趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの滋賀から情報発信:蒲生氏郷:そのー3

2013-06-26 14:09:53 | ブロガー:滋賀県の企画

  本能寺の変直後の蒲生氏郷の     
   足跡辺を訪ねて 日野町

                 Part-3

蒲生氏と日野商人の町:日野町
これは私、Kennyがほんの数時間バスで見学させて
戴きほとんど何も知らなかった日野町にこ
のような印
象を受け、題名を付けました。この二つを軸にして現
在に引き継がれているお祭りや美味しいお菓子、日
野菜に代表される特産物などもここに生まれ この地
を語る伝統の産業、文化となったんですね。

日野町の観光案内地図を頂きましたのでお出かけの
時のご参考にして頂ければ幸いです。

観光マップぐるり HINO まっぷ」
                 
1200ピクセルの拡大地図はここを


 

日野町
滋賀県の南東部、鈴鹿山系の西麓に位置する町です。
霊峰・綿向山を東に望む日野町は、町の花である「ほん
しゃくなげ」が咲き誇る、自然環境に恵まれた町です。

蒲生氏
町の繁栄の基礎を築いた蒲生氏は400年以上この地を治
め、商工業の保護・育成に努力し、鉄砲や鞍などを特産品
として生み出してきました。

        
                      蒲生家略系図

江日野商人
滋賀県湖東地方で江戸時代より漆器薬売りの行商から
発展した商人を近江商人といい、日野地方を中心とする商
人を特に日野商人と呼んでいます。日野商人は千両たま
れば新しい店を出すという小店経営に主流を置き非常に多
くの店を出しました。

多くの社会事業も行った日野商人の心は彼らが築いた静
かな街並みとともに現在も大切に引き継がれています
(現地で入手の案内ちらしから引用加筆)

美味しいもの、お土産 


                   近江日野観光特産品館


                     名産 日野菜漬


  
  婦人部の方から頂戴しました   当館から頂いたもなか「蒲生」

       
       ” 三方よし ”  近江商人の魂で有名です


 
    当地の老舗 かぎや 「いが饅頭」 を頂きました

 

 
       近江牛のお昼です 当地のレストラン 岡崎


 日野町へのアクセス 

1)公共交通機関を利用の場合
  JR東海道線、近江八幡駅で下車、バスか近江鉄道の
  利用が便利だと理解します。

2)車の場合
  名神 八日市ICか竜王IC。 新名神 甲賀土山ICが
  それぞれ便利です。 ICを降りてからのルートは下の
  解説写真(観光案内ちらしを撮影)をご覧ください。

  下の写真をクリックしてください。(800ピクセルに拡大)
              

お礼
3編にわたりご訪問くださいましてありがとうございました。
どうか、滋賀県にお出かけください。そしてこのブログでの
情報が滋賀県にお越しの際の何かの参考となれば幸い
です。

私は生粋の滋賀県人なんですが、今滋賀県のこの企画に
参加させて頂き、過日の高島市(継体天皇、ほか)と共に
滋賀県には
文化遺産の多い事、美味しい食べ物がなんぼ
でも(沢山)あることを改めて認識しております。

今後も これを機会にさらに歩き回り、時には私のブログで
情報発信して行こうと意を新たにしております。どうかこれ
からもよろしくお願い致します。 (ブログ管理者 Kenny)

 


 


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Kennyの滋賀から情報発信:蒲生氏郷:そのー2

2013-06-26 14:09:03 | ブロガー:滋賀県の企画

英雄伝説:蒲生氏郷の足跡周辺
を訪ねて
滋賀県蒲生郡日野町
                    Part2

滋賀県の文化遺産って、すごいんですよ
滋賀県は全国で3番目に国宝、重文の多い県です。

東京、京都、奈良に次ぎます。ん?ならば4番目やん
か、とな
りますが、東京は全国の宝物を国家の
責務
として預か
っている地で(例:当地野洲市から発掘の日本
最大の銅鐸も東京にあります。見たいよ・・、本物が)、
従い
私としては
計算から除外です。また滋賀には
1300のお城(跡
もあり、確か日本で1,2番です。

