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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№3 (大津宿~草津宿)その2

2016-03-11 12:30:00 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

 ☆ 石山寺 ☆

瀬田川沿いにある西国三十三所観音霊場の第13番札所。聖武天皇の勅願により、天平勝宝元年、東大寺の僧である良辦によって開基され、歴朝の尊宗あつい

由緒ある寺院である。本堂は、県下木造建築最古のもので、内陣は平安中期、外陣は淀殿の修補になるもの。本尊観音は、勅封になっている。

堂内「源氏の間」は、紫式部が「源氏物語」を書いた所と伝え、本堂下の御堂は蓮如上人の母が石山観音の化身だといわれるので、その形見と

伝える蓮如鹿の子の小袖を安置している。多宝塔は、美しい均斉美をもった鎌倉期の建築であり、鐘楼・大門は共に鎌倉初期の建立になるものである。

境内の奇石は、いわゆる石山の名の出た石で硅灰石からなり、天然記念物に指定されている。(石山寺案内パンフより)

 

   

参道には、桜が植えられており、あと1月もすれば桜並木になるでしょう。

入場料(600円)を払い境内へ。

  

  

      

   

   

   

石山寺境内をゆっくり廻ると1時間半かかりました。素晴らしいですね。境内には四季折々の花が咲いていて綺麗です。

お腹も減りましたので石山寺前の食堂に入りました。「しじみ定食」。これが結構おいしかったです。

   

石山寺からバスでJR石山駅まで戻り、またここから街道歩きの再開です。

瀬田の唐橋に着きました。

瀬田の唐橋は、近江八景「瀬田の夕照」で名高く、宇治橋・山崎橋と並び日本三名橋といわれており、瀬田橋あるいは瀬田の長橋として多くの文学作品に登場しました。

最初に架けられた時期は不明ですが、古くは日本書紀にも登場しています。「唐橋を制するものは天下を制する」といわれるほど、京都へ通じる軍事・交通の要衝であることから、

幾度と無く戦乱の舞台となりました。現在の橋は昭和54年(1979年)に架け替えられたものですが、旧橋の擬宝珠を流用した姿は以前の風情をとどめています。(観光案内より)

俵藤太秀郷が瀬田川に住む大蛇に頼まれて三上山(近江富士)の大ムカデを退治した伝説があります。

  

  

唐橋を渡ると、日本武尊を祀っている「建部大社」が見えてきます。車の通行が多いため渡るに渡られずパスします。

  

途中の通学路には、「くまモン」が出張して子供たちの安全を見守っていました。(笑)

瀬田の一里塚です。今まで見た一里塚でも巨大な大きさです。これでしたら見のがすことはありませんね。

   

途中で下校中の小学生と会いました。子供たち、私のDバックの風車を見て近寄ってきます。Dバックには、「長崎から歩いています・・・・・・」と書いたプラカードも下げていますので、

それを読んだ、ある子供さんが「おじさん、お金がないから歩いているの?」と聞いてきます。とっさの質問にびっくりしましたが、「そうよ。お金がないから歩いているだよ」と答えました。

この街道歩きの楽しみがわかるのは、もっともっと先のことでしょうね。(笑)

 

街道は、いつの間にか、草津市に入りました。

  

「東海道立場跡」の石碑があります。立場とは、江戸時代街道筋で人足が駕籠や馬を止めて休んだ所です。

反対側には、「月輪池」と書いてあります。説明文では、月輪池、大萱池、月輪禅閣、藤原兼資の荘園があった関係か、道中、旅人が池に映る月の影に感嘆して名づけた。と書いてあります。

  

野路の町に入ってきました。ここにコンビニがありましたので少し休憩します。

草津には、小学校時代からの同級生が住んでいます。地図を見るとここからそんなに離れていません。電話をしますが、どこかに出かけているのか出ませんでした。

再びスタート。「野路萩の玉川」というのがあります。ここに地元の方が建てられた案内板がありました。

「野路は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅として栄えた所である。 源平争乱の時代、ここ野路は数多くの武将の宿陣となり、時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。 

ここ玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、都から公卿・貴族・詩人等、しばしばこの地を訪ね景勝をめでて多くの詩歌を咏んだ。

