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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№22(二川宿~新居宿)

2017-05-03 14:50:42 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3/8   二川宿を出、東海道本線のガードを潜ると、正面に大きな建物が見えます。「シンフォニアテクノロジー」の社名。「旧神鋼電機」です。

ここから国道1号線に合流します。一里山信号の近くに「一里山一里塚」があります。この一里塚は、もと道路を挟んで左右に1基ずつありましたが、南側の物は、破壊されて屋敷の一部となり、

わずかに残った痕跡も大正末期には全く滅失してしまいました。幸い、保存され残るこの塚は、東西11m、南西14m、高さ3mの塚です。

  

一里山東の信号を左折、ここから静岡県に入ります。昨年3月、京都を出発して、滋賀、三重、愛知を通り、5番目の県に入りました。

静岡県は、東海道53次の中、約190kmの中に22の宿場があり、ここを過ぎるとゴールの日本橋も近いです。

旧国名も三河から遠江(とうとうみ)になります。

遠江は、古くは「遠淡海(とほつあはうみ)」と表記しました。遠淡海は、一般的に浜名湖を指します。(ただし、国府のあった磐田郡の磐田湖(大之浦)を指すとする説もある。)

都(大和国)からみて遠くにある淡水湖という意味で、近くにあるのが琵琶湖であり、こちらは近淡海(ちかつあはうみ)で近江国となりました。

境川を渡ると「白須賀宿加宿境宿」の看板が見えてきます。加宿(かしゅく)とは、主に江戸時代、五街道や脇往還において駅逓事務を取扱う為設定された宿場(宿駅)において、

人家が少なく人馬を出しにくい宿駅で隣接する村を加え人馬の用を行わせたもの。この主となる宿駅に対して隣接する村を加宿と言う。先の「二川宿」も大岩宿を加宿にしていました。

  

白須賀宿」は、元来潮見坂下の元宿が、宝永4年(1707)の大地震による津波で壊滅したため、翌年、宿が移され、現在の場所が「白須賀宿」となりました。

白須賀宿を歩くと、昔の旅籠でしょうか、家の前に木札が掛けられています。然し文字が薄れちょっと見にくいです。

 

白須賀宿は、津波被害で、潮見坂の下から坂上へ移動しましたが、次は冬の西風の影響で何度も火災に遭っています。そこで人々は、火事の延焼を防ぐため道の両側に土塁を築き、常緑樹で火に強い

槇を植え、火除け地を作りました。宿内に3か所ありましたが、現在1か所残っているだけです。

   

宿場の中心部には、夏目甕麿(みかまろ)邸、加納諸平生誕地の碑があります。

夏目甕麿は、江戸時代後期の国学者で、酒造業の傍ら、内山真龍に学び、本居宣長の門下として「古野の若菜」「家集」等を著しました。甕麿の息子の諸平は、和歌山の藩医・加納伊竹に医学を学び、

加納家の養子となり、晩年には紀州候に召されて国学者の総裁として「当代類題和歌選集」「鰒玉集」など数多くの著作を残しています。

白須賀の本陣は、美容室の所にありました。ここは、大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864)の記録には、建坪183坪、畳数231畳、板敷51畳とあります。

また、白須賀宿は、天保14年(1843)の資料によれば、家数613軒、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒、人口2704人となっています。

 

  

白須賀小学校の先には、「おんやど白須賀」があります。東海道を散策する人の為の交流休憩ホールです。

  

潮見坂にやってきました。安藤広重の浮世絵には、この潮見坂を描いています。

   

潮見坂公園跡には、いろんな石碑群が建っています。

  

次の宿場「新居宿」までは、5,3km。京都からの上りは、ここから急な下り坂です。昔は、このあたりから富士山も眺められたそうですが、見えませんでした。

  

潮見坂を下り、白須賀宿の元宿に来ました。宝永4年(1707)の大津波で、潮見坂の上の高台に移るまで、白須賀宿があった所です。

  

街道の左側には、一里塚、高札場がありました。

火鎮神社(ほずめじんじゃ)は、祭神は、火之迦具土神・品陀和気命・徳川家康公。由緒によると、本神社は三座を祀り、由緒正しき神社なりしが、応永以降東海瀟及び安永年間社家火災の為め、古文書散失し、

由緒を詳に能ざるも、徳川家康の崇敬厚く除地壱町四方余、丸太船壱双の御墨附を賜り地方一般の崇敬を蒐めて御隆盛を極む。

大正十四年一月九日村社に列せられ同年十四日神饌幣帛料供進神社に指定されました。

    

街道の右側には、「明治天皇御野立所跡」があります。明治天皇が明治元年京都から東京に行幸する途中ここで休憩された所です。

  

街道は、旧浜名街道という名で右側に「松並木」が広がっています。この松は、松くい虫の被害で枯れ、昭和62年に植え直したそうです。

松並木の途中には、藤原為家、阿佛尼の歌碑が建っていました。

風わたる濱名の橋の夕しほに さされてのぼるあまの釣舟   前大納言為家

わがためや浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで   阿佛尼

 

  

松並木に「紅葉寺跡」の看板を発見。紅葉寺跡は、左側の奥の方にありました。

紅葉寺は、室町幕府六代目将軍足利義教が享栄4年(1432)に富士遊覧の時に立ち寄って紅葉を観賞したので紅葉寺と呼ばれているそうです。

  

橋本西の信号から再び1号線に合流します。次の橋本の信号を左折。突き当りに「棒鼻跡」があります。

棒鼻とは、駕籠の棒先の意味があるが、大名行列が宿場に入る時、この場所で先頭(棒先)を整えたので「棒鼻」と呼ぶようになったそうです。

    

新居宿には、疋田弥五郎本陣(188坪)、飯田武兵衛本陣(196坪)、疋田八郎兵衛本陣(193坪)という3つの本陣がありました。現存しているのは、飯田武兵衛本陣です。

新居宿は、人口3474人、家数797軒、本陣3、旅籠26の規模でした。

   

寄馬跡

   

町並みを歩くと、家々に昔の屋号が付けられていました。

旅籠「紀伊国屋」は現在資料館になっています新居宿旅籠紀伊国屋は紀州の出身で、江戸時代のはじめに新居に来て、茶屋を営んだという。はじめは小野田姓を名乗り、後に疋田弥左衛門に改めた。

旅籠屋として創業時期は不明だが、元禄十六年に御三家のひとつ紀州藩の御用宿を勤めるようになり、正徳六年に「紀伊国屋」を名乗ることを許されたという。

その後、享保十七年に帯刀御免、延享二年に五人扶持を賜り、江戸時代後期には敷地内に紀州藩の七里飛脚の役所があった。

紀伊国屋は、明治七年の泉町大火で焼失し建て替えられ、昭和二十四年まで旅館業を営んでいた。建物はその後増築したが、一部に江戸時代後期の旅籠屋の様式を残していたことから、街道文化を伝える施設として活用するため、東海道400年祭にあわせ、再生整備工事を実施した。

  

紀伊国屋の裏手には、「小松楼」があり、現在「小松楼まちづくり交流館」になっています。

新居では大正時代以降、関所の南側に歓楽街が広がり、多い時で60人から80人の芸者がいたと言われています。小松楼は大正から昭和20年代頃まで芸者置屋及び小料理屋を営みました。

建物は明治末期以前のものを現在の地へ移築し、その後数回の増改築を行っています。2階は座敷となっており、独特の間取りやべんがら色の壁など当時の面影を残しています。

平成22年9月1日から小松楼まちづくり交流館としてリニューアルオープンしました。【国登録有形文化財】

  

「新居関所跡」です。

  

新居関所(今切関所)は慶長5年(1600)徳川家康により創設されました。幕府は江戸を守るため全国に53ヶ所の関所を設け、「入鉄砲と出女」に対し厳しく取り締まりをしました。

特に新居関所は約100年間、幕府直轄として最高の警備体制が敷かれていました。鉄砲など武器の通行ではもちろんのこと、当関所に限っては江戸へ向かう女性(「入り女」)にも「手形」が必要で、

不備が見つかれば通ることはできませんでした。

当関所は江戸時代中期に、自然災害で2度の移転を強いられました。現在に残る建物(「面番所」)は、嘉永7年(1854)の地震でそれまでの建物が倒壊したあと、

安政5年(1858)までに再建されたものです。明治2年(1869)に関所は廃止されましたが、明治~昭和にかけて学校や町役場として使われ、当時の建物が日本で唯一そのまま残る関所としての

歴史的価値が高く評価され、大正10年(1921)国の「史蹟」に、昭和30年(1955)には改めて国から「特別史跡」に指定されました。

  

夕方に近づいてきました。今日は、JR新居町駅迄にします。安藤広重の「新居宿」の浮世絵は、浜名湖を渡る今切の渡しを描いています。

 

 

この分は3/8に歩いて写真200枚ぐらい撮ったのですが、誤ってフォーマットしてしまい、4/24に写真だけ撮りなおしに行ってきました。

 


東海道道草ウオーキング№21 「吉田宿~二川宿」(愛知県豊橋市)

2017-03-26 11:07:03 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3月11日からの「瀬戸内倉敷ツーデーマーチ」に参加しますが、ついでに東海道を歩こうと思い、3/8~9日と2日間東海道を歩いてきました。

6:08新幹線のぞみで新大阪へ。新大阪から豊橋までは、こだま。豊橋駅に着いたのが10:30になっていました。豊橋から路面電車で前回ゴール地「札ノ木」へ。ここからスタートします。

  

しばらく歩くと「曲尺手(かねんて)」という地名の所に来ました。

曲尺手は直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名同士が道中かち合わないようにする役割も持っていました。 江戸時代、格式の違う大名が擦れ違うときは

格式の低い大名が籠から降りて挨拶するしきたりでした。 しかし、主君を籠からおろすことは行列を指揮する供頭にとっては一番の失態です。 そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、

行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄りのお寺に緊急避難しました。

東惣門跡

東惣門は、鍛治町の東側に位置する下モ町の吉田城惣門西で東海道に跨って南向きに建てられていました。門の傍らには十二畳の上番所、八畳の下番所、勝手があり、門外の西側に

駒寄場十一間がありました。惣門は、朝六ツ(午前6時)から夜四ツ(午後10時)まで開けられており、これ以外の時間は、一般の通行は禁じられていました。

  

東惣門跡の所の歩道橋を渡ると「新町の常夜灯」があります。

案内板を見てみると、この常夜灯は文化二年(1805)吉田宿東惣門前(現在の東八町交差点付近)に建てられたものである。

以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり、近隣の町民をはじめ市民に親しまれてきたが、三河地震(1944)による倒壊とそれに続く戦火にあって放置されてきた。

この状況を憂えた常夜灯保存委員会により昭和55年豊橋公園内に復元されていたが、平成13年が「東海道宿駅制度制定四百周年」の節目の年でもあり江戸時代に建てられていたこの付近に再復元したものである。

「多米街道」の案内板があります。ここから多米を通って姫街道に出れます。

   

  

歩いていると瓦町に「寿泉禅寺」があります。寿泉禅寺は、臨済宗妙心寺派のお寺。石造りの楼門や三重塔が印象的でした。幼稚園も併設されています。

  

1号線殿田橋から左折。ここが飯村町。途中、岩西歩道橋の手前に「二川宿」の看板があったので進むと「岩屋観音」の方に出てきてしまいました。

どうも道を間違えたらしい。通りかかった人に聞き、街道に戻ります。

  

二川宿」に入ってきました。

 豊橋市二川町と大岩町は、江戸時代に東海道五十三次中33番目の宿場二川宿が置かれていました。二川宿は、二川宿と加宿大岩町からなっていて、町並の長さ12町16間(約1.3㎞)、

