長らくご無沙汰致しておりました。この3日間ネットの繋がらない原始的なホテルに宿泊していたもので折角のブログが更新できませんでした。明日帰国します。今北京の中心街王府井大街に面したホテルにいます。もっともこのホテルも国家が管理するホテルのはずなんですが、ネットの繋がりが悪く直ぐに切れたりなかなか繋がらなかったりで悪戦苦闘中です。そこでとにかくこの間読み溜めた駄句を一挙掲載することにします。本当は写真付きにしたいのですが、大変時間がかかるので帰国後に補うことにします。
国慶節一色の北京です。北京もいいなと思ったらこいつをポチッと押して下さいね→
10 大行宮 秋雨の路 今はなく
(だいあんぐう あきさめのみち いまはなく)
20090915 張学鋒先生に案内いただいた図書館の地下に「遺された」南京城の中軸線上から見付かった道路の跡に思いを馳せながら。
11 秋雨に 碩学の案内 南京城
(あきさめに せきがくのあない なんきんじょう)
20090915 張学鋒先生の案内で南京市街中心部を歩く。
12 秦淮河 黒泥の中 工力の汗
(しんわいが くろつちのなか くうりのあせ)
20090915 発掘調査中の南京城の護城河の一角。河の変遷を探るために設けられたトレンチの中で働く労働者の姿にかつて動員されたであろう大量の明の民の姿を重ねながら。
13 黒き汗 淮河の底に 溢れ落ち
(くろきあせ わいがのそこに あふれおち)
20090915 秦淮河の調査に汗する人々の姿を見ながら。
14 護城河 黒泥にまみれ 護岸跡
(ごじょうがわ こくでにまみれ ごがんあと)
20090915 秦淮河、即ち南京内城の周囲をめぐる運河の規模を確認するための発掘調査で発見された護岸の跡を見ながら。
15 新米の 山積み溢る 呉の津
(しんまいの やまづみあふる ごのみなと)
20090915 南京市博物館に展示されていた木簡には米25石を送ることが記されていた。荷札木簡が棄てられていたところは今から1800年前の呉の時代の港の一角だという。かつての賑わいを思い起こしながら。
16 白磁壺 秋雨の底 西水関
(しろきつぼ あきさめのそこ せいすいかん)
20090915 同博物館には大量の完形品の白磁の注口壺が展示されていた。御案内いただいた張学鋒先生のご説明によれば、これらは西水関に運ばれてきた品だが、恐らく沈没してしまった船に積まれていた積み荷だったのではないかという。
17 秋雨に 煙し先の 東水関
(あきさめにけむりしさきに とうすいかん)
20090916 今回の南京はあいにく連日の雨だった、少し肌寒い九月の雨の中、訪れた東水関の姿はどこかうら悲しかった。しかし雨に煙る東水関の姿にはとても威厳があった。
18 明船の 行き交う夢に 秋の雨
(みんせんの ゆきかうゆめに あきのあめ)
20090916 東水関には多くの明船が揚子江から荷を積んで上がってきたに違いない。その喧噪を思い浮かべながら。
19 玄武湖に 棹さす公望 秋の夕
(げんぶこに さおさすこうぼう あきのゆう)
20090916 劉国慶先生に御案内いただいた玄武湖の辺の墻中墻近くでは沢山の太公望達が棹さす姿が見られた。
20 墻中墻 文字磚に吹く 秋の風
(しょうちゅうしょう もじせんにふく あきのかぜ)
20090916 元あった城壁を包み込むようにしてできた新たな城壁にはその変遷を示す年号の刻まれた磚があるという。今回も各所で見つけた明代を中心とした文字磚。同じ頃ベトナムのタンロンでも大量の文字磚が用いられていた。中国文化の広がりの強さを実感させる材料でもある。
