先日仕事場の方たちと話しをしていて、ある方についての話しになりました。Aさんとしておきます。私はつい先日、Aさんが新興宗教の活動を熱心にされていることを知りました。しかしまったく驚きませんでした。ああ、なるほどという感じでありました。なんとなくわかるものです。
話しの中心はAさんに宗教についてはなしかけられたか、さらに勧誘されたかどうかでした。私はなんとなくAさんとは距離をおくようにしておりまして、Aさんの信仰されている宗教のはなしも聞いたことはなく、勧誘もされたことはありません。ある方は宗教の話しは聞いたことがあるが誘われたことはないといいます。また別の方はかなり熱心に勧誘されたそうです。その他、信仰について熱い議論をした方もいらしたようでした。
しかし、そうして話しをうかがっているうちに、何となくAさんはAさんなりの視点で人について判断し、声をかけていることがわかりました。しつこく勧誘された方はたいへん優しい方で、誰に対しても丁寧に対応する方です。Bさんとしましょう。良心を前面にだして行動されているかたです。それなのに、いえだからこそ、Bさんは他の方から疎んじられている面があります。バカじゃない?と思っている方さえいるようです。
AさんはBさんをピンポイントに選び、勧誘したようでした。その話しの場にいたある方はBさんがAさんに勧誘されたという話しから、Bさんも仲間になったのではないか?などと言っておりましたので、Bさんをよく知る私は「ありえません。」ときっぱり否定しておきました。
しかし、その話しの流れは実にこの社会を象徴するものであるな、と興味深く聞いていたことです。良心を見える形で外に出す方は「おかしな人間」と認識され、新興宗教にでもはまってるんじゃないか?と疑われ、実際新興宗教に勧誘される。これは一体どういうことなのでしょうか。良心の人間には次々に試練が来るようになっているのです。
まわりの方々は鬱陶しいと思うようです。Bさんは自分は正しい主張をしているのであって、なぜいろいろ嫌なめに会わなくてはならないのかわからない。といいます。かといって投げ出すことはなく、たんたんと努力されているその姿は、しかし痛々しい。私としては神々しくあってほしいとおもうのですが、そうではない。Bさんを覆う薄い灰色の霧のようなものがあるのです。
何か決定的に重要なセンサーを起動できなくしているような感じがするのです。たとえば、生き生きとしたもの、暖かさ、などがBさんからあまり感じられないからです。私はもどかしく思っているばかりです。ひたすら見守り続けるだけです。
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