墓などの他、多量の土器や石器、貴重な木製品、骨角製品などが出土しました。

縄文時遊館の2階から遺跡現場に向かいます。

  

三内丸山遺跡の広さは24haに及び、竪穴建物跡、掘立柱建物跡、列状に並んだ土坑墓、埋設土器、盛土、貯蔵穴、道路、大型建物跡などが計画的に配置されています。

また、膨大な量の土器や石器などが出土しており、日本で最多となる土偶約2,000点の出土に加え、低地からの食生活や環境を示す動植物遺存体、木製品、骨角器、編籠、漆製品などの有機質遺物、

さらに、ヒスイや遠隔地産の黒曜石、アスファルトなどの交易品も多数出土しています。

縄文時代、ここに大きな「ムラ」が存在していたのでしょう。

 

  

遺跡群を見て、時遊館の展示品を見に行こうかと思って、時遊館の方に向かうと、ウオーキング大会のアンカーの方が待っておられました。

もう時間だからということで止む無く展示品は見らずにウオーキングを再開することにしました。(もう少し時間があればいいのですが・・・・・・)

ここからは、アンカーさんと一緒に歩きます。沖館市民センターが最後の給水所です。

  

  

青森駅の横を通ります。駅には、特急「つがる」が停車しています。

  

連絡橋を通り、ゴールの八甲田メモリアルシップへ。  12:20 20kmコースゴールしました。

  

真夏の中のウオーキング大会でしたが、2日間無事完歩できました。

このあおもりツーデーマーチは、8コースあり、どれも歩きたいコースばかりです。いつかは、あおもり湾や津軽海峡のコースも歩きたいと思っています。

(青森県に地図を逆さまにすれば、鹿児島県の地図に似ていますね)

8/1 縄文満喫コース20kmのGPSです。

 

 

 

 

 

 


第14回「縄文の杜あおもりツーデーマーチ」1日目八甲田山麓高原コース32km

2016-08-05 07:27:32 | オールジャパンウオーキングカップ

この時期、青森の朝は、4時過ぎにはもう明るくなります。福岡は、5時半ぐらいにならないと明るくなりませんので約1時間半ぐらい違います。

7/31~8/1 青森市で行われた「第14回縄文の杜あおもりツーデーマーチ」に参加しました。

1日目は、A,八甲田山麓高原コース32km、B,あおもり湾涼風コース20km、C,岩木山眺望コース13km、D,むつ湾眺望コース12km、E,青森ベイサイトコース8kmの5コースがあり、

私達が参加したのは、A八甲田山麓高原コース32kmです。会場は、青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸広場。

このコースは、出発式の後、バスで八甲田ロープウェイ山麓駅まで行き、そこから降りてくるコースです。出発が7:30ですので早めにホテルを出ないと間に合いません。

     

   

  

  

約1時間でロープウェイ山麓駅に到着。昨年参加された熊本の鉄卓さんのブログを見てみると、ここからロープウェイに乗って山頂まで往復したと書かれていますが、今年は、乗らずにここから歩き出します。

八甲田山は、青森市の南側にそびえる複数火山の総称で日本百名山の一つ。「八甲田山」と名がついた単独峰は存在せず、18の成層火山や溶岩円頂丘で構成される火山群である。

青森県のほぼ中央に位置し、東北日本の脊梁奥羽山脈の北端である。命名の由来について「新撰陸奥国志」によれば、八の(たくさんの)甲(たて)状の峰と山上に多くの田代(湿原)があるからという。

現在の火山活動は穏やか。周辺は世界でも有数の豪雪地帯である。明治35年に青森の歩兵第五連隊が雪中行軍の演習中に記録的な寒波に由来する吹雪に遭遇し、

210名中199名が遭難した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)が発生、それを基に新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」が書かれている。なお、陸上自衛隊青森駐屯地に駐屯する第5普通科連隊も、

毎年厳冬期に八甲田山系での冬季雪中戦技演習を行なっている。(ウィキペディアより)

高倉健さん主演の映画もありましたね。

山の方を見ると、雲がかかっており、時々雷の音が聞こえ、いつ降り出すかわからない状況です。一応、レインコート、傘などは、準備しています。

8:30 ウオーキングスタート。バス2台でしたので参加者は約100人ぐらいでしょうか?今日は、雨が降った後でしょうか、蒸し暑いです。

  

