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郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの島歩き:対馬ーその2

2015-11-24 07:45:41 | 

         対馬:日記 その2 歴史編
  
     
              白村江の戦い:金田城
                            元寇の役:小茂田浜神社
              対馬藩主宋家:万松院
                                    金石城跡     
            
                            江戸・朝鮮外交: 雨森芳洲
                                       日露戦争
                                         豊砲台
                                   

                              しいたけが日本一だそうです
                    (この日記の掲載期間:12月4日~12月10日)

舞台が変われば、各時代のこんな歴史に出会える!
60歳半ばでの手習い、近江の歴史、郷土史で精一杯。殆ど県外からは出て
いない私、この対馬の旅で、あたりまえの事に気が付いた次第です。

例えば、元寇、対馬はその舞台だったんですね。 一方、 近江は戦国時代の
主舞台。そんなことで各時代の、夫々の出来事を考える充実の旅だったな~


   
       地元で入手のパンフレットのひとつ  この建物は万松院(対馬藩主宋家の菩提寺)
     (対馬観光物産協会発行)

                          


金田城跡 (マップ No.2) : 白村江の戦い 要登山、他の理由で辿り着けず(一人ならね・・・)
(かなたのき)                                               


 
   
                               金田城跡 (パンフレットから拝借)

667年に築城の古代山城。白村江(はくすきのえ・はくそんこう)で敗戦した
日本は唐と新羅の来襲を恐れ、対馬に国防の朝鮮式山城を築きました。 
石塁は1300年以上も前の遺構。

対馬が直接の戦場になったのではないのです。 実は、滅ぼされた百済再
(当時日本と同盟関係)のために大和朝廷が送った援軍も白村江で大敗し
てしまい、撤退を余儀なくされた朝廷は防衛のために対馬にのろし台や
防人(さきもり)を配置、
戦後の緊張状態に巻き込まれました。 国境の
島所以のお話です。 

余談ながら、
大和朝廷・百済軍の敗戦後多数の百済人が渡来しました。その中の一人、
鬼室集斯(きしつ しゅうし)大和朝廷に乞われ学識を生かしています。
滋賀県日野町の室神社にお墓があります。ところで野洲市にもお墓(址)
があるんですよ。 
                  野洲市の「鬼室集斯」についての私の過去のブログ
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元寇の役: 小茂田浜神社(マップ No.8)  ここもパスしました (_ _);;

      
                                椎根集落の観光案内看板から

鎌倉時代の日本は、2度にわたる元(モンゴル帝国)
とその属国高麗による侵略
(元寇)を受けています。対馬はその最初の攻撃目標となり受難を蒙っています。
文永11年(1274)、4万の兵は艦船900隻に分乗し佐須浦・小茂田浜に殺到した、
なんて、初めて知りました。 そうか、そういえば通り道(海路)ですわな。

この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い果敢に迎撃したが、圧倒的な
兵力差により勇戦及ばず全員玉砕した。この受難を小茂田浜神社で伝えられて
います。

元寇日本は神風で侵略を免れたと言われているが、対馬ではこんな犠牲が
あったんですね。


万松院: 対馬藩主宋家墓所(マップ No.1)
(ばんしょういん)


                                             万松院  対馬藩主 宋家の菩提寺

12世紀頃に対馬国の在庁官人として台頭し始め、現地最大の勢力阿比留氏を滅
ぼし、
対馬国全土を手中に収める。 一方朝鮮との友好関係、貿易などで望まない
戦にも駆りだされ
る地理的関係、運命にあった。 秀吉の朝鮮侵略はその好例。

宋家は鎌倉時代から江戸時代まで対馬
を支配した。


                  万松院の百雁木   御霊屋(おたまや)へ続く 百段の雁木(石段の意味)


金石城跡:宋家居城(マップ No.1)
(かねいしじょう)



1669年、対馬藩三代藩主・宋 義真がそれまでの金石屋形を拡張・城郭整備を行い
金石城と呼ばれるようになった。

 
                                                      金石城庭園


写真仲間へ:上の写真(万松院、金石城跡)失敗です。前日設定のISOの戻し忘れです。(汗);
           

江戸・朝鮮外交: 雨森芳洲 (マップ No.10)、朝鮮通信史 (No.1)


                                     雨森芳洲の墓  (対馬 日吉)

22歳で木下塾の推挙で対馬藩に仕え、以後88歳の人生を全うするまで対馬に
居を構えます。 朝鮮方佐役として江戸・朝鮮の外交を勤め、朝鮮通信史の護行
も勤めています。 現在の、滋賀県長浜市高月町雨森の出身です。





                雨森芳洲と対馬について私の過去のブログ
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         朝鮮通信使 (この絵図は韓国展望所にあります)              クリックで拡大します


日露戦争人工水路開削 (マップ No.4)、日露友好の碑 (マップNO.3)

 

万関瀬戸(水路)は明治33年日本海軍が軍艦の通路として開削し、日露戦争の
対馬沖海戦でその効を発揮しました。 また日露友好の碑は1905年(明治38年)
の海戦で、ロシアのバルチック艦隊の負傷した兵士を島民が手厚く看護した記念
の碑です。 後者は時間的にカットしました。 写真は同パンフレットより拝借。

(とよ)砲台跡 (マップ No.3)  



昭和4年の着工で、日本海および朝鮮海峡の制海権確保の為に、6年をかけて
完成。当時としては世界最大級の巨砲でしたが、実際には一度も使うことなく終
戦を迎えたそうです。  内部は他に人もおらず不気味です。袖を引っ張られます
んでしかたなく早々、引き上げました。

しいたけが日本一だそうで・・、
何が? 聞き漏らしましたがなんでも全国大会でトップ賞を取ったとか。はいはい、
買いました。 土産にもしました。 私の里には伊香しいたけがありますが・・・。

          
                    空港ビル正面の到着客に目立つ大きな看板

対馬の皆様ありがとうございました
対馬は、南北に細長い形状の対馬島と、100を超える小島から形成される。有人
島は、主島、泊島、赤島、沖ノ島、島山島、海栗島の6島である。このうち海栗島を
除く5島は橋梁または埋め立てにより結ばれている。人口は32500人 15000
所帯だそうです。

まだまだ寄って見たい所が、時間的に飛ばしたところがありました。 二日間で出
来るだけ、是非ともと思うところを回りました。

道路は細くても交通量が少なくていいのですが、トンネルと、カーブの多い島で、
運転にはちょっと疲れますね。 ゆっくりの安全運転でした。

                 対馬観光物産協会のHP 
               ↑ 上をクリックしてください
       
このブログの殆どの情報源として利用させて頂きました。感謝


          今回はいつもより更に長編でした。にもかかわらず
        ご訪問くださいましてありがとうございました

                     

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