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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№14(四日市宿~朝日)三重県四日市市~三重郡朝日町

2016-07-08 13:05:38 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

6/24 三滝橋には、七夕祭りの山車が描かれていました。

   

三滝橋から約700mで海蔵橋に到着。

 

海蔵橋から右に行くと、「三ツ谷一里塚跡」があります。かつての一里塚は、昭和20年(1945)に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまいました。

現在の一里塚跡は、平成13年、東海道宿場・伝馬制度制定400周年を記念して建てられました。日本橋から99番目です。

三ツ谷一里塚跡の海蔵川沿いには、昭和28年海蔵川改修工事により、取り払われた昭六橋の鉄材売却資金で植樹された桜が約1,5kmに渡って続いています。

桜の季節には、海蔵桜祭りが行われています。

  

多度神社:桑名の多度大社の分霊を祀っています。明治40年に海蔵神社に合祀され、昭和20年には、戦災により焼失しましたが、昭和25年に再建され、正式に

三ツ谷の「多度神社」として承認を受けました。その後老朽化により、平成26年に拝殿が再建されました。

多度神社から再び1号線に合流します。

  

時計は12時半を示しています。今日はまだお昼を食べていません。近くのコンビニに立ち寄りパンを買い、そこでいただきましたが、雨がポツリポツリと降ってきました。

リュックよりカッパを出しそれを着てからウオーキングを再開しました。

1号線富士町信号の手前を左折。東海道は、案内板が多く、旅人には非常に助かります。

  

志氐(しで)神社:難しい名前の神社ですが、延喜式神名帳に名がある古社で、垂仁天皇の頃に創祀されたそうです。「しで」とは、御幣のことで、大海人皇子の天照大神遥拝伝説に

因んで名づけられました。万葉の歌枕である四泥の碕の地です。享保10年(1725)の鳥居や文政元年(1818)、天保10年(1840)の常夜燈があります。

この神社の狛犬には、神様が留守を守るように言いつけたにも関わらず、遊びに出かけてしまった為にそれぞれ左右の前足を折られてしまったという伝説が残っています。

街道沿いの鳥居近くには、撫でると良縁が成就するという夫婦石もあります。

  

雨は、小降りになってきました。東海道の地図も濡れてきましたのでビニールをかけ保護します。

米洗(よない)川にやってきました。米洗川の由来は、壬申の乱で大海人皇子が神事に使うお神酒を造るためにこの川で麹の米を洗ったことに起因します。

ここにも常夜燈がありました。

  

茂福神社:茂福(もちふく)神社は元禄16年(1703年)の東海道分間絵図に天王社と記されており、現社名に改称されたのは明治28年(1895年)のこと。

明治42年(1909年)鳥出神社に合祀されたが、地元住民の懇願あってのことか、昭和25年(1950年)鳥出神社から祭神を分祀し、茂福神社は再興された。(富田町HPより)

茂福神社の石碑の先を左折したところに「力石」があります。明治時代、常照寺が再建される際、各所から土台石の奉納がありました。その節、土台石の中よりこの石を選び、

休憩時に持ち上げて力比べで競い合ったと言われています。重さ32貫(約120kg)と子供用5貫(約19kg)のがあります。

また、力石の横には、「新設用水道碑」が建っています。

 

  

薬師寺は、大同年間(806~810)、この地に疫病が流行し、人々は苦しんでいました。旅の途中の弘法大師が薬師如来を彫って開眼すると、人々の難病はたちまち平穏したので

薬師堂を建てて薬師如来を祀ったと言われています。

 

富田の町に入ってきました。十四川の手前にも常夜燈があります。

 

十四川は、桜の名所でもあります。大正12年(1923)アミカジ製網を営んでいた伊藤勘介氏他有志により植樹されたのが始まりです。

昭和53年(1978)には、開花ぶりが良いということで日本さくらの会より全国表彰を受けています。十四川堤の両岸1,2kmに渡ってソメイヨシノが約800本植えられています。

  

明治天皇御駐輦(ちゅうれん)跡

  

道標と道路元標:

富田市民センターの所には、道標があります。富田一色(現四日市市富田一色)、川越村(現三重郡川越町)、東洋紡績と書いてあります。

富田3丁目には、三重郡富田(現四日市市富田)の元標。津市元標まで10里、四日市まで1里8町。

  

  

御厨神明神社は、祭神は豊宇気毘売神、応神天皇、天児屋根命、大山祇命です。創建年代は不明ですが、伊勢神宮の御厨の地に建てられました。以来、蒔田村の氏神として信仰されました。

「松寺の石取祭り」でも有名です。

   

朝明橋の所にやってきました。この橋を渡ると三重郡朝日町です。

橋の袂には、「いこいの広場」があります。ここにも「力石」がありました。

この力石は、江戸末期から明治初期にかけ、東海道筋のこの地で営まれていた茶店「橋南のつる」の主、大久保つるが後世に残したものです。

石には、「二十七〆」と刻まれ、その目方が二十七貫目(約100kg)と想像されます。

東海道を往来した旅人や駕籠かき衆等が休んだ折に余力を誇示するが如く自慢げにこの石を持ち上げていたのでしょう。

  

朝明橋を渡ると正面に伊勢湾岸自動車道が見えてきます。そのガード下を越えて行きます。

雨はとうとう本降りになってきました。カッパは着ていますが、もう下着まで滲みてきました。今日、桑名まではちょっと無理です。

地図を見ると、2km先ぐらいにJR朝日駅があります。とにかく今日はここまでとします。

  

 14:50 JR朝日駅到着。

  

6/24のGPS

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№13(石薬師宿~四日市宿)三重県四日市市

2016-07-06 16:47:34 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

6/24 東海道ウオーク2日目。今日は石薬師~四日市~桑名まで歩こうかと思っていますが、今は曇っていますが、天気が心配です。

近鉄四日市駅前の三重交通バス 7:35に乗車し、前日ゴールの鈴鹿市自由が丘バス停に8:15到着。

スーパーの横から旧道に入ります。このあたり閑静な住宅街です。

 

  

1号線と合流する手前に「延命地蔵」がありました。一旦1号線小谷に出てすぐ旧道に入ります。小谷から四日市市です。

四日市市は、人口約30万人。三重県の中で一番人口の多い都市です。

 

豊富神社があります。万延2年(1861)京都山城国伏見稲荷神社の祭神を分霊・勧請して創建されました。もとは、杖衝稲荷大明神とも称しましたが、後に豊富稲荷神社よ改称されました。

1号線の向こう側に「采女(うねめ)一里塚跡」が見えます。道路を横断する所がなく、カメラの望遠で撮影しました。

このあたり「采女(うねめ)」と呼ばれています。采女の原義は、宮中で炊事を司った女官です。(大和朝廷に地方豪族から献上された) 古事記には、雄略天皇に仕えた「三重の采女」の

話が出てきます。雄略天皇の酒宴で盃に落ち葉が浮かんでいるのを知らずに采女が献上、天皇の怒りをかった。この時、采女は一首の歌を献上し許され、お褒めに預かったという

逸話があります。そこからこの地に采女という地名がついたとされています。

  

伊吹山での戦いで傷を負った日本武尊(倭建命)が、剣を杖代わりに越えたと伝わるのが、「杖衝坂」。坂の途中にある井戸で渇きを癒して、坂を越えたと言われています。

坂の頂上付近にある「血塚(ちづか)社」は、傷による出血を封じた所。日本武尊の血で染まった石を集めて葬ったと伝えられています。

日本武尊は、「吾が足は、三重の勾(ま)がりの如く、甚(いと)疲れたり」と、いったと伝わり、この言葉が「三重」の語源となりました。

  

ここから「杖衝坂」に入ります。比高20mながら東海道の道筋の中でも急坂の一つ。昭和初期まで唯一の幹線道路でした。江戸時代に作られた「東海道名所図会」にも紹介されています。

貞享4年(1687)江戸から伊賀に向かった松尾芭蕉が、馬に乗って杖衝坂にさしかかったが、坂が急なため、落馬したことを詠んだ「歩行(かち)ならば 杖衝坂を 落馬かな」は、

季語のない有名な句です。

私達は、京からでしたので下りでしたのでそんなに苦はなかったですが、江戸からでしたら、急な上りで大変でしたでしょうね。

 

   

坂の下り口には、「うつべ町かど博物館」がありました。まだ朝が早いので開いていませんでした。

   

1号線、内部川に架かる内部橋を渡ります。渡るとすぐ左折し、20~30m行った所から右折。

  

内部駅の所で1号線を横切ります。ここには、東海道400周年記念の石碑が建っています。

   

しばらく歩くと、民家の所に「いわひば処」という看板を目にしました。民家の方に許可をもらって見せてもらいました。

いわひばは、「巻柏」と書き、冬は、冬眠して枯れていますが、春に目をさまし、夏には青々と成長し、秋には紅葉し、また冬眠するそうです。不思議な植物ですね。

  

このあたり、神社仏閣が建ち並んでいます。

願誓寺は、浄土真宗高田派に属しています。現本堂は、寛政4年(1792)再興のものです。

小許曽(おごそ)神社は、延喜5年(905)式内神社として神名帳に記載されています。伊勢の国には、253の大社、中社、小社があり、そのうちの小社として選ばれました。

約1100年の歴史があります。

 

観音寺は、寺の縁起に寄れば、織田信長の北伊勢侵攻により兵火にあいましたが、村民が本尊観世音菩薩を守護して災禍を逃れ、村仏として維持されました。

安永8年(1779)黄檗宗(おうばくしゅう)黄檗山万福寺の末寺となりました。

大連寺は、俗称米田の森にあったことから米田山法鎮寺といい、真言宗の寺でした。後に現大連寺の西北に俗称大連の地に堂を建立し、米田山大連寺となりました。

布教にこの地に逗留された浄土真宗高田派第10世真慧上人に帰依し、浄土真宗に転宗、現本堂は、文化10年(1813)再建のものです。

街道歩きの先輩、ランドセルさんは、お寺の格言が好きです。この言葉なんか私も好きですね。(笑)

  

四日市あすなろう鉄道「追分駅」に着きました。この電車は、公共交通として走っている電車の中では、最も線路幅の狭い、特殊狭軌線「ナローゲージ」(762mm)の鉄道で

全国でも3路線しか残っていない貴重な路線です。

  

追分駅の先、東海道と伊勢街道が交差する所に「日永の追分」があります。道路が拡幅される前は、伊勢街道の道を跨いで伊勢神宮の鳥居が建てられていたそうです。

この鳥居は、安永3年(1774)、久居出身で江戸にいた渡辺六兵衛という人が、江戸から京へ行くとき、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って建てたものです。

また、追分は、四日市宿と石薬師宿の間にあって「間の宿」と言われ、伊勢神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。そして間の宿は、本宿に比して

割安に宿泊することができ、旅人からは、歓迎されていました。

そういえば、この近くに「泊町」という地名がありますが、この間の宿の旅籠があったからでしょうか?

