趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

5爺の自転車を漕いで:近郊の城址歩き:第5回

2017-07-22 08:24:32 | 5爺:野洲市内のお城址巡り

 5人の爺さん、自転車を漕いで  
       
  夕日が丘城址
                    
(向山城址)
                       第5回

          今は 城址巡り をしています
       
      Kennyの滋賀から情報発信
     
野洲市とその近郊の城址:六角氏家臣の城がほとんど?
市内のお城(址)はほとんどが六角氏の家臣の城(館)です。というか、
滋賀県、特に江南(近江の南半分)がそうなんです。

今、安土城考古博物館で「近江の城を掘る」と題して企画展を開催中
です(9月18日まで)。そこで紹介されている城址も多くは、
(佐々木)
六角氏に纏わるお城です。

5爺が颯爽と自転車を漕いでお城址に向っています



夕日ケ城址
そこで今日訪ねるこの城址は、六角氏が信長の襲撃から甲賀市にあ
る、現在の表現で言う忍者屋敷(郡中惣)への逃走ルートで設けた
ヶ崎城
(と過去の講座で習いました支城(枝城)ったのでは、とネット
検索での情報です。 

   郡中惣:  小領主でその地の領主層。甲賀市には300位の中惣があったそうで、
           今も遺構が残っています。


                                城址が残る向山  野洲市成瀬

ところが・・・ お城という文字がない! 唯一 ↓ (この案内板) 古墳

     
                      お城の記述がここに。 城の名称は向山城と

なんとっ! 古墳の窟(空間)を兵糧倉庫に利用したと
しっかりと読まないといかんですな~  そんなことがあったので
すね。 再度眼を凝らすと、中世に古墳を開口して窟を倉庫代わ
りにした
と。

実は歴史にも造詣の深い写真仲間が「へー、古墳を倉庫に・・、
驚きよ
」とeメールでコメントをくれた。 私、慌てて自身のブログの
この案内板をじっくりと読んだ次第。てっきり兵糧基地を併せ持つ
支城、
との先入観でした。(7月24日 追記)


                           山頂部にある古墳  その他この山には多くの古墳が

さて、山に登り城址見学です
 
                                 この看板が登山口です
                       この写真を撮っている私の背後は田んぼをはさみ新幹線の高架です




                                 登山道はしっかりと整備されています
                                   足元をしっかりと見て慎重に登っていく爺さん


                登山口から15分で山頂到着です     
土塁かな、これは?

城に関する解説板はありません。 この向山は城としてよりも多くの
土器が出土したことにより渡来人の遺構として、また多くの古墳が残
っており管理当局はそちらに重きをおいているのでしょうかね。



                                  掘切?   空堀?



                  上下は曲輪(くるわ)跡でしょうか




                              古墳の解説板に見入る MRYさん

  
           中世城郭について語る? 
お二人  KAKさん(左)  YASさん


               信長の攻撃をここから監視してなー・・ 、と語るのか?  TAMさん(左)、KAKさん  
                    Kennyは?って  この背後におりますよ 




              
お城跡見学という感じはしなかったけれど、間違いなくお城址との事です。
           Kennyの知ったかぶりとチャンペラ丸読みの解説ですが、まあまあの満足を
         頂いたようで(このお城探訪はKennyの担当です)次の木村館(城)へ、
                   気分ようペダルを漕いでいきます

                   木村館(城)は近々UPします

 
                      以下ご参考

    

滋賀県内の40のお城(跡)と二つの遺構が紹介されています。
発掘調査を主とした企画展で土塁だの、掘切だの。 また出土
品からお城のこと、そのお城での生活の様子がよく分かります。

         今日もご覧下さいましてありがとうございました

                                                        (7月22日、17 UP)








 


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5爺の自転車を漕いで:近郊の城址歩き:第4回

2017-06-20 14:41:08 | 5爺:野洲市内のお城址巡り

 5人の爺さん、自転車を漕いで  
       
     星ヶ崎城
             今は 城址巡り をしています
                                   (第4回)
       
      Kennyの滋賀から情報発信
         (この日記のTOP掲載期間:6月20日~6月27日)
 
野洲市とその近郊の城址:六角氏家臣の城がほとんど?
この城址歩きは、私 Kennyの担当です。下調べをするとこれらの
城はほとんどが六角氏の家臣の城(館)だと気がつきます。

