昔から精神世界に身を置くためには仏門に下ったり入信するのが定番でしたが、今ではその道の専門的な著書を購入したりまたネットで検索してそれらの文書を読んだり、また講演会に参加したりして学び知ることが出来るようになりました。
しかし仏門に下ろうが入信するも様々に見聞するも大方がその知識を溜め込むだけで本来本物の実践には至っていません。
然るに不確かなことを信じて崇め願い頼ることが精神世界の実践に思っています。
だからどうしても他力的になりそれが思惑理想や目的期待にもなっています。
然るに棚から牡丹餅が落ちて来るのを待っている形になります。
ところで伊勢白山道なる者が唱える三本線香の先祖供養を実践して良い事が起きたと喜んだ人が身近に二人いましたが、しかしその後で起きた悪いことはその先祖供養に関係無い別物に思っているその矛盾があります。
然るに信じて続けていても良い事ばかり続くわけでは有りませんから、その良い事もあれば悪い事もあるその矛盾に気付くことからしてその伊勢白山道が言う先祖供養から離れていきました。
然るにそれが他力依存のご都合からしてコロコロと変わる信者意識なのです。
だからこのブログに書いているように、不確かで矛盾することを信じていてもその結果も矛盾して出てきますから、然るに信じるか否かのある、またアメとムチがある、そんな矛盾した精神世界に係わっても無駄なのです。
その伊勢白山道から離れた一人が(此れまで幾つか渡り歩いてきたその経験からして)新たに気付き目覚め、そこで神仏霊魂&精神世界&真理に係わることは無駄だと確信し悟りました。
然るに他力依存的な信者意識で何度繰り返してもそれが無駄に終わることを自覚できたわけです。
然るにその無駄なことを何度か繰り返すことでそれが無駄だと悟ることが出来たわけですから、然るに精神世界を意識し続けていたからそれまでの無駄が無駄では無くなったわけです。
またそこで精神世界を意識することをやめるわけではなくて、それら形集団に自らが係わることをやめる意識になったのです。
然るに独自独歩になるわけです。
しかし欲張らない実践意識になれなければあらゆる苦楽を味わい続ける事になりますが、精神世界を意識し続けているからにはいつしか欲張らないことに気付いて実践するようになるその可能性があります。
しかし仏門に下ろうが入信するも様々に見聞するも大方がその知識を溜め込むだけで本来本物の実践には至っていません。
然るに不確かなことを信じて崇め願い頼ることが精神世界の実践に思っています。
だからどうしても他力的になりそれが思惑理想や目的期待にもなっています。
然るに棚から牡丹餅が落ちて来るのを待っている形になります。
ところで伊勢白山道なる者が唱える三本線香の先祖供養を実践して良い事が起きたと喜んだ人が身近に二人いましたが、しかしその後で起きた悪いことはその先祖供養に関係無い別物に思っているその矛盾があります。
然るに信じて続けていても良い事ばかり続くわけでは有りませんから、その良い事もあれば悪い事もあるその矛盾に気付くことからしてその伊勢白山道が言う先祖供養から離れていきました。
然るにそれが他力依存のご都合からしてコロコロと変わる信者意識なのです。
だからこのブログに書いているように、不確かで矛盾することを信じていてもその結果も矛盾して出てきますから、然るに信じるか否かのある、またアメとムチがある、そんな矛盾した精神世界に係わっても無駄なのです。
その伊勢白山道から離れた一人が(此れまで幾つか渡り歩いてきたその経験からして)新たに気付き目覚め、そこで神仏霊魂&精神世界&真理に係わることは無駄だと確信し悟りました。
然るに他力依存的な信者意識で何度繰り返してもそれが無駄に終わることを自覚できたわけです。
然るにその無駄なことを何度か繰り返すことでそれが無駄だと悟ることが出来たわけですから、然るに精神世界を意識し続けていたからそれまでの無駄が無駄では無くなったわけです。
またそこで精神世界を意識することをやめるわけではなくて、それら形集団に自らが係わることをやめる意識になったのです。
然るに独自独歩になるわけです。
しかし欲張らない実践意識になれなければあらゆる苦楽を味わい続ける事になりますが、精神世界を意識し続けているからにはいつしか欲張らないことに気付いて実践するようになるその可能性があります。