中でも千載集(1188年)所載の源俊頼の作

「あすもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる浪に 月やどりけり」は名歌として世に広くしられている。

又十六夜日記(阿仏尼作)には

「のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」と咏んだ。 

十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでて、あたり一面咲き匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵によく描かれ、

いつの頃か歌碑も建てられた。 その後野路宿が草津宿に移り次第に玉川も亦さびれる運命となった。

近年は泉も涸れ形も小さくなり、風情は一変した。かっては天下の名勝萩の玉川もわずかに残る沼地となり人々から忘れ去られようとしている時、 

我等地元住民は、野路の象徴であるこの由緒深い玉川を放置するにしのびず  永く後世に伝え残すため、住民の總意により復元を行ない幾分なりとも往時の面影をとどめることとした次第である。

 昭和51年11月28日  草津市野路町 」

 

  

野路の信号交差点の所に「野路の一里塚公園」があります。四阿には、草津宿の絵も掛けられていました。一里塚には、松が植えられていたのでしょうね。

  

本陣まであと300m。「矢倉立場」の案内板があります。

立場とは、宿場と宿場の間に茶店が設けられ、旅人が杖を立てて休んだことから付いた名で、矢倉村には、「うばがもち」を売る店があった。

この地にうばがもちを売る店があり、広重の浮世絵や「東海道名所図会」「伊勢神宮名所図会」などに旅人が立ち寄ってうばがもちを賞味する光景が描かれている。

また、ここからは、対岸の大津と琵琶湖の湖上を渡る「矢橋の渡し」である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。浮世絵などにも描かれた道標が今も軒先に建っている。

旅人は、俗謡に「瀬田に廻るか矢橋へ下ろうかここが思案の乳母が餅」と詠まれ、旅人の多くは、ここで瀬田橋廻りで行くか、矢橋橋を経て矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。

そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋はよく使われる俚号で「急がば廻れ」の語源になった所である。

武士のやばせの舟ははやくとも急がば廻れ瀬田の長橋」  (醒睡笑)と詠まれ、近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用することより、

回り道でも瀬田橋まわりの方が着実であることから、成果を急ぐなら遠回りしても着実な方法をとる方が良いことを指南したものである。

                                      「右 やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」

 

 

  

    

※うばがもち:近江(おうみ)国の郷代官であった六角義賢(ろっかくよしかた)に幼児を託された乳母(うば)が生計のために売りはじめたものという

矢倉橋を渡ると右側に「黒門」の案内板があります。

草津宿は、東海道と中山道が交わる宿場町であるため、宿場の入口は東海道の江戸方よりの入口と京方よりの入口および中山道よりの入口の三つの入口がありました。

宿場町の入口には、一般に見付けと呼ばれる施設が設けられていました。見付には石垣や土塁が築かれ、さらに柵などを設ける場合もあったようです。

草津宿では、東海道の入口に 「坂口見付」、中山道の入口に 「札の辻見付(追分見付)」と呼ばれた見付がありました。

一方、東海道の京方の入口である宮町と矢倉村との境には、文化14年(1817)には黒門が設置されていて、宿内と宿外を限る施設として存在していたようです。

しかし、この黒門は幕末期に草津宿役人を勤めた駒井興左衛門の記録に基づけば、もともとは六町目と宮町の境を流れる宮川に架けられた宮橋の南詰めにあった見附の石垣の上に

建てられていたものですが、その後石垣が壊れたため、上記のとおり矢倉村境に移築されるにいたったようです。

ただ、この黒門の規模や形状については、詳細な記述がなく不明といわざるを得ませんが、見附と同様な、宿場町の保安的機能を有した門であったと考えられます。

また、付近に黒門川(俗称)が流れていましたが、旧草津川の抜本的な放水路計画により分断され、上流・下流で一部その姿を留めることとなりました。

 

立木神社を過ぎると本陣は目の前です。太田酒造のあたりが草津宿の「政所(まんどころ)」。

 

