孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

人様からの「有り難い」ことを、相手に「ありがたい」と思われることで返す信頼関係

2009年11月04日 | Weblog
人様からの「有り難い」ことを、相手に「ありがたい」と思われることで返すキャッチボールが信頼関係になる。

過疎地で田舎暮らしをするようになってからは、人様から物を頂くときに「素直」に頂けるようになりました。
以前の街中に住んで豊かに暮らしていたときは・・・義理で返して、またその義理が返ってくるような義理返しで頂くものが多いかっただけに、思いがけない名品・珍品・希少価値品や有れば役立つものや欲しかったもの以外は余程のことでなければ義理の感謝を言うだけで本当の喜び感謝にはなりませんでした。

ところが・・・見栄や世間体を捨てて暮らすようになってからは・・・たとえ村八分にされようが平気でしたので・・・最初に移転してきたときの儀礼「挨拶回り」もしていないし、に葬式が出てもお悔やみの一つも出さずじまいで平然としています。

そんな私なのに・・・わざわざ先方から出向いてくれた人がいれば、それが必然・ご縁ですから・・・その必然・ご縁から物を頂くことになったときは・・・それが余り物であれ、たらい回しの品であれ、よほど無駄にならない限りにおいては、頂けるものは有り難く喜んでいただくことが出来るようになりました。

すなわち・・・私からお上手した訳でも売り込んだわけでもない上に・・・義理人情のない不義理・世間常識はお構いなしの変人と思われても当然な・・・そんな気まぐれで自分勝手な私に先方から出向いてきてくれたことは必然・ご縁だけに・・・私のことを気にして「気遣って」くれているのが分かったり、ご足労をかけてまで届けてくれていることに「ありがたい」気持ちになれるからです。
偉そうに言えば・・・物ではなく心を頂けるようになったのです。

そして頂いた「ありがたい」ことはアリガタイで返すことを意識していますから、先方に「私が必要」になって頼まれることでもあれば、それで私が役立つ事になるわけですから、気安く喜んでお手伝いが出来るし、相手側も助かっているわけだから笑顔で応対してくれるから、そのお手伝いが楽しいことにもなり、炎天下であれ疲れることも不平不満になることもないのです。
すなわち・・・義理で返礼したり、必要とされていないのに出向いてお手伝いをするのではなくて・・・暇で退屈している「私が必要なとき」が来たら遠慮気兼ねなく呼んで下さるような信頼関係になることを意識して実践しているのです。

だから此れまでに(ご近所では)・・・上のおばさんと下のおばさんには信頼関係が進んでいます。
そして最近になって(9年目にして)・・・上のおばさんが山田耕栄さんの講演会テープを聞きたいと言うことになり、そのMDプレイヤー」と50本を超えるデスクをお貸ししていますが、どうやら真剣に集中して毎日聞いているようです。
それに関しても・・・私が時たま話す真理の話に興味を持っていたの知っていても、押しかけ・押し売りは一切していなくて、縁あってお会いした時に話しかける程度でした。
・・・上のおばさんの次に下のおばさんにMDセットが行く予定になっています・・・

それでも(真理の仲間と接することやブログの書き込みを含めても)暇で退屈していますから・・・余ほどのときは何度かシルバー人材センターに(売り込み)登録したくなるのですが・・・そんな時になれば・・・必然で仕組まれて別なの人から草刈や畑仕事や炭焼きのお手伝いを頼まれたりしてきましたし、退屈しのぎに始めて犬の散歩に出かけたときに出会った人の仕事にご縁が出来たり、その仕事(土木の請負)のご縁が切れたときは・・・その仕事に出かけた所の主人が私を気にしていたのか・・・(その元雇い主から先方の話が回ってきて)ピンチヒッターで手伝って欲しいということになり・・・現在は産業家畜の牛の餌やりにその主人と二日交代で一日に二回の割合で牛の世話をしています。

(そのお仕組みご縁の必然によって)暇で退屈していたのがその分だけ減った上に、先方からは毎日の苦労が無くなったと喜ばれ、短時間だからとバイト代も弾んでくれるし、気遣ってお米や肉を頂いたりしていますから・・・ このような必然・ご縁に恵まれることは「ありがたい」ことになっています。

私は年金の5万円の生活で満足していますから・・・ただ暇をもてあましているだけですから・・・また自らが働き口を捜し求めたわけでもないから・・・ 以前の土木関係のご縁のときは半年間の間に必然性と信頼関係が消えたことから、そこで私が無理に無理を重ねることも無いことから(仮病の腰痛で)一旦休止する事にしたが、それがきっかけでその仕事のご縁が途絶えることにはなったのですが、今でも日常の関係は平常に続いています。

だから・・・世間的な雇用関係ではなくて・・・必要とされ信頼されている限りは少々無理でもその必然・ご縁の関係を続けることが出来るのですが、雇用主に一方的な過ぎた欲が出たりすれば(信頼関係が感じられなくなり)次第に寄り添って付いていけなくなり、その必要性・必然・ご縁が遠のく結果になります。

この世の中は意識が絡み合っていますから・・・「欲」が絡めば当然その欲の絡み合う者同士の中での必然ご縁が起きますから、その結果は当然ながら「欲」が渦巻く渦中に入り込むことになります。
だからその欲の渦中の人間関係(恋人・夫婦・家族を含めた人間関係)や社会組織(会社・経済・政治などの組織)からなかなか抜け出せないで困ったことにもなっているのです・・・それがこの世です。

すなわち・・・この世は(すべて意識でつながっていますから)単純明快でして・・・意識していることに必然・お仕組み・ご縁が起きて・・・当然その仕組み・ご縁のレールに自らの意識が乗っかって歩んでいくだけです。
だから・・・今の現状状況は・・・自らの意識が原因で起きている自己結果なのです。
・・・だから普通なら「未練」も「後悔」も無いはずです。
しかしそれでも満足していないのであれば・・・それは思惑・期待・理想・叶わぬ夢・・・すなわち「欲」を持っているからです。

そして・・・この世の有様は・・・皆の欲の集合意識が表れている結果なのです。
・・・だからそれを諭す宗教・思想哲学・真理などがこの世に必然で存在しているのです・・・
しかしそれらが不完全であれば不完全しか生まれ育ちません・・・それが歴史に現れています。

・・・だから有史以来の新たな「完全」なる完全真理を意識実践しているのです・・・
そして私の意識の中には・・・矛盾に満ち溢れた不完全な世間のことは「どうでもいい」ことになっていますから、見栄や世間体や過去のしがらみから喜怒哀楽や生老病死などの未練も執着も殆ど無くなり、趣味嗜好娯楽も無くなりましたから、その分だけ暇で退屈している時間を有効に使い、一人でも多くの人と世間の常識・伝統・風習・道徳の垣根を越えた信頼関係に進んでいけるように意識していますから・・・来るものは拒まず、去るものは追わず、急ぎ焦らず騒がずの自然体で実践できるようにも意識しています。

その結果・・・不完全なこの世に「完全」が出た限りにおいて、必ずこの世は「完全に成る」と言うことに気付き知ることが出来たのです。
だから・・・私が此れまでのご縁お仕組み・必然のレールに乗っかってきたことが間違いではなかったことになり・・・その必然のお陰様に恵まれてきたことに有難い感謝があるのです。