鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

山村、ボランチはしっかり試合をつなぐポジション

2015年08月10日 | Weblog
[鹿島]山村和也、ボランチに本格的に転向
 監督が代わってから山村和也がボランチに本格的に転向している。今季は、明治安田J1・1stステージ2試合に先発しただけで、その実力を出し切っているとは言い難い。ここ最近では、試合を締めくくるための役目や、パワープレー要員としてしか出場機会が巡ってこなかった。確かなポテンシャルを持つ選手なだけに、ここ数シーズンは毎年のように夏場になると様々なチームからオファーが届いていた。しかし、本人はかたくなに鹿島で結果を出すことにこだわり残留してきた経緯がある。

 高さだけでなく足元の技術も確か。監督からは「特長を出してほしい」と言われたそうだ。今節は、柴崎岳が東アジアカップに参加していたため主力組に入る場面も見られ、場合によっては先発の座を梅鉢貴秀と争うことに。

 「ボランチはしっかり試合をつなぐポジション。ボールまわしの中心としてやることと、守備ではいちばん声が通る。しっかりやっていきたい」と述べ、意気込んでいた。
(鹿島担当 田中滋)


本格的のボランチへの転向を図る山村である
現在、岳と満男で組むボランチであるが、岳が代表などで抜ける可能性、また満男の連戦時の回復など、組み合わせが変わる可能性が高い。
トニーニョ・セレーゾ時代はバチで行くとされておったが、ここに名乗りを挙げた格好である。
これは心強い。
彼ほどの身体能力・攻撃力を持った選手が中盤の底におれば、戦術的にもオプションが増えて行くであろう。
先発せずとも、岳をトップ下に上げる戦術も採りやすい。
それよりも、岳をより攻撃的なポジションで起用し、山村を先発させることすら考えられる。
石井監督の下、改革が進んでおる。
山村の躍動に期待大である。

山形・當間、嫡男誕生

2015年08月10日 | Weblog
當間建文選手 第一子誕生のお知らせ
2015年8月10日(月)

この度、モンテディオ山形所属の當間建文選手に、第一子(男子)が誕生しましたのでお知らせします。

當間建文選手コメント
「この度、長男が生まれました。より一層頑張ってまいりますので、応援よろしくお願いします。」


男子を授かった當間家である。
嫡男の誕生は大いなる力となろう。
今まで以上に力を発揮し、山形をJ1残留に導くのだ。
當間の躍動を楽しみにしておる。

鈴木秀樹事業部長、負けたのはオレの責任でもある

2015年08月10日 | Weblog
スタジアムに医院 J1鹿島事業部長・鈴木秀樹(上)
2015/8/3付

 「今度さあ」と鈴木秀樹はいう。ひそひそ話になる。「面白いだろう」。鹿島アントラーズの取締役で事業部長を務める鈴木は自身の思いつきの広がりに想像を巡らせ、ニヤつく。

 3日、カシマスタジアムに併設された「アントラーズスポーツクリニック」が開院した。最高性能の磁気共鳴画像装置(MRI)を備える整形外科は、スタジアムの利活用と地域の医師不足の解消を目指したもので、着想から2年半をかけて形にした。


我々の仕事はすべて、試合に勝つためにある

■スタジアム事業収入、「4本目の柱」に

 「30キロ圏内の人口が70万人の鹿嶋でプロサッカーをするのはセオリーに反する」と鈴木は言い切る。「こんな小さな市場でサッカーだけで食っていくのは、しょせん無理」。だから広告収入、入場料、テレビ放映権料に続き、スタジアム事業収入を「4本目の柱」として打ち立てようとする。

 2006年にカシマスタジアムの指定管理者の権利を取得。ガスを配管して安全を確保し、消防署の許可を得て、調理に火を使えるようにした。25店の地元飲食業者がコンコースに軒を並べ、観戦者に温かい食事を提供する。いまや全国に広がる「スタジアムグルメ」の先駆けになった。

 夏場はビアガーデンを営業。フリーマーケットを催したのも平日にスタジアムににぎわいをつくる試みだった。スタジアムのフィットネスクラブの売り上げは年5000万円を超える。