太田酒造は、江戸城を造った太田道灌が遠祖で、お酒の銘柄も「道灌」です。

時間は、4時45分を廻っています。草津宿街道交流館に入りました。2階が草津宿の展示場になっていますが、5時で閉館だそうです。

2階に上がってみたかったのですが、時間がなく1階の展示のみの見学でした。

  

草津宿街道交流館の前が「草津宿本陣(田中七左衛門本陣)」です。

草津宿は、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒。もう一つの本陣(田中九蔵本陣)は、もう現存していません。

本陣の中には入れますが、時間も5時少し前ですが、閉館していました。(翌日は9時からだそうです)

  

   

草津宿の追分に来ました。ここから東海道と中山道に分かれています。このあたりを見学していると、自転車でやってくる方がいらっしゃいました。

聞くと、観光ボランティアをされている方だそうです。草津宿には、吉良上野介、シーボルト、皇女和宮などが宿泊したそうです。

追分のトンネルですが、かつては、天井川であった草津川の川床でした。明治19年草津川の下を通るトンネルが掘られましたが、掘られる前は、人々は、歩いて渡っていたそうです。

浅い川だったのでしょうか?

  

  

  

  

   

大津のホテルまで草津から電車で帰りました。17分で着きました。今日私達は、一日かけて大津から草津まで歩きました。電車は速いですね~。

今日3/2のGPSです。(途中石山寺に寄り道しました)

そしてチェックシートには、印を入れました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№3 (大津宿~草津宿)その1

2016-03-09 23:03:40 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3/2 天気は晴れていますが、外は寒い。7時現在0℃。

7時半にホテルを出て、街道歩きの前に「三井寺」に行ってきます。ホテルから三井寺まで徒歩約15分。

歩いていると「琵琶湖疏水」が見えてきます。琵琶湖疏水は、大津市三保が関で取水し、三井寺の山下を通って京都・蹴上へ流れる人工の水路です。

両岸には、桜が植樹されており、桜のシーズンは、最高のロケーションでしょうね。

  

  

三井寺は、天台宗寺門派の総本山で、観音堂は西国三十三所観音霊場第十四番札所。大友皇子の皇子・大友与多王が父の霊を弔うために寺を創建し、

天武天皇に「園城寺」という勅額を賜ったことが名前の由来です。また、境内には天智・天武・持統の三帝の産湯に用いられたという霊泉があり、

「御井の寺」と称されたことから「三井寺」と呼ばれるようになりました。金堂をはじめ、国宝や重要文化財の数は圧巻で、近江八景「三井の晩鏡」でも知られています。

春には境内の千本の桜が咲き乱れます。また、戦国時代の武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などとも大いに関係のあるお寺です。

  

  

境内の地図を見るととてつもなく広い敷地です。全部見て廻るには1時間半ぐらいかかりそうです。今日は、石山寺にも行く予定にしていますので、今から全部見て廻るのは無理かな?と思い、

仁王門の所で引き返すことにしました。また、いつか、行ってみたいですね。

北国街道、長等(ながら)神社、菱屋町商店街を通り、旧東海道に向かいます。

長等神社は、天智天皇が大津京鎮護のため長等山の岩倉に須佐之男大神を祀ったのが始まり。貞観2年(860)円珍が園城寺の守り神としてまつったといい、

天喜2年(1054)庶民参詣のため山の上から現在地に移りました。

菱屋商店街には、お漬物屋「八百与」の宮内庁御用達という看板が目に飛びこんできました。八百与は、漬物屋としての創業は、1850(嘉永3年)、それより以前は、三井寺、円満院、

比叡山延暦寺などの精進料理を生業としていたそうです。

 

更に商店街を進んでいくと、「寺田屋お登勢実家 升屋跡」の石碑が建っています。寺田屋というと、坂本龍馬襲撃事件ですね。

   

旧東海道に戻りました。これから草津宿に向かって歩きます。このあたりは、京都へ通じる道ということで京街道とも呼び、街道沿いの町を「京町」と名づけたそうです。

  

御饅頭處」というお店があります。屋号は「餅兵」といって、創業は、江戸・宝暦年間(1751~1763)。

昔は、店の前に床几(しょうき)を置き、ここで旅人が足をとめて一服したそうです。私も床几でお饅頭を食べてみたかったのですが、営業が9:30からですのでまだ開店してませんでした。