古い方の壁にあることが判った文字磚。
21 御道街 黄色い声と 秋の虫
(ごどうがい きいろいこえと あきのむし)
20090916 南京故宮の中軸線を午門から真っ直ぐ南に延びるみちが御道街である。これに添って御道街小学校がある。私の母校(入学時の小学校)朱雀第三小学校は平安京の朱雀大路に近い右京五条にあった。何となく親しみを感じつつ子どもたちの元気な姿に触発されて。
22 秋の陽に 午門破壊の 跡悲し
(あきのひに ごもんはかいの あとかなり)
20090916 南京城故宮正面の午門に昇り、その両翼の闕などが日本軍によって破壊されたと聞き、ここにも軍国主義の爪痕が残ることを知り愕然とする。
23 秋雨に 寄り添う二陵 南唐王
(あきさめに よりそうにりょう なんとうおう)
20090917 唐滅亡後、中国は再び分裂状態となり、五代十国の時代を迎える。唐の跡をついだとする南唐の李昪は南京(金陵)に都を置く。しかしわずか三代で王朝は絶え、その太祖達の墓が南京郊外にひっそりとたたずむ。
24 二王にて 絶えたる南唐 陵の虫
(におうにて たえたるなんとう りょうのむし)
20090917 南唐二陵はこれまで見学したいずれの皇帝の陵墓よりも小さく、田舎にあって、ひっそりと苔むして残っていた。
25 一人座す 繍県が獅子 秋の雨
(ひとりざす しゅうけんがしし あきのあめ)
200909 繍県には点々と陵前に置かれたはずの石造彫刻が遺されている。そのひとつは、本来つがいで置かれていたはずにもかかわらず一体しかなく、付近に陵墓の痕跡も認められない。水田にポツンと遺された石造に秋雨がしとど降り注ぐ光景はとてもうら悲しい。
26 獅子たちの 群れ添う先に 稲穂垂る
(ししたちの むれそうさきに いなほたる)
20090917 南唐二陵を少し行った水田の中に一基の獅子像が遺る。直ぐ横では陵苑を探すためというトレンチが水没して遺されていた。さらに進むと三基の獅子像が立派な公園の中に保存されていたが、皆さんの説によるとこの地に移動してきた時に置き方を間違えたのではないかという。
27 秋雨の 降り注ぎたる 獅子夫婦
(あきさめの ふりそそぎたる ししみょうと)
20090917 繍県の専門学校の校庭にも一対の石造獅子が遺されている。これもまた陵墓から切り離されたのであろうか。
28 秋雨の 太平天国 今悲し
(あきさめの たいへいてんごく いまかなし)
20090917 清末19世紀中頃に起こった太平天国の乱は一気に勢力を拡大し、南京の州政府を攻略して都とし、天京と名乗った。キリスト教の影響を受けたとされながら、中国の伝統的儀礼をも則って都造りをしたらしく、政治の中枢部のすぐ前には天壇を模した円丘が設けられたという。その後中華民国の総統府が置かれ、現代も博物館として公開されている。雨の中沢山の観光客の訪れ写真に納めている姿を見ると、中国の人々の大事な歴史遺産であることが判る。
29 秋桜に 似たる櫛売り 祖陵嬢
(こすもすに にたるくしうり そりょうじょう)
20090918 南京から鳳陽へ向かう途中、朱元璋の祖先達を祀った祖陵に寄ることになる。ほとんど観光客の訪れることもないこの地にも土産物屋さんが店を出している。一帯どの様にして喰っているのだろうかと心配になるのだが、菱の実を売るおばあさんに吸い寄せられて品物を見ると素敵なお嬢さんが櫛を売っていた。学生の土産にまとめ買いをする。
なかなか色っぽいね!
