孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

何らかの「仇(かたき)を果たすまで」=安心して眠れない人が居ますが…

2016年03月04日 | Weblog
このブログは心意識に関わるブログだけに、すべてのジャンル・カテゴリーにつながります。

だからブログ村の人気ランキングにこだわるよりも数多くの人にこのブログにご縁があるようにと様々なカテゴリーに登録変更していますのでブログ村から突然消えることがありますが、
大元本家の「完全真理と私の生き方&自己縮小&孤独と自由&自力と自信」のgooブログが消えたわけではありませんから、いつでも訪ねてください。

ところで私は個人意識丸出しながらも、この世人間関係は「お互い様とお陰様」の関係で成り立っているからには、私が被害者になってもその被害者丸出しで相手を責めることにはなりませんで成り行きに任せます。

然るに此れまで4回ほど追突や接触事故で被害者側になった時がありますが、それが大したことでもないければ相手を責めることなく穏便に済ませています。
しかも過疎地暮らしになってからの2回は貧乏からしてポンコツ車に乗っているから大したことではなくて無償にて解決しています。

と言うことからして付け加えますが、
見栄を張って人並みとか人の上にいたがるよりも、それよりも自らの意識からして一段でも二段でも下の位置でいる方が何かと(金銭物質的にも精神的にも)気楽なのは事実です。

だから何度もホームレスやニートがブログに登場しているのです。

と言うことからして…♪ボロは着てても心は錦♪…とまで行かなくても、孤独の自由にしての呑気気楽を味わえば見栄の錦・晴れ舞台・達成感や生甲斐はいらなくなるのです。

ところが「お互い様の関係」を認識自覚していない人は細かいことまでも責任追及してごちゃごちゃ言いたがりますし、またそれが大きな被害損失になればその償い報復仕返しまで強く主張します。

そうなると互いの損得が大きくなりますからそれだけ大ごとになります。

そして互いがややっこしいことになり穏やかな心で過ごすことが無くなり、その苦と楽の繰り返しが長ーく続きますから、
然るに「仇カタキ」を果たさなければ安心して眠れない状況に陥るのです。

そんなことからしても=大きく生きるよりも小さく生きているほうが=その分だけ大ごとにならずに済むのです。

また小さく生きているから自然災害被害に遭遇しても大きな打撃にもなりませんから、それだけ足早に立ち直れるのも間違いありません。

然るに自己拡大で生きるよりも孤独の自由にして小さく生きているほうが偽善の積み重ねにもならずにして、しかも自力自信の精神力が磨かれ高まる結果にもなるのです。

今日からブログ村「ライフスタイル・自由人」を<自分磨き>に変更しました。

2016年03月04日 | Weblog
自分に出来ることなら普通ですが、自分に出来ないことならば特別になります。
しかしその普通に出来ることを自慢に思うと特別になり自己満足になります。

ちなみに神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなる形を普通に出来る人ならば普通ですが、そこで人様に見せびらかして自慢すれば特別意識になりますし自己満足にもなります。

しかしそれら形を成す事の出来ない私には特別になります。
なのに其処で頑張ってマスターすると自己満足にもなるし、また無理した特別なことを成す事にもなります。
ちなみにハンドパワー・念力の類に誘われたことがありますが、手ほどきを受ければ習得できると判ったとたんどうでもいいことになりました。

ちなみに私は幼い頃より山や川や海で遊びほうけていましたがそれが普通でした。
しかし勉強となると苦手でしたから特別になりますが、その勉強をしなかったから、その勉強をしないことが私にとっては普通でした。

然るに自然界で遊ぶことは普通でしたが、特に学業の英数や音楽美術は苦手意識からして特別で、その勉強も特別にしなかったから成績が悪いのは当然でした。

と言うことは授業中に記憶理解できたことだけで終わり特別に勉強したことは殆どありません。

当然ながら成人してから現在までに勉強らしきことは殆どありません。
だから殆どが実際に見聞したことの記憶と理解だけでやってきました。

そして「覚えるよりも慣れろ」が私の特技でもあります。
また「何でも知りたがる、やりたがる」のが特徴でもありますから、その見聞知識と自己流と物真似とその創意工夫からして此れまでやってきました。

