孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自己拡大でカッコ良く生きていても失う事になり、カッコ悪く死する時が来ます。

2012年08月10日 | Weblog
自己縮小の必要性を書いている私ですが、その自己縮小という言葉を完全真理から知る以前に、持ち前の知りたがる・やりたがる意識の先覚者的感覚と遊び感覚からして既に過疎地暮らしが始まっていたのです。

そして結果的に仕事や世間離れ、しがらみ離れ、家族離れ、人間離れしたような格好になっていったのです。
すなわち遊び感覚から自由と孤独を味わう事になったのですが、その自由と孤独を味わっているなかにその世間離れした生活自体が懐かしくもあり、また一味違った新鮮な味わいにもなり、過去の贅沢三昧とまた違ったものが見出せた感じになったのです。

そしてその自由と孤独からして「カッコつけ」しないままの非世間的な呑気気楽が私の性分・性格に似合っていたのです。
そしてこの世の人間関係で私が気疲れ・ストレスを抱え込み積み重ねていた事に気付くことが出来たわけです。
また過去にあったものが無くなった事で自力を多く使う質素素朴を味わい知ることにもなったのです。

だから完全真理を知らなくても既に自己縮小を味わう生活になっていたのです。
すなわち自然体といわれる「成り行き任せ」の必然ご縁の仕組みからいつの間にやら(無理なく)成ったことなのです。

そしてブログに書いているわけですが、その自己縮小の必然を知った人がそのままに実践する事になるのに相当な無理があることも書いています。
はっきり言って(無理に成すことでもなく)(憧れ念願することでもなく)(実感で味わったわけでもないから)(実践の思いだけでは)大方の人がダメなはずです。
だから「有事」によってそのままに自己縮小に進んでいければまだましな方だとも思っています。

と言うのも、このブログで書かれていることや講演会や単行本などで学び知っても実践は別物ですから、その別物・実践をほっといておいて、此れまでの知識教養を溜め込んでいたその頭の中の豊富な(思い考え想像し憧れ期待する)「思い」を暇さえあれば巡らして続けて生きているようなところがあるからです。
しかも自分の手足や知識を使って自力で実際にやったのと違って、人為で創作された著書や映画やドラマや小説に描かれているのを見聞して、その「思いを馳せる」ことになると、次第にその思いを超えたより大きな変化刺激が求められるようになります。

だから「食って寝て糞をする生活」の事実だけでは物足りなくなると(不満になると)、それを満足させるが如くに「捕らぬ狸の皮算用」にして、その自分の欲する思いを先立てる思惑理想目的期待を持って生きることが多くなります。

ところが「食って寝て糞をする」だけのような簡素・質素な生活を実際に続けていると他にすることが何も無いことからして、(絶対的にして)その生活本体・正味・価値を実感でもって味わう事になります。

そこで過去の「思い」で生きていた当時のことが苦楽・気苦労になっていた事実に気付き、そんな「思いの世界」で生きることよりも「食って寝て糞をする」というその事実だけで生きていくことの真価・価値を実感でもって知る事になるのです。

その「思い」で生きる事が減ることからして尚更に不完全意識のその人間関係を気にしないで生きていけることにもなったのです。
だから成り行き任せの必然ご縁に限られた事実関係・人間関係で十分にもなったのです。
そしてむやみに他力に頼らなくなったことからして、その他力依存が自己拡大につながっていた事実にも気付いたのです。

それでも当初の頃は、自分だけこんなことをしていて良いのだろうかというような自分勝手な生き方に後ろめたさもあったのですが、完全真理で執着の無い素朴な無理の無い生き方が言われたことで(先取り先覚意識が功を成した結果になり)自信確信にもなったわけです。

そして過去の釈迦やイエスらやの神がかり奇跡を成す人やを憧れ敬い祀り上げたり偶像化して、その「絵に描いた餅」を眺めていたりまた他力依存で信仰・信頼していても「棚から牡丹餅」が落ちてくるようなことにはなりません。

またこの世でカッコつけていたものを捨てることが出来ずにいても、この先の有事や真坂の有事や大きな人災や天災で失うことにもなるし、また死すると必要なくなることですし、それを知っていても何故か手放せないでいるのが正直なところでしょうが、その守り意識からして孤独と戦う事になったり、また病気と闘う闘病生活になったり、また「わらにもすがる」ような思いで難手術や生体移植を受けたがることにもなったり、また少しでも長く生きていたい延命を望んだりしながらも、それでも遅かれ早かれ死する時が必ず来ますから、そんな欲望・願望と併せて苦痛不安恐れのその顔立ち・有様・カッコ悪いさま・醜さを人様に見せながら(見守れながら)死ぬことよりも、私なら成り行き任せに生きて、死する時も成り行き任せにして、その安心安全の心持で人知れず迷惑をかけずに静かに死ぬことを望んでいるわけです。