30 朱元璋 逝きし祖先を 送る虫
(しゅげんしょう ゆきしそせんを おくるむし)
20090917 朱元璋は貧農の生まれであった。両親も、兄妹の多くも病気や飢えで亡くしたという。寺に預けられ、農民一揆委の仲間に加わる中で頭角を現し、中国を漢民族の手によって再統一をするわけだが、それだけに自らの祖先に対する思い入れは深かったのであろう。祖父や祖母、曾祖父母達の霊をまとめてこの祖陵に祀ったという。
31 円丘の 稲穂の間に間に 家鴨母子
(えんきゅうの いなほのまにまに あひるぼし)
20090919 朱元璋が理想の都として故郷の一角に造らせようとしたのが鳳陽の中都であった。初めて訪れた中都の壮大な構造、現代中国にあっては奇跡的に保存状態のよい都の跡に感嘆の声ばかりを上げていたのだが、ここ円丘(天壇)を訪れてその驚きは倍増することになる。円丘の周りに堀が巡るのだが、その堀を利用した水田が見事にその形を伝えてくれる。村人達も天川だと称してとても大事に遺跡を守っている。このままの姿を遺して欲しいものである。
円丘の周りには堀が回るが、現在は水田となっている。
32 城薔に 夏草食んで 山羊親子
(じょうしょうに なつくさはんで やぎおやこ)
20090919 中都西華門跡(宮城西門)から城薔の上に登ると中都中枢部全体を見渡すことができる。西門から南へ進むと山羊の親子達に遭遇する。十頭余りの子山羊達を引き連れた母山羊は、私たちを見つけると用心深く子山羊達を先に進め、後ろからじっとその姿を確認してから最後に隊列に加わる。何とも愛情溢れた、母親らしい姿であることだろう。どこぞの国の若い母親達が自らの腹を痛めた子どもを虐待し、パチンコに熱中する余り死に追いやり、まるでゴミのように捨て置く姿を重ねると日本の今の暗い未来が見えてしまう。
33 秋雨に ぬかるみ午門 悠然と
(あきさめに ぬかるみごもん ゆうぜんと)
20090919 連日の雨によって周囲はぬかるみだらけ、泥泥になりながら訪れた午門の跡は想像を絶する規模で悠然とその姿を現した。
34 破壊受け 虫の合奏 東華門
(はかいうけ むしのがっそう とうかもん)
20090919 文化大革命によって大きく破壊されたという東華門は今はなく、村人達が自転車で通る大きな穴となって残る。
35 方丘を 壊ちた水に 稲穂映ゆ
(ほうきゅうを こぼちたみずに いなほはゆ)
20090920 現在の中国を象徴する経済主義一辺倒の姿があちこちで遺跡の破壊を進めている。ここ方丘もわずか20年程前までは完全な姿で残っていたのに、煉瓦工場の土取りのために南半分が大きく抉られ、あちこちにできた大きな水溜まりに稲穂が影を落として。
36 蟋蟀の 鼓楼玉座に 納まりて
(こおろぎの ころうぎょくざに おさまりて)
20090920 中都の鼓楼に展示された玉座の模型を見ながらラスト延歩エラーのシーンと重ねながら。
37 中秋に 浮かぶ独山 観星台
(ちゅうしゅうに うかぶどくざん かんせいだい)
20090920 間もなく中秋の名月である。独山に置かれた観星台に満月がかかる姿はどれほど美しいことだろうか。
鼓楼には新米だが、とても熱心な説明ガイドさんがいた。とても綺麗な日本語を喋る。
観星台にて
38 敬老の 祝いの蝋燭 六十一
(けいろうの いわいのろうそく むとせひとつ)
20090920 誕生日のお祝いにケーキを頂いて。
頂いたケーキに蝋燭を立てて乾杯!!