然るにそれが自力自信にもなっています。
だから他力よりも自力でやる事が多く、また自分に出来ないことが判っていることは(学業でも)無理しませんから、それだけに尚更私に必要だとも思いませんでした。

然るにこのブログも何の無理も無く普通です。
それも自分の中にあることを引き出して順序良く書くだけですから思考錯誤や葛藤はありません。

ところでこのブログ開設から1950日になりますが、その訪問者数は一日平均150人で閲覧数は500から700件です。
時たまに200人を超え1000件を超える時があります。

そんな中に「ブログ村」ランキングからして来られる人が増えていることからして、先日からブログ村バナー・ポイントを「人間・命」「スピリチュアル・メッセージ」「ライフスタイル・おだやかな心=(改め)「自由人」の三分割にしています。

その「自由人」を今日からは<自分磨き>再度変更しました。

然るにその応援もよろしくお願いします。

天地がひっくり返っても、欲張る人が幸せになることは絶対に有りません。

2016年03月04日 | Weblog
私とご縁があった人の息子さんがその知人に山田耕栄さんと言う「すごい人」がいると言ったら…すごいと言われる人はのちに物売りになる…と言ったそうですが、まさに現実となり摩訶不思議なファバラシールを販売するようになりました。

しかも耕栄さん自身が=結果じゃないよ、原因の意識にあり=と説いていたのに、その「結果が出る」ファバラを売り出したのですから矛盾します。

然るにご縁があった霊能者はエネルギーグッズの販売会社を設立しました。
然るに謙虚を言う伊勢白山道なる者も著書を売り出しました。
ちなみにスピ系ですごいと言われる人の多くが著書を売り出してるはずです。
然るに念力なるパワーを込めた念力水を集まった会員に売っている人もいます。

そのスピ系で言われている「引き寄せ」に関心はなかったのですが、私の書いている=意識が原因からしての必然ご縁の仕組み=を引き寄せに勘違いしているような人がいたので気になって検索したら、有るは有るはずらーっと並んでいました。

ちなみにカッコよく「引き寄せ」と美化していますが…思いを込めた念力が如くに意識して(欲張って)いる形になりますから、たまたまうまい具合に行ってもそのしっぺ返しが必ずあります。

然るに諸々の摩訶不思議に関わらないこと=触らぬ神に祟りなし=と書いているわけです。

何故なら自らが率先して関わることは「欲」絡みですから、その欲張ることで幸せになれるはずが無いからです。

然るに天地がひっくり返っても、欲張る人が幸せになることは絶対に有りません。

そこで気付いたことですが…自己縮小とは=欲張ってきたことを反省してそれらを捨てて元に戻る=ことだと気付きました。

ちなみに「裸で生まれて裸で死ぬ」のは持っていたものをすべて捨てることにつながっているのです。

然るに必然にして欲張ることがあっても(後生大事に守らないで)あとでしっかり返しておかないと(自己縮小しないと)そのしっぺ返しが仕組まれるのです。

そのしっぺ返しの多くが老後であり、また死に目にあうその死に際まで何かと噴き出してくるのです。

とにかくこの世で欲張って何か事を成しても、偽善の積み重ねや上塗りになるだけですから、早い内に自己縮小した生き方に修正しているほうがその分だけ楽だし、偽善の積み重ねのしっぺ返しも軽減されそうです。

特にスピ系のブロガーは己の偽善の積み重ねのみならず、その被害者を作る偽善の上塗りに(罪と罰の上塗りに)なりますから、その命意識エネルギーの使い過ぎからして老後が早まることを覚悟しておく必要があるようです。

ところで憂鬱な人、やるせない、虚しい、生きていることがつらい等と精神的ダメージを抱えている人は、見栄や欲の自縛・しがらみから離れる自己縮小のチャンスかもしれません。

そして自縛から解き放たれて=自由=を味わえば元気が出てくるかもしれません。

然るに自由に生きることがなければ心身が疲れるだけで人間人生を終えるだけです。

(孤独の自由)先陣先駆けた人がいたから、それが広まるのが道理にあります。

2016年03月03日 | Weblog
初期の南極観測隊が連れて戻れなかった南極犬が一頭だけ生き延びたのは仲間の共食いや死体を食べることで生き残ったことは間違いありません。