そこで今日訪ねる星ヶ崎城址は、六角氏が信長の襲撃から甲賀市
にある、現在の表現で言う忍者屋敷(郡中惣)への逃走ルートで利
用した城(と過去の講座で習いました)でもあり、やはり六角氏に纏わる
城と言えそうです。 

郡中惣:  小領主でその地の領主層。甲賀市には300位の中惣があったそうで、

        今も遺構が残っています。

さーて、いつも通りに5爺の集合、打ち合わせ開始


                               午前9時  背後に
三上山の東屋です
                  YASさん (左) MRYさん、TAMさん、KAKさん (右手前から)


                 気分よくー       梅雨の晴れ間、中山道(旧東山道)を北へ向かいます  


道の駅・鏡の里到着、登山開始



             この4爺さんは初めて訪ねます  正面の石段、看板が入り口です

            
                                         その看板、実に親切な案内です
        なお、入り口は民家の門扉そのものですが、”どうぞ、お入りください” と

西光寺跡
門扉から直ぐに先ずは西光寺跡を通ります。そこでは重要文化財が
いっきに二つも、私たちを迎えてくれます。

  
                   石燈篭                宝篋印塔(ほうきょういんとう)
                   
     すみません、解説は上の二枚の写真の上をクリックし拡大して
ご一読ください




さて城址へ30分弱の登山です


            結構な急登攀  先頭はMRYさん、この歩き方! はい彼は山男です 
                    でー、後の3爺さん、運動は頻繁に  でも山は得意ではありません

        私、Kennyが偉そうに、ゆっくり歩いてな~、滑りやすいから足元注意! なんて
    先に進んで
相当上からアップで撮っているんですよ。  でも息切れなし・・(さりげなく自慢)
 

山頂、城址到着です
西光寺跡から20分でした。 道、道標もしっかり整備されています。


               ここは星ヶ崎城の城址なのだ、を証明か! (意味は後述)
                立派な石垣です  高さ、優に2mはあるでしょう



                                    上下: 語る40数年来の爺友  
 
      Kenny爺の受け売り、知ったかぶり、チャンペラを手の解説もちゃんと聞いてくれます


                                城の解説版を前に語る友




                                 登山口の西光寺址に下山してきました

西光寺址を出発して1時間15分の歴史探訪、やや多目の運動、
ええ体験をしたな~と。 満足まんぞくで道の駅レストランへ。 

5爺の鉄則、帰り着くまでは禁酒です。 酒はなくとも内容があれ
ば十分、和気藹々で駄弁り、食後 家路に付きます。



                     登ってきた標高220mの星ケ峰 この頂きに城址があります


                    帰りも気分よく   漕ぐペダル、疲れかちょっと重く感じながら・・、
           前方に小堤城山城のある、山頂が少し傾いた城山が見えています

 

このお城址、本当に城だったの? ここからは余談です
道の駅、鏡の里の正面にある山、
星ヶ峰の山頂にあるこの城址、
お城ではないのでは、との議論もあると聞いています。

実はお城の研究で大家のある先生は、城址は三つの要素があ
って初めて城址と言えるだろうと。

それは曲輪(くるわ・建物があったであろう平地)、土塁、掘切です。

確かに・・、
素人の私のこと、お許しいただくとして、今日も懸命に土塁などを
探して見ますが、明らかなものは見当たらないんです。はい素人
ながら。

今まで見てきたお城址は、
教鞭を取っておられる先生方、学芸員の先生方のご案内で沢山
の城址を見てきましたが、確かにこの城址は少し違った城址です。
今日の訪問は3回目でした。 麓の西光寺の遺構の一部との
議論があっても学術的にはいいのでは。そして我々は歴史は
ロマン、友とその地に立って満足の一日でした。

            私の過去のブログ
                 星ヶ
城址  
                  
          甲賀郡中惣        
           それぞれの上をクリックしてください
       過去に専門の先生のご案内で見学した時の記録です


              今日もご覧くださいましてありがとうございました


      




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小堤Kennyの城址巡り:野洲市内の城址ーその3

2017-04-26 14:03:58 | 5爺:野洲市内のお城址巡り

  5人の爺さん、自転車を漕いで  
       
    小堤城山城
             今は 城址巡り をしています
     
            そのー3(全8回)
                   ナマズーーー~?
       