「すだれ屋」さんもあります。大津の町は、古いお店が多く残っていて歩いていても何か落ち着きますね。

  

露国皇太子遭難地の碑」があります。そうそう大津事件でした。歴史で習いました。

  

  

馬場1丁目には、「義仲寺(ぎちゅうじ)」があります。ここには、木曽(源)義仲と松尾芭蕉の墓があります。木曽義仲の愛妾巴御前が供養したから巴寺、木曽寺とも呼ばれたことがありました。

ここでも朱印をいただきました。

  

翁堂の中を見ると、天井の絵は、伊藤若冲(じゃくちゅう)の「四季花卉の図」、正面祭壇は、松尾芭蕉座像です。

  

  

 

  

義仲寺を出ると横浜から東海道を歩いてこられた方と出会いました。今日は、石山から歩いてこられたそうです。京都まであと少しですね。

膳所(ぜぜ)城総門跡を通ると右側に石坐(いわい)神社が見えてきます。

  

石坐(いわい)神社、祭神は、海津見神を主神とし、天智天皇、弘文天皇、伊賀采女宅子、豊玉比古命、彦坐王命を祀っています。

昔、干害にあったこの地の人が雨乞いをしたらひじょうな応験があって里人の信仰が深かったと伝えられています。本殿は、滋賀県の指定文化財になっています。

  

大津は、神社、寺院が多いですね。和田神社の境内にある銀杏の樹は高さ24m、樹齢600年から650年で、関ヶ原合戦で敗れ、捕らえられた石田三成を京都に護送中につないだという伝説があります。

  

難解な地名で有名な「膳所(ぜぜ)」。この一帯は、昔の膳所城下町です。

膳所城址公園というのがありましたので行ってきました。最初、お城みたいな建物が公園かな?と思いましたが、ここは、大津生涯学習センターでした。

膳所城址公園は、本丸町の信号の所でした。

  

  

公園内には、芭蕉の句碑が建っています。 「湖や 暑さを惜しむ 雲の峰」

  

近江大橋西詰のすぐ南側に突き出た地にあった膳所城は、徳川家康が関ヶ原の合戦の後、築城の名手といわれた藤堂高虎に最初に造らせた城でした。

城構えは、湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓(やぐら)が美しく湖面に浮かぶ姿は、実に素晴らしかったといいます。

この美観は、「瀬田(せた)の唐橋(からはし)唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われています。

戸田(とだ)・本多(ほんだ)・菅沼(すがぬま)・石川と城主が変わった後、本多6万石代々の居城として長く偉容を誇りましたが、明治維新で廃城になり楼閣(ろうかく)は取り壊されました。

城門は重要文化財で、膳所神社や篠津(しのづ)神社に移築されて残っています。(琵琶湖観光案内より)

膳所神社にも行ってきました。膳所神社の表門は、膳所城二ノ丸から本丸の入口にあった門が移設されています。

  

膳所神社の由来を見ますと、

天智天皇の大津京遷都のとき、膳所の地が御厨(みくりや)の地と定められ、天武天皇の代に大和国から食物の神を移して祀ったのが膳所神社の始まりとされていますが、

確かな資料は、平安時代、この一帯が天皇の食事としての湖の魚介類を献上する場所に指定されたことによると言われています。

御祭神は、食物をつかさどる豊受比売命(とようけひめのみこと)です。

江戸時代、膳所藩の領地になると、本多家歴代藩主に信仰され、神社の領地や社殿の寄進がたびたびありました。

なお、正面に建っている薬医門は、もともと膳所城の城門を移築したもので、重要文化財に指定されています。(神社案内板より)

そういえば、伊勢神宮外宮も確か、豊受比売命でした。「膳所」と名がつくのも納得します。

  

篠津神社 の表門も膳所城北大手門でした。

  

  

JR東海道本線のガードを潜り、左側に行くと、JR石山駅、京阪石山駅です。

       

これから、ここからバスで「石山寺」に向かいます。   (続く)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№2 (山科~大津宿)

