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郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの城址あるき:陣屋の馬場

2011-04-19 19:53:53 | 城址

  そうかー、やっぱり信長さん

=小谷城まちづくり委員会の皆様、
    そして滋賀県学芸員さんの案内で=

  小谷城 「陣屋の馬場」 というところを見てきました
        
      (この日記の掲載期間:4月29日ー5月5日)

        本日(4日)末尾に新緑の写真を掲載しました。合わせてご覧ください”
      
    

                 当日配布の資料より:赤いマークを歩く

陣屋の馬場?? = 浅井家滅亡がここに!
またお城の日記です。上の地図の山田山(矢印)
、この三叉路のところが
信長軍が置いた陣屋、陣屋の馬場(と今地元で呼ばれている広場)です。
この通路は大嶽(おおづく)から小谷城のある小谷山(赤い字で表記)、
己高山、そして越前への道
で、山の尾根伝いに越前に(越前から小谷へ)
駆けつける最短距離として当時の重要な軍道だったそうです。

(参考) 陣屋: 軍勢、軍隊の宿泊、陣営、陣所 (ここでは砦:Kennyの解釈)

 
      陣屋の馬場がある山田山(541m、上部の平らなところ)

朝倉軍が足止めを余儀なく
信長軍の小谷城攻めで止めを刺された最大の要因がここにありました。
信長は朝倉軍が援軍を南下させると読み、更にはこの近道を通ると見て
この通路を封じるためにここに砦を築きました。それを知った越前からの
番手衆が、既に大嶽は信長勢に落ちたと義景に知らせる。義景はもはや
進軍不可と見て疋田城に足止めを、そして後に越前に退却してしまいます。 
流れるままに
京極丸を落とされて久政、長政親子は分断されて万策尽き、
浅井長政は赤尾屋敷で(とされています)自刃し三代の歴史は終わりを
告げます。 
      
     
         要所毎に解説される県の学芸員さん

ここでも信長の鋭い読みが
虎御前山城から大嶽に攻め上った信長に朝倉の軍勢は降参。常識では
この兵は命を落とす運命ながら、信長は彼らを放免して大嶽落城を伝え
させれば朝倉軍は越前に退却すると読み、その通りになりました。

     
        陣屋の馬場中央部。学芸員さんのお話です

敗戦は変心、寝返り、裏切りが背景に。確かに・・・
浅井勢の浅見対馬守が信長に内通し織田軍を小谷城防御の焼尾砦に
引き入れました。これを見た信長は大嶽城、更には小谷城に一気に攻め
入ることになります。 この内通は小谷城の真向かいにある山本山城に
詰めていた浅井氏配下の武将阿閉淡路守貞征の寝返りがきっかけで
もあります。
このように戦国時代の
合戦の勝ち負けはそのほとんどが
この裏切りで決まっているんですね。関が原の合戦では西軍の小早川秀秋
の寝返りがその最たる例です。また賤ヶ岳の合戦では柴田軍の佐久間
盛政の判断の誤りにありますが、前田利家が突如戦線を離脱したこと
で戦況がなだれ現象的に秀吉軍に向いたとされています。

           
         元軍道とは言え今は樹木が茂り案内があってこそ歩けます

今回の見学会では
信長の洞察力、読み、戦略はあの地位を築いたのだから言うに及ばず
としても、その裏付けとなるお話とその現場を実際に見て、これはもう
史実として疑う余地のない程に感動する一日でした。今までいろんな城址
を見て来た体験から、まさにそこに城(砦)があったと思われる土塁や堀切、
曲輪(くるわ)跡を見ることによって信長が立ったその同じ場所に立って居る
歴史のロマンを改めて感じることになりました。下山は信長が虎御前山城
からこの陣屋に登ってきたであろう己高山参道を下りました。

      
        大嶽・小谷山山麓には辛夷(こぶし)の花が
            
心配りの見学会
小谷城まちづくり委員会
の皆様は見学コースに時間を要すとしてスタッフ
の車に分乗して車が入れるところまで運んで下さり、また最寄のJR河毛駅
まで送り届けてくださいました。案内がなければとても行き着けない場所
へ連れて行って頂き、更には県の学芸員さんの分かり易い解説と至れり
尽せりの見学会でした。 関係する皆様に厚くお礼申しあげます。

 
           浅井三代の祈願社、和泉大明神

小谷城周辺も面白い
今回は陣屋址(砦)でした。まだまだ周辺にはあります。多くの屋敷跡、
そりゃーそうでしょうね、軍勢が全員小谷城には宿泊できません。例えば
清水谷(きよみずだに)がそうです。近くまた委員会で次の企画があるそう
です。流石は小谷城です、日本五大山城として国指定の史跡になって
います。 
  