    地名 日野町 三十坪(みそつ) なんていいですね

三十坪、やはり蒲生城下町、何か云われがありますね、
当然のことながら。
  
他にも鎌掛(かいがけ)とか・・、鎌掛
の集落です。


さて、ここに取り上げている日野町は歴史に加え近江

商人の内の日野商人の町でもあり、神社、仏閣もこの
日野商人の寄進に支えられ 古に文化を築き、これら
の遺産を今日に引き継いでくれたんですな。日野町を
よく知りませんでした、見応えあり!! 再訪だーっ
               日野商人については ここを

興敬寺(こうきょうじ)
このお寺は一向一揆の湖東、湖南の中心的真宗寺院
です。信長との戦いの跡が今も残っています。それは
境内の土塁と掘跡です。


     三方を土塁に囲まれたお寺、これは正に砦なんだ



 
                今もこのように土塁(左)や堀が残っています
 
清源寺(せいげんじ)
天正7年、蒲生定秀(同じさだひで貞秀は祖父です)の別邸
桂林庵がこの地に設けられたのが始まりで、定秀没後に
寺院となり、近世(江戸時代)
入り日野の領主 仁正寺藩
主市橋家
の菩提寺となったお寺です。境内には3代、6代、
8代藩主の廟所があります。




            市橋藩主 3代、6代、8代の墓

 
     初代、6代の肖像画              お寺の説明板
                            (クリックで拡大)
 清源寺には他にも歴代藩主の
肖像画が掲げてあります

音羽城跡(おとわじょうあと)
中野城以前の蒲生家の居城です。 応仁の乱の頃に蒲生
貞秀により築かれたと伝えらています。 ところがよくある
跡目争いで城は廃城となり、その後蒲生家の居城は中野
となります。高郷(息子)に降伏した秀紀(孫)はすぐ隣の
鎌掛(かいがけじょう)に移ります。



                     伝本丸跡


    けっこう広大な敷地を占め郭、土塁などもしっかりと


        井戸跡 (詳細は下の現地案内板があります)

       
         音羽城跡、井戸跡の現地案内板  
           
     (共にクリック拡大します)



                        堀跡

    ご覧くださいましてありがとうございます

次の Part 3 では近江、そして当地日野の食文化、
紹介します。どうかまたご訪問くださいね。(Kenny)



コメント (2)
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Kennyの滋賀から情報発信:蒲生氏郷:そのー1

2013-06-26 14:07:51 | 郷土史

英雄伝説:蒲生氏郷の足跡周辺
を訪ねて
滋賀県蒲生郡日野町                  
                   Part-1


蒲生氏郷ってどんな人:
73万石の大大名です!
なんと、天正10年に信長が本能寺で没して9年の後、
徳川家康毛利輝元に次ぐ73万石の大名だったと
云えば、ええー、そんな人って滋賀にいました? とな
りますよね。 

 
 お土産のビニールファイルから     移動の車窓からKennyの撮影
                                         
    (50m離れた走行中の車窓から
                             望遠で、決まったぜー!)

  
氏郷は現在の滋賀県蒲生郡日野町で生まれました。石田
三成
も滋賀県のお生まれです。三成は関ヶ原の合戦まで
表舞台に立っていました。だから三成は知名度の点で沢山
の方がご存じだと思います。でも 氏郷は早い時期から日野
を離れて伊勢や会津など 近江からは遠い所での活躍です。

   蒲生氏郷に関してのウィキペデアの解説は
ここを

 信楽院(しんぎょういん) 

      
          信楽院 蒲生家の菩提寺

日野町の町並みの東端にある浄土宗寺院。奈良時代前期、
聖武天皇の勅建と伝えられています。中世にこの地方を統
治していた蒲生氏の菩提寺です。安土・桃山時代に現在地
に移されました。



境内は県指定の文化財の本堂や書院などが目立っています。
寺宝に、伝恵心(でんえしん)作の観音像があります

 