39 白酒を 重ねし貌に 秋の愁い
(ばいちゅうを かさねしかおに あきのうれい)
20090920 誕生日を祝ってくれ、白酒の乾杯の嵐の中にもどこか憂いの潜む陳懐仁さんの姿に寂しさを感じつつ
40 秋雨の 愁いに沈む 五龍橋
(あきさめの うれいにしずむ ごりゅうきょう)
20090920 中都にて発掘されたという午門前の橋の跡を地中に思い描きながら
41 淮河過ぎ モロコシの絨毯 広がりて
(わいがすぎ もろこしのじゅうたん ひろがりて)
20090921 淮河を過ぎると突然車窓の風景が変わる。それまでの水田からトウモロコシ畑へと大きく変わるのである。江南の富が北の王権を支えるという、現代の地球の縮図がここにある。
42 車窓から モロコシ畑 開封へ
(しゃそうから もろこしばたけ かいほうへ)
20090921 果たして揚子江流域の開封は?
43 蟋蟀と 即興麺に 舌鼓
(こおろぎと そっきょうめんに したづつみ)
20090921 開封への移動の途中、時間がないのでサービスエリアで食事をすることになる。カップ麺を買って食べたのだが・・・。
44 開封の 夜市に煙る モロコシの香
(かいほうの よいちにけむる もろこしのか)
20090921
45 地底深し 都の眠る 秋開封
(つちふかし みやこのねむる あきかいふう)
20090921
46 馬道跡 黄河氾濫 今はなく
(ばとうあと こうがはんらん いまはなく)
20090922
47 開封へ 秋風と共に ユダヤ人
(かいふへ あきかぜとともに ゆだやびと)
20090922
48 ユダヤ人 放浪の跡 秋開封
(ゆだやびと ほうろうのあと あきかいふう)
20090922
49 楊家湖を 渡る秋風 龍邸に
(ようかこを わたるあきかぜ りゅうていに)
20090923
50 金明池 浮かぶ開封 秋の月
(きんめいち うかぶかいふう あきのつき)
20090923 開封最後の晩餐は、超高級ホテル開封開元城大酒店であった。5星だというホテルは確かにこれまでのどんな食事処より美しかったのだが・・・。その部屋からは池を望むことができ、池には三日月が映り、とても幻想的な光景だった。
51 栗の実を ほおばり懐かし 開封の夜
(くりのみを ほおばりなつかし かいふうのよ)
20090923
52 繁塔を 立ち退き命に 秋寒し
(はんとうを たちのきめいに あきさむし)
20090923 繁塔の周りは大規模に建物の解体工事が進む最中であった。その一角にまだ立ち退かない家が数軒あった。彼らは段ボールにマジックで立ち退きの違法を訴えていた。いずこの世界も国家権力と市民との軋轢を押さえきることはできないことを知る。それにしてもその原因が文化遺産の整備に伴うとわかると余計複雑であった。
53 繁塔を 見上げし先に 鰯雲
(はんとうを みあげしさきに いわしぐも)
20090923
54 菊の香に 誘われ二人 鉄塔へ
(きくのかに さそわれふたり てっとうへ)
20090923 河南大学の校庭の端に開宝寺(鉄塔)への入口が接している。十三階の階段を昇り終えて出てくると、新入生の若いカップルが記念撮影をしている。撮ってあげようかというととても嬉しそうに返事をする。そして「Where from?」 と英語で尋ねられた。とても人なつこい女子学生は一緒に写真を撮ろうと言う。
いつまでも仲良くしてね!!
55 十三階 昇りし汗に 秋の風
(じゅうさんかい のぼりしあせに あきのかぜ)
20090923 中国ではあちこちの施設が60歳以上半額であった。今回はその特典を大いに活かさせていただいた。ここ鉄塔もそうなのだが、鉄塔に昇るのは別料金で、60歳の区別もない。そんな中、冷やかされながら、上がったのだが、さすがに降りてきた時には膝が笑って、しばらくまともに歩けなかった。
56 国慶節 控えし公園 我らのみ
(こっけいせつ ひかえしこうえん われらのみ)
20090923 開封市内に最近できたばかりのテーマパーク??入場料80元(約千円)という高額の施設はまさに作り物の世界だった。休みには賑わうらしいが、この日は平日。がらんとしていて、作り物を独占できはしたのだが・・・。今度来る時には既に倒産しているのではないかと、みんなで笑った。
57 鉄塔と 中秋近し 汗のひき
(てっとうと ちゅうしゅうのあき あせのひき)
20090923 鉄塔に昇るともう中秋が近いことを実感させてくれる涼しい風があっという間に噴き出した汗をひいてくれる。
企良
オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!