   (参考 )日本五大山城
越後春日山城(上杉謙信)、能登七尾城(畠山氏)、
        観音寺城(六角)、出雲富田城(尼子氏)、小谷城

        
            下山した上山田の町の桜が満開でした

  お断り:
これは私Kennyの個人的な日記です。当日のお話と頂いた
       文献に個人的見解を混ぜて記録をしておくのが目的です。
       聞き違いや間違いは多々あると思いますがご容赦ください。

      今日もご覧下さいましてありがとうございました。

                    番外編:今日(4日)は緑の日です
   いつも訪ねてくださりありがとうございます。この数日で撮った春、新緑
   の写真です。拙作ではありますが、観ていただけると嬉しいです。


                       安土考古博物館裏の庭


           三上山山頂付近のコバノミツバツツジ


               花緑公園、しゃくなげ園


                 自宅のハナミズキ

 

 




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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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現地、歩きたかったなあ。 (茲愉有人)
2011-05-01 12:05:19
現地はなかなか素人では行けないようなところですか。参加したかったなあ・・・・
登山ルートとしての標識などは全く作られていないのでしょうか?

代わりに、手許の本を何冊か引っ張り出して机上での戦況トレースをしてみました。

『信長公記』他を読み合わせてみますと、信長が山田山に陣を構えることができたのは、浅井氏の被官だった山本城主阿閉貞征が謀反し、信長に味方したことが要のようですね。「阿閉氏は、浅井郡から伊香郡、さらに竹生島にかけて広く支配地を持つ有力な国人領主である。」(『織田信長合戦全録』谷口克広・中公新書)とのことですから。
公記には、「八月八日、江北阿閉淡路守、御見方の色を立て、即ち、夜中、信長御馬を出され」と記されています。信長は夜中に出陣したようですね。

そして、「八月十日、大づくの北、山田山に悉く陣どらせ、越前への通路御取切り候」(公記)なのですね。誰が陣を構えたのか?「陣取らせ」だから信長自身ではないだろうな・・・。誰かは、公記には記されていません。
谷口氏の前掲書に、山田山には佐久間・柴田ら部将が陣を構えたようで、「そして信長自身は、その麓の高月に本陣を布いた。」とありました。

そして、8月12日には、浅見対馬が浅井氏を裏切り、「やけをへ、浅見対馬覚悟にて、御人数引き入れ候。」(公記)ということで、織田方の兵が入れられることになる。
この浅見対馬を寝返らせるのに、「信長は、・・・・焼尾の出城を守る浅井対馬に阿閉淡路を使者にたて」と、西ケ谷恭弘氏は『考証織田信長事典』に記載されています。
公記には、8月10日の条で、「近年、浅井下野守、大づくの下、やけをと云ふ所こしらへ、浅見対馬を入れ置き候。是れ又、阿閉淡路と同心に御身方の色を立て、御忠節とし、」と書かれています。
この12日の夜、風雨の中を、信長は「御馬廻り召しつれられ、太山、大づくへ御先懸けにて攻め上らせられ、」(公記)という夜襲行動に出る。500人ほどで大づくを守備していた朝倉方の部将は攻め入られる前に、信長にてんでに降参してしまったと公記は記しています。
これら降参者の命を助け、余呉・木本・田部山に布陣していた朝倉義景の敵陣に送り込み、大づくが落ちたことを知らせるようにするという戦術をとったようです。

その上で信長は、「十三日夜中に越前衆陣所へ、信長又、御先懸なされ」と、先頭をきって攻撃する。その結果は、朝倉勢の総崩れ、朝倉義景の敗走、そして滅亡へと展開することになるのですね。

そして、信長が虎御前山に戻るのが8月26日。27日(浅井久政切腹)・28日(浅井長政自害)で一気に小谷城が陥落するのですね。

この戦況の展開を、小谷城の側からではなく、出城や山に築かれた砦を巡って現地でイメージするのは興味深いものでしょうね。

現地見学の情報を知らずに実に残念。

ところで、末尾の「小田城」は「小谷城」ですよね?
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いつもありがとうございます (Kenny )
2011-05-02 09:20:59
先ず、標識、案内版は一切ありません(なかったですね)。主催者も、日頃は誰も行かないところ。長袖、手袋しかっかりと、と。藪こぎの部分も。ただ下りの一部は己高山の登山ルートでした。この企画はその何日か前の家族キャンプの時に現地でパンプレットを貰い知りました。紹介いただいた信長公記の記述、当日のお話がおおよそ聞き取れていたようですね。手元にも配布された公記の資料があります。私のこの日記の部分は最後の浅井家とどめの部分です。なお、信長はこの陣屋には一度も足を運んでいないだろうとのことでした。これからも玄バ尾城、しずケ岳、小谷城、虎御前山城と続きます。これらの企画の詳細はウッデーパル余呉のHPか長谷川博美先生のHPをご覧くささい。
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