文政3年(1820)の記録では、本陣と脇本陣各1軒、旅籠30、家数合わせて306軒、人数1,289(男666、女623)人でした。

二川には、現在でも江戸時代の町割りがほぼそのままの状態で残り、東海道筋では滋賀県草津市の草津宿本陣田中家(国指定史跡)とここだけに現存する本陣の遺構があります。          

旧本陣のご当主馬場八平三氏は、昭和60年に全国的にも貴重な歴史的建造物であるこの本陣遺構の永久保存と活用を願って、屋敷地を豊橋市に寄付されました。

市では、これをうけて同62年に二川宿本陣を市史跡に指定し、翌年から改修復原工事に着手し、同時に二川宿ならびに近世の交通に関する資料を展示する資料館を建設し、

二川宿本陣資料館として平成3年8月1日に開館いたしました。

また、本陣東に隣接する旅籠屋「清明屋」は平成12年に倉橋家より寄附され、同14年より改修復原工事に着手し、同17年4月29日より公開いたしました。これにより、大名の宿・本陣と庶民の宿・旅籠屋をセットで

見学できる施設となりました。あわせて資料館の増築、常設展の全面改装も行いました。

資料館では、「東海道」「二川宿」「本陣」という3つのテーマで常設展示を行い、随時特別なテーマに基づく企画展を開催しています。また、1階の体験コーナーには、浮世絵刷りや双六ゲームなどがあり、

江戸時代の旅を楽しく学ぶことができます。(二川宿資料館より)

400円の観覧券を購入し、中に入ってみます。常設展示には、「東海道」、「二川宿」、「本陣」の3つのテーマがあります。

今、お雛様のシーズン、館内にもお雛様が展示されていました。

  

向かいには、商家「駒屋」

  

商家「駒屋」、田村家は、元禄4年(1691年)に遠江国敷知郡中之郷村(現在の静岡県湖西市)から二川宿へ移り、初め医師を、後に米穀商・質屋を営みました。

明和7年(1770年)以降に、松音寺門前の瀬古町から新橋町の枡形北側の現在地に移転しました。 屋号は駒屋で、当主は善蔵(ぜんぞう)を世襲名としました。 代々二川宿内随一の有力者として、

宿役人や村役人を勤めました。
 
また、安政2年(1855年)には、幕府への献金によって苗字を名乗ることが許されました。 9代当主の善蔵苗政(みつまさ)(1830年~1891年)は、幹皋(かんこう)と号し、

家業や公務の傍ら、書、遠州流生け花、崋椿系南画、売茶流煎茶、俳諧など、多くの教養を身に付けた文化人としても活躍しました。
 
近代に入ると、10代当主の善蔵(邦三郎 1861年~1921年)は、二川郵便局長や渥美郡会議員などの公職にも就くとともに、 諸種の会社要職を歴任しました。11代当主の憲造(1889年~1953年)は、

薬学の道に進んで東京帝国大学教授・医学博士となり、 心臓注射液ビタカンファーを創製しました。

時間もかかりすぎたので次の宿場を目指します。

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№20 「御油宿~吉田宿」(豊川市~豊橋市)

2017-01-19 14:35:58 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

1/7(土)今回の東海道歩き最終日。

折角豊橋まで来ましたので街道歩きの前に日本三大稲荷のひとつである「豊川稲荷」に行くことにしました。

JR豊橋駅から飯田線で豊川駅へ。豊川駅から豊川稲荷まで徒歩3分。

  

豊川稲荷は、正式の寺号は妙厳寺(みょうごんじ)。詳しくは「円福山 豊川閣 妙厳寺」(えんぷくざん とよかわかく みょうごんじ)と称する寺院です。境内に祀られる鎮守の稲荷(吒枳尼天)が有名なため、

一般には「豊川稲荷」の名で広く知られています。豊川稲荷は神社ではないものの、商売繁盛の神として知られており、境内の参道には鳥居が立っています。また、日本三大稲荷の1つとされています。

 

総門を潜り左に行くと、狐様が迎えてくれます。(ちょっと怖い顔をされています) 今日は土曜日ですが、朝早い為、参拝の方もまばらです。お正月3が日は、賑わったでしょうね。

  

参拝を終え、「狐塚」に向かいます。

 

たくさんの狐様の数。神聖な世界。何かパワーが宿っているみたいです。

  

御朱印をもらい、名鉄豊川稲荷駅から昨日のゴール地「御油」に向かいます。

 

 国府(こう)駅で御油方面の普通電車に乗り換えようとしましたが、待ち時間が20分以上あるため、国府(こう)駅から御油に向けて歩きました。※国府と書いて「こう」と読みます。ちょっと難解ですね。

 

行力信号の近くには、「姫街道追分」があります。

姫街道は、磐田市の見附宿から愛知県の御油宿までの十五里四町(約60km)の距離で、江戸時代、 東海道の新居宿が、江戸から下る女性に対して、厳しい取調を行ったので、

それを避ける女性がこの道を利用したことから、この名前が付いたといわれています。見附宿で再び東海道に合流します。

その横には、「国幣小社砥鹿神社道」、「秋葉山三尺坊大権現道」の石碑も立っています。砥石神社は、平安時代初めころから、三河国の神社では筆頭格の扱いを受けています。

やがて「三河国一宮」として記録に登場するようになり、これが一宮町の名前の由来にもなっています。(名鉄豊川稲荷駅の次の駅)

家運隆昌、交通安全、厄難消除の御神徳で東海の総鎮守砥鹿神社は大己貴命(おおなむちのみこと)大国さまを祀る旧国幣小社で東海地方の総鎮守の神として各方面から篤い崇敬をいただいています。

秋葉山三尺坊大権現は、浜松天竜区にある秋葉神社でしょうか?

 

信用金庫駐車場の端には、「御油の一里塚」があります。江戸まで76里(約298km)。

その先が、「大社神社」。社伝によれば、天元・永観(978~985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、

合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとあります。

社蔵応永7年(1400年)奉納の大般若経典書には、奉再興杜宮大社大神奉拝600年と有る事から、天元・永観以前より当社地には何らか堂宇が存在し、そこへ改めて出雲より勧請して、

神社造営をしたものと考えられます。

当社には、徳川14代将軍 家茂が長州征伐に際して、慶応元年5月8日、戦勝祈願をされ、短刀の奉納をされております。

また、明治5年(1872年)には、大社神社は国府村の総氏神となりました。

「大社」という名前から、出雲大社の大国主命を勧請したのですね。なるほど。

  

「八平次記念館 八の蔵」があります。古民家を利用したレンタルライブハウスみたいです。詳しいことは、わかりませんでした。

 

国府駅前に通じる新栄2丁目を過ぎると、「薬師瑠璃光如来」があります。母の死を嘆く娘に行基が仏像を刻んで提供すると、娘は寺を建立したそうです。

その少し先には、秋葉神社の常夜燈があります。

  

街道は、国府高校の所で1号線と合流。白鳥橋を渡ると斜め右へ。しばらく歩くと「伊奈町」に入ります。

太鼓屋さんの横に「伊奈の一里塚」があります。

  

伊奈村立場茶屋跡加藤家」(茶屋本陣跡) 芭蕉の句碑もあります。説明文を見ると、

一 茶屋の地名
 東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり立場茶屋が設けられたので茶屋の地名ができた。
二 加藤家と良香散
 茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、「良香散」という腹薬が売られ、この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸一つ残すのみとなった。
三 明治天皇御旧跡
 東京遷都の時、明治天皇はこの加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、牧野英一氏宅に保存されている。
四 俳人烏巣
 烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい、芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。
五 芭蕉句碑
 芭蕉が烏巣方へ一泊した時の作。「かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し」
六 烏巣句碑
 「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」           小板井教育委員会

  

街道は、小坂井町に来ました。「莵足(うたり)神社」があります。

7世紀後半頃に建てられたといわれる菟足神社は菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)が祀られています。稲の豊作を願った「田まつり」、風に対する信仰を寄せた「風まつり」が行われます。

風まつりの際に販売される「風車」は郷土玩具として多くの人が買い求めに来ます。

また、弁慶の書と伝えられている「大般若経」585巻は国の重要文化財に,梵鐘(ぼんしょう)は県の有形文化財に指定されています。(豊川観光協会HPより)

風祭りは、毎年4月第2土、日に行われますが、手筒花火も行われることで有名です。

  

豊川放水路です。ここを渡ると豊橋市になります。豊川は、洪水に悩まされましたが、昭和40年(1965)豊川放水路が完成しました。

  

豊橋市に入るとすぐ右側に「豊橋魚市場」があります。今日は、土曜日ですので閉まっているみたいです。

 

更に進むと、国指定史跡「瓜郷(うりごう)遺跡」があります。

この遺跡は、弥生時代に属する土器、石器、骨角器、木製の農具などが出土しており、農耕の他に漁撈、狩猟の生活が行われていたことを示しています。

奈良県の唐古遺跡、静岡県の登呂遺跡とともに低地弥生遺跡の一つとして有名です。

  

聖眼寺には、「松葉塚」があります。貞享4年(1687)11月23日、芭蕉が愛弟子杜国の身を心配して渥美郡保見(現渥美町)の里を訪れる途中、当寺に立ち寄り詠んだものといわれている。

左の自然石の方が「古碑松葉塚」と呼ばれ、寛保4年(1744)、芭蕉の没後50周年を記念して建てられたもの。  松葉(ご)を焚(たい)て手ぬくひあぶる寒さ哉

右のものが「再建松葉塚」と呼ばれ、明和6年(1769)に建てられたもの。

  

「豊橋」に来ました。豊川に架かるこの豊橋は、豊橋市の地名にもなった橋です。(江戸時代まで、豊橋は。「吉田」と呼ばれていました。)滋賀・瀬田の唐橋、岡崎の矢作橋とともに東海道三大橋と言われていました。

当時は、吉田大橋と呼ばれていました。広重の「吉田宿」の浮世絵は、この豊橋が描かれています。(お城側から見たもの)

 

橋を渡ると右側に大正年代に造られた「豊橋」の一部が展示されています。

  

豊橋のマンホールです。

一つは、吉田城と手筒花火、一つは、豊橋公会堂と市電、一つは、朝日の中を出航する船と人々と町がデザインされています。

   

船町には、高札場がありました。

  

豊橋市の中心部札木に来ます。

 

吉田宿本陣は、現在鰻屋さんの所にありました。吉田宿は、本陣2、脇本陣1、旅籠65軒。東海道に面した「表町十二町」と「裏町十二町」からなり、東海道の中でも大きな宿場の一つでした。

 

この鰻屋さんには、「べっぴん」語源発祥地の案内板も設置されています。現在NHK朝ドラ「べっぴんさん」が放映されていますが、案内文によると、

明治初期、田原藩家老渡辺崋山の息子、渡辺小華の発案により「すこぶる別品」の看板を掲げ鰻を売り出した所、大好評を得、その言葉が全国に広がってゆき、極上品は、「べっぴん」と呼ぶようになって

そのあとの明治中期には、美しい女性「美人」にも使われるようになりました。丸よは、その伝統の「べっぴん」の鰻を今も焼き続けております。

  

  

ついでに吉田城に行きました。途中の吉田神社では、「手筒花火発祥の地」の看板があります。

吉田神社の手筒花火は、毎年7月第3金曜日の祇園祭で開催されます。テレビで見たことはありますが、近くで見ると迫力満点でしょうね。

  