コースは、緩やかな下りですが、昨年膝を痛めた私には、かなりきつい下りです。

道の脇には、見知らぬ野の花が咲いています。ある程度は調べましたがわからないものばかりです。

  

 

  

11:38 チェックポイントの「いこいの牧場」に到着。蒸し暑いせいか、今日は、喉が渇き、水分を補給しているのですが、全部汗になっているみたいです。

ここで弁当と引き換えになっていますが、なんと、弁当の代わりに「まきばレストラン」でカレーが出されました。これは、初めての経験です。

 

味気ない弁当よりもこれの方がいいかな????ジェラードも美味しそうでしたのでいただきました。

  

腹ごしらえも済み、さあ、スタートしようかな?と思ったらもうアンカーさんが私たちの後ろを歩いています。ウオーカーの方は、休憩もあまりなくどんどん先に行かれます。

折角見知らぬ町を歩くのですからゆっくり歩きたいのですが・・・・・・・・

いこいの牧場では、ポニー、山羊、黒いヒツジ(サフォーク)もいます。呼んでみるとすぐ近づいてきました。人懐っこいです。

    

ここで私の膝にアクシデント下り坂が多かったのか、膝が痛くなりました。あと半分歩けるかな  

膝を庇いながらマイペースで歩くことにします。

青森と言えば、「リンゴ」ですね。リンゴの木を発見!

   

神社の前を通ると、鳥居にかなり派手な注連縄が飾られています。こんな注連縄見たことがありません。

このスダレみたいなものがついた注連縄を「じゃんばら」というそうです。

横内市民センターが20,2km。ここにも給水所がありました。マップに「青森市の水道水は、全国一美味しい」と書かれています。

昭和59年、厚生省(現厚生労働省)の「おいしい水研究会(座長、鈴木武夫国立公衆衛生院長)」は、全国各ブロックの都市12地区の水道水を集めて利き水会を開催しました。

その結果、青森市の横内浄水場の水道水を「おいしい」と答えた人が16人中10人と最も多く、「日本一おいしい水」と称されました。また、全国各地30ヶ所の水道水を化学的に分析した結果においても、

青森市の水道水はおいしい水の要件をみたし、特においしい水とお墨付きをもらいました。(青森市水道局より)

やはり八甲田山からの伏流水からでしょうか、本当においしいです。あの青森が誇る銘酒「田酒」もこの八甲田山近くで造られているそうです。

     

横内郵便局の所から左折。川沿いに歩きます。右側には、スポーツ広場でしょうか、スポーツしている人たちの声が聞こえます。

青森の方は、お花を愛されているのでしょうか、民家の庭先や川の側道にもたくさんの花が咲いています。どれも九州にはあまり見たことのない花で名前がわかりません。君の名は???

  

 

  

青い森鉄道(旧東北本線)のガードを潜ると、青森市街地に入ります。

  

このあと、コースは、青森港の方に。堤川緑地公園が最後の給水所です。あと3km。ここで水分補給して再びスタートします。

青森は、今日大型クルーズ船が入港するのか、岸壁に大型バスが何台も待機しています。しばらく歩くとゴールの八甲田丸が見えてきました。

   

倉庫群を抜け聖徳公園に入ります。ここには、「海の記念日発祥の地」の記念碑が建っています。

1876年、明治天皇が青森から「明治丸」に乗り込み、函館を経由して横浜に帰還されました。その日を記念し、「海の記念日」が1941年に制定。1996年、この記念日は国民の祝日「海の日」になりました。

  

また、園内には、大町桂月の文学碑や吉田松陰「青森歴史街道の碑」も建っています。

吉田松陰は、長州藩の武士であり、幕末の維新志士を多く育てた思想家です。松陰は、若かりし時分、ロシア船の北方出没を知りその防備を確かめるため、嘉永4年 (1851年)12月14日 (陰暦)に、

脱藩覚悟で宮部鼎蔵と共に江戸から140日間に及ぶ東北遊学の旅に立ちました。江戸出発から嘉永5年(1852年)4月5日江戸へ帰るまでの視察状況を記録したのが『東北遊日記』です。

その中には、津軽半島(三厩、今別、平舘、青森)をたどったという記録があり、上磯地域(東津軽郡)も通行しました。

  