2016-03-08 10:13:06 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

№1からの続きです。

昼食をとり再び街道へ出発します。歩いていると「毘沙門堂」の案内板があります。徒歩15分ですので行ってみることにしました。

毘沙門堂は天台宗五箇室門跡のひとつで、高い寺格と鄙びた山寺の風情を伝える古刹である。ご本尊に京の七福神のひとつ毘沙門天を祀ることからこの名がある。

創建は大宝三年(703)文武天皇の勅願で僧行基によって開かれた。当初は出雲路(上京区・御所の北方)にあったことから護法山出雲寺といった。その後、たび重なる戦乱から苦難の道をたどり、

寛文五年(1665)、山科安朱の地に再建。後西天皇の皇子公弁法親王が入寺してより門跡寺院となった。伝教大師が唐より将来された鎮将夜叉法という行法は、

天台五箇大法のひとつとして当門跡だけに伝わる秘法である。

ご本尊の毘沙門天は、天台宗の宗祖で比叡山を開かれた伝教大師のご自作で、延暦寺根本中堂のご本尊薬師如来の余材をもって刻まれたと伝えられる。商売繁盛・家内安全にご利益があり、

一月初寅参りには福笹が授与され善男善女で賑わう。

境内の諸堂は近世の門跡寺院特有の景観を伝える貴重な遺構であり、その多くが京都市の有形文化財に指定されている。山科盆地を見おろす山腹に位置し、

春の桜、秋の紅葉は知る人ぞ知る京の名所でもある。(毘沙門堂HPより)

枝垂れ桜の名所ということですが、桜の方は、まだまだ先の様です。境内で朱印帳を買い、早速朱印をいただきました。この道中朱印帳を持っていきたいと思います。

   

     

 毘沙門堂から戻ってくると「琵琶湖疏水」がありました。この水路が蹴上まで続いています。

旧街道に戻ると、雪が降ってきました

  

途中、「四宮」の地名の由来になった「諸羽神社」がありましたが、雪の為パス。徳林寺・山科地蔵で雪宿り??しました。

山科地蔵・徳林庵は、旧東海道に建つ寺院です。地蔵尊は、小野 篁作で、852年に作られた六体の地尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にありました。

後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年街道の出入り口6か所に一体ずつ分置されました。

徳林庵は、1550年開創。境内には、人康親王、蝉丸供養等、荷馬の井戸、飛脚の釜などがあります。

江戸時代は、ここで荷物の受け渡しが行われたのでしょう。井戸には、大手運送会社のマークがついていました

 

  

雪も少し止んできましたので再び出発します。街道は、滋賀県大津市に入りました。プレスコの横には、「三井寺参道」と「小関越」の石碑が建っています。

小関越は、小関峠を越えて大津札の辻で逢坂山ルートの旧東海道と合流する約4kmの道程。中世以降の北陸道の一部だそうです。

東海道・東山道が通る逢坂の関を大関と呼ぶのに対し、小関と呼ばれました。その先の右側には、「車石」の説明版があります。

   

1号線の歩道橋を渡り、旧街道へ。

  

髭茶屋追分には、道標があります。「右、京みち、左、ふしみ」。右は、東海道、左は、京街道です。追分とは、馬子が馬を追いかけることからきたものです。

東海道のことを57次という説もありますが、これは、ここから伏見、枚方を経て大阪高麗橋までのことを言います。

徳川家康は大名が京都で公家と接触するのを禁止したため、大名行列は髭茶屋で京へ向う東海道と分れ、京を通らずに大坂へ向うことになりました。

髭茶屋というとこの追分あたりに髭面の人が営んでいた茶屋があったからでしょうね。

道標の反対側には、「柳ハ緑、花ハ紅」と書いてます。以前車がぶつけたのでしょうか、鉄で補強されていました。

  

また、雪が降り始めました。これから逢坂峠に入ります。

名神高速のガード下を潜り、国道1号線と合流します。1号線の横には、京阪電鉄京津線。

  

月心寺にやってきました。このあたりに一里塚があるのですが、見つけられませんでした。

月心寺は、江戸時代、名水「走井の清水」で有名な茶店で今でもその名水が湧き続けているそうです。庭園も素晴らしいそうですが、残念ながら工事中の為立ち入ることはできませんでした。