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国慶節 準備の進む 景山に
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10 大行宮 秋雨の路 今はなく
(だいあんぐう あきさめのみち いまはなく)
20090915 張学鋒先生に案内いただいた図書館の地下に「遺された」南京城の中軸線上から見付かった道路の跡に思いを馳せながら。
11 秋雨に 碩学の案内 南京城
(あきさめに せきがくのあない なんきんじょう)
20090915 張学鋒先生の案内で南京市街中心部を歩く。
12 秦淮河 黒泥の中 工力の汗
(しんわいが くろつちのなか くうりのあせ)
20090915 発掘調査中の南京城の護城河の一角。河の変遷を探るために設けられたトレンチの中で働く労働者の姿にかつて動員されたであろう大量の明の民の姿を重ねながら。
13 黒き汗 淮河の底に 溢れ落ち
(くろきあせ わいがのそこに あふれおち)
20090915 秦淮河の調査に汗する人々の姿を見ながら。
14 護城河 黒泥にまみれ 護岸跡
(ごじょうがわ こくでにまみれ ごがんあと)
20090915 秦淮河、即ち南京内城の周囲をめぐる運河の規模を確認するための発掘調査で発見された護岸の跡を見ながら。
15 新米の 山積み溢る 呉の津
(しんまいの やまづみあふる ごのみなと)
20090915 南京市博物館に展示されていた木簡には米25石を送ることが記されていた。荷札木簡が棄てられていたところは今から1800年前の呉の時代の港の一角だという。かつての賑わいを思い起こしながら。
16 白磁壺 秋雨の底 西水関
(しろきつぼ あきさめのそこ せいすいかん)
20090915 同博物館には大量の完形品の白磁の注口壺が展示されていた。御案内いただいた張学鋒先生のご説明によれば、これらは西水関に運ばれてきた品だが、恐らく沈没してしまった船に積まれていた積み荷だったのではないかという。
17 秋雨に 煙し先の 東水関
(あきさめにけむりしさきに とうすいかん)
20090916 今回の南京はあいにく連日の雨だった、少し肌寒い九月の雨の中、訪れた東水関の姿はどこかうら悲しかった。しかし雨に煙る東水関の姿にはとても威厳があった。
18 明船の 行き交う夢に 秋の雨
(みんせんの ゆきかうゆめに あきのあめ)
20090916 東水関には多くの明船が揚子江から荷を積んで上がってきたに違いない。その喧噪を思い浮かべながら。
19 玄武湖に 棹さす公望 秋の夕
(げんぶこに さおさすこうぼう あきのゆう)
20090916 劉国慶先生に御案内いただいた玄武湖の辺の墻中墻近くでは沢山の太公望達が棹さす姿が見られた。
20 墻中墻 文字磚に吹く 秋の風
(しょうちゅうしょう もじせんにふく あきのかぜ)
20090916 元あった城壁を包み込むようにしてできた新たな城壁にはその変遷を示す年号の刻まれた磚があるという。今回も各所で見つけた明代を中心とした文字磚。同じ頃ベトナムのタンロンでも大量の文字磚が用いられていた。中国文化の広がりの強さを実感させる材料でもある。
古い方の壁にあることが判った文字磚。
21 御道街 黄色い声と 秋の虫