吉田城は、永正2年(1505)今川氏の被官であった一色城(豊川市牛久保)の城主牧野古白によって構築され、今橋城と呼ばれていました。以来東三河の要衝でした。

今川、武田、松平(徳川)ら戦国大名の激しい攻防を経て、吉田城と改称されました。

永禄8年(1565)徳川家康は、今川氏の東三河における最大拠点であった吉田城を攻略し、ここに酒井忠次を置きました。

天正18年(1590)豊臣秀吉により、家康が関東移封となってから池田輝政が入城し、15万2000石の城地に相応しい拡張と城下の整備が行われましたが、未完成のまま明治を迎えました。

現在は豊橋公園として整備されています。

  

  

 豊橋公会堂は、昭和6年(1931)建築の半球ドームと鷲がシンボルのロマネスク様式の建物で、国指定登録文化財。完成以来多くの催しが行われ、現在も講演会の開催や式典、舞踊大会、歌謡大会等

幅広く利用されています。過去には太平洋戦争末期に市役所機能が移された時期や、豊橋中央公民館や市民窓口センターとして使用された時期もありました。(豊橋市観光協会HPより)

 

今回の東海道寄り道ウオークは、ここまでとし、市電で豊橋駅に移動しました。お昼がまだでしたので豊橋市B級グルメの「豊橋カレーうどん」を頂きました。

豊橋カレーうどんには、5か条があります。

1.自家製麺をつかうこと。2、器の底からご飯、とろろ、カレーうどんの順に入れる。3、豊橋産うずらの卵使用。4、福神漬、又は壺漬、紅ショウガを添える。5、愛情をもって作る。

食べ方は、1.カレーうどんを普通通りに味わう。2、うどんを食べ終わるとうどんの下からとろろがのった御飯が出てくる。カレーと絡めて二度目の味を楽しむ。

先ず、お箸でうどんを食べ、次にスプーンでご飯を頂きました。何かカレーライスにうどんがのっているという感じでした。これって結構いけます。お薦めです。

  

帰りは、豊橋から新幹線乗換で博多に戻りました。

1/7 御油宿~吉田宿(豊橋)GPS

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№19 「藤川宿~御油宿」(岡崎市~豊川市)

2017-01-17 18:53:55 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

藤川宿から赤坂宿までは、2里9町(8,8km)

藤川宿の東棒鼻を出て市場の信号で1号線と合流。これより「舞木町」にはいります。

舞木の地名は、山中八幡宮記の一節に「文武天皇(690~707)の頃、雲の中より神樹の一片が神霊をのせて舞い降りる」と書いてあることから「木が舞い降りる」を取って「舞木」と付けたと言われています。

近くには、山中八幡宮、山中城址もあります。

  

街道は再び1号線に合流し、本宿(もとじゅく)町沢渡から旧道に入ります。

本宿は、名の通り、額田郡駅家郷や山中郷に属し、古代道路、鎌倉街道沿いの街として古くから栄えました。江戸時代に入り東海道が整備されると、藤川宿と赤坂宿の中間地点にある村として利用され、

のちに両宿の助郷村となりました。江戸時代初期は天領及び法蔵寺領でしたが、1698年に旗本柴田勝門が入り、本宿陣屋を構え、以降旗本柴田氏が、法蔵寺とともにこの地を治めました。

享和2年(」1802)本宿村方明細書上帳によると、家数121軒、村内往還道19丁余、立場茶屋2カ所があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめました。

 

宇都野龍碩(うつのりゅうせき)邸と長屋門】 

宇都野龍碩 は、本宿村医家宇津野氏は古部村(現岡崎市古部町)の出といわれ宝暦年間(1751~1763)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれています。

七代龍碩はシーボルト 門人青木周弼 に、医学を学んだ蘭方医として知られています。 安政年間当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(種痘)を施しています。

街道の中ほどには、「本宿の一里塚」、「十王堂跡」があります。

   

本宿の陣屋は、元禄11年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配の為本宿村に陣屋を設けました。以来明治に至るまで存続しました。

陣屋代官職は、冨田家が世襲しました。現在は冨田病院の敷地になっています。。尚、昨年亡くなられた作曲家の冨田 勲さんは、同家の出身です。

  

本宿の東側には、「法蔵寺」があります。大宝元年(701)僧行基の開山と伝えられています。松平初代親氏が深く帰依して1387年に堂宇を建立。寺号を「法蔵寺」としたと言われています。

家康が幼いころ、手習いや漢籍を学んだとされ数々の遺品が残されています。桶狭間の戦い以後、家康は法蔵寺に守護不入の特権を与えるなどしました。

境内には、新撰組で有名な「近藤勇の首塚」も祀られています。

 

 【御草紙掛松】徳川家康が幼少時に学問を学んだ地で、その当時家康が手習いで使用した草紙を掛けたとも、家康自ら手植えしたとも云われ「御草紙掛松」や「御茶屋の松」、「御腰掛の松」と

呼ばれるようになりました。平成17年(2005)まで3代目の松がありましたが虫害により朽ち果て、平成18年(2006)に4代目の松が植樹されました。

家康縁の地として重要視され文化12年(1815)には旗本木造清左衛門俊往が石柵を寄進しています

【法蔵寺団子】この団子は、法蔵寺門前の茶店で売られていたことから法蔵寺団子と呼ばれるようになった。

本宿村方明細書上帳(享和2年・1802)に「此ノ村名物ハ早縄並餅団子・草鞋ニ御座候。」また、参河聡視録(みかわそうしろく)本宿村記(嘉永2年・1849)にも

「法像寺辺り前後茶店ニテ餅ニ醤油ヲ付テ炙リ売ル 名高シ。」と書かれている。以後、昭和の初めごろまで売られていた。

この団子の特色は、一本の串に指で押し平たくした五個の団子を炙り溜りで味を付けたものである。

この独特の風味が、近郷近在はもとより、東海道筋の名物団子として、評判となったのである。(平成9年3月 郷土史本宿研究会)

  

本宿東入口、冠木門を過ぎ、本宿深田の信号を過ぎると「豊川市音羽町」に入ります。

  

しばらく1号線に沿って歩きます。このあたり1号線の道路幅が広く車はスピードを出して過ぎ去ります。一応歩道はありますが、あの勢いで歩道に向かってくると非常に怖いです。

音羽町は、旧宝飯郡でしたが、2008年豊川市と合併しました。

長沢小学校の所に「長沢城跡」の案内板があります。それによると、長沢は東西三河の境目にあり、両側から山が迫る地形で、中世において戦略上重要な位置であった。

東海道を挟んで南(御城山山頂)に岩略寺城跡、北(古城団地)に長沢城跡がある。長沢城は、東西約200m、南北約250mに及ぶ大規模なもので、主郭の全面を土塁や三重の堀が巡り、南側に出入り口があった

現在は宅地化されて、堀の一部をわずかに残すのみである。また、寛永11年(1634)家光上洛のとき、休憩所として建てられたといわれる御殿が、長沢小学校敷地内にあった。

そのすぐ先には「長沢の一里塚」があります。    

  

赤坂宿」に入りました。御油宿や吉田宿とともに多くの飯盛女を抱えていた赤坂宿は、「御油や赤坂、吉田がなけりゃ なんのよしみで江戸通い」という程活気のある宿場でした。

赤坂宿は、本陣3、脇本陣1、旅籠83、総家数400軒、人口1304人の規模でした。

【赤坂陣屋跡】陣屋とは代官所 ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところであった。 赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大藪地内に設けられたが

元禄二年(1689)神木屋敷(現赤坂保育園附近)に移された。 幕末に三河県役所と改められた。手狭になったため明治二年(一八六九)再び大藪地内へ新築移転された。廃藩置県後、明治五年に廃止となった。

 

陣屋跡のすぐ向えには、平成14年赤坂宿の旅籠をイメージした休憩施設「よらまいかん」があります。ここで少し休憩。

    

歌川広重の「赤坂宿舎招婦図」のモデルになった「大橋屋」があります。旧音羽町のマンホールにもこの赤坂宿舎招婦図がデザインされています。

大橋屋は、屋号を「伊右ヱ門 鯉屋」といい、正徳6年(1716)の建築といわれる。赤坂の旅籠の中では、大旅籠に属し、間口9間、奥行き23間ほどであった。

入口の見世間、階段、二階の部屋は往時の様子を留めています。つい最近まで営業されていましたが、平成27年3月廃業され、この建物を豊川市に寄付されています。

この浮世絵に描かれている蘇鉄は、浄泉寺境内に移植されました。

 

尾崎屋さんは、赤坂宿の民芸品店です。曲げわっぱと呼ばれる木製の弁当箱などが売られています。

  

 

宝暦年間(1751~1764)に建立された関川神社には、芭蕉の句碑「夏の月御油よりいでて赤坂や」があります。

  

赤坂宿から御油(ごゆ)宿までは、1,7km。すぐ目につくのは国指定天然記念物に指定されている「御油の松並木」。

御油の松並木は、江戸時代の初め東海道の並木として御油~赤坂間で整備され幕府によって管理されていました。明治に入り、宿場制度が解体され管理の所在がはっきりしなくなりましたが、

地元御油町で管理を続けました。その後、太平洋戦争の為、多くの松が燃料として切り倒されていることを憂慮し、御油町の人達が存続させるため天然記念物指定を受ける働きかけを行い、

その結果、「東海道の松並木として代表的なもの」という理由により、昭和19年11月、国の指定天然記念物に指定されました。

現在では、町全体で保存活動をが行われており、松の補植も行われています。

  

  

御油宿は、本陣2、脇本陣0、旅籠62、家数316軒、人口1298人でした。京から江戸に向う旅人は、赤坂宿で宿泊し、逆に江戸から京に向かう人は、御油宿で宿泊したそうです。

  

歌川広重は、東海道五十三次の浮世絵で御油宿は、旅人を宿に引き入れる「留め女」として描いています。この場所は、どこか探しますが、わかりませんでした。

 

街道の東側には、「御油松並木記念館」がありますが、時間は16時まででもう閉まっていました。

もう時間も16時を過ぎました。今日はここまでとします。

 

御油駅までの帰る途中通った御油橋には、浮世絵がレリーフされていました。

  

御油駅には、16:25に到着。時刻表を見ると普通電車は、30分に1本しかありません。隣の国府(こう)駅には、特急も急行も止まりますのでもう少し街道を歩いて国府(こう)駅まで歩けばよかったかな・・・・・・・・・

豊橋駅では、イルミネーションが綺麗でした。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№18 「岡崎宿~藤川宿」(岡崎市)

2017-01-16 18:24:48 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

1/6 ホテルを6:30に出て今日の宿泊地豊橋まで移動。豊橋のホテルに荷物を預け名鉄で前日ゴール「岡崎公園前駅」にで降ります。

9:00から街道歩き開始。

  

東海道の中でも三番目の規模の大きい宿場として栄えた岡崎宿は、「岡崎の二十七曲り」と呼ばれた屈折の多いその町並みの長さでも有名です。天正18年(1590)岡崎に入城した

田中吉政は、城下の道を防御の必要性から外敵には、城までの距離を伸ばし、間道を利用して防御することができる屈折の多い道として開発しました。

二十七曲りは、欠町、両町、伝馬通りから籠田を抜け、連尺通、材木町、田町、板屋町、八帖町、矢作橋と繋がっており、二十七曲りを示す碑が現在の町並みにもいくつかあります。

  

先ず、徳川家康の父「松平広忠」公の菩提寺「松應寺」に行きます。松平広忠公は、天文18年(1549)3月、岡崎城中で家臣に刺殺され、亡きがらはこの地に埋葬されました。

