孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

何で、何でそうなるの。それが意識が原因の必然ご縁の成り行きの結果です。

2012年08月19日 | Weblog
何度も書くことになりますが、私が自己縮小したくて過疎地で単身生活する事になったのではありません。
また幾重の偶然(必然)の積み重ねが無ければ私が過疎地で暮らすことには絶対的になかったのです。

ところで「成り行き任せ」や薄情にも「ほっとく」ことが書かれていますが、これとて完全真理を理解してのことではありません。
幼いころから放任されて(ほっとかれて)成長して来たのと遊び好きから、高校卒業までに学び知ったことは英数字の読み書きと掛け算と割り算くらいですし、その他の科目も同じようなものです。

だから就職も結婚も、また妊娠出産も、その育児教育も、その時々の結果に対して今の自分の能力に見合ったことはするが、それを超えたことを無理する気もないから、自ずと成り行き任せに「ほっとく」ことになったのです。
だから結婚後は世間的しきたりを妻任せにして、自分に出来る仕事と家族と遊ぶことことしかしていません。

その無能・無知の反動からか、先駆け意識の先行逃げ切り形が得意となり、次々と先取りし上塗りし乗り換える事になりましたが、それも知らないことを知りたがる、そしてやりたがることから仕組まれたことであり、また欲目が少ないことからして乗り継ぎ乗換えが早かった事実があります。
だから過去の自己拡大の結果・形を惜しむことなく、その成り行き任せからいつの間にやら過疎地で単身生活することになったのです。

その過疎地に移住するまで、ご縁あった人に医科学の弊害副作用や環境や健康に関していろいろと助言アドバイスしたり、摩訶不思議なエネルギーに関しても同じく、積極的に知り合いや親戚で病や怪我で困っている人に推薦したり高額商品も無料配布しましたが、それも結論から言えば「成る人より成らない人」が多いのに、ネットの情報掲示で仕組まれた必然ご縁の見知らぬ人のほうに不思議なくらい結果が出たのです。

すなわち物質的であれ精神的であれ「必然」とする人にその「ご縁」が無ければ、私が先んじて何を企み企て成しても意味を成さない結果に終わるその無駄に気付いたのです。
だから情報公開やブログを書くことが多くなったのです。

そして物質で結果が出たり精神世界のことが理解できて「新発見だ」「始めて知った」「目から鱗が落ちた」「本当だったのね」となっても、次の新たなことにはチャレンジしなかったり、チャレンジしても次第に関心が薄れてそれ以上に進まないままになっています。
だから(私にすれば)「何で」となるわけです。
そこで「来るものは拒まず去るものは追わず」の心境になったのです。

人それぞれの意識が原因からして、絶対的に人の為になると思ったことが人の為にならずの結果になれば、成ることも成らなかったことになりますから、その成らなかったことはどうしようもないから後は必然ご縁に任すしかない、だからどうすることも出来ないことになれば「ほっとく」しかないのです。

それが身近な人や家族関係の中での世間一般的な諸問題であってもまったく同じ様な結果に成るだけに、やっぱり「ほっとく」しかなかったの
です。
そしてその方が余計な無理も無駄も無く楽ちんで利口なことになるのです。
すなわち不完全意識の者同士がどんな事をしても不完全な結果に終わるのです。

だからご縁あった人を影ながら見守り意識していているだけになるのです。
そして再度必然ご縁があることを待っているのです。
そして再度ご縁が出来てもまたそれ以上には進めないでいるのです。
だから完全真理になってからはメールさえも送る人がいません。

しかも耕栄さん信者・ファバラ信者とも言えそうな人までが先祖供養に心引かれる有様ですが、そこで「何で」となり、そして気付くまで「ほっとく」ことになるわけです。

だからこのブログは知ったことをそのままに書いていることよりも私の中で実際に起きたことや気付いたことや繰り返し感じていることを書いています。
ただ残念なのは「私のもの」であることです。
そして私が不完全意識の持ち主であることです。
だから幾ら書いても無駄な気がしていますが、此れも暇つぶしですからどうってことないわけです。
と言うことからして「お付き合いありがとう御座います」となります。