遠くには、津軽海峡フェリーが航行しています。このフェリーだと青森~函館間を3時間40分で航海します。

  

15:25 膝の痛みを抱えながらどうにか無事にゴール!スタッフの方からの暖かい声援を受けました。

   

16:00から八甲田丸船内で「ウオーカーの集い」が開催されました。お楽しみ抽選会もあるということで喜んで参加しました。

会費1000円ですが、飲み物も食べ物もたくさんありもうお腹いっぱいになります。

  

  

お楽しみ抽選会では、家内が青森のゴマ煎餅、私が韓国のり。(青森なのに韓国のりです。(笑))

   

今日の八甲田山麓コースのGPSです。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第14回飯能新緑ツーデーマーチ2日目15km天覧山・吾妻峡ルート(埼玉県飯能市)

2016-06-05 17:43:30 | オールジャパンウオーキングカップ

5/29 朝早く目覚めましたので宿舎の近く所沢駅周辺をぶらつきました、

所沢には、約20年ほど前、西武球場にホークス応援に来たことがあります。あのころのホークスは、弱かった・・・・・・

所沢のマンホールは、中央にゆるキャラ「トコろん」、周囲は、航空発祥地所沢で初飛行した仏製アンリ・ファルマン式複葉機3機、それに市の木「イチョウ」がデザインされています。

  

所沢駅発8:00の電車で東飯能へ。途中昨日一緒に歩いたKanonさんが乗ってこられました。Kanonさんと一緒に会場へ向かいました。

今日は、帰りの時間も考え、15kmのコースにしました。地図を見ると、天覧山・多峯主山(とうのすやま)・吾妻峡を通るコースです。

それにしても、今日も参加者が多いです。ゼッケンを見るとやはり地元の方が主です。私達は、福岡と書いていますが、埼玉の上福岡(現ふじみ野市)と間違えられるくらいです。

今日も埼玉のKanonさんと一緒に歩きます。

出発式では、大久保飯能市長がムーミンのTシャツ、ムーミンの傘を持って登場。飯能市にある「あけぼの子供の森公園」には、ムーミン谷があるそうでそのPRです。

  

  

JR八高線のガードを潜り「天覧山」を目指します。

 

天覧山到着。天覧山は、海抜194,6m、古くは愛宕山と呼ばれましたが、元禄年間に将軍綱吉公の生母桂昌院が十六羅漢を安置したことから、以来羅漢山と

称せられました。明治16年近衛諸兵対抗演習に際し、戦況ご視察の為、明治天皇が登坂された後、天覧山と改称されました。中段には、明治天皇が登坂された時、

御乗馬「金華山」を繋がれたといわれることにより名がついた御駒繋松があります。

  

天覧山からの眺望です。

天覧山の麓には、「能仁寺」があります。

能仁寺は、室町中期文亀元年 (1501年)、飯能の武将中山家勝が名僧斧屋文達師を招いて小庵を結んだのが始まりとされており、家勝の子・家範が父の冥福を祈るために寺院を創建した。

家範の子・照守は徳川家康に引き立てられ、徳川家康の庇護のもと多くの雲水をかかえる寺院に発展した。

中山家範没後百年ほど経って、老朽化してきた寺堂を再建したのは黒田直邦である。徳川綱吉の館林時代の家老職にあった直邦は、十三世住職泰州廣基と供に、

将軍家の後ろ盾により、宝永二年に山門、大殿、庫裡と改修を行い、伽藍を完成させた。また、今も本堂正面に修飾されている。

武陽山、能仁寺の扁額は将軍の命により、元禄十年 (1697年) 天台座主公辨一品親王が筆をとったものである。

明治維新時の飯能を舞台とする 「飯能戦争」 では、幕臣の一部で結成された彰義隊の頭取であった渋沢誠一郎は内部対立のため振武軍を結成し、能仁寺を本陣とした。

慶応四年 (1868年) に官軍の一方的な攻撃により敗走、多くの民家や、本陣であった能仁寺も焼失し、本堂は昭和十一年に再建された。その後五十一年より復興を続け、

現在では、山門、位牌堂、大書院、鐘楼、大庫院が完成しております。(能仁寺HPより)