  

街道は、この先の歩道橋を上って行きます。渡るとすぐ百人一首「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」の歌が飛び込んできます。

走井餅は、現在石清水神社の前に店舗があります。

     

広重の絵には、茶店の前で走井の清水が湧き出ています。

蝉丸神社(村社)の由来を見てみると、

当社は、天慶9年(946)蝉丸を主神として祀っております、蝉丸は、盲目の琵琶法師と呼ばれ、音曲芸道の祖師として、平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され、当宮の免許により興行したものです。

その後万治元年(1660)現在の社が建立され、街道の守護神、猿田彦命、豊玉姫命を合祀してお祀りしております

  

うなぎで有名な老舗「かねよ」を通ります。ここは、お庭もきれいだそうです。入ってみたい気もしましたが、お昼にたくさん食べましたのでまだお腹が減りません。

  

   

逢坂の関は、東海道と中山道が逢坂関を越えるため、交通の要となる重要な関でした。平安中期以後は、不破関、鈴鹿関とともに三関の一つでした。

  

石碑の所では、工事中の為、押しボタン信号で向かい側にわたります。先へ行くと左側にまた、「蝉丸神社上社」が見えてきます。蝉丸神社は、かねよの前が村社、ここが上社、

そしてこれから行くのが下社と3つの神社を総称して蝉丸神社と呼んでいるそうです。

  

安養寺の所を斜左に渡ります。ただ今16時ちょうど。気温は2℃を指しています。寒いです。

左を見ると踏切の向かい側に神社があります。これが3つ目の蝉丸神社下社、通称「関蝉丸神社」です。

  

入口の石碑には、「音曲芸道祖神」と書かれています。蝉丸は、琵琶の名手

  

  

謡曲「蝉丸」のあらすじは

延喜帝(醍醐天皇)の第四皇子蝉丸は盲目として生を受けたが、ついに父帝の勅命によって逢坂山にうち捨てられることとなった。廷臣の清貫は蝉丸を剃髪し、簑・笠・杖を与え都へ帰っていく。

一人残った蝉丸は、それを伝え聞いた博雅の三位の計らいにより粗末な藁屋に雨露をしのぎ、自らの哀れな身を慰めるように琵琶を弾くのだった。 

一方、醍醐天皇の第三皇女逆髪は何の因果か心乱れ、髪が逆立つ異様な姿で物狂いとなり都をさまよい出でた。異様な姿を笑われた彼女は、たしかに我が髪は逆さまだが、

皇女を庶民の身分で笑うのも逆さまであり、順逆は見方によるものだ、と言い返す。 やがて逢坂山にやってくると、村雨の降る中ふと耳にする、都での懐かしい思い出を誘うような琵琶の音。

音に引かれるように藁屋に近づくと、中から聞こえてきたのは弟・蝉丸の声だった。 姉と弟は手を取り合い、互いの境涯を嘆き悲しむが、

やがて逆髪は、いつまでこうしていても名残はつきないと、またいずこへともなく立ち去っていく。その後姿を見えぬ目で見送る蝉丸がただ一人…。                
 

    

び街道に戻ります。東海道線大津トンネルを越えると、

このあたりから京阪電車が路面を走ってきます。4両編成の電車が路面を走るなんて見たことはありません。

  

街道筋には、昔懐かしい「銭湯」があります。あとで気づきましたが、大津は銭湯が今でも何カ所か残っているのですね。

さて、本陣跡を探すのですが、見つかりません。商店の人、大手新聞社大津支社の人などに聞きますがわからないとの返事。あれっ、大津の人って自分の町の歴史は知らないのかな?