当時人質として尾張にいた松平竹千代(家康)は、同年11月岡崎に帰るとこの墓上に小松一株を植え、松平一族の繁栄を祈願しました。

永禄3年(1560)家康は桶狭間の戦いの後、岡崎城主となり、この地に一寺を建立しました。手植えの松が緑深く東方に伸長するのを見て、「我が祈念に應ずる松なり」として

松應寺と名づけました。

  

街道に戻ります。

 

城下には、「田中吉政」の銅像も建っています。伝馬町の西本陣跡は、コンビニの前にありました。

  

伝馬の本陣は、正徳3年(1712)頃は、中根甚太郎、浜島久右衛門の2軒でしたが、後に中根甚太郎、浜島久右衛門、大津屋勘助の3軒が本陣。脇本陣は、鍵屋定七、山本屋丑五郎、

桔梗屋半三郎の3軒と推移しました。岡崎東本陣(服部家)は、現在の伝馬通り2丁目交差点辺り(現在の花屋さん)にあり、建坪209坪半で部屋は200畳以上。脇本陣を勤めた桔梗屋は、

総坪数125坪半のうち、建坪は、105坪とどちらも玄関や書院を持つ建物でした。

この伝馬町には、岡崎宿のことが石碑で案内されています。その一部を紹介します。

【飯盛女】本来は、旅籠屋で旅人の給仕や雑用をする女性ですが、三味線を弾き唄や踊りも披露する遊女でした。

【駒牽朱印幕府が伝馬を使用する時に用いた権威ある印鑑でこの印が押された朱印状が公用旅行者の伝馬使用許可証になります

【人馬継立】旅行者は各宿場の人足会所、馬会所で宿場ごとに馬や人を雇いながら旅行しました。東海道では、五十三ヵ所の宿駅でこうした継立をしたので東海道五十三次と呼ばれました。

【三度飛脚】伝馬宿には飛脚屋と言う職業の人がいました。現在でいう郵便配達屋さんで三度飛脚というのは毎月東海道を三度往復したことからそう呼ばれました

【あわ雪茶屋江戸時代岡崎の名物と言えば、石製品、八丁味噌、鍛冶物、木綿などがあげられますが、名物の食べ物と言えば、「あわ雪豆腐」があげられます。当時あわ雪茶屋で出されていたのは、

葛や山芋をベースにした醤油味のあんをかけた「あんかけ豆腐」で岡崎宿を通行する旅人に親しまれていました。現在のお菓子「あわ雪」は、江戸時代のあわ雪に因んで作られました。

岡崎宿には、天明2年(1782)創業のお菓子屋さんがあります。

岡崎宿東の入口冠木門に来ました。ここからが二十七曲りの始まりです。冠木門の所には、説明文がありますが、反射している為、写真に撮れませんでした。

  

大平の一里塚を過ぎると、左側に西大平藩陣屋跡があります。ここは、テレビドラマでも人気の大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。

   

歩いていると面白い標識を発見。これから高齢時代になりますのでこのような標識が増えるのではないでしょうか。

  

岡崎宿から約1時間半で「藤川宿」に到着。先ず、目につくのは、岡崎市の指定文化財に登録されている「藤川の松並木」。

藤川宿西側から1kmの間に90本の黒松が植えられています。

  

藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)西尾(現・西尾市)吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道があります。この道を「吉良道」と呼んでいて、

その分岐点に「吉良道道標」が立っています。

道標石は、高さ143㎝・幅20㎝の四角柱で、彫られている文字は、右面…文化十一年(1814)甲戌五月吉日建、正面…西尾、平坂、土呂、吉良道、左面…東都小石川住 と書いてます。

 

宿場には、松尾芭蕉の句碑や「歌川豊広」の歌碑があります。

芭蕉の句は、 「 爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた」

歌川豊広の歌碑は、 「藤川の しゅくの棒ばな みわたせば 杉のしるしと うでたこのあし」

意味は、藤川宿の棒鼻を見渡すと杉の木で造った表示が立っており、付近の店には、西浦、吉良から持ってきたうでたこを売っており、たこの足がぶら下がっている。

歌川豊広(1774~1829)は、江戸時代後期の浮世絵師。門人として歌川広重がいます。

※「棒鼻」:宿場の入口。九州では、構口(かまえぐち)と呼んでいます。

  

藤川宿西棒鼻

  

 

藤川宿の町並みは、九町二十間で天保14年(1843)の宿場人口は、1213人、家数302軒、本陣は、森川家1軒、脇本陣は、橘屋大西家1軒、旅籠大7、中16、小13でした。

宿場の中ほどには、本陣、脇本陣跡があります。脇本陣は、「藤川宿資料館」としてオープンしています。

入ってみましたが、誰もいませんでした。

  

脇本陣の隣の本陣跡は、広場になっており、高札場などが再現されていました。

  

広場の奥には、本陣の石垣が残っています。また、芭蕉の句に出た「むらさき麦」は、現在、藤川小学校の児童が栽培していました。

むらさき麦は、大麦の栽培品種で観賞、染物に使われていました。別の名を「紺屋麦」「高野麦」と呼ばれ、食用にはあまり適さず次第に栽培されなくなっていました。

1996年に地元住民らで「藤川まちづくり協議会」を発足し、栽培を復活させました。(写真は岡崎観光協会HPより引用)

   

  

広重の浮世絵「藤川宿」は、東棒鼻の様子が描かれています。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№17(その2)「池鯉鮒宿~岡崎宿」(愛知県知立市~岡崎市)

2017-01-15 08:04:29 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

(その1)からの続きです。

旧道を歩いて御林の交差点で1号線と交差します。右側には大きな松の木が・・・・・・ここが「知立の松並木

知立の松並木は、近年まで牛田~山町まで約1km続いていたのですが、住宅が次々と建てられ、今では、450mほどになりました。戦前まで昼なお暗い程、鬱蒼としていましたが、

昭和34年の伊勢湾台風で60~70%の松が折られたり、根ごと吹き飛ばされていました。昭和45年、幼松158本を補植し、以後毎年松くい虫の防除に努め、昔の姿を今に留めています。

   

  

広重の53次の浮世絵にも知立の松並木が描かれてています。松並木の側道には、モニュメントも設置されています。

   

また、ここでは、毎年4月末から5月初めまで馬市が催され、近郷近在から人々が集まり賑わったといわれています。広重の池鯉鮒宿には、この馬市が描かれています。

 

松並木の近くの喫茶店でランチを頂き、再び出発。

伊勢物語の「八橋」がどうも気になり、先ほどの喫茶店で場所を聞くとここから歩いて15分ぐらいの所に「無量寿寺」があるというのでそこに行ってみることにしました。

途中、来迎寺小学校信号の先に「来迎寺一里塚」がありました。ここも街道の両側に完全に残されていました。

  

 平安時代に書かれた「伊勢物語」の第9段で在原業平が詠んだという項があります。(学生の頃習いましたが、もう忘れています。(笑))

昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。

三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の陰に下り居て、(かれいひ)食ひけり。

その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、

「かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心を詠め」といひければよめる。 

らころ(唐衣) 

つつなれに 

ましあれ 

るばるきゆ 

びをしおも  

とよめりければ、みな人、餉の上に涙落として、ほとびにけり。

句の意味は、「馴染んだ唐衣のように馴れ親しんだ妻が都にいますので、はるばるこんな田舎まで旅をして来たものだ、と悲しくなるんです」となります。

句の上の「か・き・つ・ば・た」は、見事に使われていますが、最後の「ふ・る・ば・し・も」も八橋にかけているのでしょうか?

来迎寺町の信号を左折。しばらく行くと「八橋かきつばた園」があります。残念ながらカキツバタは、4月ごろに咲きますので閉まっていました。

   

無量寿寺」です。今は、杜若(かきつばた)のシーズンではないので寺院内はひっそりとしています。寺院内を歩いてみます。

  

  

【芭蕉句碑】

かきつばた 我に発句の おもひあり (芭蕉)  ・麦穂なみよる 潤ひの里 (知足)

芭蕉が「野ざらし紀行」を終えた翌年貞享2年(1685)4月に鳴海の俳人下里知足の家を訪ね、その時開かれた俳席での作です。

【八橋古碑】碑文は、「八橋紀事并王孫歌」と題され八橋と業平の故事それについての感慨が漢文で書かれていますが、難解なことで有名です。

 

【業平竹】一説には、竹(男竹)であるが、笹(女竹)のように一節から多くの枝を出す為、色男と言われる業平に見立てました。男女竹と称され、縁結びの竹として信仰されました。

【ひともとすすき】謡曲「井筒」の故事にならって植えられました。「八橋の一もとすすき穂にいでてはるばる来ぬる人まねくらん」

このすすきの葉を片手で結ぶと願い事が叶うという言い伝えから縁結びのすすきと言われています。

 

 

杜若供養塔】杜若姫は小野中納言篁の娘と伝えられ、東下りの在原業平を恋い慕ってやっとこの八橋の逢妻川で追いつきましたが、業平の心を得ることが出来ず、悲しんで池に身を投げて果てたと

伝えられています。この塔は姫をあわれみ後の世に供養して建てたものです。

  

無量寿寺を出て再び街道に合流します。来迎寺町の信号の所に「元禄元標」があります。これは元禄九年(1696)に在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道標として建てられました。

  

猿渡川橋を渡ると「安城市」になります。橋には、東海道松並木がデザインされています。

  

安城市のマンホールは、三河万歳で使われる扇、鼓がデザインされています。三河万歳は、安城市の「別所万歳」、西尾市の「森下万歳」が有名です。

もう一つは、雨水で安城市の七夕まつりがデザインされています。

     

永安寺には、「雲竜の松」があります。幹周り4,4m、樹高4,8m、枝張り東西17,9m、南北24,7m、樹齢約350年。ホント、見事です。

  

熊野神社の所に「尾崎の一里塚」がありました。またここは、「鎌倉街道跡」の案内板もありました。

建久3年(1192)鎌倉幕府が開かれると京都と鎌倉の間に鎌倉幕府が定められ、宿駅63カ所が設置されました。尾崎町では里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していました。

街道はここで右に曲り、南東へ下っていたのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいます。ここより街道は、西別府町を通り、山崎町に出て岡崎市新堀町へ向かい大和町桑子(旧西矢作)へと通じていました。

この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する「目印の松」が残されています。

  

安城市尾崎を過ぎ、宇頭町の信号から岡崎市です。

   

岡崎市の旧東海道には、ボランティア連絡協議会の案内板が設置しています。

誓願寺には、浄瑠璃姫のお墓があります。

今からおよそ800年程前、鎌倉街道矢作の宿に「浄瑠璃姫」というそれは美しい姫がいました。姫の出生については諸説がありますが、何れにしてもこの辺りの支配的立場にあった者の家に生まれたようです。

承安4(1174)年、浄瑠璃姫16歳の春のこと、とき、源氏再興の大望を抱き、金売り吉次を伴い東北地方きっての豪族藤原秀衡のもとへ向かう牛若丸こと「源義経」が旅の途中でこの矢作の宿に立ち寄り、

折しも浄瑠璃姫の奏でる「想夫恋(そうふれん)」の琴の調べに、名笛「薄墨(うすずみ)」を合わせ吹いたのが縁となり、二人は別れを惜しむ中となりました。

しかし、奥州へ下る身の義経は、再開の証にと母の常磐御膳(ときわごぜん)より送られた父の愛管「薄墨」を姫に預け、そのもとを去って行ったのです。僅か十数日のはかない夢の日々でした。

唯々、義経との再会だけを心の支えに待ち続けた姫の想いは、月日を重ねるほどにますます深まり、ついに心乱れて寿永2(1183)年3月12日、この付近の岩場から乙川の流れに身を投じたのです。