「東海道中膝栗毛」の中で弥次さん喜多さんが参宮の為、伊勢に向かいましたが、日永の茶店で金比羅詣りの男と名物饅頭の食べ合いの賭けをすることになったそうです。

結局、食べ合いに敗け大金を巻き上げられてしまいますが、男は、手品師で餅を懐に入れ込んだそうです。

   

  

日永郷土資料館は、休館日でした。「日永足袋」「日永団扇」などをはじめ、地域に残る歴史、文化、街道に関するものなどが展示されているそうです。

  

泊町の信号から旧道に入りますが、この道路、1号線の抜け道になっていて、歩道もなく、車が通行するたびに止まって、車が通過するのを待って歩きます。

名残の一本松」があります。当時は、泊の集落まで、東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に大きな松の木が並んでいました。その間には、家は一軒もなく、

縄手(畷)と呼ばれていましたが、この松はその縄手に植えられたものが残った貴重なものです。

 

   

「日永の一里塚跡」 もとは、5m四方で高さ2,5mの塚が、東海道の両側に築かれており、西側の塚には、榎が残っていましたが、明治2年(1869)に伐採され、塚もその姿を消しました。

日本橋から100番目の一里塚です。江戸から百里。

   

日永神社」 伊勢の神宮で祀られる天照大御神を祀っています。神社本殿右側に東海道最古の道標があります。道標の右側に「京」、表に「大神宮」、左側に「山田」、

裏に「明暦2年(1656)3月吉日南無阿弥陀仏 恵心」と彫られており、もとは、日永の追分にあったそうです。

  

つんつくおどり」は日永地区に伝わる郷土色豊かな踊りです。その起源については、滝川一益の母の隠居所を実蓮寺境内に建築する地固め工事に歌った歌謡と動作を

取り入れた踊りであるという伝承があり、もう一つは滝川一益が田畑を流失する農民の困窮を見て、天白川の堤防を築くための地固め、地つきに歌ったとする伝承です。

なお、元和6年(1620)の「清水九朗左衛門手記」に「日永踊之事ツンツクノ事ハ此ノ町地タカメ浪切踊トテ帯ヲ手ニモチ扇ニ而踊浪入也」とあり、近世の初頭には

現在のような「つんつくおどり」があったことがうかがわれます。踊りには3種類あって太鼓・笛などを用いた囃子と歌い手に合わせて、櫓を中心に二重三重に円陣を作って踊ります。

司馬江漢の「西遊旅譚(さいゆうりょたん)」にも「つんつくおどり」が挿絵入りで紹介されています。現在では8月第2土曜日・日曜日に両聖寺(りょうしょうじ)境内で保存会を中心に行われています。

  

街道は、天白川に架かる天白橋を渡ります。この日永地区にも神社仏閣が多いです。

   

大聖院 松井親蔵法印が一族の守り本尊を奉じ、永禄8年(1565)氏寺として再興されました。本尊不動明王(秘仏)は、鎮守府将軍源頼義公、義家公父子の念持仏で、大正4年(1945)

国宝に指定されています。醍醐三宝院直末、神戸藩主御祈願寺。

   

水沢道標:約200年前、大阪の河村羽積という人が、東海道から水沢道に分かれる角に建てたのがこの道標です。水沢の楓谷は紅葉の名所であり、昔は菰野藩主の土方公が

必ずこの紅葉を愛でられたそうです。この碑の表は「水沢は藍より出て紅葉哉 大坂 羽津み」、裏面は、「猿丸大夫名歌古跡すい沢へ是より三里」と彫られています。

  

大宮神明社は、永宮さんとも呼ばれ、天照大御神を祀っています。ちょうど神社では、「輪くぐり神事」が行われていました。

  

鹿化橋を渡ると赤堀の町に入ります。

   

赤堀の町に入ると、街道沿いに「鈴木薬局(旧鈴木製薬所)」という旧家があります。

案内板によると、

鈴木薬局(旧鈴木製薬所) 竹の切り口を示す「丸二つの組み合わせ」の登録商法に、「赤万能即治膏」・「無二即治膏」・「萬金丹」・「真妙円」などの膏薬の名前が書かれた

古い看板を掲げる鈴木薬局は、200年以上も製薬業を営む旧家である。 

当家は、代々勘三郎の名を受け継ぎ、現在の当主鈴木友造氏で第十一代を数えるが、同家に伝わる家系図によると、第四代勘三郎高春が、寛延三年(1750)二月に蘭学勃興の地、

長崎に赴き、漢方を伝授されたといわれている。

 当家の建物は、東海道沿いの古い家の中でも一際がっちりとしたものである。 これは、第六代勘三郎高光が、嘉永五年(1852)に建てたものであることが、家系図によってわかる。

玄関には、約60kgの重い木製の上げ下げ戸があり、東海道に面した表には連格子がはめられ、六畳から十二畳の部屋が奥に続き、そのうちのひとつの欄間には、

厚い檜の近江八景を形どった一枚彫りがある。また、土蔵とともに膏薬をつくった作業場があり、薬研などの貴重な道具が保存されている。

無二膏、赤万膏は、吸出し薬です。

  

近鉄名古屋線を渡ると「浜田」の町です。

文明2年(1470)田原美作守忠秀が築城した浜田城は、天正3年(1575)に織田信長の軍勢に攻められて落城。今は、鵜森神社に土塁を残すばかりになりましたが、

城下町だった旧浜田町には、当時千鰯屋や材木屋、紙屋などの店が軒を連ね、多くの人で賑わっていました。今もこの界隈には、連子格子の古い民家が残り当時の風情を伝えています。

 作家の丹羽文雄さんは、浜田町崇顕寺(現浜田保育園)が生誕地です

 

四日市市の中心部にやってきました。

四日市市は三重県の北部に位置し、西は鈴鹿山系、東は伊勢湾に面した温暖な地域です。太古より市内各所に古墳が築かれ、なかでも志氏神社古墳は市内唯一の前方後円墳として

知られています。文明5年の外宮庁宣案には「四ヶ市庭浦」の地名が記されており、この頃にはすでに定期市「四日市」が成り立っていたともいわれています。 

江戸時代になると、市場町・湊町の四日市に「宿場町」「陣屋・代官所の町」が加わり、北勢の行政・商業の中心地として知られるようになり、幕末から明治にかけては、

菜種油や肥料の生産や取り引きの盛んな町として栄え、四日市港の修築で勢い生糸、紡績を中心として繊維工業へ、さらに、機械工業や化学工業の進出が相次ぎ、

日本の近代工業化への歩みを模したかのような形で四日市地域が商工業の都市に進展しました。

明治30年に市制を施行し、昭和5年に塩浜、海蔵の両村を合併して以来、昭和32年まで周辺の町村を併合、さらに、平成17年2月7日に楠町と合併し、現在の市域となりました。                                                                                                            (四日市市公式ページより抜粋)

街道は、表参道スワ栄という商店街に入って行きます。街道が商店街の中を歩くのは、山陽道で岡山市内を歩いた時以来です。

この商店街は、諏訪神社に通じています。もうすぐ七夕、商店街には、七夕飾りが飾られています。四日市市のゆるキャラ「ごにゅうどうくん」も展示されていました。

  

  

商店街の終わりにある「諏訪神社」は、鎌倉時代の建仁2年(1202)に信州の諏訪神社の御分霊をこの地に勧請し、創祀されたと伝わっています。

毎年10月の第一土曜、第一日曜に行われる例大祭「四日市祭り」は、江戸時代初期から続いています。昭和20年の戦災で焼失したが昭和26年に再建されました。

   

四日市宿は、東海道五十三次の43番目の宿場です。幕府直轄の天領であり、代官所が置かれていました。宮宿との間に「十里の渡し」がありました。

宿内人別:7114人(男3522人、女3592人) 宿内総家数:1811軒(本陣2、脇本陣1、旅籠98)。

本陣などは、残っていなく、黒川本陣跡が、現在の黒川農薬商会。脇本陣の「帯屋跡」が近藤建材店、問屋場跡が、福生医院だと言われています。

もう一つの「清水本陣跡」は、笹井屋さんの向かい側だと伝えられています。その辺の所を詳しく聞きたくて、和菓子の「笹井屋」さんに入りました。

 

  

笹井屋は、「なが餅」で有名です。なが餅とは、薄く伸ばした餅に餡を詰めて軽くあぶった餅です。長い餅だから「なが餅」と思っていたのですが、

このお店、天文19年(1550)、日永の地で創業。日永の「永」をとって「永(なが)餅」と命名されたという説もあるそうです。

その460年以上続く「なが餅」が食べたくなりました。1個1個のバラ売りはありませんので7個入りを買い、お店の中は食べる所はありませんでしたが、

椅子がありましたのでそこでいただきました。食べてみると甘さも抑えられており、実に美味しいお餅です。

ただ、別に強要するわけではありませんが、お店の方、店の中で食べるのでしたら、お茶の1杯ぐらい出してもいいのではないでしょうか?

老舗の店でしたら、このくらいの気配りが必要ではないでしょうか?

お店の方に、本陣の場所を聞きますが、清水本陣の場所は、パンフを持ってきて説明してくれましたが、解らないとのこと。そのパンフいただけるのかと思いましたが、

すぐ持って帰られました。店の中に私達みたいな旅人に配る東海道四日市宿のパンフを置いてもらえれば、何かと参考になるのですが・・・・・・・

 

  

広重の浮世絵、「四日市宿」は、三重川を渡る旅人が強風に遭遇している姿を描いています。

三重川は、現在、三滝川と名前が変わっています。

   

東海道チェックシート

≪追記≫ 四日市市のマンホール

1.四日市港と石油コンビナート、姉妹都市オーストラリア・シドニーのコアラ、中国・天津のパンダ

2.市の花「サルビア」

3.広重浮世絵「四日市宿」

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№12(庄野宿~石薬師宿)三重県鈴鹿市

2016-07-02 16:48:57 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

庄野宿から石薬師寺宿までは、約3km。東海道の中でも2番目に短い宿場です。

加佐登駅から1号線に合流します。

  

信綱かるた道:これより1,8kmの間に信綱(佐佐木信綱)かるたの短歌五十首を掲示しています。

  

石薬師の一里塚にやってきました。石薬師の一里塚は,もと蒲川の西岸に位置し,かつては東海道の両側に榎が植えられていた。

記録によると,榎は伊勢湾台風で折れ,終戦後北側にその根元だけが残っていたという。

しかしその後消滅してしまったので,昭和52年に南側に榎の若木を植え,『史跡石薬師の一里塚跡』の碑を建てて保存が図られています。

  

石薬師宿に入ります。

 

 

歩いていると「蒲冠者範頼之社」の看板が目についたのでそちらの方に向かいます。

蒲冠者範頼之社は、御曹子社ともいわれ、源頼朝の弟、蒲冠者範頼を祀っています。武道・学問に秀でていた範頼にあやかって願望成就の神と言われています。

 

説明書を読んでいると、「蒲桜」というあまり聞きなれない桜がありました。伝説によれば、寿永(1182~84)の頃、蒲冠者範頼が平家追討の為、西へ向かう途中、

石薬師寺に戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが、芽を出してこの桜になったと言われている。その為、俗に「逆桜」とも言われています。

  

宿場の名前にもなっている「石薬師寺」は、奈良時代の僧侶・泰澄が創建と伝わる古刹で、壮大な大伽藍を擁しています。然し、戦国時代の戦火によって焼失し、現在残る堂宇は、

寛永6年(1629)に神戸藩主・一柳監物直盛によって再建されました。また、本尊の薬師如来像は、弘法大師が一夜のうちに爪で彫り上げたという伝説が残されています。

 、 

広重の浮世絵には、この石薬師寺が描かれています。

「浄福寺」があります。この寺は、佐々木家の累代の菩提寺です。境内には、信綱の父、佐々木弘綱の記念碑があります。

  

  

