孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

信じる裏に<欲>があり、然るに生き辛いことにもなっている事実があります。

2014年03月26日 | Weblog
他力に依存することの不完全さは、その他力を信じる裏に不信感が隠れ潜んでいるその矛盾からしてです。
然るにそれが信じるか否かになり、その裏に善悪&優劣&損得で判断してその良いとこ取りをしたがる裏心が潜んでいて、然るに自分に都合が良いか悪いかの判断が加わっています。

然るに損するか得するかの損得計算からなるその欲絡みなのです。

然るにその欲が無ければ絶対的に信じるか否かになりませんで、そのまま・このまま・あるがままにほっときます。

だから他力を信じて頼るのも欲からしてです。
然るに特別な神仏霊魂を信じて頼るのも欲からしてです。
また不確かな見えない世界&精神世界&神懸りを信じるのも欲からしてです。

ちなみに巷の冠婚葬祭に信じるか否かの神仏が係わるのも、その神仏を信じることで自分の都合が良くなりたいその欲絡みからです。

だから私はその不確かな矛盾のある神仏霊魂が係わるその(欲得&見栄世間体&欲絡みの)冠婚葬祭の必然性か見当たらない違和感からして(完全真理の実践意識からして)その参加参列をやめています。

ところで(皆さんは)己の死後にお寺さんや教会の祭壇に祭られるその葬儀を望みますか、
また多くの花輪献花や供養物に飾られ、そして多数のお坊さんに見取られながら、またご縁のあった多くの人から別れを惜しんでくれることを望みますか、
また死後の戒名が必要ですか、また命日などの法要を望みますか、然るにお墓や仏壇に祀られることを望みますか、

然るに何故ですか? 何の意味があるのですか?
またそれらの必然性に自信確信納得できていますか?

然るに己の意識が原因からして死後も成るようになるだけなのに、何で不確かな矛盾のある神仏霊魂の他力を信じてまで(欲張ってまで)自分の都合が良くなることを願うのでしょうか、

然るに己に自信が無いから(不確かでもいいから)(念のために)(信じている振りをして)その他力で補いたいその欲からしてでしょうか、

となれば精神世界に係わることで己の自力自信精神力を高め磨くことでは無くして、信じるか否かの他力を信じて頼って自分の都合が良くなりたいために(その欲のために)係わっていることになり、然るに自力自信精神力の欠如した信者意識&信仰心となります。

然るに信じているその裏が出れば裏切りになります。
ちなみに私が信仰宗教や冠婚葬祭に馴染めずに違和感を感じていたことは、どうやらその信じることの間違いに気付いたその過去性を持っているようです。

そこで信じていなければ成るようになるだけです。
然るに自然体にして(欲の無い)成り行き任せになります。

ところが欲張るほどに心身の疲労&ストレス&心の痛みが伴います。

また信じて頼るその他力に依存期待することで(思い通りにならずにして)(期待を裏切られて)精神心を乱すことになり、然るに不安心配や怒り恨み妬みジェラシーが伴うことにもなります。

然るに安心安全の心持&生き様が味わえずにして、然るに生きてはいるが事実にして生きていない、然るに生き辛い日々の繰り返しがいつまでも続く事になります。