その死を痛く悲しんだ両親は、その近くの洞に観音像を祭り「穴観音」としてその霊を弔いました。

翌年の秋、旅の途中で姫の悲報を聞いた義経は、その霊を弔うために「瑠璃山明大寺」を建立し厚く供養したと言われています。しかし、この寺も今は無く、姫が入水した「足跡岩」も、

「穴観音」も昭和56(1984)年の堤防大改修で無くなりました。今となっては、明大寺の町名にこそ往事が偲ばれます。(岡崎観光きらり百選より引用)

この浄瑠璃姫と源義経の悲恋を脚色したのが「浄瑠璃」の始まりと伝えられています。 

  

矢作(やはぎ)橋に着きました。橋の袂には、日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六「出逢いの像」があります。

説明文を見ると、日吉丸は、尾張国中村の木下弥兵衛(弥助)と妻お仲の子で八歳の頃から奉公に出されましたが、十二歳の時、奉公先の陶器店を逃げ出しました。家に帰ることも出来ず、

東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで矢作橋の上で前後不覚で寝ていました。ここに海東郡蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(蜂須賀小六)という野武士の頭が手下を連れてこの付近を荒し、

矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠り込んでいる日吉丸の頭を蹴った所、日吉丸は「頭を蹴り一言の挨拶をしないのは無礼である。詫びていけ」ときっと睨みつけました。

小六は子供にしては度胸があると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門の傍の柿の木によじ登り、邸内に入り、扉を開いて

小六達を引き入れました。目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎ出しました。日吉丸は咄嗟に石をかかえ井戸に投げ込み「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が集まる隙に門を抜け、

小六達の一行についたといいます。

史実とは異なりますが、日吉丸と小六の伝説は、後の太閤秀吉と武将蜂須賀小六の人間的一側面を語る物語として今なお、私達の心に生き続け乱世の時代劇を垣間見る逸話となっています。

  

街道は、矢作橋を渡り右折します。ここには、八丁味噌の蔵が建ち並んでいます。通りには「八丁蔵通り」になっています。

平成18年(2006)のNHK朝ドラでは岡崎の八丁味噌を舞台にした「純情きらり」が放映されました。

岡崎城の西、八丁(約870m)の距離にある、八丁村(現在は八帖町)にある、東海道を挟んで2社の味噌蔵、まるや八丁味噌、カクキュー八丁味噌の2社が江戸時代から、手を取り、時には競い合い、

伝統製法で味噌作りを行っています。まるやさんは、まだお正月休みでしたのでカクキュウさんの方に行きました。

  

 

八丁通りから今日のゴール「岡崎城」を目指します。岡崎城は家康が生まれた所として有名です。

享徳元年(1452)から康正元年(1455)にかけて三河守護代大草城主、西郷稠頼により築かれ、70年ほど後に家康の祖父・松平清康が入城しました。家康の父・広忠が殺された後は、

今川氏の勢力下におかれていましたが、桶狭間の合戦後、家康が再び入城しました。家康は永禄7年(1564)三河一向一揆をおさえ、城郭の整備を行ない、ほぼ全三河を平定したことで、

後の天下統一に向けて動き出します。現在の岡崎城は、歴史資料館として市民に親しまれています。

  

 

龍城(たつき)神社は、徳川家康、本多忠勝を祭神としています。明治期までは、三河東照宮と呼ばれていたそうです。

往昔、三河の守護代西郷弾正ェ門稠頼が此の地に築城成る日、何処ともなく柳の五ッ衣に紅の袴をつけた気高い乙女が天守に現われ、「われはこれ歳久しく此の処に住む龍神なり、

汝われを鎮守の神と崇め祀らば永く此の城を守護し繁栄不易たらしめん」と、おりしも城中の井水噴き出で、高く天に沖し飛瀑の如く龍神に注ぎ、一群の黒雲舞い下りて天守を包むと見るまに

龍神の姿は忽ち消えうせた。此の不思議に城主おどろき、天守楼上に龍神を祀って城地鎮守と崇め永く加護を祈り、城の名を龍ヶ城、井の名を龍の井と称えしと云う。(神社由来より)

    

菅生(素顔)神社も徳川家康公をお祀りしています。

  

岡崎城公園から歩いて東岡崎駅まで行き、それから名鉄で宿泊先の名古屋駅に戻りました。今日はよく歩きました。GPSでは、38kmを示していました。

夕ご飯は、名古屋駅構内で博多の明太子屋さんが営業しているお店に行き、博多の名物「もつ鍋」を頂きました。

旅先で郷土の食べ物を頂くのもいいですね。美味しかったです。

今日(1/5)のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№17(その1)「有松~池鯉鮒宿」(名古屋市南区~愛知県知立市)

2017-01-13 16:36:49 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

1/5(木) 今日もいい天気です。7時半にホテルを出て名鉄で前日ゴールの有松駅へ。8時よりウオーキング開始。

大将ヶ原の交差点から「豊明市」です。豊明市のマンホールは、「桶狭間古戦場」をデザインしています・。

    

さて、その桶狭間古戦場ですが、中京競馬場前の所から少し入った病院の前にあります。有松の方でもこの古戦場がありましたので、桶狭間の戦いは広範囲で行われたのでしょう。

一応、有松は「桶狭間古戦場」、豊明は、「桶狭間古戦場伝説地」と区別しています。

ですが、ここにも今川義元の戦死場所がありました。また、今年の大河ドラマ「女城主 井伊直虎」の父、井伊直盛もこの戦で亡くなっています。

  

  

  

街道に戻ります。1号線中京競馬場の信号を斜め右に行き、旧道に出ます。

  

五軒屋バス停の所から1号線を横切った所に「戦人塚」があります。ここの坂道はちょっと急です。何度か立ち止まろうかと思いましたが、私もウオーカーの端くれ、何とか休まず来れました。

戦人塚」は、桶狭間の戦いにおける戦死者を曹源寺二世快翁龍喜和尚が明窓に命じ埋葬供養した塚で、石碑は元文4年(1739)180回忌の供養祭に建碑されたものです。

  

  

街道に戻ります。池下信号の近くに「阿野一里塚」があります。愛知県には、18の一里塚があって現存するのは4か所。そのうち道の左右に残っているのは、この阿野一里塚と知立市のみです。

1号線の標識には、345の数字が見えます。日本橋まであと、345kmです。長いな~

   

 

豊明駅を過ぎると何か、焼きたてのパンの匂いがしてきます。匂いにつられて入って行きたい気分です。どこか、パン屋さんがあるのかな?と探しますがそれらしい所はありません。

境川にかかる「境橋」に来ました。この橋が、尾張国と三河国の境です。橋を渡ると。「刈谷市」です。

  

橋を渡ると左手に大きな工場があります。地図を見ると「敷島パン」とありますが、工場には「Pasco」。このPascoは、「パン敷島コーポレーション」という意味で関東、東海方面に売られているパン屋です。

九州ではあまり見かけませんが、ウオーキング大会などで関東に遠征するとコンビニなどで売られています。

豊明駅で匂っていたパンは、このPascoだったのですね。

   

刈谷市内の旧東海道を歩いているとお寺が多く眼につきます。

   

「いもかわうどん発祥の地」の碑がありました。江戸時代の東海道紀行文に「いも川うどん」の記事が良く出てきます。この名物うどんは、「平うどん」でこれが関東に伝わり「ひもかわうどん」として現代に残り、

今でも東京では、うどんのことを「ひもかわ」と呼んでいます。私もひもかわというと、群馬県をイメージしていました。

    

一里山町新屋敷の信号から知立市です。昔は、ここに一里塚があったそうです。知立市のマンホールは、伊勢物語の一部を引用しています。

頭文字を並べると「か・き・つ・ば・た」になります。カキツバタが知立市の花になっています。

逢妻橋にやってきました。逢妻川というと、「八橋」ですね。知立市の昔話には、「八橋」があります。

むかし、野路の宿に、名前を羽田玄喜という医師が、この地の荘司(荘園の役人)の娘である妻と、二人の男の子と楽しく暮らしておりました。しかし、父親の玄喜は、若くしてなくなってしまい、

家はだんだんに貧しくなっていきました。母は二人の子どもを育てるため、山に行ってたき木を拾ったり、浦(今の逢妻川は海に続き、浦になっていた)に出て海草をとったりして、苦労しながらも、

子どもの成長を楽しみに暮らしておりました。兄は八歳、弟は五歳になっていました。

ある日のこと、母親は二人の子どもに、「よい子だから、母さんが帰るまでおとなしく留守番をして、待ってておくれ。」といいきかせて、この浦にのりをとりにでかけました。

二人の子どもは、初めのうちはおとなしく家でまっていましたが、そのうちに母がこいしくなり、川辺まできました。向こう岸で一生懸命のりをとっている母の姿をみつけると

「おかあさん、おかあさん。」といいながらかけよろうとして、あやまって川の深みに落ちてしまいました。あっと言う間のできごとです。

目の前で水におぼれて流されて行く二人のわが子を見て、母は気も狂わんばかり。なんとかして子どもを助けようとしましたが、そのかいもなく、とうとう二人のこどもを見失ってしまいました。

母親の悲しみといったら、たとえようがありません。母は無量寿寺に入り、髪をおろして、師孝尼という名の尼さんになりました。

朝夕仏に仕え、二人の子どものめいふくを祈り続けました。そして、「この川に橋さえあれば、子どもがおぼれることもなかったろうに、また、村の人たちも安心して、川を渡ることができるのではないか」と思い、

観音様の本尊に祈願をこめ、「どうかこの川に橋をかけることができますように」と、一心に祈りました。

ある夜のことです。

「彼の浦へ行けば、材木がたくさん岸べに打ち寄せられている。それを使って橋をかけるがよい。」と、夢のお告げがありました。

師孝尼は喜んで、浦へ行ってみますと、お告げどおりたくさんの材木がありました。

その材木で、橋を渡そうとしましたが、この川は、流れがいくすじにも、くもの手のようになっていて、まっすぐの一本の橋をかけることはとても無理でした。しかしたがいちがいに板を渡して、

どうにか向こう岸にとどく八つの橋ができあがりました。

それからは、村人たちも、楽に向こう岸に行くことができるようになり、橋の数にちなんで、この地を八橋と名づけました。仁明天皇の時代、承和九年(八四二)五月のことです。

の後、師孝尼は、この川のほとりに咲くかきつばたの花を、なき子の供養の花と思いますます信心を深めたということです。

現在、その二人の子の供養塔は、無量寿寺の境内に、師孝尼の供養塔は、在原寺の境内にひっそりと建っています。(知立市HP 知立の地名の由来より)

 

 

  

   

街道を歩いていると右側に「総持寺」があります。大きな龍宮門が眼に入ります。ここは、徳川家康側室「於萬の方」様が誕生された所です。

碑には、徳川秀康の母、於萬と書かれています。於萬は、池鯉鮒明神の社人・永見吉英の娘です。

 

総持寺を左に入ると、「知立神社」です。池鯉鮒大明神と呼ばれ、江戸時代東海道三社の一つに加えられた名社で、社伝では第12代景行天皇の42年(112)創建と言われています。

祭神は、鸕鶿草葺不合尊 (うがやふきあえずのみこと) - 主神。(神武天皇の父)