石薬師宿は、唱歌 「夏は来ぬ」 の作詞で知られる「佐佐木信綱」(1872~1963)の生家です。

   卯の花の匂う垣根に ホトトギス早も来鳴きて  

一家が松坂へ移住する明治10年までの幼年期をこの家で過ごしました。

  

   

佐佐木信綱記念館の横には、タイムレコーダーで有名な「アマノ」を創業した天野修一(1890~1976)記念館があります。

  

石薬師宿は、江戸から数えて44番目の宿場です。四日市宿と亀山宿の間が長かったため、この地に宿場が作られました。天領であったこの地に宿駅が設置されたのは、

元和2年(1616)と遅く、それまでは、高富村と呼ばれていました。

弘化2年(1845)の石薬師宿軒別図から職業構成を見ると、人家約180軒のうち旅籠屋が約30軒、百姓は130軒で全戸数の約7割を占めており、農村的性格の強い宿場でした。

本陣は、小沢家、問屋場は、園田家が務めていました。宿帳には、赤穂城主浅野内匠頭の名もあるそうです。

  

石薬師宿の東側には、「北町地蔵堂」があります。

   

時間も5時近くなりました。今日は、ここまでにします。

帰りは、自由が丘バス停から宿泊地四日市まで戻りました。

  

 6/23関宿~石薬師宿までのGPS

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№11(亀山宿~庄野宿)三重県鈴鹿市

2016-07-01 20:21:43 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

6/23 お昼を食べまた街道歩きスタートです。

東町の信号の先から左折すると右側に「江戸口門跡」の案内板があります。京口門から江戸口門までが亀山城下だったのですね。

水堀と土居で囲われた中に門と番所を構え通行人を監視していました。現在は案内板が残っているだけです。

  

ここでも昔の屋号を掲げている所もありました。

この東海道に「巡見道」という案内板がありました。亀山から菰野に抜ける道、現在の国道306号は本来は、菰野道と言われていましたが、江戸時代この道を巡見使が通ったことに

よって「巡見道」とされました。巡見使は、将軍の代替わり毎に諸国の政情、政道の得失、民権の風俗を査察する為に派遣された役人のことです。

  

亀山ローソクの工場が見えてきました。恥ずかしい話ですが、街道を歩く時、亀山という地名は知りませんでしたが、この亀山ローソクだけは。知っていました。

昭和2年(1927)谷川兵三郎氏が亀山で創業されたそうです。

  

亀山ローソクの向かいに能褒野神社(のぼのじんじゃ)があります。境内は古くから日本武尊の陵墓と伝えられ「王塚」又は「丁字塚」と呼ばれていました。

古墳は4世紀末期に築造されたもので全長約90m、後円部径54m、高さ9m、前方部長さ40m、高さ6.5mと北部伊勢では最大級の大きさを誇ります。

周囲には16基の陪塚があり、朝顔形円筒埴輪や器材埴輪などが発掘されています。奈良時代に編纂された記紀によると日本武尊が東夷東征の帰路の際、

伊勢国能褒野で死去し埋葬された事が記されている為、明治12年(1879)に内務省が日本武尊の墓に定められました。能褒野神社は明治17年に

日本武尊の陵墓を祀る神社として創建の許可を得て明治28年(1895)に社殿が竣工しました。

明治42年に近隣に鎮座していた約40社を合祀して村社となり大正14年に県社に列しました。 (亀山市観光案内より)

残念ながら写真を撮り忘れました。

栄町の信号から2~300m行った所に「和田の一里塚」があります。慶長9年(1604)幕府の命により、亀山城主であった関一政が築造しました。かつては、榎が植えられており、

昭和59年(1984)の道路拡幅までは塚の一部が遺(のこ)されていました。現在の塚は、塚跡地の東側に隣接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものです。

石上寺は、延喜15年(796年)熊野那智社の夢告をうけた大和国布留郷の住人、紀真龍(きのまたつ)によって新熊野三社が勧請され、

この鎮護のため開基されたのが石上寺であると伝えられています。

 

   

   

和田の道標があります。「従是神戸白子若松道」。ここでの神戸は、鈴鹿駅前にあった神戸城下を指します。白子と若松は伊勢湾沿いの町です。

谷口法悦題目塔は、案内板を見ると、「この題目塔は東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」と呼ばれている。

総高2,59mで塔身の正面には、「南無妙法蓮華経」、右側に「後百歳中廣宜流布」左側は「天長地久國土安穏」背面に「施主谷口法悦」。

造立者の谷口法悦(生年不詳)は、京の日蓮宗の篤信者で17世紀末ごろ、一族と共に各地の寺院、街道筋、追分などに題目塔と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている

亀山市指定有形民俗文化財に指定されています。

  

1号線の歩道橋を通ると床面に亀とローソクのイラストが描かれていました。街道はJR井田川駅前を通過します。

  

井田川駅前には「旧井田川小学校跡」の碑があります。見てみると、「大正4年2月7日小田町より移転、昭和54年3月31日まで存続した。」 二宮金次郎の銅像なんか懐かしいです。

  

関西本線の踏切を越えると鈴鹿市です。左側に「地福寺」があります。本来なら地福寺の前を通って行くのですが、案内板がなかったのでまっすぐ平和橋の方に行ってしまいました。

平和橋の所で間違いに気付き、すぐ引返しました。この間のロスは20分です。

地福寺には、小田町寺院の由来という案内板がありました。

『鈴鹿市西部に位置する小田町の極楽山地福寺は、その所在地を小田町道心がいどうと呼び、その昔道心が多く修行せし処といわれている。当時は七堂伽藍の備わった寺といわれ、

現在も中堂、そして道心達の風呂のあった場所として、風呂の谷等その名残りの地名が残されている。

永禄十一年(1568)、織田信長の戦火に遭い、消失観音堂は常念仏堂として各誉上人の発願により延宝五年(1677)に建立され、中央に歴代亀山藩主の帰依された阿弥陀如来をまつり、

その両翼には後に江戸の鈴木市朗ヱ門が、東海道往来の人々の安全と家族の菩提を弔う為に、元禄十二年(1699)、西国三十三所の観音菩薩像三十三体を寄進され、

東海道の道すがら多くの人々の立ち寄りご利益をいただき、また毎月十七日の縁日には門前に市が立つほどのにぎわいであった。』

 

地福寺の横には、「明治天皇御小休所」の石碑があります。「明治13年(1880)7月13日陸軍大演習御統監の際」と書かれています。

 

今日、朝方は雨でしたが、もうすっかりお天気になってきました。持ってきたペットボトルも無くなり、自販機で補充しました。

井田川小学校横の安楽川にかかる和泉橋を渡ります。丁度下校中の小学生が私の後ろに付けている「風車」を見つけ話しかけてきます。

滋賀県草津でもそうでした。この風車、小学生には人気があるのですね。(笑) 本来は、道中、後ろから来る車にわかるように付けているのですが・・・・

  

和泉橋を渡るとすぐ左折、それから2~30m行って右折すると、西富田の町に入りました。

  

福萬寺と過ぎ、中富田の川俣神社の横に「中富田一里塚」があります。ここから江戸まではおよそ百里(約400km)です。

私達の東海道歩きもまだ1/5が終ったぐらいです。まだまだ先は長いですね。

  

 一里塚の先には、道標が建っています。「従是東神戸領」。その先の汲川原町には、「女人堤防の石碑」が建っています。

女人堤防とは、非常に興味を引きましたので説明文を見てみますと、

この地、鈴鹿川と北安楽川との合流点にあって、完全な堤防がない為、毎年夏期の水害には、耕地、住宅の被害が甚だしく人命を失ったことも屡次(るじ)、

文政12年(1829)、幾度かの堤防建設の訴願も南側の城下町神戸の浸水を怖がるる藩主許す所とならず、強いて行えば打首の極刑に処せられる。されど毎年の如く

被害を蒙る民は、眼前の苦悩に堪え難く如何なる処刑も恐れず築造せんとした。

この時に当たり、菊女という乙女、打首の刑を犯す築造は、男子全部の命を失い、将来の自活に大いなる支障を来たす。この工事は、私等の死出の仕事にしましょうと絶叫した。

これに同じた女衆二百余人、暗夜を選んで工事を続け、苦心惨憺六年に完成。今日の美田、安住の地を伴たるに到った。

この事、いつしか藩主の知るところとなり、処刑の日は来た。今し、その第一番者菊女が断首の座についた刹那、家老松野清邦の死を期しての諌による赦罪の早馬駆け来たり

既に覚悟した二百余名の命は助けられ、あまつさえ築堤の功を賞して金一封と絹五匹を贈られた。

実に女の一年、岩をも通した美挙である。(昭和33年、三重県知事田中 覚)

これを読んで感動しました。水戸黄門の題材にも取り入れられるような内容ですね。

  

旧街道は、この先1号線の高架下を通ります。

   

45番目の宿場、「庄野宿」に入りました。寛永元年(1624)に設置された庄野宿は、東海道の中でも最も新しい宿場です。

本陣1、脇本陣1、旅籠15。

  

本陣は、沢田家が務め、間口14間1尺、奥行21間1尺、面積229坪でした。

 

 

宿場内を歩いていると、庄野宿資料館がありました。ここは、油屋を営んでいた小林家の住宅です。

入るとボランティアガイドの方が親切に案内してくれました。

  

 

庄野宿の名物と言えば「焼米」です。俵に詰めて店先で売っていたそうです。食べ方としては、そのままアラレのように食べる、茶碗に入れお湯を注いで食べる、

塩茶に浸して食べる・・・・・・・

今でも通販を見てみると「焼米」を売っている所があります。昔と比べ味はよくなっているでしょうね。

  

  

  

さて、庄野と言えば、広重の「庄野の白雨」です。ここがどこで描かれたか資料館の方に聞きますと、加佐登駅付近だそうです。

坂もなく、広重の浮世絵とは想像もできませんが、このあたりだそうです。

  

 東海道チェックシート。庄野宿まで歩きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№10(関宿~亀山宿)三重県亀山市

2016-06-29 12:24:02 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

6/23(木)  3ケ月ぶりの東海道歩きの再開です。

宿舎の四日市から関西本線亀山へ。亀山から加茂行に乗り換えて前回ゴール地「関宿」に9:11到着しました。

昨晩からの雨は、まだ止まずカッパを着てのウオーキングです。

  

先ずは、延命寺へ。延命寺の山門は、川北本陣の門を移築したものです。

川北本陣は、関宿に2つあった本陣の一つで慶長(1596~1615)の頃から明治3年(1870)に廃止されるまで代々本陣を勤めました。

一門一戸の薬医門で彫刻の形式から17世紀後期の建築とみられています。

    

延命寺の横の方が、「関神社」です。

なし得る限度、精一杯などの意味でつかわれる「関の山」は、夏に行われる関神社の祭礼で町内を練り歩く山車が語源と言われています。

絢爛豪華な山車が町内の街道をいっぱいにふさぎ、これ以上通るに通れない様子を表現し、この言葉が生まれたとのこと。また、山車がとても豪華で、

これ以上の贅沢は出来ないと言われたことからきたという説も。いずれにせよ、現在も残る4台の山車は、毎年“関宿夏まつり”で盛大に町を練り歩き、祭りを華麗に彩 っています。

今年も7月16、17日に行われるそうです。

 

  