(ごどうがい きいろいこえと あきのむし)
20090916 南京故宮の中軸線を午門から真っ直ぐ南に延びるみちが御道街である。これに添って御道街小学校がある。私の母校(入学時の小学校)朱雀第三小学校は平安京の朱雀大路に近い右京五条にあった。何となく親しみを感じつつ子どもたちの元気な姿に触発されて。
22 秋の陽に 午門破壊の 跡悲し
(あきのひに ごもんはかいの あとかなり)
20090916 南京城故宮正面の午門に昇り、その両翼の闕などが日本軍によって破壊されたと聞き、ここにも軍国主義の爪痕が残ることを知り愕然とする。
23 秋雨に 寄り添う二陵 南唐王
(あきさめに よりそうにりょう なんとうおう)
20090917 唐滅亡後、中国は再び分裂状態となり、五代十国の時代を迎える。唐の跡をついだとする南唐の李昪は南京(金陵)に都を置く。しかしわずか三代で王朝は絶え、その太祖達の墓が南京郊外にひっそりとたたずむ。
24 二王にて 絶えたる南唐 陵の虫
(におうにて たえたるなんとう りょうのむし)
20090917 南唐二陵はこれまで見学したいずれの皇帝の陵墓よりも小さく、田舎にあって、ひっそりと苔むして残っていた。
25 一人座す 繍県が獅子 秋の雨
(ひとりざす しゅうけんがしし あきのあめ)
200909 繍県には点々と陵前に置かれたはずの石造彫刻が遺されている。そのひとつは、本来つがいで置かれていたはずにもかかわらず一体しかなく、付近に陵墓の痕跡も認められない。水田にポツンと遺された石造に秋雨がしとど降り注ぐ光景はとてもうら悲しい。
26 獅子たちの 群れ添う先に 稲穂垂る
(ししたちの むれそうさきに いなほたる)
20090917 南唐二陵を少し行った水田の中に一基の獅子像が遺る。直ぐ横では陵苑を探すためというトレンチが水没して遺されていた。さらに進むと三基の獅子像が立派な公園の中に保存されていたが、皆さんの説によるとこの地に移動してきた時に置き方を間違えたのではないかという。
27 秋雨の 降り注ぎたる 獅子夫婦
(あきさめの ふりそそぎたる ししみょうと)
20090917 繍県の専門学校の校庭にも一対の石造獅子が遺されている。これもまた陵墓から切り離されたのであろうか。
28 秋雨の 太平天国 今悲し
(あきさめの たいへいてんごく いまかなし)
20090917 清末19世紀中頃に起こった太平天国の乱は一気に勢力を拡大し、南京の州政府を攻略して都とし、天京と名乗った。キリスト教の影響を受けたとされながら、中国の伝統的儀礼をも則って都造りをしたらしく、政治の中枢部のすぐ前には天壇を模した円丘が設けられたという。その後中華民国の総統府が置かれ、現代も博物館として公開されている。雨の中沢山の観光客の訪れ写真に納めている姿を見ると、中国の人々の大事な歴史遺産であることが判る。
29 秋桜に 似たる櫛売り 祖陵嬢
(こすもすに にたるくしうり そりょうじょう)
20090918 南京から鳳陽へ向かう途中、朱元璋の祖先達を祀った祖陵に寄ることになる。ほとんど観光客の訪れることもないこの地にも土産物屋さんが店を出している。一帯どの様にして喰っているのだろうかと心配になるのだが、菱の実を売るおばあさんに吸い寄せられて品物を見ると素敵なお嬢さんが櫛を売っていた。学生の土産にまとめ買いをする。
なかなか色っぽいね!