本堂の天井には、日野町出身の著名な高田敬輔(たかだけいほ)
作の巨大な竜が荒れ狂うさまを描いた「雲竜(うんりゅう)」を中心
に描かれた縦横11mの水墨画があり、その迫力に圧倒されます。


 
      氏郷供養塔          門にある彫刻も必見です

 
上手に仕える主を選び活躍します
信長
足利義昭を擁して上洛が始まるところから蒲生家の
運命が決まります。信長の攻撃に近江守護の六角氏は兎に
角逃げ回ります。逃げる先は甲賀郡中惣(当時独特の連合
集団を形成)です。これでは家臣も困り果てて信長に降伏し
ます。さすがの蒲生家もちょっと遅れて信長に降伏します。
この降伏がなければ家は絶えていたのでしょうね。 ところで、
同じ近江の京極氏も仕える主をうまく選んで家を残します。何
か共通(近江の出身)するところがあるように思うのですが・・。

馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ) 


       
     馬見岡綿向神社 日野の大宮              神社の解説板
                                                                 
(クリックで拡大します)
蒲生家日野商人の崇敬を集めた神社です。 もとは、綿向山
(1110m)の頂上に鎮座していましたが、蒲生
氏が城下町を開
いてから現在地に移され、湖東の大宮として
信仰を集めました。

 
                  二羽雁の神紋
「二羽雁」
が神紋(しんもん)となっています。昔、山頂から2羽
の雁が飛んできて消えたのを見て、村人たちが神が降りてきた
と思って山麓に社を建てたという話が残っており、このこと
が 
神紋の由来です。 

 

壮大な境内には拝殿や本殿をはじめ、江戸時代に日野商人が
寄進したという立派な石灯籠や石橋があります。 流石、1200
年の歴史を物語ります。



               
             若松の森                 いわれの解説
                                                                      
(クリックで拡大)
 
参道にある森で氏郷が移封された会津若松の地名の由来
となった森です

 
列(左)の一部分(右)、白い笠の馬上の人物が定秀公だそうです

 
  5月3日が本祭です。日野曳山祭(県無形民俗文化財)

 
                                               解説板(クリックで拡大)

現日野町は氏郷抜きでは語れません
以降 秀吉に仕えて氏郷は従三位参議に任じられますが、
そのころ、40歳で病死します。チャンスはあったとしても結
局は参謀としての活躍で終わり、現代の我々が楽しむ戦国
時代のTVドラマなどで盛んに取り上げられるなどの主役を努
めることがなくて目立ないのかも知れません。ところが、当地
日野の今日を築いた功績もまた大きなものがあり、その足跡
の多くが今も残っています。

 
         中野城跡(日野城跡)              解説板
                                
(クリックで拡大します)

蒲生氏郷の祖父 定秀が築城。その城下町は現在の日野町
の原型となりました。

 
            土塁               氏郷の産湯井戸
 
             
                             中野城跡図(現地案内板)


さーっと、氏郷
450年前に日野の中野城で誕生。幼名「鶴千代」、13歳で
信長の人質に出されます。

信長に才能を見込まれて娘、冬姫と結婚。以降「忠三郎賦秀
(ますひで)と名乗り各地の戦いで戦功をあげます。

天正10年、本能寺の変の後安土城の信長の家族を日野の
中野城に匿います。

秀吉に仕えて以降、故郷 日野を離れ、伊勢 松坂城主、会津
若松城主に。この時 73万石です。しかし病には勝てず文禄
4年(1595)、40歳の生涯を終えます。 

             
         氏郷の肖像画 (ウキィペデアより拝借)            

   限りあれば 吹くかねど花は 
          散るものを 
心みじかき 
                   春のやまかぜ  (辞世の句)

    次回(Part-2)では日野町内のさらなる氏郷ゆかり
     の神社・仏閣、お城跡などを紹介します。

お断わり: 各史跡の解説として当日頂いた資料の他に、公益社団法人
       びわこビジターズビューロー様のHPから抜粋引用させて頂
              きました。 この日記以降の編集も同様です。
              ありがとうございます。


 


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