御馳走場」というのがあります。御馳走というと、昔、ここに美味しい料理屋さんがあったのかな?と思いますが、実際は、「宿場に出入りする大名行列の一行を

村役人が出迎えたり、見送ったりした場所」です。wikipediaで調べてみると、「馳走(ちそう)」とは、元来、「走りまわる」「馬を駆って走らせる」「奔走(ほんそう)する」ことを意味する。

古くは『史記』(項羽本紀)にもみられる語である。これが日本にはいったのち、(世話をするためにかけまわるので)世話をすること、面倒をみることといった意味が生まれた。

さらに、用意するためにかけまわることから、心をこめた(食事の)もてなしや、そのためのおいしい食物といった意味が、中世末から近世始めにかけて生まれた。

現代で使われる「御馳走」は、このような意味があったのですね。

  

東の追分にやってきました。ここには、大きな鳥居が建っています。

関宿の東の入口にあたる東追分は、東海道と伊勢別街道の分岐点です。大鳥居は、伊勢神宮を遥拝するためのもので、20年に一度の伊勢神宮式年遷宮の際、

内宮宇治橋南詰の鳥居が移されてきます。

 注)伊勢別街道・・・・・・伊勢別街道は、関宿東追分から津市芸濃町椋本(むくもと)、津市一身田(いっしんでん)を通り、伊勢街道と合流する江戸橋までの総距離およそ四里二六町の街道です。

    日本の政治の中心が大和にあった頃には、大和から伊賀を通って伊勢に至る主要ルートでもありました。また、一般の参宮道者も通ったとされる古くからの歴史ある街道です

   

追分の横には、「関の小萬のもたれ松」がありました。

案内板によると、「江戸も中期、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は、良人(おっと)の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿。一女小萬を産んだ後、病没した。

小萬は、母の遺言により、成長して三年後、亀山城下で武術を修業し、天明3年(1783)見事仇敵軍太夫を討つことができた。

この場所には、当時亀山通いの小萬が若者の戯れを避けるために、姿を隠してもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」と呼ばれるようになった。」

関の小萬は、長唄や歌舞伎の題目にもなっています。やはり東海道は当時日本の主要幹線道、すぐ全国に広まって行ったのでしょうね。

  

朝から降っていた雨も上がり、近くの公園でカッパを脱ぎます。街道は1号線と合流し、歩道橋の所から右折します。

 

  

街道は、鈴鹿川に沿って続いています。高速道を渡るとトンネルの中に東海道の浮世絵のイラストが描かれていました。

  

神辺小学校の所に「太岡寺畷」という案内板がありました。畷(なわて)というのは、まっすぐな長い道のことです。

太岡寺畷は、東海道が約3,5kmに渡って鈴鹿川の堤の上を通り、東海道の畷道では、随一の長さとされています。この畷には、松並木があったそうですが、枯れてそのあとに

桜を植え、今では見事な桜並木になっているそうです。太岡寺の地名は、かつてこの地にあった大寺である「六門山四王院太岡寺」に由来すると伝えられています。

余談ですが、ここからシャープ亀山工場は、直線距離で約2kmです。

 

  

1号線の高架橋を渡ると「布気町(ふけちょう)」に入ります。

  

歩いていると、近くの方が声を掛けてくれました。やはりリュックの後ろに「風車」を付けているから目立つのでしょうね。(笑)

その方は、観音坂まで案内してくれました。観音坂というと、観音様があるのかな?と探すと「昼寝観音」というのがありました。

昼寝観音とは、面白い名前ですので調べてみると、「布気町落針の観音さんは、奈良東大寺の大仏を建てなおすお金を全国から集めている時に、石山観音から運ばれてきたそうです。

各地の観音様が集まって西日本で観音様を巡って御参りする33か所のお寺を決める会議が開かれた時、落針の観音様は、昼寝をして会議に行かなかったので

33のお寺に選ばれなかったそうです。(亀山こども歴史館より)

 

布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)があります。由緒 延喜式神名帳には、垂仁天皇一八年鈴鹿郡布気神社と見えている。 昔、旧野村字に布気林という所かあり、

そこに奉斎してあったことから布気神社と称えたのであるが、 文明(一四六九‐八六)の頃に起った兵乱のため、社殿悉く焼失したため、後に皇舘の森へ奉遷したと伝えられている。

皇舘の森の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比占命が神田・神戸を献じ給うたことに由来する地名であり、 野尻、落針、大岡寺、山下、木下、小野、鷲山の

七ケ村を神戸郷と言い皇舘太神社を総社と仰ぎ、平素の尊崇は論を俟たず、 大祭の奉仕に専念、殊に早魃の時には郷民こぞって参籠して祈ったということである。

いろいろな名で親しまれたが、 亨保八年(一七二三)に、吉田家から皇舘大神の神号を受け、布気神社皇舘大神となったが、明治四一年六月より現在の社名となった。

 明治四一年、近郷近在の小社・小祠を合祀して今回の神社になった。倭姫が立ち寄ったとも言われている

  

確か布気皇館太神社の近くに「能古茶屋跡」というのがあるのですが、探しても見つかりません。多分神社の前のこの家かな?

大庄屋 打田権四郎昌克邸跡」があります。打田家は江戸初期に近江国からも野尻村に来て土着し本多家の代官を勤めその後の城主からは本庄屋に任ぜられた。

この北に屋敷があった。権四郎昌克は17代当主で寛永19年(1642)に生まれ、大庄屋在任中亀山藩領86ヶ村を中心にした見聞記「九々五集」9巻(13冊)別巻などを記録し編纂した。

享保16年(1732)1月25日に没した。菩提寺の帰郷院善性寺に墓がある。   

 

歩いていると珍しい建物がありました。3階建てでレストランだそうです。また、タートルヒル(亀山)と英語表記のマンションがありました。

 

野村の一里塚 三重県には旧東海道に沿って、12ヶ所に一里塚が設置されていましたが、現存するのはこの野村一里塚のみとなっています。また、もともとは道の両側にありましたが、

現在は北側だけが残っている状態で、昭和9年1月に国の指定文化財となりました。塚の上には、歴史を見守り続けてきた樹齢400年の椋の巨木がそびえ立っています。

忍山(おしやま)神社 忍山神社は、延喜式その名が記される延喜式内社で、もとは愛宕山(押田山)にあったとされます。明治41年(1908)野村地区にあった能牟良神社などを

合祀して現在地を 忍山神社としました。

垂仁天皇の命を受け皇祖神をまつる適地を探す旅に出た倭姫命(ヤマトヒメノミコト)がその途上で滞在した「鈴鹿小山宮」が後の忍山神社に」なったとされます。

又、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の妃となった弟橘媛(オトタチバナヒメ)は、忍山神社の祀官である忍山宿禰(オシヤマノスクネ)の娘であるとの伝承があります。

弟橘媛は、日本武尊と共に東国へ赴きますが、三浦半島へ渡る海路(水の神)で荒れ狂う海を鎮めるため自ら海中に身を投じてタケルを助けました。

弟橘媛の死を悼んだタケルは、東国を離れる際に「吾妻(わがつま)はや」と嘆き、このことから関東地方のことを「吾妻」と呼ぶようになったといわれています。

 

交差点の所に焼肉長治郎があります。ここは、内池家主屋で「明治天皇御召替所跡」です。

明治13年5月明治天皇は、東京から山梨を行幸され、続いて三重県で伊勢の内宮と外宮を参拝されました。東京へ帰る途中、高田山専修寺や鈴鹿郡亀山を行幸されました。

亀山では、陸軍の大坂鎮台のありのままの様子を見分する為、野村の高平で5月11日、12日に勢揃いを御覧になりました。その折、当家でお休みになられたそうです。

  

慈恩寺」:奈良時代に、聖武天皇の勅願により僧行基が開き、忍山神宮の神宮寺として創建されたと伝えられている古刹。往時には七堂伽藍がありましたが、たび重なる兵火で焼失しました。

災禍を逃れた本尊は、当初、薬師如来であったものが改作されたという阿弥陀如来立像。高さ163cmの一木造[いちぼくづくり]で、全身に木屎漆[こくそうるし]が塗られ、

平安初期彫刻の特徴をよく表した等身大の立像となっており、国の重要文化財に指定されています。

森家住宅」:明治時代後期、東海道沿いに建てられた町屋建築です。木造平屋建、切妻、桟瓦葺、平入、外壁には下屋庇を設け、正面壁は黒漆喰仕上げに意匠的な開口部、

両妻面は塗屋造りとして防火対策を施しています。森家住宅は東海道沿いに残る数少ない町屋建築として貴重なことから国登録有形文化財に登録されています。

現在は、うどん屋さんです。

   

 「京口門」にやってきました。安藤広重東海道五十三次の亀山・雪晴は、このあたりから書いたものと思われます。

京口門下にある「照光寺」に行くと、広重の浮世絵の案内板がありました。細い路地を進んでいくのですが、現在では、お城もありませんし、その構図を見ることができません。

  

   

  

亀山宿に入ってきました亀山宿は、東海道46番目の宿場町。本陣、脇本陣各1軒、旅籠21軒、家数451軒。

亀山宿には、伊勢亀山城(丹波亀山城と区別するため)があります。文永2年(1265)に関実忠が若山の地に築いたと伝えられています。中世の亀山に勢力を持った関氏の居城で

現在の場所には、16世紀中頃までには移っていたと考えられます。天正18年(1590)、岡本宗憲によって天守を築造するなど修築を行い、本多俊次が寛永13年(1636)から

3ヶ年を掛けて行った大改修によってほぼ現在の城地が確定しました。亀山城は、「姫垣」を意味する「粉堞城」の別名がありました。

東海道の要衝ということもあって、城主は、その多くが譜代大名で、延享元年(1744)に石川総慶が入城後は、明治まで石川家が城主を務めました。

尚、丹波亀山城(京都・亀岡市)の天守を壊すよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を壊したと伝えられ、以後天守は再建されませんでした。

明治6年(1873)の廃城令により城内の建造物はその大部分が壊されましたが、現在は、多門櫓、石垣、外堀、二ノ丸から西出丸の北側の土居が良好な状態で残っています。

  

亀山宿の街道沿いには、古い町家が点在しています。その前面意匠は、1階が出格子戸、格子戸を並べ、建てられた当時の「すりあげ戸」が残っているものもあります。

また、それぞれの家の前には、昔の屋号が付けられています。

   

飯沼慾斎(1783~1865)は、亀山西町で西村守安の二男として生まれ、12歳で美濃大垣の飯沼長顕の元に身を寄せ、後に飯沼家に養子に入りました。

京都で漢方医学と本草学を学び更に江戸に出て蘭学を修め、大垣で開業しました。50歳で引退後、研究に没頭しわが国で初めてリンネ分類法による植物の分類を行い、

「草木図説前篇」を著しました。旧来の本草学を科学的に立証された植物学へと転化させ、また火薬調合や写真撮影法の研究を行うなど我が国の近代科学の基礎を築いた一人です。

 

  

  

街道から鐘楼門をくぐると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」といわれた古刹。本堂は、亀山藩主在国中の居館であるとともに、亀山藩政務を執る政庁でもあった

旧亀山城二之丸御殿の玄関と式台の一部を移築してできたものです。本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代に作られたもので、県文化財に指定されています。

また、本堂内に安置される地蔵菩薩立像は平安後期の像で、延命地蔵として信仰を集め、人々から親しまれています。(亀山観光ガイドより)

 

交番の所に大手門跡、高札場跡があります。交番の所を右折すると、樋口本陣跡の碑があります。脇本陣も確かこのあたりですが、探しても見つけられませんでした。

  