またアルプス山脈に旅客機が不時着に近い形で衝突遭難して十人前後の人が奇跡的に生き残れたのも、先に死んでいる遺体を誰かが食い始めたから残る者も真似をして生き延びることが出来たのも間違いありません。
然るにそれが嫌だとして遺体を食べなかった人は死んで、その遺体を皆に食べられたかもしれません。

ところで人間が死んでも、その遺体を犬畜生に食べられないように土の中に埋めるだけでよかったのに、
それではダメだと言い始めた占い師・魔術師・霊能者などの特別な者が出て来て、それらの言う通りのことを始めた者がいたから、それぞれの国や地域で異なる風習となって今日に至っています。

然るに大昔に大きな災いや疫病などが流行ったときや、また大工事・難工事を始める前に占い師・魔術師が人柱・人身御供・生け贄を差し出すことを言い出したからそれが広まったわけです。

だから超能力者が神懸かりと言われ崇め奉られたのも、誰かが=あんたは凄い=と言い出したことからして先駆け的に始まったからです。

然るに現在の国家社会・政治経済・教育指導や伝統風習や道徳観念や常識などの諸々も我先に先んじた者や私は正しいと主張堅持する者がいたことからして形作られたのです。

そしてその形に馴染めない者が世間の片隅に追いやられたり異端者や造反者や反逆者とされたり、
またそんな形をひっくり返したい者が現れて乱や維新や革命にもなりました。

然るにBライフ・サイレントテロなる形や山奥ニートと言われる形が始まっているのもその先覚者がいたからです。

ちなみに生涯独身を決め込んでいる者や離婚別居になっている人が増えているのも、自らが孤独の自由になりたいがためかもしれません。

ところが一昔前は離婚別居は恥だと言われて我慢辛抱する人が多かったのが、20~30年ほど前から向こう三軒両隣に離婚者がいる時代になっていますが、それも先陣を切り出した人が次々と増えたことからして恥が恥ではなくなり当たり前が如くになったのです。

とにかく書けばキリがありませんが、
個人の自由なくして生きていても死んだが同然の生き方に思えるような意識に変わり、国家社会・政治経済や人間関係に縛られることのない孤独の自由を求める人がどんどん増えてくるのは間違いありません。

然るに今は前兆的に先陣を切った者の氷山の一角が見えているだけですが、その底には大きな塊が隠れています。

しかもそれが表面に出てくるのに都合が良い状況環境・ネットワーク化になりつつありますから、これからもどんどん出てくることになるでしょう。

(家族葬):今の時代も先駆けた人がいたからです、だから新たな時代が始まるのも先駆け人からです。

2016年03月03日 | Weblog
昨日のことですが、新年度から縁が切れる予定になっている施設への米納入に地元に帰って娘孫や妻がいるところに立ち寄ると、先ほど甥が死んで病院から帰ったばかりだと悲しげで悪露悪露オロオロながら妻がいいました。

そこで本来なら葬儀法要に関わらない私ですが、たまたま地元に帰っていたのだから、仕組まれたと思い、そこで死に顔だけでも見て山に帰ることにしました。

そして家族親族が集まる中でお通や葬式には参列しないことをハッキリ言ってから帰宅しました。

然るに世間的・常識離れしたことを恥じることなく見栄張らずに世間体を思わずにしてしっかり伝えられました。

また甥本人も友達3人と私の過疎地に何度か来て自己縮小生活の話を聞いていましたから、その影響を受けたのか生前に家族葬でいいと前もって伝えていたのですが、妹が友達も呼べないのでは可哀想だからと、質素ながらも葬儀法要を行うことになりましたが、その甥の友達も私の影響を受けているから内内の葬儀で済ませることを常に言っている人たち3人ですから、弔いのお経をあげている最中にそっち抜きで山暮らしの話で盛り上がっていました。

然るに私がご縁あるごとに葬儀は無用と話していることが私の身近な人たちだけでなくその周りの人にも広く伝わっているから次第に家族葬で済ませると言う人が増えているのです。

