yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

中国紀行-1  雲夢に秦始皇帝の夢を見るの条

2006-08-17 02:12:08 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

(主人公「喜」氏は何を思ってこの竹簡群を棺に入れたのであろうか。お陰で「楚王城」は一気に世界中の注目するところとなった。)
 
 久しぶりのブログなので何から書けばいいのかとまどっています。
今中国洛陽にいます。明日(正確には今日)日本に帰ります。
猛烈な暑さと湿気に毎日サウナに入っているような状況で、夕方ホテルに帰るとさすがの私も直ぐに風呂に入ります。8月6日に中国に入り11日目の朝を迎えました。
知性のかけらもない総理大臣のお陰で15日は一日緊張を強いられることになりましたが、ここ洛陽は大変穏やかな一日でした。これもまた、日本という国の特性なのでしょうか。この地にいるとより強く大きな視野で物事を見ることのできない日本との差を感じざるを得ません。若者達が再び戦場に赴かなくても済むように、今こそ言論の火の手を挙げなければならないのではないでしょうか(こんなことを思っていたら読売新聞の世論調査で小泉の靖国参拝の支持率が53㌫だったとか、恐ろしい世の中が進みつつあるのだと実感しつつあります)。


(鉄道の直ぐ側にひっそりと置かれた碑文)

 さて、一昨日は、洛陽の西郊外にある二つの離宮跡を見学に行きました。おそらく当地に足を踏み入れた日本人はほとんどいないのではないでしょうか。合璧宮と興泰宮です。いずれも唐代の避暑地として設けられた離宮といわれています。驚いたのは合璧宮です。まるで久留倍遺跡を見ているような錯覚にとらわれました。もちろん規模は比べものにならないほど巨大で、南北700mくらいあるのでしょうか、最も高いところの比高は50m程度に達するように見えます。しかし、驚いたのはこの宮殿には門闕がありながら、城壁がないのです。さらに驚くべきことには丘の麓に何らかの(集落?)遺跡が広がっているらしいということです。あまりに多くの共通点に、同行した馬彪氏と共に現地でしばらく立ちすくんでしまいました。


(雲夢遺跡の東城壁は大変残りがよく、これからの発掘調査が楽しみです))
 
 まだ一部のボーリング調査しかしていないとのことで、詳しいことはほとんど分からないのですが、独立丘陵の南端崖上の門闕に始まり、北側にほぼ一直線上に7つの基台が認められます。最も高いところに位置するのが最北端の崖上に建っている楼閣的機能があるのではないかという5号基台です。最も広い面積を占めるのが2号基台との間に挟まれて設けられた3・4号基台で、これらが中心施設だといわれます。1~5号基台が整然と並んでいる様は圧巻でした。いずれ中国から詳しい調査がなされるでしょうが、日中の離宮比較研究に欠かせない素晴らしい遺跡であることは間違いありません。いつの日かなされるはずの発掘調査が楽しみです。合璧宮については機会を見てご紹介できるかもしれません。

 さて今日は湖北省江漢市雲夢県に所在する「楚王城」を紹介することにしましょう。これについては山口大学人文学部の馬彪氏の多くの論考があり、今回の現地踏査も馬氏の御案内により実現したものです。
 秦始皇帝は全国統一を成し遂げた後、ほぼ二年に一回の割合で地方巡幸を行ったそうです。その最後となった巡幸の途中立ち寄ったのが雲夢沢です。もちろんその故知は永く不明でした。ところが今から31年前、奇跡が起こりました。鉄道の拡幅工事に際し、数基の墳墓群が発見されたのです。その一つ睡虎地11号墓から秦代の1000余点の竹簡が出土したのです。昨年出土30年を記念して行われたシンポジウムや記念誌によれば、今日までに数百の論文が出され、研究は大いに深化しているそうです(馬彪「論日本睡虎地秦漢研究的団体特性」・「日本雲夢秦律研究文献目録(1977-2004)」『雲夢睡虎地秦竹簡出土30周年記念文集』中共雲夢県委宣伝部・雲夢秦漢文化研究会2005年8月)。


(「ナン」の跡は今は蓮畑と化している。かつて始皇帝の禁苑と知って誰がこの地に足を踏み入れたのであろうか・・・)

 中でも最新の論文で次々と新しいアイデアを出しているのが馬氏です(馬彪「城址と墓葬に見る楚王城の禁苑及び雲夢官の性格」『都市と環境の歴史学第3集』2006)。詳しくは彼の論文をお読みいただければいいのですが、結論のみを申し上げると、雲夢県に所在する「楚王城」と呼ばれてきた遺跡こそ始皇帝の訪れた雲夢沢に置かれた禁苑だというのです。そして「楚王城」の周囲から次々と発見される小規模な墓地群こそ、この禁苑を維持していた下級官人達の墓だというのです。11号の被葬者は安陸令史「喜」氏であった。竹簡には日本の律令研究にも欠かせない秦律を書写したものがあり、その内容を分析すれば、この地こそ禁苑そのものだというのです。実に興味深い論点です。私にはこの論点を正確に評価する能力はありませんが、現地に赴いて驚いたのは禁苑の「証拠」を確認することができたのです。「ナン」(つちへんに換の旁)と呼ばれる遺構を見事に認めることができたのです。もちろんこの用語を現地の遺構と併せて発見したのは馬氏です。彼の指摘するとおり、まさに「ナン」が現地にあるのです。
 「ナン」がどのようなものか誰も考えられなかったそうです。これを見事に解釈したのが馬氏です。彼の説によると、禁苑の城壁内部に沿って設けられた帯状の低湿地で、侵入者の足跡を刻印すること、つまり、侵入者を発見しやすくするための施設だというのです。そして現地には城壁の内側に沿って、明らかに外堀とは深さも幅も異なる溝がめぐっているのです。現在は蓮畑になったりしている様相からも、これが湿地であったことが分かります。
 こうした外郭施設に守られた内部には点々と基台(日本でいうところの基壇)があります。おそらくこれらが禁苑施設なのでしょう。律によればさらに内部には2~3重の防御施設があったはずですが、少なくとも現在はその痕跡を地上から見ることはできません。しかし一部そうした痕跡を示す溝跡が確認されているようで、いずれ発掘調査が進めば、確認されることでしょう。


(北城壁の外には大規模な堀が巡っている)

 ところで、秦漢史や竹簡の研究者を除けば雲夢という土地はほとんど知られていないと思われます。幸い、三重県では久留倍遺跡のシンポジウムで馬氏が講演をしてくださったので、知名度は高く、大いに関心が持たれています。しかし、この地に至るには武漢から車で2時間近くかかる上、バスもほとんどでていません。行きたくてもいけないのです。ところが、現地にはシンセンで成功した地元出身の企業家の寄付によって立派な博物館が建設途中です。余り観光化が進みせっかく残されてきた遺跡が破壊されるのは困りますが、きちんと遺跡の範囲を決めて全体を保護することができるのなら、始皇帝の地方支配の実態を解明するため、発掘調査を実施し、その意義を全世界に知らしめることは大変重要だと思っています。いつの日かもう一度現地を訪れ、調査の一端を担えればと思いつつ遺跡を離れました。

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1 コメント

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絶句 (トシ)
2006-08-17 19:30:16
さすが、中国。まだまだ奥が深いですね。

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