ある方が曳山案内所で聞いたらと教えてもらい、やっとわかりました。札の辻という所にあり、ここは、京阪電車がカーブして路面に入る所です。

  

大津は、東海道や中山道、北国街道などいくつもの主要街道が通り、交通の要衝でした。宿場町と琵琶湖の物資が集散する港町の機能を持った大津宿は、江戸日本橋から

京・三条大橋を結ぶ東海道53次の53番目の宿場で全ての宿場の中でも最大の人口を有し、賑わいました。元禄のころには、百カ町があり、18000人もの人々が住む大都市でした。

本陣は2カ所、脇本陣1か所、旅籠72か所。

 

今日は、久しぶりの街道歩きで、しかも途中で雪に遭い思うように歩かれませんでした。明日は、頑張ります!

今日(3/1)のGPSです。

今回より東海道に印をつけていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道(京三条大橋~日本橋)道草ウオーキングを始めました。№1 (三条大橋~山科)

2016-03-06 18:54:12 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

☆ はじめに ☆

5年前から街道歩きをしていますが、一昨年(2014年)11月に長崎・出島~京都・東寺まで踏破し、もう街道歩きは、これまでと思っていましたが、

また街道歩きの虫が騒ぎだし、東海道を歩くことにしました。折角長崎から京都まで歩いていますので私の東海道のスタートは、京都から日本橋を目指します。

東海道は、江戸時代の徳川家康が整備した五畿七道のうち、東海道にある53の宿場を指します。当時の浮世絵や和歌の題材にも取り上げられた東海道は、

現在までに多くの人に旅された由緒ある街道です。

東海道は、公称492km。道草が好きな私たちは、さて、何キロかかるでしょうか?

  


☆ スタート ☆

3/1 博多発6:32のぞみで「おとなび」を使い新大阪へ。途中、山口と広島間が大雪の為、徐行運転となり新大阪着は、20分遅れ。

新大阪から在来線で京都へ。更に地下鉄で京阪三条へ。三条着10:30。

弥次・喜多さんの銅像前で記念写真。

10:45スタートです。

  

  

鴨川に架かる三条大橋を渡ると右側に「高山彦九郎先生皇居望拝之像」があります。

高山彦九郎(1747~1793)は、群馬県太田市出身。18歳の時以来、前後5回上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように京都御所に向かって拝礼した。

明治維新を成就した勤王の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだといわれる。

彦九郎のことを調べてみると、我が福岡にも何回か来ており、最後亡くなったのが、久留米です。

久留米といえば、幕末の尊王攘夷派の「真木和泉」がいますが、ひょっとして交流があったのでは?と思いましたが、彦九郎と真木は、年代が違いますね。

鴨川の畔には、「花の回廊の碑」がありました。枝垂れ桜が有名だそうです。あとひと月もすればきれいでしょうね。

 

歩いていると、民家の屋根に雪が少しですが、残っています。

東山の駅を過ぎ、橋を渡り、すぐ右折。しばらく歩くと「明智光秀首塚」があります。今日最初の道草です。

天正10年(1582)本能寺にいた主君織田信長を急襲した光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで秀吉に敗れ、近江の坂本城に逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われて自刃、
最後を遂げたと言われている。家来が光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたためこの地に首を埋めたと伝えられてる。

   

街道に戻ります。ユースホステルの片隅に「坂本龍馬・お龍結婚式場跡」の石碑が建っています。

坂本龍馬とお龍は1864年8月初旬、内々の結婚式をしました。その場所は当時の青蓮院の旧堺内です。この場所が選ばれたのは、お龍の父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためといわれています。

京都における龍馬とお龍の重要史跡として、2009年に遺跡が建てられました。

1年半ぶりの街道歩き、地図を片手にウロウロきょろきょろして歩いていますが、なかなか先へ進みません。左側に平安神宮が見えてきました。

3年前、JWA京都ウオークに参加した時の会場です。

  

蹴上発電所を過ぎると「ねじりまんぽ」という隧道があります。隧道の上に書かれている文字は、「想奇観雄」????あとで調べてみると、「雄観奇想(ゆうかんきそう)」と読むそうです。

南禅寺には、琵琶湖疏水が通っています。琵琶湖疏水について、調べてみると、兵庫県養父市のHPに記されていました。

琵琶湖疏水(びわこそすい)は、明治になり衰退していく京都市の産業を復興させるために、当時の京都府知事であった北垣国道さんが計画した事業です。伊藤博文や三条実美などの中央政府の要人と連絡を取って実施しました。