境内に建てられている「多宝塔」は、国の重要文化財であり、古額、舞楽面、能面等は県指定に、獅子頭面他9点は市指定の文化財になっています。

例祭であります「知立まつり」は毎年5月2日・3日に行われていて、隔年で開催される本祭(ほんまつり)の山車5台は絢爛目を奪うばかりです。

この時上演される人形浄瑠璃芝居の「山車文楽」と「からくり」は、ともに国指定重要無形民俗文化財として伝統ある民俗芸能を今に伝えています。昨年12月ユネスコ無形文化遺産に登録になりました。

  

 

 

  

街道に戻ります。知立公園には知立城址があります。知立城は長く知立神社の神官を勤めた永見氏の居館として築かれたのが始まりとされます。

永見氏は平安時代末期には後白河院配下の武士として頭角をあらわし、戦国時代に徳川家康の側室於万の方(長勝院)を輩出し、子供である結城秀康は福井藩(福井県福井市)62万石の大大名になっています。

永見氏は刈谷城(愛知県刈谷市)の水野氏や岡崎城(愛知県岡崎市)の松平清康、駿府城(静岡県静岡市)らに従いましたが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、

織田軍が当地まで進軍し敢え無く知立城は落城しています。その後、織田信長に従った水野忠重が知立城を接収し、天正年間(1573~92)に信長に対しての迎賓館的な施設を設けました。

寛永年間(1624~43)には将軍上洛時の宿泊施設として増改築が行われましたが、元禄の地震により大破しています。 (知立ナビより)

  

知立祭りに使う「山車」の格納庫があります。1/3から愛知県を歩いていますが、愛知県のお祭りの山車には、からくり人形や文楽などがあり、見る人を楽しませています。

一度お祭りの時に来てみたいですね。

   

池鯉鮒宿は、江戸時代、知立神社の御手洗池には多くの鯉、鮒がおり、池鯉鮒宿と名付けられました。本陣1、脇本陣1、旅籠35、人口1620人の宿場でした。本陣跡は、歩道橋のそばにありました。

  

お昼に近づきましたが、近くに食べる所がありません。まだお正月休みかな?

食べる所が見つかるまでもう少し歩きたいと思います。

    

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№16(その2)「笠寺観音~有松」(名古屋市南区~名古屋市緑区)

2017-01-12 17:16:10 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

(その1)からの続きです。

笠寺観音を出てすぐの所に「笠寺の一里塚」があります。ここは、名古屋市内を通る旧東海道で唯一残る一里塚です。

尚、一里塚を造るにあたって、家康は、「え~木を植えよ」と指示しました。家臣は間違ってえ~木→ →「榎」と勘違いしそれで一里塚には、榎が植えられています。

 

天白橋を渡ると緑区鳴海町です。東海道40番目の宿「鳴海宿」に入りました。

左側に鉾ノ木貝塚」の案内板が建っています。縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線文土器、

上部貝層からは、前期中ごろの羽状縄文、爪形文を施した平底の深鉢型土器を主体として出土しており、上層土器の型式をとらえ「鉾ノ木式」と呼称されている。昭和5年(1930)野村三郎氏により発見された。

ハイガイ(灰貝)・・・・・・フネガイ科の二枚貝。浅海の泥底にすむ。殻長4cmくらい。赤貝に似ている。貝殻はやや方形で厚く、殻表に放射状の肋(ろく)が18本ほどあり、灰黄色の殻皮で覆われる。

三河湾以西に分布。肉は食用。貝の殻を焼き顔料にしたため、この名がついた。

丹下町常夜燈は、鳴海宿西口に設けられました。

 

鳴海宿の町並みです。旧家が建ち並んでいます。一軒の旧家で1階の屋根に守り神?でしょうか、珍しいものを発見しました。

  

鳴海宿は、天保年間の調査では、本陣1、脇本陣2、旅籠68,家総数847、人口3643人。本陣跡は、本町の所にありました。

本陣は、間口36m、奥行き51m、建坪235坪。

  

高札所跡が鳴海城址に復元されているそうでそちらに向かいました。

  

高札場復元場所のすぐ先には、「鳴海城址」があります。

鳴海城は、根古屋城とも言われ、室町時代の応永3年(1394)安原備中守宗範の築城と言われる。

永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将「岡部元信」がこの城に配され、義元が討たれた後も最後まで立てこもって奮戦した。その後佐久間信盛、正勝らが城主となったが、

天正18年(1590)廃城になった。「尾張志」では、東西35間((約63m)、南北34間(約61m)で四面に堀址、本丸と二、三之丸にも堀を残すと記している。

「天神社」(あまつかみしゃ)成海神社はこの場所に創建され、1394年、安原備中守宗範が鳴海城を築城する際に移転した。

  

街道に戻ります。

お菓子屋の「菊屋茂富」の角から直角に曲がります。これを「曲尺の手」と言うそうです。

 

鳴海の町は、お寺が多い町です。街道を通ってきた中でも、如意寺、誓願寺、円通寺、万福寺、浄泉寺、瑞泉寺・・・・・・・・・7つぐらいの寺がありました。

  

今日4日は、一般の会社では仕事始め。お昼に近づきましたので食べる所を探しますが、どこも開いていない。まだお正月休みなのかな?

鳴海宿東の入口、平部町常夜燈の所にレストランがありましたのでそこに入ることにしました。入ると家族連れでいっぱい。

この店は、ランチメニューを選ぶとサラダバーがバイキング式になっており、サラダ、スープ、御飯、カレー、ソフトクリームが食べ放題です。

街道を歩く時は、急にお腹が痛くなったりしますので、お昼はできるだけ軽いものにしていますが、バイキングと言うと、昔、草野球で1番打者の切り込み隊長をしたせいか、俄然「ファイト」が湧いてきます。 

  

お腹が満腹状態で再びスタート。お腹がいっぱいの為歩くのも超スローペースです。

有松の一里塚です。江戸から88里。まだまだ先が長いですね。

有松は、旧東海道と知立の宿の間に慶長13年(1608)に、間の宿として開かれた。尾張藩の症例により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田庄九郎により、絞り染めが考案され売り出されると、

藩の庇護も受け、絞りは有松名産として、全国にその名が知られた。有松は絞りと共に繁栄したが、天明4年(1784)、大火が起こり全村ほとんどが焼失した。

村の復興に当たり、建物は従来の茅葺きを瓦葺きにし、壁は塗り籠め造り、2階の窓は虫籠窓に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。

商家の建物は、中2階建て切り妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は絞りの店頭販売の為に大きく開かれていたが、今は格子がついている。

名古屋市は有松を町並み保存地区に指定し伝統的建造物や、町並み保存上必要な物件を定め、古い町並み調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助事業を進めている。

幕末の狂歌師「梅屋鶴寿」は、 あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しばしと人の 立とまりけれ  と詠んでいます。

  

有松の町並みは、旧家が大切に保存されており、街道好きな私には、何か心が落ち着きます。

 

有松には、名古屋市指定有形文化財の家があります。広重の東海道53次の浮世絵には、鳴海宿有松絞りが描かれています。

【小塚家住宅】

 

【竹田家住宅】

  

【中舛竹田荘】

 

【服部家住宅】

  

有松絞りのお店「井桁屋」さんのお店の中を拝見させていただきました。

   

昭和61年には皇太子殿下(平成天皇)、妃殿下も行啓されています。

  

有松には、「布袋車(東町)」、「唐子車(中町)」、「神功皇后車(西町)」の3台の山車があります。これらは、有松の氏神、有松天満社の秋季大祭(10月第1日曜日)に曳き出されます。

昔の町並みを残す有松東海道を曳行される姿は、誠に勇壮で風情があります。道中の随所でからくり人形の演技が披露されます。(有松まちづくりの会HPより)

   

先を歩いていると有松郵便局に「桶狭間古戦場跡」の表示板があったので、折角ですので行ってみることにしました。

郵便局から約1,2km。約10分かけて到着。

桶狭間の戦いと言うと学生の時に歴史で習いましたね。試験には必ず出ていたような記憶があります。

桶狭間の戦いは、永禄3年(1560)5月19日(太陽暦の6月22日)尾張の領主織田信長が、駿河・遠江・三河の領主今川義元の10倍に余る大軍を打ち破り、

近世という時代の幕を開けた日本史上特筆すべき戦いです。

今川義元は、25000余の兵を率いて5月18日に沓掛城に入り、翌19日8時頃、大高城へ向け出発。前日瀬名氏信が設営した「おけはざま山」の陣地に入り、今朝方撃ち落とした鷲津砦、丸根砦の戦果を

聞きながら休息をしていましたが、昼頃天気が急変し雷雨となり高地に着陣していた今川軍本隊は落雷により大混乱状態になりました。

一方、信長は、午前4時頃清須城で鷲津砦、丸根砦が今川軍の攻撃を受けたとの報告を聞き、謡曲「敦盛」を舞い、直ちに出陣、8時頃熱田神宮に到着、戦勝を祈願。10時頃には、善照寺砦に着き、

本陣ここにありと見せかけておいて、雷雨の中を義元本陣近くの釜ヶ谷に進み、雨が止むや間髪を入れず、今川軍に突撃。ついに今川義元を討ち取りました。

この戦いでの戦死者を信長は村人に丁重に葬るよう命じました。村人は七つの塚を建て弔い、後年これを一つにして「七ッ塚」と称して残してきました。

  

  

現在、この地は、公園になっており、私達が訪れた時は、この戦を知らない子供たちが遊んでいました。

今日は、昨日の疲れか、または、お昼にたくさん食べすぎたせいか、これ以上歩けなくなりました。有松駅までは歩いて帰ろうかと思いましたら、名鉄有松駅行のバスがきました。

このバスに乗り、名鉄有松駅から名古屋駅に戻りました。明日は頑張って歩きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№16-(その1)「宮宿~笠寺観音」(名古屋市熱田区~名古屋市南区)

2017-01-11 18:39:48 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

1/4 ホテルを7時半に出てJRで前日のゴール地金山駅に向かいました。今日も天気はよくウオーキング日和です。

佐屋街道の道標は、金山新橋南交差点のコンビニの前にありました。

   

これから伏見通りを通って宮の渡しに行きますが、途中にある「熱田神宮」に立ち寄って行きます。

ご祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のことです。

天照大神は、言うまでもなく、皇室の御祖神とも至高至貴の神とも仰がれ、人々にいつくしみの徳をあたえられる神です。又、相殿神は「五神(ごしん)さま」と呼ばれ、草薙神剣とゆかりの深い神々で、

宮簀媛命、建稲種命は尾張氏の遠祖として仰がれる神々です。

御鎮座は、日本武尊の御事蹟と深い関係があります。御父・景行天皇から信任を授かった日本武尊は、東征の帰途、尾張国造の御女である宮簀媛命をお妃とされ、

やがて草薙神剣をこの国に留めておなくなりになります。宮簀媛命は尊の御遺志を重んじて、神剣を今の熱田の地にまつられました。今からおよそ千九百年前になります。(熱田神宮HPより)

今日4日は、会社関係の仕事始めからでしょうか、境内には、スーツ姿の方が多く見られます。

    

広重の宮宿の浮世絵は、5月5日の祭礼に熱田の町の裸馬を仕立てて参拝する様を描きました。

    

 参拝の後、七里の渡し に向かいます。この地は三重県桑名宿から宮宿までの海上七里の航路の船着き場です。

この距離が七里(約28km)あったのでこの名前が付きました。船は渡し舟で約4時間かかり、干潮時は沖を通るので10里ぐらいかかったそうです。

   

 

松尾芭蕉は、旅の初期に熱田に度々訪れ、林桐葉の計らいで名古屋・鳴海の門人達と交流し、七里の渡しから舟遊びであゆち潟(愛知の語源)を楽しみ熱田三歌仙を残しました。

・ この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ

・ 海暮れて 鴨の声 ほのかに白し

・ なんとはなしに 何やらゆかし すみれ草

 