時間も12時を廻りました。松坂牛の看板を見つけましたのでそこでランチをすることにします。    (続く)

東海道チェック表。亀山宿まで歩きました。お江戸日本橋まではまだまだですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№9(坂下宿~関宿)

2016-04-03 17:14:30 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

坂下宿の筆捨山から1号線沿いに進み、「新所町」の信号から斜左に入ります。

そこが関宿西の追分です。14時関宿到着。

  

関は古代から交通の要所であり、古代三関のひとつ「鈴鹿関」が置かれていた所です。関の名もこの鈴鹿関に由来しています。

関宿の西の入口にあたる西追分は、東海道と大和・伊賀街道の分岐点です。

  

東海道で唯一往時の町並みを色濃く残していることから昭和59年国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

町並みには、電柱がなく(地中化)実にすっきりしています。また、民家のお正月飾りは、2年前伊勢市で見た「笑門」です。

   

関宿の範囲は、東西追分の間、約1,8km、25haに及び、江戸時代から明治時代に建てられた古い町家200軒あまりが残っています。

  

   

  

宿場町を歩いていると「会津屋」という看板を見つけました。ここでお茶タイムにします。

会津屋」は、元は、山田屋と言い、小万が育ったことで知られています。

鈴鹿馬子唄にも謡われる関の小万は、女の身で父の仇討ちをした仇討烈女として名高い。小万の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役牧藤左衛門と言ったが、

遺恨により同輩の小林軍太夫に殺された。身重の妻は夫の仇を討つため旅に出たが、鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には旅の疲れが重なって、

地蔵院前の旅籠山田屋の前まで来たときには行き倒れ同様の有様であった。山田屋の主人も女将も親切な人たちであったので、この女を引き取って手厚く看病し、

女はそこで女の子を産んだ。これが小万である。女はまもなく、子供の将来を宿の主人山田屋吉右衛門に託して死んだ。

小万は成長して養父母から両親のことを聞き、女の身ながら亡き母の志を継いで亡父の仇討ちをする決心 をする。山田屋の主人は、亀山藩家老加毛寛斎に頼んで

武術の修行に励むようにした。

天明三年(1783)八月、運良く仇と巡り会うことができた小万は、馬子姿に変装して亀山城大手前の辻で仇のくるのを待ち受け、見事本懐を遂げることができたのであった。

これにより、関の小万の名前は一躍高まったが、その後も山田屋にとどまって養父母に仕え、享和三年(1803)正月十六日、三十六歳で死んだ。墓は福蔵寺にある。

関の小万はこのほかに、近松門左衛門作「丹波与作待夜の小室節」に出てくる遊女小万が有名である。しかし、これは近松が書いたのが宝永四年であるから、

仇討ちの小万より百年ほど前のことである。(亀山の昔話より

   

  

   

 

   

一服後、宿場町を見て廻ります。廻っていると、宿場ツアーに参加されている団体さんと遭遇。私のDバックに付けている風車、と長崎から歩いています・・・・・・というのを見つけ

写真を撮られました。一躍有名人になったみたいです。(笑)

この関宿は、江戸時代にタイムスリップしたみたいで、どこからか参勤交代の大名行列が来るような気がします。

  

 

関宿旅籠玉屋歴史資料館」に来ました。

玉屋は、「関で泊るなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」と謡われたほどの関宿を代表する大旅籠の一つです。江戸時代に建築された貴重な旅籠建築に

当時使われていた道具類や、庶民の旅に関係する歴史資料など展示して、江戸時代に栄えた旅籠の姿を再現しています。

     

  

   

奥の土蔵には、歌川広重の浮世絵が展示されています。残念ながらここは、撮影禁止でした

 

江戸時代の宿場の宿泊施設は次の通りでした。

本陣。脇本陣:大名・公家・幕府の役人などが休憩したり、宿泊する格式のある宿屋で、東海道では各宿に平均2軒置かれました。

         脇本陣は、大名などの宿泊が重なった場合に本陣を補佐した宿屋で、本陣に次ぐ格式をもっていました。

旅籠      武士や一般庶民を宿泊させた食事つきの宿屋で宿場で多数を占めていました。旅籠を描いた浮世絵には、店先で客を呼び込む客引き、桶で客の足を

         洗ったり、御膳を運ぶ女中、化粧する飯盛女、風呂に入り座敷でくつろぐ客などが描かれています。

木賃宿    旅人が、米を持参するか、宿で買うかして自炊を行い、蒔代を支払う形式の宿屋です。古くは殆どの宿屋がそうでしたが、旅籠が普及すると宿場のはずれや、

        町裏で営業するようになり、商人や、旅芸人などの貧しい人々が宿泊していました。

 

 

道中や宿屋での蚤を避ける方法も記されていました。

  

関宿の本陣は、「伊藤本陣」(現松井家)と「川北本陣」です。

伊藤本陣は、間口十一間(約20M)、建坪69坪、西隣の表門は、唐破風造りの檜皮ぶきでした。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に

道具置き場に供する建物でした。

広重の浮世絵「関宿」は、大勢の人数を従えた大名行列の移動は大変で、まだ明けやらぬ早朝の暗いうちから「伊藤本陣」出立の準備があわただしく始まります。

  

  

川北本陣」は、間口十九間半(約35M)、奥行き五十間半(約91M)、総建坪395坪にも及ぶ広大なものでした。表門より白砂を敷き詰めた通路を経て、唐破風の玄関があり、

奥に来客用の書院や風呂を設け、道に面しては、板間や通り土間があるミセを構えていました。現在は建物などは全て取り払われましたが、表門が延命寺の山門として

移築されています。

  

関まちなみ資料館があります。ここは、関宿の伝統的な町家を公開した資料館です。

   

  

そこまでが精いっぱい」という意味で使われる「関の山」という言葉は、夏に行われる関神社の祭礼で町内を練り歩く山車が語源と言われています。

絢爛豪華な山車が町内の街道をいっぱいにふさぎ、これ以上通るに通れない様子を表現し、この言葉が生まれたとのこと。また、山車がとても豪華で、

これ以上の贅沢は出来ないと言われたことからきたという説も。いずれにせよ、現在も残る4台の山車は、毎年“関宿夏まつり”で盛大に町を練り歩き、祭りを華麗に彩 っています。

  

「鶴屋」は、江戸時代の終わりには、脇本陣も務めました。

  

  

時計を見ると、もう4時。あっという間に2時間たってしまいました。百五銀行の所からJR関駅に向かいます。

  

亀山行の電車まで約1時間あります。駅の売店でビールと関のお菓子「志ら玉」をいただきました。

  

亀山のホテルに着くと、津の歩友〇川さんから、鰻弁当、鰻ひつまぶしの差し入れをいただきました。津は、鰻が名物です。

天むす、ひつまぶしは、名古屋の名物になっていますが、もともとは、三重の名物です。

〇川さん、鰻も厚みがあり本当においしかったです。次回、津周辺に行きましたらもう一度食べてみたいです。有難うございました。

3/24のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№8 (土山宿~坂下宿)

2016-04-02 13:32:07 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3/24、亀山のホテルを6:30に出て亀山発6:40の関西本線で柘植駅へ、そこで草津線に乗り換え貴生川駅へ。貴生川からあいくるバスで昨日のゴール地田村神社に行こうと

行程をたてました。これだと田村神社には、8:07分に到着します。

柘植駅から草津線乗り換えまでは、すべて予定通りでしたが、この草津線の車掌さんの車内アナウンスが声がこもっていて聞き取れずまた、車内には、電光表示板もなく

神経を使って降りる駅は、まだかまだかと待っていましたが、ついつい、うとうととしてしまい、気が付いたら電車は、貴生川駅を発車する所でした。慌てて降りようとしましたが、

無情にも扉が閉まってしまいました。次の三雲駅で上り線で貴生川に戻りましたが、貴生川駅からのバスは、約1時間半ばかり待たなくてはいけません。

他に交通手段がなく、タクシーで3000円ぐらいだろうと思い、タクシーで神社まで行きましたが、この金額5160円でした。

それでも8:30には、着きましたので予定より30分遅れのスタートです。

先ず「田村神社」へ道中の無事と今後電車に乗り過ごさないよう祈願します。

田村神社は、征夷大将軍・坂上田村麻呂を主祭神として、嵯峨天皇並びに倭姫命をお祀りしています。

田村神社のご祭神「坂上田村麻呂公」は、平安初期の武人で、天性の才能に優れ、兵を用いるに神の如くであったと伝えられ、 恒武天皇・平城天皇・嵯峨天皇の三代に仕え、

その忠勲と蝦夷征伐等のご功績は後世まで高く顕彰され、有史以来およそ匹敵するものはありません。 征夷大将軍に任ぜられたことは、あまりにも有名です。

田村神社は近江国(滋賀県)と伊勢国(三重県)の国境にあり、古来には都より伊勢へと参宮する交通の要衝でした。 当社の言い伝えによると、

「鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ましており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂公に勅命を出してこれを平定させた」とあります。 それゆえに、交通の障害を取り除いて

土地を安定させた坂上田村麻呂公の御遺徳を仰ぎ、弘仁3(812)年の正月、 嵯峨天皇は勅令を出して坂上田村麻呂公をこの土山の地に祀られることとなりました。

坂上田村麻呂公が鈴鹿峠の悪鬼を平定してよりのち、作物が実らず疫病が流行しました。 そのため、弘仁3年の正月に嵯峨天皇は詔を出し、

坂上田村麻呂公の霊験を以て厄除の大祈祷が斎行されました。 これにより、坂上田村麻呂公は厄除の大神として崇敬され、その御神徳は厄除の祖神として

崇敬されることとなりました。 また坂上田村麻呂公は、鈴鹿峠の悪鬼を討伐して交通の安全を保たれたことに加え、延暦年間には東北に出征され、これを平定されました。

その御神威により、交通安全の神様としても崇敬されています。(神社HPより)

 

    

神社をあとに街道歩きスタートします。

海道橋があります。ここが広重が「土山宿・春の雨」を書いた場所とされています。

 

左上部に田村神社が見えます。私も広重と同じ構図で写真を撮ってみました。

  

橋を渡った所に「高札場」があります。書かれている内容は、

「この橋を渡ることができるのは安政4年(1775)の閏年12月からである。この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。

また、近村に住む百姓達の中、川向こうに田畑があり毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。しかし、それ以外の住民及び一般の旅人に

ついては一人につき三文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬一頭につき三文、渡り賃を取ることになっている。

この規則は一時的なものでなく、橋がある限り永遠に続くものである。」

私が渡る時、渡り賃を取られるかな?と不安でしたが、現代では取られないようです(笑)。因みに三文というと、今の価値ではm50~100円ぐらいでしょうか?