 「スタジアム事業で年俸2億~3億円の外国人選手を獲得できるくらいにしたい」と鈴木は意気込む。「我々の仕事はすべて、試合に勝つためにある。事業部の仕事もそうなんです」

 事業部が稼げば、強化費が生まれ、選手補強が可能になる。「クラブの社員のすべてが自分は勝つために仕事をしていると意識しなくてはいけない」。鈴木はチームが負けたら強化部だけの責任とは思わない。「負けたのはオレの責任でもある」と考える。

■価値高め、高額で命名権販売が目標

 芝生事業にも4年にわたり、水面下で動いてきた。信州大繊維学部、ソニービジネスソリューションなどと研究を重ね、芝の発芽、生育を飛躍的に早める発光ダイオード(LED)の波長と強さを見つけ特許を取った。

 同時にオランダ、ベルギーのスタジアムを参考に、1日で芝を張り替える技術をものにした。芝の種を無駄なく追いまきする種まき機まで業者に開発してもらっている。短期間で芝を張り替えられるため、ピッチを様々な用途に開放できる。鈴木はコンサートだけでなくキャンプやバーベキューパーティー、地元の運動会……と頭を巡らせる。

 こうした新進の事業を手掛けるのはスタジアムの価値を最大限に高めるためでもある。価値を上げたうえで、日本では異例の高額で命名権(ネーミングライツ)を売買する大きな目標がある。さらに、スタジアムを中心に「アントラーズタウン構想」という都市開発も夢として抱く。そのたくらみに夢があるから支援者がついてくる。

(敬称略)

戦車長から劇的転身 J1鹿島事業部長・鈴木秀樹(中)
2015/8/4付日本経済新聞 電子版

 鈴木秀樹の人生をさかのぼっていくと、途中、かなりの角度で曲がっているのがわかる。青森県八戸市で生まれ、中学でサッカーを始めた。東京への修学旅行中、国立競技場で日本リーグを観戦したという。「客席はがらがらだったけれど、すげえなと思った」

 中学卒業後の5年と、いまの鈴木を結びつけるのは難しい。故郷を離れて身を置いたのは神奈川県横須賀市の陸上自衛隊少年工科学校(現高等工科学校)。受験する気はなかったのに、サッカー部の仲間が鈴木の願書も提出し、受験日に迎えにきたのだという。


アントラーズ草創期、ジーコ(後列中央)にプロとは何かを学んだ(鈴木は右から2人目)

■窮屈な生活、サッカーの試合が息抜き

 合格したものの、入学をためらう鈴木に友人がささやいた。「サッカーを続けるなら中央(関東)に行かなきゃ。日本リーグも楽しめるぞ」。その殺し文句に乗った。しかし、観戦するヒマは全くなかった。

 普通科高校の授業のほかに、自衛官になるための専門課程があった。社会情勢や戦術を学び、射撃訓練、フル装備での50キロ行軍、数時間にわたる遠泳……。50メートル競走といえば土のうを担いでのものであり、鉄棒での懸垂は4秒に1回というルールがあった。

 サッカーの試合は高校の大会のほかに社会人リーグ、自衛隊の大会と数多かった。ただし、毎週行われる試験に合格しないと外出申請が通らず、試合に行けない。だから必死に自習した。「窮屈な生活だったので試合が息抜きになった」

 何しろ常に教育係が生活態度に目を光らせている。食事の際に胸はテーブルから拳一つ分ほどしか離してはならない。姿勢を崩すことは許されなかった。風呂場で脱いだ衣服はきれいに畳む。ベッドメーキングも乱れのないように。「いつ死んでも恥ずかしくないように、身ぎれいにしておかなくてはいけないという教えだった」

 4年目はサッカーが強い陸上自衛隊富士学校に進む。電子工学を学んだのは、当時の最新鋭でコンピューター制御の74式戦車に乗りたかったから。割り当てられた11号車を愛した。卒業後はそのまま富士学校に残り、戦車部隊の教官になった。鈴木は当然、幹部を目指した。だが、ここで大きな転機が訪れる。