宮宿は、東海道の中でも最大の規模で本陣2、脇本陣1、旅籠248ありました。本陣は赤本陣と白本陣です。

赤本陣は、ひつまぶしで有名な蓬莱陣屋の隣にありました。(今は案内板だけ)

  

旧東海道に来ました。

近くに「ほうろく地蔵」があります。説明を読むと、この石地蔵は、もと三河国重原村(現、知立市)にあったが、野原の中に倒れ捨石のようになっていた。三河より焙烙を売りに尾張に来るものが、

荷物の片方の重しとしてこの石仏を運んできて、、ここで焙烙を売りつくしたた後、海辺のあし原に捨てて帰った。地元の人がこの石仏を発見し、土中に埋まっていた台座と思われる角石に置いた。

 ※焙烙・・・・・・素焼きの平たい土鍋。

デイサービスの所に道標があります。ここが東海道と佐屋街道の分岐点でした。

   

   

このあたりは、2年前「名古屋ウオーク」で通ったことがあります。家康が御幼少のころ、この辺で幽門された場所があるそうで探すが見つかりません。

近くの喫茶店で聞くともう今はないそうです。ついでにモーニングを頂きました。(これで@500です。)

  

ビジネスホテルの前に「裁断橋」のモニュメントがあります。

大正時代まで熱田区内には精進川が流れ、東海道には裁断橋が架けられていました。また、精進川を三途の川と見立て、橋のたもとには死者の衣服を奪い取る奪衣婆(だつえば)をまつる姥堂がありました。

橋の名の由来には、死者を閻魔大王が裁断する場という説もあります。

1926年に川が埋め立てられ橋は撤去されましたが、1953年に近くの姥堂境内に縮小して復元されました。元の橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)は名古屋市の文化財に指定され、名古屋市博物館に所蔵されています。

そして、この擬宝珠の一つには、私財を投じて橋の架け替えを行った堀尾金助の母が、亡き子をしのんで書いたとされる和文の銘が刻まれています。

1590年、18歳の堀尾金助は小田原の戦いに出発しましたが、病に倒れ帰らぬ人となりました。裁断橋まで出征を見送った母は、翌年、供養のために裁断橋を架け替えました。

その後、33回忌にも再度架け替えを行い、擬宝珠に刻まれたわが子に対する母の想いが人々に語り継がれました(熱田区HPより)

裁断橋の横には、「都々逸発祥の地」の碑があります。

寛政12年(1800)ごろ、今の熱田区伝馬町の東方付近で歌い出され大流行した。江戸時代、この辺りは東海道五十三次の1つ宮の宿と呼ばれ、旅篭が約250軒もあったという。

その中の“鶏飯屋”で働くお手伝いさんが大変な美声で『神戸節』『潮来節』などを歌い、終わりに「どどいつどいどい」などという囃子を入れたのが始まりで飲食関係の女性から名古屋全域に広まっていきました。

やがて七・七・七・五の字数に合わせ、土地の情景や人情ものを歌い込む人が現れ、名古屋の名物となりました。

   

熱田橋を渡ります。このあたりは、パロマやブラザーなど名古屋が本社の日本を代表する会社が建ち並んでいます。

  

山崎の長坂に来ました。ここは、呼続(よびつぎ)という地区で、古来、呼続一帯は、四方を海と川に囲まれた巨松の生い茂る陵の浮島として「松巨嶋」と呼ばれ尾張の名所でした。

ここは、東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差しています。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われています。

芭蕉は、「寝覚めの里よびつぎ」と書き記しこの地に足跡を残しています。また山崎の長坂に接する山崎の立て場は宮宿への往還の地として賑わい、宮宿より渡し船の出航を呼び継いだことから

「よびつき」の名があると言われています。

  

鎌倉街道という案内板があります。えっ、鎌倉には東海道を通って行けばいいのでは・・・・・・と思うのですが、鎌倉時代、全国から鎌倉へ向かう道として設定されました。

愛知県では、一宮~清州~あま市~名古屋古渡~鳴海~豊明~三河のルートだったそうです。

また、 室町時代には、星崎の七つの村(南野、荒井、牛毛、山崎、笠寺、本地)に約百町の塩田があり、前浜塩と名付けられていた。塩付街道はここでつくられた塩を北方の内陸へ運ぶ道として利用されました。

塩付街道の出発点は南区呼続町にある冨部神社でそこから笠寺へ行き、笠寺から瑞穂区を通り、石仏、川名、仲田、古出来町方面を経て、瀬戸街道へと結び、

さらに北上して高蔵寺より中山道に続く街道として重要でした。塩が馬の背に付けられて運ばれたことから塩付街道と名付けられました。

今は、住宅地が建ち並び近くに海があり、ここで塩を作っていたなんて信じられないですね。
 

  

富部(とべ)神社に来ました。由緒を見ると、慶長8年(1603)津島神社の「牛頭大王」を勧請したもので「戸部天王」とも「蛇毒天王」とも呼ばれています。

清州城主松平忠吉(家康の四男)は、当時の富部神社の霊験あらたかな事を知り、病気平癒を祈願したところ、日ならず本復したと言われ、その恩に報いるため、

慶長11年(1606)に本殿、祭文殿を創建し毎年百石を寄進されました。本殿は、一間社流造、檜皮葺で正面の蟇股(かえるまた)、破風、懸魚、脇障子など桃山時代の建築様式を

伝えており、国の重要文化財に指定されています。また、神社境内の保管庫には享保12年(1727)製の高砂車と呼ばれる車楽(だんじり)が1台保管されています.車体も古くあまりに高い車高のため,

昭和12年名古屋で開催された「汎太平洋博覧会」に曳かれた翌年頃から,道路事情などで曳くことが不可能になりました.現在では上層部を外し保管されています。

10月の大祭には保管庫が開けられ能人形など飾り付けられて一般公開されています。

   

笠寺に来ました。スーパーの前に立つと、蛙の置物があります。調べてみると、今から約400年前、戸部城主・戸部新左衛門という乱暴な殿様がいました。外出の折、面前を横切るものは、

なんでも無礼打ちにしていました。ある日、新左衛門の面前を一匹のトノサマガエルがさっと横切りました。お供衆は息を飲んだが乱暴な新左衛門も、その蛙の飛ぶ速さに心を奪われ、蛙は命拾いしました。

それから誰ともなく、“山崎(現在の名古屋市南区)越えたらとべ、とべ”と洒落るようになったとのことです。こうした言い伝えから、“命拾いをして無事にカエル”といった願いを込めて、

瓦職人が粘土で蛙を作って焼き、それを笠寺観音の参道に並べて売った土産物が、戸部の蛙の始まりだとされています。

  

笠寺観音(笠覆寺)です。略縁起を見ると、笠寺観音は、天平5年(733)呼続浜に桂旦国誉(けいたんこくふ)山の霊木が漂流して毎夜霊光を放ち、これを見た人は病気に罹ったという。近くに住んでいた禅光上人は、

不思議なる夢告を受け、その霊木を以って十一面観音菩薩を刻み、寺を建立し霊像を安置して、天林山小松寺と称した。

その後約200年の歳月が流れ、寺は荒廃し、堂舎は崩壊して、本尊は野中に立って雨露にさらされたままであった。

ここに一人の娘が鳴海長者太郎成高の家に仕えていた。長者の妻は彼女の美しさを妬み、朝夕草刈り、潮汲みをさせ雨の降る日も笠も与えずひどく使うのを、人が哀れみて、笠を与えたが、

信仰深い娘は、その笠を本尊に覆い、自ら発願して「人我に笠を与ふ、我歓喜にたえず、我また是を世尊に供養し奉る。ねがはくば、大慈大悲我が行末を救ひ給へ」と祈念し、本尊を雨露から守った。

その後関白藤原基径(もとつな)の子、兼平中将東国下向の際、成高が家に宿どり、娘の非凡なるを見て、自分の妻としてむかえた。此れを玉照姫と言ふ。

延長8年(930)兼平公は婦人と共に、下向し現在の地に仏殿坊舎を建て、大慈大悲の功徳を未代までも伝えんことを思ひ、婦人が本尊に笠を覆えたる縁をもって寺号を笠覆寺と改称し、

以後真言秘密の道場と栄えた。

その後300余年を経て、再び仏堂又破壊し、嘉禎4年(1238)に二位の房 阿願上人によって堂塔坊舎を再興し広大な建築の美を極めた。当山では禅光上人を開山、阿願上人を中興開山とする

 

境内には、千鳥塚、新免武蔵(宮本武蔵)の碑もあります。

  

 

(その2)に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№15(朝日~桑名宿)三重郡朝日町~桑名市

2016-07-13 17:45:54 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

6/25 午前7:40 四日市のホテルを出発し前日のゴールJR朝日駅に向かいます。朝日駅8:15到着。

天気は、曇っていますが、雨は大丈夫みたいです。

朝日町は、天武天皇が壬申の乱の際、付近で朝日を拝んだということから町名になりました。

    

朝日町にも大きな寺院があります。

 

 浄土宗本願寺派の寺院浄泉坊。徳川家にゆかりのある桑名藩士の奥方の菩提寺になって いたこともあり、山門や瓦に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っています。

参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられています。

   

  

橘 守部(もりべ)(1781~1849)生誕地の碑があります。

守部は、江戸時代の国学者です。国学とは、古典を研究することにより、日本固有の生活や精神を理解しようとする学問で、その代表として、松阪の本居宣長がよく知られています。

守部は、天明元年(1781)小向に生まれました。守部の父飯田長十郎元親は、亀崎、金井などの村々を支配する大庄屋格で、津の国学者、谷川士清の門人であったといわれています。

17歳のとき、一家離散のため江戸に下り、20歳を過ぎてから学問を志すという、当時としては晩学でした。その後、武州幸手(現在の埼玉県幸手市)に居を移し学問に励み、

49歳の時、再び江戸に戻りました。当時の国学界が本居宣長を中心とした学説が主流であったのに対し、守部は宣長の学説を批判し、古事記よりも日本書紀を重んじるという

独自の学説を展開しました。 『稜威道別』『稜威言別』など多数の著作があり、その業績は、香川景樹、平田篤胤、伴信友とともに「天保の国学四大家」の一人に数えられています。

すぐ近くの「小向(おぶけ)神社」には、この橘 守部が祀られています。

    

朝日町役場の横に「朝日町資料館というのがあるので見学していこうかと思いましたが、開館が10時からでまだ開いてなくパスしました。建物は大正年間の建築です。

  

江戸時代、東海道小向・柿、富田村周辺には茶店が並び、焼蛤が提供さ れていました。この焼蛤は浮世絵などの出版物をとおして「桑名=焼きはまぐり」として広く知られるようになりました。

ことわざで「その手は桑名の焼き蛤」という言葉があります。「うまいこといってもだまされない、その手は食わない」という意味ですが、朝日町は江戸時代に大部分が桑名藩に属し、

縄生(なお)村(現朝日町縄生)から富田村(現四日市市富田)にかけて、東海道沿いの茶店や酒屋で旅人に提供されていました。ベストセラーになった十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも、

縄生(なお)村で女性がハマグリを焼く挿絵が掲載されています。

  

近鉄名古屋線の踏切を越えると、右側に「縄生(なお)の一里塚」があります。江戸から97里。

   

員弁川にかかる「町屋橋」です。この川を渡ると「桑名市」に入ります。江戸時代には、中州を利用して2つの木橋が架かっていたそうです。

   

