自己満足はすぐに消えて忘れますが、不平不満だけはいつまでも続きなかなか消えません。
すなわち解決し満足したことは忘れても、まだ解決していない自分に都合が悪いことになればいつまでも拘り執着するのです。
ちなみに私は自分を責めることも、また人様を責めることも無く、ただ自分に出来ることをやっているだけで満足していましたから何の問題も無かったのですが、
身近な人間関係や職業の関係からして相手の我がままを押し付けられたリ、相手の失態ミスに巻き込まれたりするなどの、人様の事情に私までが巻き込まれるのが嫌でしたが、その堪忍袋が切れるまでは何とかそのままにしていました。
ところが孤独の自由になった時に家族や世間の人間関係に巻き込まれないで問題なく平然と暮らしていけることの魅力・素晴らしさがあったのです。
然るに銭金や見栄では味わえない自由な開放感を味わえたから此れまで16年間続いたともいえるのです。
然るに先ずは自由になることから始めるのが基本と書いているのですが、すでに多くの人間関係がある人には中途半端な自由しかありません。
それでも自由だと思い違いしている人が多いことでしょう…
その自由であって自由でもない中途半端と言うことからして「二兎追っている」ことになります。
そこで己の自由を犠牲にして夫なり妻なり家族の為に尽くし切ることが出来れば自由が無くても納得できます。
そして夫・妻・家族がそれに応えてくれて、その夫・妻・家族も同じく自由を犠牲にして応えてくれれば、皆が納得してそのままが長く続きます。
しかし何やら夢物語に思えませんか…
然るに柵から離れた孤独の自由しかないのです。
そして夫・妻・家族も孤独の自由になればいいのです。
それが同じ屋根の下で可能ならばお互い様の関係で皆が孤独の自由にして一緒に過ごすことは出来ます。
しかし誰か一人でも異なれば違反者・造反者になって問題化しますから、此れも思い思惑の理想倒れになりそうです。
だから「どうしようもない」と書いているのです。
そのどうしようもないままにしてその惰性で生きて行くのか、それとも個人の自由にして心機一転した新たな方向に歩んでいくのか、その選択にもなります。
ちなみに現在独身であったり離婚別居で孤独の自由になっている人なれば素朴謙虚にして生きて行く実践は可能になりますが、
しかし金銭欲や見栄やプライドがあればそれも中途半端になります。
然るにホームレスやニートやフリーターになっている人も既に孤独の自由を味わっているのですが、しかし金銭欲や見栄やプライドがあれば精神的には中途半端になります。
また山奥ニートやBライフ・サイレントテロなる形であれば究極の自己縮小になりますが、しかし何かと否定反発することがあればそれも中途半端になります。
またそれらの者たちが集まり集団化・ファミリー化・コロニーやハーレムが如くになれば、そこで何かと取り決めたり指図する者が現れてきますから、それも中途半端になります。
ちなみに前回に書いた縄文時代のように、大きな集落の中で各々が孤立点在していて、それぞれが自由にして独自独歩で暮らしている人たちがいる、そんな集り集落なれば大した問題も無いでしょう。
とにかく束縛制限支配されない自由であっても、その中に否定反発したがる心意識・精神あればそれで中途半端になるのです。
然るに真の自由には=束縛制限支配や否定反発排除することのない愛意識が無ければ本物にはならないのです。
だから逆に孤独の自由を味わうことで愛意識を学ぶことにつながるのです。
だから私の場合は、ただ生きているだけのような中にも、愛意識を学ぶ実践をしている事になるのです。
すなわち解決し満足したことは忘れても、まだ解決していない自分に都合が悪いことになればいつまでも拘り執着するのです。
ちなみに私は自分を責めることも、また人様を責めることも無く、ただ自分に出来ることをやっているだけで満足していましたから何の問題も無かったのですが、
身近な人間関係や職業の関係からして相手の我がままを押し付けられたリ、相手の失態ミスに巻き込まれたりするなどの、人様の事情に私までが巻き込まれるのが嫌でしたが、その堪忍袋が切れるまでは何とかそのままにしていました。
ところが孤独の自由になった時に家族や世間の人間関係に巻き込まれないで問題なく平然と暮らしていけることの魅力・素晴らしさがあったのです。
然るに銭金や見栄では味わえない自由な開放感を味わえたから此れまで16年間続いたともいえるのです。
然るに先ずは自由になることから始めるのが基本と書いているのですが、すでに多くの人間関係がある人には中途半端な自由しかありません。
それでも自由だと思い違いしている人が多いことでしょう…
その自由であって自由でもない中途半端と言うことからして「二兎追っている」ことになります。
そこで己の自由を犠牲にして夫なり妻なり家族の為に尽くし切ることが出来れば自由が無くても納得できます。
そして夫・妻・家族がそれに応えてくれて、その夫・妻・家族も同じく自由を犠牲にして応えてくれれば、皆が納得してそのままが長く続きます。
しかし何やら夢物語に思えませんか…
然るに柵から離れた孤独の自由しかないのです。
そして夫・妻・家族も孤独の自由になればいいのです。
それが同じ屋根の下で可能ならばお互い様の関係で皆が孤独の自由にして一緒に過ごすことは出来ます。
しかし誰か一人でも異なれば違反者・造反者になって問題化しますから、此れも思い思惑の理想倒れになりそうです。
だから「どうしようもない」と書いているのです。
そのどうしようもないままにしてその惰性で生きて行くのか、それとも個人の自由にして心機一転した新たな方向に歩んでいくのか、その選択にもなります。
ちなみに現在独身であったり離婚別居で孤独の自由になっている人なれば素朴謙虚にして生きて行く実践は可能になりますが、
しかし金銭欲や見栄やプライドがあればそれも中途半端になります。
然るにホームレスやニートやフリーターになっている人も既に孤独の自由を味わっているのですが、しかし金銭欲や見栄やプライドがあれば精神的には中途半端になります。
また山奥ニートやBライフ・サイレントテロなる形であれば究極の自己縮小になりますが、しかし何かと否定反発することがあればそれも中途半端になります。
またそれらの者たちが集まり集団化・ファミリー化・コロニーやハーレムが如くになれば、そこで何かと取り決めたり指図する者が現れてきますから、それも中途半端になります。
ちなみに前回に書いた縄文時代のように、大きな集落の中で各々が孤立点在していて、それぞれが自由にして独自独歩で暮らしている人たちがいる、そんな集り集落なれば大した問題も無いでしょう。
とにかく束縛制限支配されない自由であっても、その中に否定反発したがる心意識・精神あればそれで中途半端になるのです。
然るに真の自由には=束縛制限支配や否定反発排除することのない愛意識が無ければ本物にはならないのです。
だから逆に孤独の自由を味わうことで愛意識を学ぶことにつながるのです。
だから私の場合は、ただ生きているだけのような中にも、愛意識を学ぶ実践をしている事になるのです。