この疏水の事業の一貫として、日本で初めての水力発電所も建設されました。疏水は、大阪・琵琶湖間の舟運、農業・工業用水、防火用水そして飲料水と多目的に利用され、京都の発展に大きな役割を果たしました。

琵琶湖疏水の一部として作られた、船を台車にのせて移動させるシステムであるインクライン(傾斜鉄道)は平成8年に国指定の史跡となりました。このインクラインの基礎には、三条通から南禅寺に行くためのトンネルが作られています。

このトンネルに北垣国道さんが書いた文字が掲げられています。 アーチ形に煉瓦を積んだトンネルの上部に、扁額の形で文字が書かれています。文字は、篆書(てんしょ)による「雄観奇想」(ゆうかんきそう)という文字です。

琵琶湖疎水が完成した姿を「雄観」という大変すばらしい景色として讃え、電力、水運、上水道に利用する水の多目的な利用を「奇想」という思いで文字に書いたのでしょう。

「雄観奇想」という意味は、辞書などでみると「優れた眺めと思いもよらない考え」という意味になります。琵琶湖から水を引くという疏水事業の完成を祝福して、その思いを感慨深く示したものでしょう。

この疏水事業によって日本で最初の水力発電所が京都市につくられ、日本で最初の電車が京都市を走りました。そしてこの疏水の水は、現在も京都市民の飲料水として生活を潤しているだけでなく、

水力発電・農業用水・工業用水、そして防火用水などに利用されています。 (以上養父市HPより引用)

そういえば、2年前11月、西国道踏破の翌日に南禅寺の紅葉を見学しました。南禅寺には、「南禅寺水路閣」や「インクライン」などがありました。

その先の右側には、蹴上浄水場です。斜面にはたくさんのツツジが植えられ4月ぐらいには満開のツツジで綺麗でしょう。

 

  

このあたりが、「日ノ岡峠」。蹴上浄水場を過ぎると右側に「車石」があります。説明文によると、

平成9年10月、地下鉄東西線開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し、三条通りの4車線化及び歩道の整備事業を実施した。本事業の完成を記念して

三条通りの舗石として敷設されていた車石を利用し、往年の牛車道模した広場を設置した。

  

車石を過ぎると街道は、斜め右に入ります。道は狭く、主要道路のう回路になっているのか次から次に車が来ます。そのたびに道路の横側に避けます。

このあたりに一里塚があるはずですが、見つけることができませんでした。

  

  

約30分で大通りに出ます。出ると「天智天皇陵」があります。折角だから行ってみることにしました。

天智天皇というと中大兄皇子で645年に大化の改新を行いました。子供の頃歴史で習いましたね。

 

  

街道は、JR東海道線を潜り、京都薬科大学の所から左折します。しばらく歩くと民家の玄関口に「おたふく面」が付けられている家が何軒かあります。

調べてみてもわかりません。

  

  

山科駅前に着きました。「明治天皇御遺跡」の石碑を発見。

説明文によると明治元年(1868)、明治天皇が京都から東京行幸の時、奴茶屋があったこの地で休憩されたという。

その先には、山科三条商店街の方が建てられた石碑と「車石」の説明があります。

石碑には、「京三条はしまで1里半、大津札の辻まで1里半」と書いてます。丁度ここが京と大津の中間点です。

「車石」は、昔の東海道の逢坂山峠と日ノ岡峠は、雨が降ると道ぬかるんでしまい、多くの物資を積んだ牛車にとって通行が困難でした。

京都の心理学者「脇坂義堂」は、文化2年(1805)に1万両の工費で大津から三条大橋にかけての約12kmの区間に牛車専用通路として轍(わだち)を刻んだ花崗岩の切り石を敷き並べました。

轍の中に車輪を入れることにより牛車の通行は大変容易になりました。この石を「車石」と呼んでいます。

然し、個人の献金で1万両でしょうか?現在の価値で3000~5000万円です。若し個人の献金で行ったとしたら凄いですね。

 

   

時間も13時を廻りました。久しぶりの街道歩きで疲れました。山科駅前に食べる所がありましたのでそこに入ることにします。