      Kennyの滋賀から情報発信
         (この日記のTOP掲載期間:5月14日~5月20日)
 
野洲市内の城址:六角氏家臣の城がほとんど?
この城址歩きは、私 Kennyの担当です。訪ねた城は何度か訪問済
です。下調べをするとこれらの城はほとんどが六角氏の家臣の城(館)
だと気がつきます。でー、この小堤城山城はれきとした六角氏の重要
なお城でした。
 
            県道2号線から小堤城山城のある山頂が斜めの山が見えます

さて、いつものように団地の東屋から出発です
5爺集合 

                              TAMさんが、現れました、ママチャリで

                   手前のレリーフは 妓王 妓女、お二人は当地、野洲のお生まれです
                                            妓王 妓女 (ウィキペディア)


                                             YASさん登場


        自転車を漕いで30分、そこから目指す小堤城山城への桜並木を歩く元企業戦士
              つい一か月前は淡いピンクの桜が満開で大勢の花見客だったことでしょう


                   企業戦士なんて昔の話、今は歩けば疲れる、
                       先ずは休憩、給水 & ウグイスのさえずりを


          案内板で現在地周辺を確認 ここを入りいよいよお城址への道を辿ります
                                     この案内板のところを右折して山に入ります


                    この城は山城、標高差300m程の登山です。皆さんやや緊張気味

             
           
矢穴 が見えます。 お城址とくれば石垣、土塁、堀切、虎口なんて用語が

 
矢穴 このお城の特徴の一つは立派な石垣です。このお城では
元々あったおきな岩をそのまま利用したり、山の中にある大きな
岩を割って、それを積みあげたりもして石垣を築きました。

その石を割るクサビを入れる穴が矢穴です。大手道に残るこの石
もこの城址の名物です


                       主郭が有ったであろうという曲輪(くるわ)  解説坂前で語り合う友



                                 上下はこのお城の解説です

 


                             KAKさん、名残り惜しそうに今一度 石垣に目を         
  
         技術もまだ十分整っていないであろうこの時代に、高くて立派な石垣


                     上の写真の反対側方向から  立てかけたストックの長さがが 1.2m
                                    

私はこの城跡に友を案内する時に必ず見て貰うここでは一番大規模
な石垣で、高さは2m以上もあります。それと信長の安土城よりも前に
六角氏は既に石垣を多用して城を築いていたことも注目されています。


             ん? ここが  虎口(こぐち)かと、目を向けるKAK
爺さん、MRY爺さん

Kenny爺の知ったかぶりで、ここがお城の入口、こぐち 言うんやでー、
に、なんでトラやねん、と。 はい、私もいまだにわかりません。

単なる城の入口ではなく、敵はここで四方からの矢、鉄砲玉の攻撃を
受ける構造になっているんやからと、その場を凌ぐKenny爺。 でも
今は鉤型に曲がった道とは分かるがそのイメージは浮かばないよな。


                  堀切の底を歩く MRYさん & KAKさん


               城山最上部到着です  見張り櫓があったのではと
                                                360度の展望です
                                             
駐車場に自転車を置き、40分、主郭、大規模な石垣、堀切などを見た
後、遠くから見るとてっぺんが傾いた山、その城山山頂に到着です。 


                            
  希望が丘文化公園、三上山

昼飯中のええ加減談義
この日は黄砂がひどく、遠望は効きませんが、360度の展望を眺めなが
おにぎりタイムです。


                           水茎岡山城址のある山が琵琶湖の手前に

さて、お待たせ~ ナマズ~  鯰江城の話
ところで、佐々木六角氏の滅亡は? となり、私、Kennyは湖東で
八日市に近い場所なんやが、お城の名前が出てきません。

信長に攻められ追われて、
何とかいうお城で、というと、KAKさんが
友から譲られた近江の城(址)全部が網羅された、城名一覧表付き
地図を持参。 その方角にまなまずえ城六角氏滅亡の地と書いて
あると! そうか~ ナマズ やった
 
                      鯰江城 (ウィキペディア)

さー、みんなでその鯰江城址の名前を暗記するのに暫し、なまず
うなぎ と言いながら下山の和気藹々の城址巡りでした。

 