町屋橋を渡ると「桑名市」に入ります。桑名市は、人口約14万人。

町屋橋北詰には、伊勢両宮常夜燈があります。この常夜燈は、文政元年(1818)に東海道の道標として、また、伊勢神宮への祈願を兼ねて桑名。岐阜の材木商によって寄進されました。 

  

「安永餅」は、つぶ餡(あん)の入った細長く平らな焼餅で、四日市の「なが餅」に似ている所があります。江戸時代は、こういった餅が街道周辺で売られていたのでしょう。

  

城南神社」:由緒を見ると、当神社は元神明宮にて、第十一代垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大御神を永遠におまつり申し上げるべき宮地を求めて、 御神慮のまにまに南勢へ御巡幸されたとき暫時御停座の御旧地と伝承されております。故に古来、神宮式年御遷宮ごとに、 皇大神宮一ノ鳥居、古殿舎の一部が御下賜になり改築の慣例になっております。

   

「江場松原跡」 江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていました。眺望がよく、西には、鈴鹿の山脈が遠望され、東は、伊勢の津が見られました。

昭和34年(1959)の伊勢湾台風頃までは、松並木も残っていましたが、現在では、家が建ち並び、一本の松も残っていません。

  

矢田立場  立場とは、宿場と宿場の間にある、旅人が休憩する茶店などが集まっている所です。この近くには、現在でも馬を繋ぎとめた鉄環のある家や、連子格子のある家が見られます。

  

立坂神社:桑名藩主本多忠勝の宗敬深く、以後代々の藩主の保護を受けました。もともと矢田八幡社と称していますが、明治以後は式内立坂神社と称しました。

中川梵鐘店は、江戸末期創業の鋳造会社です。全国各地の梵鐘を手がけており、永平寺や、名古屋の日泰寺、三河の鳳来寺、それに故岡本太郎のデザインによる名古屋久国寺の角がたくさん突き出た「歓喜の梵鐘」もここで創られました。

     

一目連神社は、多度大社の別宮として鎮座。御祭神の「天目一箇命」は、御本宮・天津彦根命の御子神であり、伊勢の天照大御神の御孫神にあたります。古書(古語拾遺)では、天照大御神が天の岩屋戸にお隠れになった際、刀や斧などを作って活躍された神として伝えられており、このことから、鉄工・鋳物等をはじめとする日本金属工業の祖神・守護神として崇められています。毎年11月8日には、「ふいご祭り」というお祭りが斎行され、桑名近辺の会社はもとより全国の関連業者の方々が参拝に訪れます。

  

天武天皇社は、天武天皇を主祭神として祀る日本で唯一の神社です。

  

桑名は、鋳鉄業が盛んです。現在では、マンホール、格子蓋、グレーチング、ルーフドレン、鋳鉄管などの建築・土木製品がこの桑名で造られています。

慶長六年(1601年)、徳川四天王の一人に数えられた本多忠勝公が、 伊勢国桑名藩十万石の初代藩主となりました。「くわな鋳物」は忠勝公からの 鉄砲の製造の命をうけ、

鋳物師の広瀬氏を招き、藩の奨励策のもとで、本格的な、生産が始まったと 言われています。写真は、広瀬鋳物工場跡。

  

日進小学校の所から斜左に入ります。このあたりは、慶長年間の町割りの際、城下の外郭を固めるために計画的に寺院が集められました。

長円寺

桑名の特産品として「桑名の千羽鶴」があります。今から200余年前の寛政9年(1797)に『千羽鶴折形』という本が刊行されました。ここには、一枚の紙から、2羽から最高97羽までの

連続した鶴を作る方法が49種類紹介されています。横に繋ぐだけの簡単なものから、五層に積み上げて折る立体的なものまで、実に驚異的な内容で、当時も話題をさらったらしく、

『千羽鶴折形』は寛政12年(1800)に再販されています。この驚くべき連鶴を考案した魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)は、桑名(現在の三重県桑名市)の長円寺の住職でした。

僧侶がなぜ鶴を?という疑問はありますが、彼は変化に富んだ鶴を考案する決意のもと、18年という歳月をかけてこの折形を完成させています。義道は49種類だけではなく、

もっと多くの種類を考案し、その中の一部を選んで刊行したと思われますが、残念ながら、考案の原本は残されていません。(桑名千羽鶴を広める会より抜粋)

桑名市のマンホールにもこの千羽鶴がデザインされています。

 

   

寿量寺】 江戸城の障壁画を描いた狩野光信は江戸から京都へ帰る途中に、慶長13年(1608)6月4日桑名で没し、当寺に葬りました。

入口すぐ南側に「狩野光信墓」の小さな五輪塔があります。境内には明治2年(1869)銘の仏足石があり、寺宝として「銅磬」、「日蓮聖人御本尊」があります。(桑名観光ナビより)

十念寺】 十念寺の創建は天平宝字元年(757)、行基菩薩により開かれたのが始まりと伝えられています。当初は現在の菰野町にありましたが、慶長年間(1596~1615)、

桑名城築城の際、新たに城下町が町割され現在地に移ってきました。十念寺に埋葬されている森陳明は幕末の桑名藩士で幕府側に付いた藩主松平定敬に随行し

函館戦争に参戦しました。函館戦争が終結すると桑名藩が窮地に立たされた為、自らが切腹することで全責任を負い十念寺に葬られました。

墓には松平定敬の書によって「森陳明之墓」と刻み込まれ昭和41年に桑名市指定史跡に指定されています。 (桑名観光ナビより)

  

光徳寺】 浄土宗。古くは泡州崎念仏道場と称していました。明治7年(1874)、進善学校(日進小学校の前身)が当寺で開かれました。境内墓地には、桑名船場町の商人で

萬古焼の創始者である沼波弄山(1718~77)の墓、大坂の市岡新田を開発した市岡宗栄(1664~1714)や、萬古焼継承者加賀月華(1888~1937)の墓があります。(桑名観光ナビより)

 

泡洲崎八幡宮】 本多忠勝が町割りをして城下を整備する以前、このあたりは町屋川の流れで、自凝洲崎(おのころすざき)、加良洲崎(からすざき)、泡洲崎(あわすざき)の三洲に

分かれていて、この一帯を泡洲崎と称していました。神社の名前はそこから来ています。
   

吉津屋(よつや)通りを過ぎると、京町の信号の所に「石取会館」があります。

  

石取会館内に入ると、「石取祭」に使う祭車が展示されています。

石取祭(いしどりまつり)は、桑名南部を流れる町屋川の清らかな石を採って祭地を浄(きよ)めるため春日神社に石を奉納する祭りで、毎年8月第1日曜日とその前日の土曜日に

執り行われています。町々から曳き出される祭車は、太鼓と鉦で囃しながら町々を練り回ります。 全国的に見ても単一の神社、一神事でこれほどの山車が一堂に会する祭りは非常に珍しく鉦や太鼓を打ち鳴らし、「日本一やかましい祭り」と言われ、平成19年3月には「桑名石取祭の祭車行事」の名称で、「国指定重要無形民俗文化財」に指定されました。

試楽(土曜日)の午前0時には叩き出しが行われ、祭車は各組(地区)に分かれ、組内を明け方まで曳き回し、その日の夕方からも各組内を回り、深夜にはいったん終了します。

本楽(日曜日)は午前2時より本楽の叩き出しが明け方まで行われ、いよいよ午後からは各祭車が組ごとに列を作り、渡祭(神社参拝)のための順番に曳き揃えを行います。

浴衣に羽織の正装で行き交う姿は豪華絢爛な祭絵巻を醸し出します。一番くじを引いた花車を先頭に午後4時30分より曳き出された祭車は列をなし、

午後6時30分からは春日神社への渡祭が順次行われます。渡祭後は七里の渡し跡(一の鳥居)を経て、午後10時頃より始まる田町交差点における4台ずつの祭車による曳き別れが行われるのも見逃すことのできない場面です。(石取祭りHPより)

  

  

石取会館を出て左折すると「桑名宿」です。

桑名は、木曽三川の河口部に位置し、古くから港町として栄えてきました。美濃方面から川船で運ばれた物資は、ここで大船に積み替えられ、江戸、大坂方面に送られたことで

この地域屈指の港町・商業都市になりました。江戸日本橋から42番目の宿場町で、江戸時代には、松平氏11万石の城下町でもありました。

江戸時代の資料によると、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠数120、家数2544、人口8848人で旅籠の数は、東海道の中で宮宿に次ぐ2番目の規模だったそうです。

 

歴史をかたる公園」は、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られた公園です。道中をイメージした道標や案内板などが設置されています。

  

桑名城は徳川四天王のひとり、本多忠勝の居城として知られています。本多氏が姫路城に移ってからは松平氏が桑名藩主を務めました。忠勝の孫である忠刻と徳川家康

孫娘である千姫はこの城で結婚しています。現在は本丸・二之丸一帯を九華公園として整備されており、蟠龍櫓が外観復元されています。他に三之丸の城壁が一部残っており、

市内にある了順寺の山門は桑名城の城門を移築したものと伝えられています。

   

春日神社の銅鳥居: 「勢州桑名に過ぎたる者は銅の鳥居に二朱女郎」と歌われた日本随一の青銅鳥居で、神社境内から東方25mの所、片町通に面して立っている。

寛文7年(1667)、桑名城主 松平定重が寄進、慶長金250両を費し鋳物師 辻内種次に命じて建立させたもので、桑名の名物として今も昔を語っている。(桑名宗社HPより))

しるべいし」は「迷い児石」とも言われ、人の大勢集まる所に立てられました。同じものが多度神社の鳥居の横にもあります。自分の子どもが迷子になると、左側面「たづぬるかた」に子どもの特徴や服装などを書いた紙を貼って、心当たりのある人が右側面の「おしぬるかた」へ子どもが居た場所などを書いて貼ります。

   

桑名神社(春日神社)と中臣神社の両社を合わせて桑名宗社といい、古来から桑名の総鎮守として崇敬されてきました。永仁4年(1296)に奈良から春日大明神を勧請して合祀したため、

「春日さん」の名で親しまれています。前述の「石取祭」は、この春日神社のお祭りです。

   

舟会所」:桑名港は東海道の渡し場であったため、宿駅制度の一つである船会所が設けられ、渡船の手配・旅人の受付を行ないました。また入港船から入港料を徴集していました。

ここは町衆のなか船年寄が責任者となり、数人の職員がいた。また桑名藩の役人が常駐する船番所が設けられていて、渡船を乗り降りする旅人を監視していました。

 

七里の渡し跡: 東海道における唯一の海上路。七里とは、桑名宿と宮宿(名古屋市熱田神宮近く)の距離(約28km)で当時3~4時間かけて渡ったと言われています。

ここは、伊勢国の東入口に当たるため、天明年間(1781~1789)に伊勢国の「一の鳥居」が建てられ、今では、伊勢神宮遷宮ごとに建て替えられています。

明治になり、東海道制度は廃止されましたが、揖斐(いび)川上流の大垣との間の客船や荷物船の発着場になっていました。

昭和34年(1959)の伊勢湾台風以後の高潮対策工事の為、渡船場と道路の間に防波堤が築かれ、景観は変化しましたが、往時の名残を感じることができます。(東海道三重道中案内より)

   

広重の東海道の浮世絵「桑名宿」は、この七里の渡しを描いています。

同じ場所とみられる所をパノラマで写しました。

 

   

  

桑名宿の本陣は、大塚本陣(現 船津屋)、丹羽本陣がありました。

  

時間もお昼近くになってきました。せっかく桑名に来ましたので「蛤料理」を食べてみたいと思います。

このハマグリの味・・・・・・・懐かしいですね。ハマグリ丼は、初めてでした。