   

先に行くと「蟹坂古戦場跡」があります。

天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守及び飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。

当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、

さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、

軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、

北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。(案内板より)

  

蟹が坂の信号近くで1号線と合流します。地図では、旧街道は、国道を横断して山道を行くようになっていますが、案内板では、行き止まりになっていると書かれています。

それでも行ってみることにしました。蟹塚を過ぎ山道をどんどん行きます。地図では、1号線に戻るようになっていますが、それらしいものはありません。

最終的には、高速道路のガードまで来ました。携帯のGPSで確認すると旧街道とはコースが外れています。

仕方なく、1号線に戻りしばらく国道沿いに歩きます。

 

  

1号線「猪鼻」の信号を左折。

  

猪鼻村は、鈴鹿山脈の西方に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は幕府領や諸藩領となり幕末にいたる。
村中を東海道が東西に五町36間余(約610メートル)、商いを営む者も多く、往時五十戸を超え街道を賑わしていた。
土山宿から坂下宿間の立場(休憩所)があり、草餅や強飯が名物であった。村高は、五十三石余「天正十九年(1591)徳川家康知行目録写」、
おもな産業は農業で、製茶や林業も行われた。
赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾(俳号は子葉)が旅の途中に詠んだ「いの花や 早稲のもまるゝ 山筏ろし」の句碑がある。井上士朗の『幣袋』に安永三年(1774)鈴鹿峠に向う途中で

「猪鼻峠といふ名のをかしければ、ゐのししの鼻吹き返せ青あらし・・・・」とある。
寺院は、臨済宗東福寺派の浄福寺、集落の東端には火頭古神社があり、本殿は十七世紀後半の造営とされ、国登録有形文化財となっている。
明治二十二年猪鼻村は町村制により甲賀郡山内村大字猪鼻、昭和三十年合併により甲賀郡土山町大字猪鼻、平成十六年十月一日合併により甲賀市土山町猪鼻となる。
      平成二十年十二月
        土山町猪鼻区   (案内板より)

     

再び街道に戻ります。1号線には東京までの距離が記されていました。東京まであと437km・・・・・・・・・

名神高速道路の高架の手前に「山中一里塚」があります。ここは、一里塚公園となっていて旅人の休息地になっています。

私達が行ったときも鈴鹿峠を越えた方がいました。

 

高速のガードを潜り、しばらく旧道を歩きますが、山中西の信号からまた、1号線と合流します。

ここは、交通量も少なく、鈴鹿トンネルを下りてきたトラックがかなりのスピードで走り去ります。その風圧で私の風車が勢いよく廻ります。

トンネルの手前から旧街道に入ります。

  

万人講常夜燈」に来ました。

万人講常夜燈は、江戸時代の金比羅詣りの講中が道中の安全を祈願して建立したものである。重さ28t、高さ5m44cmの自然石の常夜灯で、地元山中村を始め、

坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。もともとは、東海道沿いに建っていたが、鈴鹿峠の工事の為、現在の位置に移設された。

東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜燈は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことであろう。(案内板より)

 

万人講常夜燈にあるトイレ休憩をし、そこに置いてある杖をお借りして「鈴鹿峠」を目指します。

  

峠の入口が県境です。私達の東海道歩きも京都、滋賀と通り、これから伊勢の国・三重県に入ります。

鈴鹿峠は、伊勢と近江の国境にまたがる鈴鹿山(378m)の脇を縫うように超えるのが鈴鹿峠越えです。古くは「阿須波道」と呼ばれ、仁和2年(886)に開通したとされています。

「鈴鹿山」は、本来は「三子山」のことを指しているとみられますが、「今昔物語」や和歌などに登場する「鈴鹿山」は、鈴鹿峠越えを指しているものが多いです。

なだらかな近江側と違い、山深い「八町二十七曲り」の急な山道は、古くは山賊の話が伝えられ、江戸時代には、箱根越えに次ぐ東海道の難所として知られていました。(パンフより)

  

鏡岩:昔山賊がこの岩を磨きそこに映った旅人を襲ったという伝説から「鬼の姿見」とも呼ばれています。

  

 

  

  

片山神社」は、その由来が延喜式内社で鎌倉時代には、現在の場所に鎮座したと伝えられています。また斎王群行の際、皇女が休泊した「鈴鹿頓宮」の跡とも

いわれています。江戸時代には、鈴鹿権現と呼ばれ、往来する多くの人の信仰を集めました。昭和53年に市史跡に指定されましたが、平成11年、本殿などを

焼失し、現在では、神楽殿のみとなりました。高い石垣などにかつての面影を留めています。(パンフより)

【祭神】倭比売命
       (配祀)瀬織津比売神、
気吹戸主神 、速佐須良比売神、 坂上田村麻呂、天照大神 、速須佐之男命 、市杵島姫命 、大山津見神

  

このあたりは、「古町」と呼ばれ、慶安3年(1650)9月3日にこの地を襲った大洪水により、埋没したため、翌年約1km東へ移転し、宿場集落として繁栄しました。

尚、洪水以前の寛永14年(1637)に実施された「勢州鈴鹿郡坂下村検地帳」によれば、坂下村で全体で寺社の他に百十軒の人家があったとされています。

どうにか、鈴鹿峠を越えてきました。感想をいえば、近江側からの方が、登りが少なく、殆ど下りでしたので、かえって、三重からの方が登りが多く大変だったと思います。

  

坂下宿に入りました。

坂下宿は、鈴鹿峠の麓に位置し、その名もその立地に由来しています。いつごろ宿が立てられたかは定かではありませんが、「宗長日記」大永4年(1524)の条に

「坂の下の旅館」とあることから、室町時代には宿として機能していたものとみられます。慶安3年(1650)の大洪水により壊滅し、1kmほど下流に移転して復興されました。

江戸時代には、東海道五十三次の江戸から数えて48番目の宿場町として峠を往来する人々で賑わいました。東海道難所の一つである鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家

などの宿泊も多く、江戸時代後半には、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒を数え、東海道有数の宿にあげられます。

特に大竹屋は、間口13間半(24m)、奥行25間(45m)もあり、鈴鹿馬子唄にも「坂下では大竹小竹、宿がとりたきゃ小竹屋に」と唄われたように、数多くの大名家も

休泊する東海道随一の大店として世に知られていました。大竹屋の庭にあった「不断桜」も著名で、往来する公家や文化人によって歌に詠まれています。

明治23年(1890)関西本線の開通による通行者の激変とともに宿場としての役割を終えました。

これほどまでの賑わいをみせたこれらの建物は、明治以降すべて取り壊され、現在は跡地に石碑を残すのみとなりました。(坂下宿パンフより抜粋)

   

  

 

街道の東側には、「鈴鹿馬子唄会館」があります。

会館の前には、東海道五十三次宿場名を書いた柱が立っています。

  

時刻も1時を廻っており、ここで休憩します。

 

鈴鹿馬子唄は、鈴鹿峠を越える馬子たちの間でいつしか歌われ始め、いつしか近松門左衛門の浄瑠璃などにより広く全国に知れ渡ってゆきました。

  坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る  

   坂下では 大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に

   席の小万が 亀山通い 月に雪駄が二十五足  

鈴鹿峠自然の家は、昭和13年坂下尋常小学校として建築されましたが、昭和54年に廃校になり、現在は青少年の為の研修施設として使われています。

   

街道は、先の方で1号線と合流します。閑静な宿場町から一転、トラックや乗用車の車の音がやかましいぐらいです。今日は風も強いので私の風車が勢いよく廻り、

デリネーターの役目をしてくれています。

 

歩いていると「筆捨山」のバス停があります。筆捨山は、その昔、画家の狩野元信が旅の途中、この山を描こうと筆をとったところ、山の風景が刻々と変わってしまうことに

絵を描くことを諦め、筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられます。

広重もこの位置で坂下宿の筆捨山を描いています。

  

筆捨山を見ながら次の関宿へ向かうのでした。(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№7 (水口宿~土山宿)

2016-04-01 05:12:08 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

水口宿見附を出るとしばらくは閑静な所を歩きます。

  

一旦県道と合流しますが、高札場休憩所の所から左折。更に先へ行くと「今在家一里塚」です。

  

経塚」は、一般的に平安時代の末法思想と共に発展し、経典を経筒に納めて埋めたり、江戸時代には、小石にお経を書いた一字一石経などを産めることが流行し、

個人の祈願や追善供養、積徳の行として行われました。この経塚は延暦20年(801)、このあたりに化け物が出没したため大般若経を読んでこれを鎮め、

その後、村人がこの経を土中に埋めて塚としたと言い伝わります。

稲川碑」は、碑文によれば、正保4年(1647)、水口城代の山口重成が土山宿と水口宿の間は、飲み水がなく、旅人が困っていたため、稲川沿いに井戸を掘って

水を湧き出させたと言われています。この碑文は、延宝4年(1676)先人の功績を讃えるために建てられました。

また、村の言い伝えでは、源平合戦の最中、平景清が敵の矢に目を打たれ、東海道まで落ち延びた折、稲川端の清水で目を洗うとたちまち血涙が止まったとのことです。

いつしか、村人はこの水を「景清の目洗いの水」と呼ぶようになりました。

  

大日川の掘割を過ぎると、大野西の交差点です。ここから土山です。土山のマンホールは、中央にキジ、杉林、お茶の花がデザインされています。

  

大野の歩道橋を渡ると、料理屋さんの所に「三好赤甫(せきほ)旧跡」の説明版があります。料理屋さんの屋号も「みよし赤甫亭」。

赤甫は待花園月坡と号し、通称才一と呼ばれ、生家は代々魚商であったが、少壮の頃より俳諧の道に入り、当初、嶬峨上田村の宍戸露洲につき教えを請うたが、

晩年家業を子に譲り、京都に上がり東福寺虚白につき、10年余り修行され、その間、京都大阪の諸大家と交わった、その後郷里に帰り、後進の指導をなし、

この地方の俳諧の基礎を築かれている。俳著に「窓あかり」がある。
碑銘
  「ほととぎす 早苗に影を のこし行く」

  

  

土山の町に入るとすぐ旅籠の石碑を見かけます。

  

JAの所に漢詩が建てられています。土山茶のことを書かれていますが、そういえば、歩いてくる途中、お茶の工場をいくつか目にしました。

土山茶は、滋賀県一の生産量を誇っているそうです。

  

このあたりは、「反野畷(なわて)」と呼ばれ、長い直線道路が続いています。

道の両側には、江戸時代松が植えられていて、何本かは、枯れてはいますが、当時を偲ばせます。

   

垂水頓宮御殿跡」は、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世紀」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神の御神体を奉じてその鎮座地を求めて巡業したと伝えられる

土山町頓宮には、巡業地の一つである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来だそうです

前野保五郎」は、頓宮村や隣の野上野村が水不足に苦しむ様を見かねて未完であった野上野用水の完成に千二百両という巨額の私財を投じ、18年の歳月をかけて

文政8年(1815)に総延長7,3kmの用水を 完成させた。この用水により、約20haの水田が潤った。

 

   

地安禅寺には、御水尾法皇(1596~1680)の御影御位牌が安置されています。

瀧樹(たぎ)神社には、春のお彼岸の頃に咲く「ユキワリイチゲ」という花が咲くそうです。見てみたいと思いましたが、境内までの参道は、少し長かったのでパスしました。

  

瀧樹神社の先の方に案内看板が建っていました。左側が江戸期の街道、右側が明治期の街道。地図を見ながら、どちらに行こうかと迷いましたが、

左側は、遠回りになりますので右側の明治期の街道にしました。

松野尾川(野洲川)に架かる橋は、「歌声橋」といってドーム状の橋です。(多分平成に建てられたのでしょう)通ると、遠くから鳥の声が聞こえてきます。

橋に細工がされているのかと思いましたが、自然に聞こえる鳥の声でした。この川の水は、透き通っており、正に清流です。

  

一旦1号線に合流し、南土山交差点から右折します。しばらく歩くと宿場町の佇まいが見ることができます。

土山宿土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。

源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路が一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も

以前に増して盛んになった。特に江戸幕府は傳馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の第四十九番目の宿駅に指定されてから、

宿場町として真に隆盛しはじめた。

宿場の主体をなしたのは、御役町で、そこには公用人馬の継立などを司る問屋場、公用者の宿泊などの為の本陣、脇本陣やその他公用にあたる者が住み、幕府は御役町保護の為に

地子の免除その他の特権を与えていた。この御役町を中心に一般の旅人の為の旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道脇に細長く宿場町を形成していた。(案内板より)

鈴鹿馬子唄には、「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」とあり、坂下宿は晴れて、鈴鹿峠は、曇り、土山は雨・・・・・というようにこの土山は昔から雨の多い地域だったのでしょうか?