だから先だって言う者・先覚者がいるから、それが世間に広まることにもなっているです。

ちなみに16年前に孤独の自由・自己縮小を初めたのも先駆けているのですが、今どきの若者も同じく孤独の自由を求める人が増えているのも宇宙の流れ・時代の流れなのです。

然るにこのブログは時代を先駆けているのです。

そして気付く者が静かにゆっくりと広まっているのです。

そして意識することでそれが現実化してくる仕組みがあるのも事実ですから、孤独の自由・自己縮小する者の集合意識からして更に世間に広がっていくのです。

とにかく特別意識の他力依存が強い人はそのままに惰性的な生き方になりますが、国家社会・政治経済・人間関係に関係なく、孤独の自由と自力で思うがままに生きることに目覚めた人ほど更なる生き様に変化していくのは間違いありません。

然るに孤独の自由を味わっているホームレスやニートやフリーターの意識も時と共に更に変化して、
然るに自己満足も不平不満も無くして、ただ「生きている」ことを味わえているだけで善しとなる意識の人も増えて行くことでしょう。

束縛制限支配や否定反発排除しない<愛>が伴っていなければ本物の自由・自由人にはなれません。

2016年03月02日 | Weblog
自己満足はすぐに消えて忘れますが、不平不満だけはいつまでも続きなかなか消えません。

すなわち解決し満足したことは忘れても、まだ解決していない自分に都合が悪いことになればいつまでも拘り執着するのです。

ちなみに私は自分を責めることも、また人様を責めることも無く、ただ自分に出来ることをやっているだけで満足していましたから何の問題も無かったのですが、
身近な人間関係や職業の関係からして相手の我がままを押し付けられたリ、相手の失態ミスに巻き込まれたりするなどの、人様の事情に私までが巻き込まれるのが嫌でしたが、その堪忍袋が切れるまでは何とかそのままにしていました。

ところが孤独の自由になった時に家族や世間の人間関係に巻き込まれないで問題なく平然と暮らしていけることの魅力・素晴らしさがあったのです。

然るに銭金や見栄では味わえない自由な開放感を味わえたから此れまで16年間続いたともいえるのです。

然るに先ずは自由になることから始めるのが基本と書いているのですが、すでに多くの人間関係がある人には中途半端な自由しかありません。
それでも自由だと思い違いしている人が多いことでしょう…

その自由であって自由でもない中途半端と言うことからして「二兎追っている」ことになります。

そこで己の自由を犠牲にして夫なり妻なり家族の為に尽くし切ることが出来れば自由が無くても納得できます。

そして夫・妻・家族がそれに応えてくれて、その夫・妻・家族も同じく自由を犠牲にして応えてくれれば、皆が納得してそのままが長く続きます。
しかし何やら夢物語に思えませんか…

然るに柵から離れた孤独の自由しかないのです。

そして夫・妻・家族も孤独の自由になればいいのです。

それが同じ屋根の下で可能ならばお互い様の関係で皆が孤独の自由にして一緒に過ごすことは出来ます。

しかし誰か一人でも異なれば違反者・造反者になって問題化しますから、此れも思い思惑の理想倒れになりそうです。

だから「どうしようもない」と書いているのです。

そのどうしようもないままにしてその惰性で生きて行くのか、それとも個人の自由にして心機一転した新たな方向に歩んでいくのか、その選択にもなります。

ちなみに現在独身であったり離婚別居で孤独の自由になっている人なれば素朴謙虚にして生きて行く実践は可能になりますが、
しかし金銭欲や見栄やプライドがあればそれも中途半端になります。

然るにホームレスやニートやフリーターになっている人も既に孤独の自由を味わっているのですが、しかし金銭欲や見栄やプライドがあれば精神的には中途半端になります。

また山奥ニートやBライフ・サイレントテロなる形であれば究極の自己縮小になりますが、しかし何かと否定反発することがあればそれも中途半端になります。

またそれらの者たちが集まり集団化・ファミリー化・コロニーやハーレムが如くになれば、そこで何かと取り決めたり指図する者が現れてきますから、それも中途半端になります。

ちなみに前回に書いた縄文時代のように、大きな集落の中で各々が孤立点在していて、それぞれが自由にして独自独歩で暮らしている人たちがいる、そんな集り集落なれば大した問題も無いでしょう。