■得点感覚、元ユース代表監督に買われ

 富士学校のサッカー部が自衛隊の全国大会の決勝に進出。得点感覚に優れたFW鈴木のプレーが、視察していた元日本ユース代表監督の松本育夫の目に留まった。鈴木は日本B代表候補の合宿に呼ばれ、さらに当時、日本リーグ2部の住友金属工業(現J1鹿島)への移籍話が進んだ。

 除隊の許可がおりるまで3カ月を要したものの、「日本リーグでプレーしたい」という思いはかなった。そして、自衛隊で5年を過ごした元戦車長がプロサッカービジネスの世界の「仕掛け人」と化すのだから信じがたい。

 この劇的な半生を本人はどう振り返るのか。「自衛隊に入ったのも、住金に移ったのも、そこにサッカーがあったから」。そう考えると話は単純で筋は通っている。ずっとサッカーに導かれている。

(敬称略)

理解者づくりに手腕 J1鹿島事業部長・鈴木秀樹(下)
2015/8/5付日本経済新聞 電子版

 1981年に住友金属工業(現J1鹿島)に移籍したが、故障で27歳にして引退に追い込まれた。鈴木秀樹は主務、運営担当、スカウトとしてサッカー部をサポートする裏方に回った。

 本社との予算折衝も鈴木の仕事だった。サッカー部の年間予算は3000万~3500万円ほど。その中で部としてやりたいことをいかに実現させるか。北海道合宿をしたいが、予算上、許されない。鈴木はとりあえず合宿先を青森と申請する。そのうえで航空会社と札幌往復の運賃の割引交渉をした。経費を圧縮し「青森までの予算で北海道まで行けます」と本社を説得する。そうやって部の希望をかなえた。


鈴木のビジネスの才は人と人をつなぐ才といえる

■スポンサー同士の交流会をアシスト

 遠征中の食事はつましいものだった。高速道路のサービスエリアで、そば、うどんは部費で出るが、天ぷらは自腹。そこで何とかやりくりし、「きょうは天玉までOK」という日をつくる。交渉役として舞台裏の駆け引きを楽しんだ。

 その手腕からすると、チームがJリーグ入りに合わせて91年にプロ化したとき、事業・営業の職を託されたのは必然だった。といっても「プロとはなんぞや」という状態に変わりはない。各クラブは広告代理店から人を採ったが、住金の風土にそれは合わない。鈴木は外部からスタッフを集めることから始めた。

 スポンサー集めにも携わった。「当時、大企業は人気のあるヴェルディ(東京V)とマリノス(横浜M)にしか関心がなかった。鹿島の話なんて聞いてくれない」。そこで鈴木は各業界の2番手企業を回った。

 「どうしてウチに来たんですか」と問われれば、正直に「2番手だからです」と答えた。「そんな感じだったので、最初からウエットな関係が築けた」。広告代理店を通さず、直接やりとりしたのも大きかった。

 発足当初から鹿島を支援し続ける企業が多い。それはクラブを媒介とした交流会を盛んに催しているのと関係がある。スポンサーが集うフットサル大会、春の宮崎キャンプの激励ツアーにゴルフコンペ。飲み会は鹿島の関係者抜きでも行われるようになった。

■職員研修終えたら「これでファミリー」

 こうした異業種交流からスポンサー同士のジョイントビジネスが生まれている。「そこに各企業がメリットを見いだしてくれている。だからチームが負けてもスポンサーが撤退しない」

 鈴木のビジネスの才は人と人をつなぐ才と言い換えられる。鈴木自身が畑違いの人材とつながる才にもたけている。新規事業を円滑に進めるには法や条例を学ぶとともに、各省庁や自治体にクラブの思想を伝え、理解者をつくる必要がある。

 鹿島は茨城県、鹿嶋市、国土交通省との人事交流で、研修として職員を受け入れてきた。すでに県、市からは各3人が1年ずつクラブで働いた。研修期間が終了すると、鈴木は「これであなたはアントラーズファミリーです」と言って帰す。理解者をつくっては、うれしそうな顔をして新たなたくらみを持ちかける。