現に広重の東海道土山宿の浮世絵には、春の雨の土山が描かれています。

また、土山は、「あいの土山」と呼ばれていますが、このいわれは、東海道宿駅になる前は、「間(あい)宿だった」など7通りほどあるそうで真相ははっきりしないそうです。

然し、「あい」は、「愛」も意味しますのでいいネーミングだと思います。

  

 

   

土山宿は、本陣2、脇本陣0、旅籠44、人口1505人。宿場町には、旅籠跡の石碑が建っていました。

  

陣屋とは、江戸時代勘定奉行の配下である代官が在住した屋敷です。ここ土山宿の陣屋は天和3年(1683)、当時の代官であった猪飼次郎兵衛の時に建造されており、

瀬古川の東崖にあり、東西25間、南北30間の広さがありました。

  

 土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣職之事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と、土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。

 土山本陣は、寛永十一年(1634)三代将軍徳川家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代の施行以来諸大名の休泊者が増加し、

土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。

大黒屋本陣の設立年代については、はっきりと分からないが、江戸中期以降、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山宿の補佐本陣となっている。古地図によると、

当本陣の規模は、土山本陣のように、門玄関・大広間・上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったことが想像される.。(案内版より)

    

 土山公民館の玄関前には、「宿場のけごみ」という石柱が建っています。「けごみ」とは、けこみとも言い、漢字では蹴込み、意味は、1.階段と階段の間にある板の部分、

2.玄関などの家の入口の全面垂直の部分、3.人力車で客が脚を乗せる所、4.農家などの玄関や軒下に当たる部分を指しており、足を止める所・足を休める所というような

意味で用いられている。ここでいう「宿場のけごみ」は、宿場の中の足置場(足を休める所)という意味で「どうぞ、ここで一服していってください」という意味の歓迎の石柱です。 

  

土山宿は、東海道の基点である江戸日本橋より、百六里三十二町、終点京都三条大橋まで十五里十七町余の位置にある。

土山宿本陣(土山本陣):本陣は当時の大名・旗本・公家・勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、

宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。

 明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿にご宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇幸行の際には、

この本陣で誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。

 本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治三年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。(案内板より)

  

  

 

  

二階屋本陣は、脇本陣の役目をしていました。

 

  

 平野屋は、森鴎外が祖父森白仙の墓参りのために土山を訪れ、明治33年3/2に一泊した旅籠です。その時のことを彼の著書「小倉日記」に書いています。

 

  

 森鴎外の祖父森白仙は、文久元年(1861)11月、ここ旅籠「井筒屋」で病死しました。森家は、石見の国津和野藩主亀井家の典医として代々仕える家柄でした。

白仙は、江戸、長崎で漢学、、蘭医学を修めた医者でした。

  

白川神社:祭神は速須佐之男尊、天照大御神、豊受大御神。創祀は不詳で、古くは牛頭天王社、祇園社などと呼ばれていた。寛文5年(1665)2月11日の火災により延焼し、

現在の場所に遷座する。本殿は、文久3年(1863)に造営された。
 7月第3日曜日に行われる「土山祇園祭花傘神事」は祇園祭の前宮祭と呼ばれ、大字南土山十四組ごとに奉納された花傘から花を奪い合う「花奪い行事」が行われる。

これは、承応3年(1654)に復興されたと伝えられ、滋賀県選択無形民俗文化財になっている。
 天明7年(1787)光格天皇の、嘉永元年(1848)に光明天皇の両大嘗祭に、当社拝殿が悠紀斎田抜穂調整所となった。また、明治元年(1868)旧暦9月22日、

明治天皇御東幸御駐輦の時に、当社境内が内侍所奉安所にあてられた。
本殿の前には願かけ神石があり、この神石をなでると健康長寿・祈願成就がかなうと伝えられている。(案内板より)

 

 

 

白川神社の先の「来見橋(くるみばし)」では、土山宿がイラストで描かれています。

  

「たぬきの置物」で有名な信楽(しがらぎ)焼きの信楽町は、甲賀市にあります。戦後、天皇をお迎えした時のお歌により、福を呼ぶ縁起物として、たぬきの置物が

全国的に有名になったそうです。

  

 

  

ここまで15里(約60km)歩いてきました。あと江戸まで110里(440km)・・・・・・・先が長いですね。

 

  

東見附を左折すると道の駅「あいの土山」です。今日のゴールの田村神社は、国道を挟み向かい側にあります。

ここからあいくるバスで貴生川(きぶがわ)駅に行き、貴生川で草津線で柘植駅、柘植駅から関西本線で今日の宿、三重・亀山へ行きます。

貴生川駅では、信楽高原鉄道の可愛い車両を見つけました。

また、関西本線加太(かぶと)駅近くでは、野生のシカ数頭が線路を横切っていました。

 

 

  

 

東海道の地図にチェック印を入れます。

 

明日は、いよいよ鈴鹿峠越えです。

 

本日(3/23)のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№6 (三雲駅~水口宿)

2016-03-29 13:20:38 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3/23 博多から新幹線、JR草津線を使い、前回ゴールのJR三雲駅へ。、三雲駅10:30到着。

先ず、街道を外れ、三雲側にある、横田常夜燈へ。

この常夜燈は、東海道十三の渡しの難所の一つに数えられ湖南市側に建っています。安永8年(1774)東講中によって、高さ4,85m、五段の石積みの上に建てられています。

  

草津線の踏切を渡り、しばらく歩くと、左側に「天保義民の碑」があります。

天保13年(1842年)、代官の不正な検地に抗議するため、旧甲賀郡、旧野洲郡、旧栗太郡の総勢約4万人の農民がいっせいに蜂起しました。

これが、歴史に有名な天保一揆です。検地を中止させ「十万日延期」の目的を達しました。ただし、一揆のリーダーの庄屋クラスの農民達の払った代償も大きく、

このときの一揆で犠牲になった祖先の魂をなぐさめ、その義挙を後世に伝えようと伝芳山(でんぽうざん)に明治31年(1898年)に慰霊碑が立てられました。

毎年10月15日には、遺徳を讃える慰霊祭が行われています。(滋賀・琵琶湖観光情報より)

子供の頃の歴史の教科書で「天保の大飢饉」というのを習ったことがあります。大阪の大塩平八郎の乱もちょうどこのころだったですね。

ここ、三雲でもこうした一揆が起こっていたのですね。

    

駅の方に戻り、旧東海道に入ります。

横田橋を渡り、朝国の交差点の歩道橋を渡ります。水口(みなくち)宿の大きな看板から甲賀(こうか)市水口(みなくち)です。

  

しばらく歩くと横田川沿いに大きな常夜燈が見えてきます。ここが「横田の渡し跡」。

 鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで「横田川」と呼ばれてきました。

 伊勢参宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも「横田河橋」の名が見えています。

 江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。

 そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。

 これによると、三月から九月の間は四艘の船による舟渡しとし、十月から翌二月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。

 野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。(案内板より)

常夜燈は、高さ10,5mと燈火を灯す火袋は大人も通れるほどで道中最大級のものでした。

 

 

 

 横田橋の名は、寛正二年(1461)五月二十四日の室町幕府奉行仁文書(山中文書)に「酒人郷横田河橋」として見えるのが早く、京都西芳寺(さいほうじ)によって橋賃が徴収されていた事が知られています。

 江戸時代には、東海道の「渡」のひとつとして幕府の管轄下に置かれ、渇水期には土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていました。

 明治二十四年、泉・三雲間を結ぶ長大な板橋が架けられました。

 この石垣は当時の橋台の一部です。その後、昭和4年には下流に橋が移され、同二十七年には、国道1号線の敷設によって現在の横田橋へと推移しました。(案内板より)

  

泉地区に入ってきました。泉の一里塚、舞込橋を渡ると右側に松並木が見えてきます。昔は、この一帯ずっと松並木で旅人がここで休んで旅をしていたのでしょうね。

  

  

甲賀市は、2004年、水口、甲南、甲賀、土山、信楽の5町が合併して発足しました。

甲賀と言えば、忍者。飛び出し注意の看板にも忍者が描かれています。尚、同じく忍者の町三重県伊賀市は、南に隣接しています。

  

柏木公民館の前には、「火の見櫓」のモニュメントがあります。このモニュメントには、覗き穴があり、覗いてみると、干瓢を作っているご婦人方と

それをデッサンする広重が描かれています。広重の水口宿の浮世絵は、「干瓢」です。

水口城主の加藤氏が下野(栃木県)から移入してきた折に、干瓢作りを奨励し特産品にしたそうです。

   

広重・「水口宿」

縄手(畷)とは、田の中を通る長い直線道のこと。東海道の整備により曲がりくねっていた旧伊勢大路を廃し見通しのよい道路としたことに因みます。

江戸時代、東海道の両側は土手になり、松林がありました。街道は、近隣の村々に掃除場所が割り当てられ美しさが保たれていました。

現代では、ペットボトルや缶、燃えるごみ、不燃物など何種類も分別しなくてはいけないので大変ですが、江戸時代の人は、このようなゴミがあるとは想像もしなかったでしょう。

いずれにしてもゴミは捨てないようにしたいものです。

 

  

  

  

水口は、西側が城下町で道がカギ状になっています。マップを見ると水口城は街道にはいっていませんので、ここで寄り道して水口城の方に行きます。

   

水口城」は、徳川三代将軍家光が寛永11年(1634)、京都上洛の際、宿館として築城されました。作事奉行には、建築や作庭などで著名な小堀遠州があたりました。

城は、小規模ながら将軍の宿に相応しい豪華なものでした。その後幕府の任命した城番が管理した番城となりましたが、天和2年(1682)には、加藤明友が入封し、

水口藩となり、水口城はその居城となり明治維新になりました。維新後は、廃城となり、建物や石垣は撤去されましたが、本丸敷地のみ保存され、平成3年(1991)

出丸の部分に矢倉が復元され、「水口城資料館」として開館しました。

  

お城と言えば、「桜」ですね。水口城の桜は、まだ蕾が少しピンク色の状態。あと1週間ぐらいで見ごろになるのでは?