とにかく束縛制限支配されない自由であっても、その中に否定反発したがる心意識・精神あればそれで中途半端になるのです。

然るに真の自由には=束縛制限支配や否定反発排除することのない愛意識が無ければ本物にはならないのです。

だから逆に孤独の自由を味わうことで愛意識を学ぶことにつながるのです。

だから私の場合は、ただ生きているだけのような中にも、愛意識を学ぶ実践をしている事になるのです。

神仏霊魂の世界・信仰宗教・スピ系・摩訶不思議の世界がインチキカルト同然になるのは…

2016年03月02日 | Weblog
一日中「嬉しく楽しく」生きることは絶対に無理です。
だから不平不満に思い悩み不安心配・腹立ち怒る・憎しみ嫉妬する時もある中で嬉しいこと楽しいことの自己満足があるわけだから、その苦と楽の混ざり合う中で日々を生きています。

要するに人間は不平不満と自己満足の中で生きていることになります。

それでは神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなる形は何のためにあるのでしょうか、
神仏霊魂を信じるため、教祖や超能力者・霊能者を信じるため、摩訶不思議を信じるためでしょうか、
また悩みや不安心配・恐れなどを癒すためでしょうか、
また思い望むことを成してくれるからでしょうか、

ところが人間なら誰も皆が不信感を持っています。
なのに信じたがるのはその裏に欲が隠れているからです。

何故なら欲が無ければ何ら信じる必要がないからです。
然るにそのまま・このまま・あるがままの成り行き・自然体になります。

とにかく神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなる形を成している輩にも当然ながら悩みや不安心配・恐れを持っているし、合わせて不信感も持っています。

なのに何でお偉い先生となって同じ同類を集めたがるのでしょうか、

然るに大欲があるからです。
となると大欲のある者が同じ欲のある者を集めていることになります。

そこで私に超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなるものを施し成せる術・技・能力があったとしてもわざわざ人を呼び込み集めることはしません。

しかし私を必然とする人がいてそのご縁が仕組まれればその場でもって私に出来ることを成す事があるかもしれませんが、しかし相手から金品の謝礼を受け取ることはありません。

また必然ご縁あってどうしても私が県外へ遠出する必要になれば、それは私が望んで遠出するわけですから、私の自費でもって出掛けますから相手からその費用や謝礼金を受け取ることは有りません。

然るに自分に出来る能力・技・術を出すだけだから(ビジネスではないから)金品絡みになることは有りませんし、自分から出掛けること選んだからにはそれを相手の負担にさせるわけにはいきません。

何はともあれ信じるか否かのある神仏霊魂の世界や不確かな摩訶不思議の世界をビジネスにするのは我欲・大欲です。

然るに無料相談や慈善奉仕ならともかく自分が生きて行く為の仕事・ビジネスとして不確かなことを金絡みにすることはインチキカルト同然になるのです。

然るに宗教とは言わないそのスピリチュアル関係も信じるか否かがあって信仰宗教と同じですし、不確かなことを成すことでそれをビジネスにすればインチキカルト同然になるのです。

ところで私とご縁があった霊能者の場合…私が見聞した限り…全国各地の霊場・霊魂を清める旅も自費で行動するのが当たり前でしたし、私とご縁があった人の為に東京から九州へ出掛けてくれたり広島や岡山へも来てくれましたが、そのご縁あった人から金銭の謝礼を受け取ったことは有りません。
ただ残念なことに…親しい仲間内からパワーグッズの物売り社長に祀り上げられました。

然るに霊能者の伊勢白山道なる者も霊魂の世界を金儲けにすることはインチキカルトになると自重して…ブログの中で無料相談が如き形で展開しています。
ただ残念なことに…太陽信仰からして月を悪としていること、また先祖供養が目玉になっているようで…今どきに似合わない古臭い内容に思えます。
また仲間内に勧められたのか…著作出版(物売り)で金儲けをしている形になっています。