(敬称略)


鈴木秀樹事業部長について報じる日経新聞である。
フットボーラーとしての鈴木秀樹と鹿島の黎明期を造った姿が伝えられる。
こうして造り上げられた鹿島アントラーズが奇跡を生むのも必然であろう。
「我々の仕事はすべて、試合に勝つためにある。事業部の仕事もそうなんです」この言葉にも集約される。
ファミリーにて勝利を追求する、鹿島の神髄は隅々まで行き届いておるのだ。

日本代表・柴崎岳、ある程度手応えを掴めた部分もあります

2015年08月10日 | Weblog
柴崎「結果は出なかったけど、ある程度手応えをつかめた」
15/8/10 01:00



[8.9 東アジア杯 日本1-1中国 武漢]

 もっと時間があれば、という思いが強かった。チームとして徐々に攻守が噛み合い始めたころ、大会が終わった。MF柴崎岳(鹿島)は「これからというときだった。内容は1戦目、2戦目、3戦目と徐々に上がって、手応えを感じている部分もあった」と言い、時間不足を嘆いた。

 先発は韓国戦のみだったが、3試合すべてに出場した。この日は後半29分からMF武藤雄樹と交代出場。今大会初めてトップ下でプレーし、それまで足元へのパスが多かった中、裏のスペースを意識しながらチャンスをつくろうとした。

 後半34分にはDFラインの裏に抜け出すFW興梠慎三にパス。同38分には右サイドからゴール前に絶妙な折り返しを送ったが、攻め上がったMF山口蛍に合わなかった。もっとトレーニングの時間があれば、というコンビネーションプレーはいくつもあった。

 3試合して2分1敗。未勝利で最下位となったが「結果こそ出なかったけど、ある程度手応えはつかめた」と下を向いてはいない。「この大会で学んだことを、チームの練習や毎日の中で落とし込んでいくことが必要かなと思う」と、所属する鹿島に戻ってからの取り組みに思いを馳せた。

(取材・文 矢内由美子)

結果は最下位も中国戦で手応えを感じた柴崎「3戦目が一番良かった」

中国戦に途中出場した柴崎岳 [写真]=兼子愼一郎

 日本代表は、9日に行われたEAFF東アジアカップ2015の第3戦で、中国代表と対戦し1-1の引き分けに終わった。

 試合後、日本代表MF柴崎岳は「3戦目が一番良かったという思いはありますし、コンディションの面でも非常に整ってきて、これからって時だったんですけど。(最下位という結果は)大会のレギュレーションとしてはしょうがない部分でもある」と、ようやくコンディションが上向いたところで大会が終わり、最下位に沈んだ悔しさをにじませた。

 一方で、「内容は徐々に良くなっていて、1戦目、2戦目、3戦目と良くなっていて手応えを感じている部分もあります。結果こそ出なかったですけど、ある程度手応えを掴めた部分もあります」と、決して悲観するばかりではなく、収穫もあったことを明かしている。

ハリルJは中国にドロー…未勝利で大会終える:MF&FW編
15/8/10 07:16

[8.9 東アジア杯 日本1-1中国 武漢]

 日本代表は9日、東アジア杯最終戦で中国代表と対戦し、1-1で引き分けた。2分1敗の日本は勝ち点2となり、史上初の未勝利&最下位という結果に終わった。


ベンチスタートとなったMF柴崎岳は後半29分から途中出場した


攻撃のリズムを変えた


中国戦に途中出場した日本代表の柴崎岳である。
この大会、3試合全てに出場した。
3試合を通じてチームの状態は徐々に上がっていったと述べる。
今回のチームは初選出の選手も多く戦術の浸透やコンディションの調整に苦労したように感じる。
しかしながら、それを含めての日本代表である。
この経験を経て岳は一つ学んだことであろう。
ひとまわり大きくなり、次は鹿島の勝利に尽力するのだ。
今日の帰還を心待ちにしておる。