         小堤城山城についての私(Kenny)の過去のブログです
         (当城の詳細はここをクリックしてくださいね)

 

       今日もご覧くださいましてありがとうございました。


 


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Kennyの城址巡り:野洲市内の城址ーその2

2017-04-15 15:45:37 | 5爺:野洲市内のお城址巡り

5人の爺さん、自転車を漕いで  

                 今度は 城址巡り をしています
     
           そのー2(全8回)
              野洲市(滋賀県)の城址
      
      Kennyの滋賀から情報発信
         (この日記のTOP掲載期間:4月23日~4月29日)
 
野洲市内の城址:六角氏家臣の城がほとんど?
この城址歩きは、私 Kennyの担当です。 訪ねた城は何度か訪問済
です。下調べをするとこれらの城はほとんどが六角氏の家臣の城(館)
だと気がつきます。




                                  この日もこの東屋に集合です
            その時、同じ団地仲間のISBさんが犬の散歩で通りかかります。 
         ”御揃いで何してんの?” と。 背後には三上山のレリーフがあります


近江国の南半分は佐々木六角氏が守護
戦国時代のお話です。私達の町、野洲六角氏(単にこう呼ばれている
守りの重要な拠点の一つなんです。そこで現野洲市内には大規模
なお城、小堤城山城を築き、有事にはそこに兵を集めました。 

では、探索開始です

市三宅城址
このお城は野洲駅に近く、まさに住宅地の、それもある民家の敷地内
にあります。訪問前日に敷地内に入らせて頂くお願いをして見学です。
勿論、快くお受けくださいました。


                   立派な門構えのお宅です   この奥に土塁などが今も残っています
                        


                     曲輪に立つ3人の爺さん  ほほ~、これが城跡かー、と感無量の様子

佐々木六角氏に仕えた永原氏の支城で、永原出雲守孝房が在城して
いたが、六角氏の観音寺城とともに織田軍
に攻められ落城したとのこ
とです。


             土塁の上に立って思いにふける(?)  左より MRYさん、YASさん、KAKさん    
                                今日はリーダーのTAMさんはお休みです  

このように資料を手元に照らしてみると、土塁、曲輪は明確に、空堀など
もそれらしく伺えます。


                                      この祠は関係があるのかな?

野洲市内の城は六角氏家臣の城が多い
有事には小堤城山城に、ところが平時には六角氏の家臣は城山を
降りて現在の野洲市内に居住の館を築いて暮らしているも、 住居
とは言えど時代が時代
防御体制は欠かせません。従い堀や土塁
で館を囲んでいました。  つまりそこはお城そのものです。


上永原城址
野洲駅から3kmほど離れた祇王小学校の付近にこの城があったと
されています。 今はその形跡はまったくうかがい知れません。唯一
校舎の前に永原城址の石碑が残るのみです。


                            祇王小学校     運動場に面した道路から撮影

佐々木氏の支族、永原氏の居城です。

        
                   二の丸跡  
 過去に発掘調査が行われています
                                      祇王小学校の校庭です
                            (Yahoo Japann から一枚拝借)


永原御殿址
このお城は江戸時代初期に徳川三代に亘り利用されたお城で、時
代は異なります。 しかしこの城も元々は佐々木六角氏の旧館(永
原城)を徳川家康が御所としたとのことで、やはり佐々木六角氏と
無縁ではないようです。 詳細は下の解説板をご参照ください。


                   私有地とのことで竹やぶになり、整備もされず 中も伺い知れません
       私は過去に学芸員さんの案内で見学しています。 遺溝もしっかり残っていました
                        最近聞いたお話で、野洲市はここを発掘調査、史跡として整備するとか!
                        ならば、歴男(??)としては嬉しいな~        (4月23日追記)



                             前方 竹やぶの裾が掘りで、今も一部が残っています
                                        自転車を降りてじっくりと眺めるYASさん


浄専寺


                             永原
御殿の御門を石垣とともにこのお寺に移した

                 
                            松平氏 三つ巴
                            (Yahoo Japan より一枚拝借)  



                   浄専寺の御門の巴瓦  あれ! 松平氏の三つ巴?
           でも、よくみれば巻きの方向が違います。 しかし一見、よく似ていますね
          (いつも訪問くださるブロガーさんからの助言です。ありがとうございます)
                  