能仁寺は、日本名園百選に指定された「池泉鑑賞蓬莱庭園」があり、紅葉シーズンには、沢山の方が紅葉狩りに来られるそうです。

残念ながら、中には入らず素通りするだけでした。紅葉のシーズンには、行ってみたいですね。

能仁寺の向かい側の中央公園が接待所になっています。ここでは、赤ちゃん連れの方に授乳、おむつ替えのコーナーもありました。

私もいろいろな大会に参加していますが、このコーナーは初めて見ました。いい試みだと思います。

中央公園の隣が飯能市民会館です。

  

  

しばらく歩くと、飯能河原遊歩道に入ります。ここから河川敷を歩きます。

  

河原では、何人かのグループでバーベキューを楽しまれています。こんな大自然でのバーベキューは、最高でしょうね。

  

 

大河原という地名の所に来ました。この一帯には、製材所が建ち並んでいます。

埼玉県飯能市周辺は江戸時代からヒノキや杉の良材の産地でした。荒川支流の入間川・高麗川・越辺川の流域から木材を筏で江戸へ流送していたので、
 
(江戸の西の方から来る材)という意味から(西川材)と呼ばれるようになりました。
 
 
 
コースは、吾妻峡に向かいます。吾妻峡は奇岩が続き、手つかずの自然美が渓谷美を見せています。アニメ「ヤマノススメ」にも登場しました。
新緑がまぶしく感じられます。渓谷では、バーベキューも行われていました。利用者は後片付けもきちんとされており、ゴミなどは落ちていませんでした。
 
 
 
  
 
   
 
吾妻峡を出ると大河原のチェックポイントが待っています。
 
  
牛乳宅配所に来ました。皆さん、美味しそうにジェラードを食べています。私達もつられていただきました。
 
  
ここでいただいたお水は、山の水でしょうか。実に美味しいです。
 
歩いていると赤い実のなっている木がありました。
 
これは、「桑の実」です。
 
            山の畑の桑の実を小籠に積んだは、まぼろしか・・・・    
 
童謡「赤とんぼ」にも桑の実が歌われています。
 
  
 
地図を見ると「急な登り坂」があります。吾妻峡の坂道が急だったからそれかな?などと思いながら赤根ケ峠に向いて歩いていきます。
 
  
 
茜台自然広場を過ぎるとだんだん急に登りになってきます。ところで赤根ケ峠は、「赤根」、茜台は、「茜」、同じ「アカネ」なのに漢字が違うのですね。
 
 
 
あと650m
 
  
 
やっと「赤根ケ峠」に着きました。
 
   
 
峠を下りてくると大河原工業団地が見えてきました。目立つのは、足場関係のリース屋さん。凄い数の足場があります。
 
  
 
美杉台交差点の所で30kmコースの方と合流します。よく見ると、edocappaさんです。
 
今日は、会えないと思ってましたが、何かの偶然でしょうか、それともedocappaさんとは、見えない糸で結ばれているとか・・・・(笑)
 
  
 
「あさひ山展望公園」に入りました。ここからは、270度に渡る展望を見ることができます。スカイツリー、東京都心・・・・・・
 
富士山も見ることができるそうですが、残念ながら見ることはできませんでした。また、夜景も素晴らしいそうです。
 
  
 
 
あさひ山公園を下りて飯能市街地へ。
 
ふと、道路上を見ると、何やら絵が描かれています。なかなか面白い応援メッセージです。
 
  
 
  
 
商店街に入ると、「ところてん100円」の看板を目にしました。ついつい誘われテントの中へ。
 
生き返ります。
 
  
 
コースは、100円商店街を経て、東飯能駅へ。駅の構内を抜け、いよいよゴールです。
 
  
 
前日と同様、中学生とハイタッチしながらゴール! 時間は、13:20
 
  
 
この大会2日間の参加者は、2万1千人を超えたそうです。
 
私は、知らなかったのですが、今、「ヤマノススメ」というコミックがあるそうです。飯能市内に住む女子中高生が登山を通して成長していく姿を描いているそうです。
 
劇中には、飯能市の風景も登場するそうで、アニメにもなったそうです。(九州では放映がなかったみたい)
 
参加者が多いのは、そのせいかもしれませんね。
 
初めての参加でしたが、アップダウンには苦労しましたが、飯能の大自然を満喫した大会でした。また、参加してみたいです。
 
  
 
 
本日15kmのGPS
 
 
これでオールジャパン38県目達成しました。あと9県です。来年中には達成したいと思っています。