とにかく「見えない世界」を金儲けにするなどの欲張りで愚かで邪な意識の人は、その意識が原因からして自分の首を自分で絞めることになるだけです。
然るに本人は自惚れ慢心からして人助けのつもりでいても、やがて己が人様・他力に助けてもらわなければ生きて行けないような状態・環境に陥り…人助けをしてきた私が何でこんなことになるのよ…と(ミイラ取りがミイラになり)しきりに悔やむことになりそうです。

何はともあれ良い悪いで判断しての不平不満と自己満足の繰り返しで生きていることに基本的な問題があるわけです。

然るに巷の見えない世界&摩訶不思議の世界&神仏霊魂や精神世界の諸々に関心を寄せなくても、それら真実事実を根堀り葉堀り書いているこのブログで十分です。

何たって矛盾偽善の無い完全なる宇宙・神・愛の仕組みを書いているからです。

矛盾偽善の人間関係からして=孤独の自由=自力自信の精神力が=人間の本命=となりました。

2016年03月01日 | Weblog
良い悪いで判断したことでそれが自己満足と不平不満になることからして素朴謙虚に生きる実践が言われる以前からの過疎地でもって孤独の自由を味わいながら素朴謙虚に生きることが今年で16年になります。

その中で自己満足になることをどんどん減らしていったことからして不平不満が出てこない、然るに食って寝て糞をしながらにして生きていることだけで十分になった経緯があります。

しかも健康で生きているからこそ生きているだけで十分になるのであって、それが頭痛耳鳴り目まいや内臓の調子が悪かったり足腰が痛むようなら、
それが憂鬱になったりイライラしたり生きていることが虚しくも苦痛にもなるのも当然だとわかりました。

そして同じ孤独の自由を味わっているホームレスやニート・山奥ニートやBライフ・サイレントテロなる形となれば自己縮小の極め付けにはなるが、一般的な普通とは違うから(誰もが簡単には真似できそうもないから)同じ自己縮小にしても中味が異なることもはっきりしてきました。

何はともあれ自己満足が麻薬同然であり、不平不満が諸悪の根源だと言うこともわかりましたから、先ずは自己満足の無い生き方の実践から始めるほうが賢明です。

それにはやはり見栄・世間体・プライドを捨てなければなりません。
その持っている過去を捨てるからこそ新たなことが仕組まれるのであって、それを後生大事に守っていれば過去を引きずったままになるのは当然です。

ちなみに心優しい夫や妻に恵まれて何の不自由も無い生活をしていれば捨て難しも当然ですが、
常に愚痴小言を言い合う仲だったり不機嫌な顔をするのが当たり前だったり自我を押し付け合う仲だったりすれば何の惜しげも無く捨てて孤独の自由になればいいのです。

それが結果に互いが持ちつ持たれつつ馴れ合いの他力依存から脱却できることになり…自力が身に付き生きる自信にもなって…お互いの為になるのは私の事例が証明しています。

もっとハッキリ言えば…孤独の自由にして生きるのが個人意識を持って生まれた人間の定めなのです。
それなのに寂しいから不安心配で怖いからと、また都合が良い時に便利だからと引っ付き合っている、その自力自信の無さが自分の首を絞めているのです。

然るに人が集まるところに出掛けたがったり、同じ仲間を作るために身近な人を誘ったり、また好きになった相手を情愛で誘惑したりしているのです。

だから同じ仲間なのに、また好き合った仲なのに、また同居しているのに、また夫婦なのに、何か事あるごとに我がままを通したり否定反発したり束縛制限したがるのです。

また生きて行く為の仕事や働きの中での人間関係が色々とあるでしょう…私も嫌と言うほど味わってきました。

そこで自分に自力自信があれば孤独の自由になれるのです。

そして自力自信のない者が他力依存で助け合うのです。
ところがいつまでも助け合うことは無理です…偽善だから心身が疲れるのです。

だから裏切り関係が成立しているのです。

ちなみに自己満足を求め続けて(私を巻き込んでの)我がままし放題だった私の妻は(貧乏くじを引いたとして)私が裏切ったことになっています。

しかしその妻のお蔭で現在があるし、その夫婦関係や子育て教育などで様々な見聞経験になりました。

そして矛盾偽善のあるこの世人間関係からして=孤独の自由=自力自信の精神力となるのが=人間の本命=となったのです。