30 朱元璋 逝きし祖先を 送る虫
(しゅげんしょう ゆきしそせんを おくるむし)
20090917 朱元璋は貧農の生まれであった。両親も、兄妹の多くも病気や飢えで亡くしたという。寺に預けられ、農民一揆委の仲間に加わる中で頭角を現し、中国を漢民族の手によって再統一をするわけだが、それだけに自らの祖先に対する思い入れは深かったのであろう。祖父や祖母、曾祖父母達の霊をまとめてこの祖陵に祀ったという。
31 円丘の 稲穂の間に間に 家鴨母子
(えんきゅうの いなほのまにまに あひるぼし)
20090919 朱元璋が理想の都として故郷の一角に造らせようとしたのが鳳陽の中都であった。初めて訪れた中都の壮大な構造、現代中国にあっては奇跡的に保存状態のよい都の跡に感嘆の声ばかりを上げていたのだが、ここ円丘(天壇)を訪れてその驚きは倍増することになる。円丘の周りに堀が巡るのだが、その堀を利用した水田が見事にその形を伝えてくれる。村人達も天川だと称してとても大事に遺跡を守っている。このままの姿を遺して欲しいものである。
円丘の周りには堀が回るが、現在は水田となっている。
32 城薔に 夏草食んで 山羊親子
(じょうしょうに なつくさはんで やぎおやこ)
20090919 中都西華門跡(宮城西門)から城薔の上に登ると中都中枢部全体を見渡すことができる。西門から南へ進むと山羊の親子達に遭遇する。十頭余りの子山羊達を引き連れた母山羊は、私たちを見つけると用心深く子山羊達を先に進め、後ろからじっとその姿を確認してから最後に隊列に加わる。何とも愛情溢れた、母親らしい姿であることだろう。どこぞの国の若い母親達が自らの腹を痛めた子どもを虐待し、パチンコに熱中する余り死に追いやり、まるでゴミのように捨て置く姿を重ねると日本の今の暗い未来が見えてしまう。
33 秋雨に ぬかるみ午門 悠然と
(あきさめに ぬかるみごもん ゆうぜんと)
20090919 連日の雨によって周囲はぬかるみだらけ、泥泥になりながら訪れた午門の跡は想像を絶する規模で悠然とその姿を現した。
34 破壊受け 虫の合奏 東華門
(はかいうけ むしのがっそう とうかもん)
20090919 文化大革命によって大きく破壊されたという東華門は今はなく、村人達が自転車で通る大きな穴となって残る。
35 方丘を 壊ちた水に 稲穂映ゆ
(ほうきゅうを こぼちたみずに いなほはゆ)
20090920 現在の中国を象徴する経済主義一辺倒の姿があちこちで遺跡の破壊を進めている。ここ方丘もわずか20年程前までは完全な姿で残っていたのに、煉瓦工場の土取りのために南半分が大きく抉られ、あちこちにできた大きな水溜まりに稲穂が影を落として。
36 蟋蟀の 鼓楼玉座に 納まりて
(こおろぎの ころうぎょくざに おさまりて)
20090920 中都の鼓楼に展示された玉座の模型を見ながらラスト延歩エラーのシーンと重ねながら。
37 中秋に 浮かぶ独山 観星台
(ちゅうしゅうに うかぶどくざん かんせいだい)
20090920 間もなく中秋の名月である。独山に置かれた観星台に満月がかかる姿はどれほど美しいことだろうか。
鼓楼には新米だが、とても熱心な説明ガイドさんがいた。とても綺麗な日本語を喋る。
観星台にて
38 敬老の 祝いの蝋燭 六十一
(けいろうの いわいのろうそく むとせひとつ)
20090920 誕生日のお祝いにケーキを頂いて。
頂いたケーキに蝋燭を立てて乾杯!!
39 白酒を 重ねし貌に 秋の愁い
(ばいちゅうを かさねしかおに あきのうれい)
20090920 誕生日を祝ってくれ、白酒の乾杯の嵐の中にもどこか憂いの潜む陳懐仁さんの姿に寂しさを感じつつ
40 秋雨の 愁いに沈む 五龍橋
(あきさめの うれいにしずむ ごりゅうきょう)
20090920 中都にて発掘されたという午門前の橋の跡を地中に思い描きながら
41 淮河過ぎ モロコシの絨毯 広がりて
(わいがすぎ もろこしのじゅうたん ひろがりて)
20090921 淮河を過ぎると突然車窓の風景が変わる。それまでの水田からトウモロコシ畑へと大きく変わるのである。江南の富が北の王権を支えるという、現代の地球の縮図がここにある。
42 車窓から モロコシ畑 開封へ
(しゃそうから もろこしばたけ かいほうへ)
20090921 果たして揚子江流域の開封は?