 

            次回はいよいよ六角氏の戦闘時の砦、小堤城山城へ

   
            今日もご覧くださいましてありがとうございました

 


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Kennyの城址巡り:野洲市内の城址:第一回 

2017-04-01 09:43:55 | 5爺:野洲市内のお城址巡り

   5人の爺さん、自転車を漕いで  

           さー、今度は 城址巡り : そのー1(全8回)
              野洲市(滋賀県)の城址

              Kennyの滋賀から情報発信
         (この日記のTOP掲載期間:4月9日~4月15日)
 
野洲市内の城址
城郭に詳しい方々のブログを検索すると、市内に17箇所ほどの城址
が取り上げられています。市内の神社参りを終えた5爺の次はこれら
のお城址巡りです。



                        いつもの集合場所、団地の東屋です  後方は三上山・近江富士


                                     そこにはレリーフ       検地 十万日日延
            この団地 東屋周辺には野洲市に纏わるこのようなレリーフがいくつもあります


三上藩 陣屋址
滋賀県野洲市三上に存在していた藩。 藩庁は三上陣屋です。
元禄11年(1698年)、
美濃国郡上八幡の譜代大名の遠藤胤親
(えんどう たねちか)が近江国内で1万石を与えられ、野洲郡三上に
陣屋を構えた。 (ウィキペデアより抜粋引用)


                  三上藩 陣屋(館) 址  この川は堀の名残りだそうです

城、
それは彦根城、姫路城
のような天守を持つ城だけが城ではなく
藩主などが過ごす館、陣屋、また戦場の砦なども城と分類されてい
ます。 それは防御の土塁や堀を廻らしており城そのものなんですね。 


                        私が野洲市に越してきた時にはここに館が残っていました

                           
 場所は三上山登山口の直ぐ近くです

因みに滋賀県には1300以上の城址が確認されています。 日本では
1,2蕃目に多い県です。



この地は  検地 十万日日延 の舞台
保一揆(天宝義民)です

今から170年余り前の天保13年(1842年)10月 現在の野洲市の
三上地区で大事件が発生しました。近江天保一揆 (天保十三年近江
国 三上藩一揆・水口藩一揆)です。


        主要人物 土川平兵衛  しかし江戸送りされた11名は二度と野洲には帰ることはなかった
                                          (現地の解説板の一部)

この事件は
野洲・栗田・甲賀三郡の農民約4万人が
 幕府による検地(見分)の
中止を要求して決起し 三上村に押し寄せ幕府が派遣した役人から
10万日の日
延べ(検地の中止)を勝ち取ったのです。 

天保12年(1841)12月、天保の改革を背景に幕府は勘定方・市野
茂三郎
ら一行四十余人が検地を開始した。その方法は、五尺八寸の
長さに六尺一分
の目盛をつけた竿を、また公然と賄賂を受け取るなど
極めて悪辣なものでした。

         
            12歳からの「滋賀の歴史」滋賀県中学校教育研究会社会部会編より拝借   
                              
                                                  

    
     拡大してご覧下さい              現地の解説板から
       (上をクリック)

         
               市野茂三郎らが押し寄せた群衆から逃れて隠れたとされる洞窟
                                     三上山中腹にあります

時の三上藩は?
事態を掴めていなかった当時の三上藩、幕府からのお咎め、藩主の
動揺は幾ばくか・・、お察ししますね。 市野茂三郎をあの岩穴に隠し
て無事、江戸に帰したことで難を逃れたのでしょうかな。

 

                         三上山登山口にある一揆の解説板  解説する(?)MRYさん


桜生城址 (さくらばさま)
永禄年間(1556~1569年)に六角氏家臣の沢弾正少弼清光が築城し、
文禄二年(1593年)に廃城になったようです。


         
この桜生城址に建つお家の表札は現在も澤さんであり何代目かの当主
にあたられるんでしょうね。



                                                  堀の一部が残っています


                                            土塁でしょう、今もしっかりと伺えます

        場所は野洲市歴史民俗博物館、通称 銅鐸博物館の近くです

                         次回に続きます

                おや、今回訪ねたお城、六角氏に繋がるお城ばかり?
    そういえば、江南(近江の南半分)は六角氏、江北は京極氏が守護していた


          今日もご覧くださいましてありがとうございました

      


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