時刻も1時を廻りましたのでここで休憩しました。

  

再び街道に戻ります。

「水口キリスト教会」は、W・Mヴォーリズの設計です。ヴォーリズは、他にも旧水口図書館も設計しています。

ヴォーリズは、NHK朝ドラ「あさがきた」の主人公広岡あさの娘婿の妹「一柳満喜子」と結婚し、日本に帰化しました。

  

街道の途中に「水口ひと・まち街道交流館」というのがありましたので寄り道しました。この交流館では、水口曳山祭りの曳山が展示されていました。

水口曳山祭りは、水口神社の春祭りで江戸時代の享保年間(1716~1735)に宿場町であり城下町であった水口の活力を背景に、町民の力によって

創り出された近江東南部を代表する都市型の祭礼。華やかな曳山巡行と江戸「神田ばやし」の流れをくむといわれる「水口ばやし」で知られています。

4月19日が宵宮、20日が例大祭・曳山巡行です。Youtubeで見ましたが、壮大なお祭りですね。

水口のマンホールには、曳山の車輪がデザインされています。

      

  

西のからくり人形前に着きました。ここで道は、三筋の通りと呼ばれ、道が3つに分かれています。(旧東海道は、真ん中)

からくり人形は、一日4回動くそうで次の3時までには、時間がありすぎますのでやむなくパスしました。

  

東側にもからくり人形がありました。

  

水口宿は、都から伊勢に通じる街道上の要地として早くから開け、室町時代には、伊勢参宮の将軍家や文人たちの通行が見られました。

その後、秀吉の命により大岡山に水口岡山城が築かれ、水口はその城下町として町並みを整えました、この城は関ヶ原の戦いで落城しましたが、

慶長6年(1601)には、東海道の宿駅に指定され、旧城下は宿場町として再出発。規模は近江の東海道五宿のうち大津に次ぐものでした。

水口宿は、東西2,4km、本陣1、脇本陣1、旅籠41、家数718、人口2692人の規模でした。

  

 

国道307号線と交差する手前には、水口宿東見附がありました。

  

このあと、土山宿に向かいます。(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№4 (草津宿~石部宿)

2016-03-14 12:39:03 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3/3(木)7:30ホテル出発。8時の気温は、8℃、今日はいい天気です。

昨日から気になっていた浜大津駅前の「三井寺力餅」、お土産に買おうかと思いましたが、日持ちがしないということで今日のおやつに

5本入りを買ってみました。

  

8:30昨日ゴールした草津宿追分に到着。宿場町を歩くと草津川堤防に出てきます。ここには、大きな燈籠を兼ねた道標が建っています。

高さは、3,9m、日野の豪商中井氏の寄進で文化13年(1816)に建てられました。今年で200年ですね。

道標には、左:東海道いせ道、右:金勝寺志がらき道。

   

栗東市に入りました。(栗東市のマンホールは、メジロとキンセンカ)

  

歩いていると「老牛馬養生所跡」の碑がありました。説明文によれば、栗太郡志等に 「この施設は和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て

その残酷さに驚きこれから老牛馬であっても息のある間は打はぎを止めるようと呼びかけ、天保12年4月、当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから

ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された。」と記されている。」

栗東というと、JRAのトレセンがあります。私感ですが、栗東の方の「おもいやり」がトレセン→栗東となったのでしょうか?

  

岡という集落に来ました。

岡という所が、昔の目川だったのですね。広重の石部宿の浮世絵には、目川の田楽が描かれています。

目川は、昔、草津宿と石部宿の間(あい)の宿でした。元いせやは、目川の立場でした。

ここで出された食事は、地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となりました。

   

   

田楽とは、室町時代に豆腐に味噌を塗り竹串を刺して熔るという料理が流行しました。その料理が田植え前に豊作を祈り、白い袴を履いて高足に乗って田楽踊りをする

田楽法師の姿に似ているということからこの料理を「田楽」と呼んだそうです。(ヤマキ酒店菊の水由来から)

   

上鈎(まがり)の交差点の近くに、九代将軍「足利義尚公」の陣所跡があります。足利義尚は、寛正6年(1465)8代将軍足利義政と正室日野富子の二男として生まれました。

滋賀県百科事典では、室町幕府第9代将軍足利義尚(1465~89)は、戦国大名佐々木六角高頼討伐のため動座し、鈎(まがり)(現、栗太郡栗東町)に陣所を設営した。

当時近江国は台頭する六角氏勢力に掌握され、山門領や幕府近習・奉公衆などの所有する荘園への押領ははなはだしく、幕府の権門体制を揺がすものといっても過言ではなかった。

1487年(長享元)10月4日将軍義尚は諸将を動員し高頼を討つべく近江国栗東郡の安養寺(あんようじ)に陣をはった。これに対して六角氏は、わずかな戦闘を試みただけで、

早々と甲賀(こうか)に逃亡した。同年10月27日、義尚はさらに陣を安養寺北西1kmの鈎にある真宝館にうつした。ここは山徒真宝坊の居館で、幕命により召し上げられたものです。

本丸・二の丸・三の丸から成り、堀・土手に囲まれていたが、しょせん寺域に手をくわえたものであったため堅固たる城郭とはいえなかったが直臣や有力守護を近辺におき、

みるまに寒村は小幕府と化した。ところが元来義尚は病弱なうえアルコール中毒であり、暗愚にまかせ連日遊興にふけったため、ついに25歳の若さで、鈎の陣所に没した。

現在、陣所跡とされる場所には永正寺(えいしょうじ)が建ち、栗東町指定史跡となっている。一説には、現鈎蓮台寺が陣所跡であろうとのの説もある。」

   

手原の町に入ってきました。町を歩いていると、「東経136度子午線」の碑が建っています。

  

  

手原駅の近くに「手原稲荷神社」があります。祭神は、稲倉魂神、素戔男尊、太市比売神を祀っています。

歌舞伎で今でもよく上演される演目の「源平布引瀧」の第三段「九郎助主家の段」で登場人物が手を産み落としたとして「今よりここを手孕(てはらみ)村と名づくべし」というおちが着く場面に

出てくる手孕伝説の手原村に鎮座する稲荷神社です。

東海道名所記には、「左の方に稲荷の祠あり、老松ありて傘の如くなり、笠松の宮という」と記され、江戸時代は笠松でも有名でした。

 ※ 注)手孕伝説:女性が身体の一部に男性の手が接触したのが原因で孕み片手を産んだという伝説。

手原村の地名は、この伝説から付けられたのですね。

 

 

手原の町を歩きます。旧家が多く、車の通行も少なく安心して歩けます。

  

ふと、旧家を覗いてみると、

小野村でも

六地蔵村でも

各その家の昔の屋号を玄関に架けていました。この東海道沿いにこのような商家が並んでいたのですね。

注)葉山村は、現在栗東市ですが、手原、小野、六地蔵は、旧葉山村でした。

  

ムカデ伝説の三上山が見えてきました。三上山は、その姿から「近江富士」とも呼ばれています。

六地蔵の「一里塚」です。

  

更に進むと「旧和中散本舗」が右側にあります。和中散とは、胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の道中薬として重宝され、その始まりは元和元年(1615)、本家是斎家(大角家)が、

京都の名医半井ト養(なからいぼくよう)の娘をめとって、和中散や小児薬の奇妙丸の製法を伝授され、大きな梅樹の木蔭で旅人に売るようになったと伝えられています。

また、慶長16年(1611)、徳川家康が野洲郡永原陣屋で腹痛を起こした時、典医が和中散を勧めたところ、たちまち快癒したとあります。

また、この家の当主大角家の庭は、国指定名勝に指定されています。予約していれば見学できたのですが・・・・・・

  

六地蔵の地名の由来となった「法界寺」です。

昔は、この寺に六地蔵がありましたが、現在は、国の重要文化財になっている「木造地蔵菩薩立像」が一体安置されています。

   

地蔵尊を出ると、地元の方から是非「新善光寺」に行ったらいいと言われ、またまた寄り道です。(笑)

  

    

時刻は、11:30を過ぎました。小腹も空きましたので、ここで今朝買った「三井寺力餅」を頂きます。黄粉の中にお餅が入っており、口いっぱいに

さわやかな甘さが広がります。美味しいです。日持ちがすれば、お土産に買って帰るのに・・・・・・・

街道は、名神高速のガードに近づきます。事前に地図で確認していたのですが、街道は、直進したり、ガードから右折したりしています。

調べてみると、直進すると野洲川沿いの道、右折すると堅物の代名詞、「石部金吉」の由来になった「旧石部金山」を通ります。

昔、野洲川が氾濫すると野洲川沿いの道は通れなくなり、う回路として石部金山の廻る道路が出来たそうです。

私達は、その石部金山の方を通ります。

  

このあたりから、湖南市に入ります。ゴーシュウの工場の先で下道と合流します。

このあたりには、元禄二年(1685)山の中を通過するために安全を願って五軒の茶屋が石部宿から移転してきたそうです。

  

石部宿に入ってきました。西縄手には、東海道五十三次の図が掛けられていました。

 

石部宿は、本陣2軒(小島本陣、三大寺本陣)、脇本陣0、旅籠32軒を含む458軒が両脇1,6kmの間に建ち並んでいました。人口は、約1600人。

「鈎の手道」という案内板があります。見てみると、「街道が鈎の手に2カ所設置されていて敵がむやみに侵入しにくい構造・・・・・」

確か、長崎街道武雄宿でも同じような構造でした。

  

宿場の中ほどに「小島本陣跡」があります。

  

本陣跡近くに「石部宿休憩所」がありましたのでそこで休みます。

休憩していると、ここには、東海道ウオーカーがやって来られます。私達が入った時には、東京から歩かれている女性がいらっしゃっていました。

この方、熊本の出身だそうです。私の知っている熊本弁でお話ししましたが、わかってもらえたかな・・・・?(笑)

  

  

  

吉姫神社(女神様)は、石部西の吉御子神社(男神様)と対の関係にあります。社蔵の木造狛犬は南北朝時代の作という。境内には万病に効くという宮前の湧水が湧いています。

  

先ほどからお腹が空いてきており、食堂か,コンビニを探しますが、見つかりません。

いつもは、テーブルロールのパンをリュックに忍ばせているのですが、今日に限って用意しませんでした。腹減った~

街道は、三雲地区に入りました。

 

湖南市には、3つの天井川がありました。そのうちの一つが「家棟(やのむね)川」ですが、昭和54年(1979)家棟川の平地化に伴い廃止されました。

  

現存する隧道(天井川)は、由良谷川と大沙川です。いずれも総石造りです。

  

「夏目一里塚」このあたりが夏目立場と言われ、何軒かの茶店があり、名物トコロテン、銘酒桜川を売っていました。

  

 

大河ドラマ「真田丸」に出てくる「猿飛佐助」の里という幟が立っています。

僕等が子供のころ、猿飛佐助は、ヒーローでした。架空の人物と思っていましたが、実在するとは・・・・・・

司馬遼太郎説によると、佐助は、甲賀五十三家で吉永山に城館を構える三雲城の「三雲新左衛門賢持の子、三雲佐助賢春である」。子供のころは、三雲城で剣術や

忍者の修業をしていたそうです。

  

大沙川の堤防には、大きな杉の木があります。「弘法杉」と言って樹高26m、周囲6m、樹齢750年とかなりの大きさです。もともとは、2本あって並行していましたが、

洪水の為に堤防が決壊し1本は倒れたそうです。

   

それにしてもお腹が空いてきました。今日は、水口まで行く予定でしたが、もう体力が持ちません。(三井寺の力餅を食べたのですが・・・・・)

三雲駅でゴールしたいと思います。

  

15:20JR三雲駅に到着。駅前に酒屋さんがありましたが、閉まっており、自販機でビールを買いました。汗をかいた後のビールは格別ですね。

昔の人は、京から出発の時、「京立ち石部泊まり」と言って一日に約40kmぐらい歩いたそうです。

それに比べ私達は、3日間で石部までです。次回はもう少し歩いてみたいです。

東海道のチェックシートです。

今日3/3のGPSです。