43 蟋蟀と 即興麺に 舌鼓
(こおろぎと そっきょうめんに したづつみ)
20090921 開封への移動の途中、時間がないのでサービスエリアで食事をすることになる。カップ麺を買って食べたのだが・・・。
44 開封の 夜市に煙る モロコシの香
(かいほうの よいちにけむる もろこしのか)
20090921
45 地底深し 都の眠る 秋開封
(つちふかし みやこのねむる あきかいふう)
20090921
46 馬道跡 黄河氾濫 今はなく
(ばとうあと こうがはんらん いまはなく)
20090922
47 開封へ 秋風と共に ユダヤ人
(かいふへ あきかぜとともに ゆだやびと)
20090922
48 ユダヤ人 放浪の跡 秋開封
(ゆだやびと ほうろうのあと あきかいふう)
20090922
49 楊家湖を 渡る秋風 龍邸に
(ようかこを わたるあきかぜ りゅうていに)
20090923
50 金明池 浮かぶ開封 秋の月
(きんめいち うかぶかいふう あきのつき)
20090923 開封最後の晩餐は、超高級ホテル開封開元城大酒店であった。5星だというホテルは確かにこれまでのどんな食事処より美しかったのだが・・・。その部屋からは池を望むことができ、池には三日月が映り、とても幻想的な光景だった。
51 栗の実を ほおばり懐かし 開封の夜
(くりのみを ほおばりなつかし かいふうのよ)
20090923
52 繁塔を 立ち退き命に 秋寒し
(はんとうを たちのきめいに あきさむし)
20090923 繁塔の周りは大規模に建物の解体工事が進む最中であった。その一角にまだ立ち退かない家が数軒あった。彼らは段ボールにマジックで立ち退きの違法を訴えていた。いずこの世界も国家権力と市民との軋轢を押さえきることはできないことを知る。それにしてもその原因が文化遺産の整備に伴うとわかると余計複雑であった。
53 繁塔を 見上げし先に 鰯雲
(はんとうを みあげしさきに いわしぐも)
20090923
54 菊の香に 誘われ二人 鉄塔へ
(きくのかに さそわれふたり てっとうへ)
20090923 河南大学の校庭の端に開宝寺(鉄塔)への入口が接している。十三階の階段を昇り終えて出てくると、新入生の若いカップルが記念撮影をしている。撮ってあげようかというととても嬉しそうに返事をする。そして「Where from?」 と英語で尋ねられた。とても人なつこい女子学生は一緒に写真を撮ろうと言う。
いつまでも仲良くしてね!!
55 十三階 昇りし汗に 秋の風
(じゅうさんかい のぼりしあせに あきのかぜ)
20090923 中国ではあちこちの施設が60歳以上半額であった。今回はその特典を大いに活かさせていただいた。ここ鉄塔もそうなのだが、鉄塔に昇るのは別料金で、60歳の区別もない。そんな中、冷やかされながら、上がったのだが、さすがに降りてきた時には膝が笑って、しばらくまともに歩けなかった。
56 国慶節 控えし公園 我らのみ
(こっけいせつ ひかえしこうえん われらのみ)
20090923 開封市内に最近できたばかりのテーマパーク??入場料80元(約千円)という高額の施設はまさに作り物の世界だった。休みには賑わうらしいが、この日は平日。がらんとしていて、作り物を独占できはしたのだが・・・。今度来る時には既に倒産しているのではないかと、みんなで笑った。
57 鉄塔と 中秋近し 汗のひき
(てっとうと ちゅうしゅうのあき あせのひき)
20090923 鉄塔に昇るともう中秋が近いことを実感させてくれる涼しい風があっという間に噴き出した汗をひいてくれる。
企良
オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!
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