Kennyの滋賀から情報発信
滋賀県教育委員会主催の歴史探訪に参加し、私達県から認定
されたブロガーが見聞してきたことを各人がそれぞれに開設して
いるブログでお伝えしています。この地をお尋ねになる時のご参
考になれば嬉しいです。
このシリーズのこれまでのお話、現地案内
は下段にあります各日記をご参照ください
平家ゆかりの地を訪ねて そのー1
平家ゆかりの地を訪ねて そのー2
平家ゆかりの地を訪ねて そのー3
木曽殿最後の地・膳所を訪ねて
=探訪日記最終章=
膳所城は実は大規模な城、膳所町内の曲がった道
神社・寺に城の門が・・
(この日記の掲載期間:8月10日~8月16日)
膳所の道はなんであんな曲がり方してんの?
大津市にある膳所町内の昔からの道は細くてところどころ鍵型に
曲がっています。こりゃ多分民家が先に有って道路を敷く時の土
地買収がうまくいかなかったのかと思っておりました。ところが・・・。
枡形(かぎ型)に折れる膳所町内の道(旧東海道)
大津城が廃止されて城を築くに当たり東海道随一の要地、膳所が選
ばれました。平城(山城の対義語)でもあり簡単に城下に入れない工夫
が不可欠です。その工夫が大きく迂回させた上に枡型(鍵型に曲げる)
になった現在に残る道です。
つまり道路の付け替えに当たります。これは中山道(例:妻龍)にも見られ
る江戸時代の防御体制のひとつです。そこには番所を設けて城下に入
る者をチェックしました。
城下北端の番所総門跡 城下南端の番所総門跡
(この両方の門沿いの道は現在も枡形です)
こんな寺、こんな神社
膳所の町にお城みたいなお寺が?
そのお寺は響忍寺(こにんじ)です。元々は家老の村松八郎右衛門の
屋敷であり引っ越しで空いた屋敷を拝領して響忍寺となったそうです。
写真で見る通り両袖に門番が常駐出来る長者門です。ここも前の道
は枡形です。
長者門の前はやはり枡形です(響忍寺)
東海道に沿ったこの場所に枡形(陣地・防塁)を設けて家老、松村八
郎右衛門を常駐させました。彼のことを枡形奉行とも呼んだとか。
膳所町内の神社、寺にお城の門があるのは?
そんな門があることは今回の探索で初めて知りましたが、それらの門
は元々は膳所城に有った、例えば北大手門であり明治3年(1870)
4月の廃城で取り壊す時にそれらの門を頂戴して移築したものです。
篠津神社表門:元は膳所城にあった北大手門
膳所神社:二丸・本丸間にあった門 和田神社:膳所藩の元遵義堂表門
若宮八幡神宮表門 道路に旧東海道の案内 膳所城二の丸復元
(膳所城の元犬走門)
(上の3点はクリックで拡大できます)
膳所城ってあの公園にある小さな城でしょう?
現役時代は何度か夜桜を観に行ったものです。城なんて云うが
まあ城紛いの、砦位の城が有ったんだとばかり思っていました。
これもところが・・、なんです。つまり、曲がった道や神社仏閣に
お城の門があるのは全てこの天下普請の膳所城に関係があり
まして、私Kennyにとっては目からウロコの探索講座でした。
膳所城、天守閣跡 (膳所城跡公園内)
膳所城、ものすごく重要な城でした
関ヶ原の合戦後、家康の名で藤堂高虎(滋賀県生まれですよ)が築城。
東海道が整備され京へは山越えが主要道ではなくなり、防衛上それま
での大津城を閉鎖してこの地に諸大名を助役させて築城されました。
大坂からの防衛と云う超重要な位置づけであり初代戸田左門一西以
降も本田家、菅沼家、石川家と代々譜代大名が城主を務めたことでも
わかる通り第一号の天下普請(徳川将軍の命で普請を諸大名が分担)
の城でした。
天守の高さ同じとされる公共建物 膳所藩本田家、家紋 「立葵」
今も残る城下町風情の土塀 石田三成が京へ護送中縛られた
とされる大銀杏:和田神社
それぞれの場所へのアクセス
JR膳所駅の周辺におおよそ位置しておりますので私達もそうしましたが
当駅からゆっくりと時間をかけて散策されるのがお勧めです。 途中丁寧
で分かりやすい標識や看板がありますので駅などに置いてある無料の
観光地図などと照らし合わせて訪ね歩くのも面白いのではと思います。
まだまだこのブログでは訪問した史跡、文化遺産を紹介致しますが一度
訪ね歩いて頂けければ幸いです。
次週は近江国府との関連、また周辺の遺跡、文化遺産を紹介します。
今日もご覧くださいましてありがとうございました。
そして、膳所公園のところにあった膳所城のことや、その位置づけに思いを馳せていました。
写真を拝見して、ほぼ同じところを巡っていたなと思い起こした次第です。
掲載されている公共建物のあの展望閣(?)の上から、周囲を眺める機会を得ました。
もともとの天守のあった位置とは違いますが、この高さからの眺めだったのかと・・・・
雨で、家紋のズームアップ写真を撮れなかったので、参考になります。
膳所の町を見直した半日でした。写真と文から久しぶりに追体験できました。
膳所には、膳所焼もあったのですね。これは信楽の陶芸館の展覧会で知ったことです。
藩窯としての膳所焼は短い期間だけだったようですが、遠州七窯の一つとされてきたとか。現在、膳所焼が再興されているようです。
びわ湖大津観光協会のHPに、膳所の由来が載っていますね。
(手許の日本語大辞典にも簡略な説明がありますが)
http://www.tominagaen.jp/zeze_no_yomi.html
このサイトに、「膳所焼の歴史」のページもありました。
一方何人か(日頃連絡取り合っている、またお会いする)からは難しくて面白くないと・・・。確かにこれは興味の世界でしてそうでない方には・・と思います。
本来の県の趣旨は訪問者がその場所に行ってみようという気になる内容を望んでおれれるのですが、ジレンマですね。 難しい問題です。
いつも貴重なコメントありがとうございます。
確かに道は細くて曲がっていました。
歴史の事は難しくて、、、適宜なコメントが出来なくて済みません。お城の門の移築は、こうして拝見すると、とても大事なことだったのでしょうね。
滋賀にも色々な史跡があって、Kennyさんの歴史探訪の情報発信によって、多くの方が益々知識を深められ、楽しまれる事はいいですね。
「多くの方が益々知識を深められ、楽しまれる事はいいですね」 そうなればもう最高の幸せです。
ポエムさん、いつもコメントありがとうございます。