孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

守り闘わない「調和」があれば、被害が被害ではなく、病気が病気ではなく、死が死ではなくなります。

2009年11月17日 | Weblog
「調和」とは・・・良いも悪くも無い丁度いい加減の状態を言いますが・・・それが「愛」でもあります。
「妥協」は・・・良いと思う人と悪いと思う人が寄り集まって妥協策を講じている結果ですから必ずしも「安定」していません。
だから・・・今まで良かったことが悪いことになったり、その反対のことも起こっているわけですが・・・それが愛ではなかったからです。
そして「否定・反発」することは妥協も調和もありませんから・・・愛から離れていき孤立します。

「調和」の愛には<特別>がありませんが、妥協や否定反発には「守る」べき特別なことがあります。
それを「守る」ということは外部に敵がいなければ成立しません。
その敵に当たるのが・・・自分以外の他のものですから・・・絶対に「調和」することはありません。
・・・すなわち愛の無い状態で生きていることになります。

だから調和が無いから・・・良いことも悪いことも繰り返し続きます。
だから・・・喜怒哀楽・生老病死を気にして良かったり悪かったりしますから・・・その良いとこ取りするために常に闘っています。

だから・・・特別な人も否定反発する人も妥協する人も・・・心が安らぐ暇もありません。
せいぜい・・・良い思いをしたことを・・・満足したと思い込む自己満足やそれを自己主張するくらいで手一杯な人生になります。

調和のある人は・・・良い悪いの判断が無いから何事の結果にも動じません・・・「あるがまま」です。
雨が降ろうが矢が降ろうが、雨不足の干ばつや大雨の洪水が起きても動じません。
病気になろうが死に掛けていようが、いま生きていることにお陰様の感謝やお互い様の心・意識でもって、いま生きていることを活かしているからです。

そのお陰様とお互い様があるから人を責めたり、そして不平不満に成ることもありませんから、いつも平常心でいられます。
その平常心でいるから守り闘いません、守り闘わなければ敵は存在できなくなり、愛が出てきます。
すなわち・・・被害が被害ではなくなり(お互い様になり)。 病気が病気ではなくなり(薬剤に頼らないで自力・治癒力・生命力・意識エネルギーの愛のお陰様で回復することになり)。 とうぜん病気と闘わなければ死とも闘わないことから(死の不安や恐怖がなくなり)肉体の死が・・・すべての死・・・ではなくなるのです。

その死が死ではなくなれば・・・新たに生まれるしかありません。
だから「0」で終わるのではなくて「0」から新たに始まり10にも100にもなっていけるのです。

しかし「0」になることを恐れていると・・・せいぜい「9」まで止まりで10や100には成れません。
だから衣食住や財や名誉名声・権威権力を失い無くなることを恐れ、死や病気を恐れることにもなっています。
すなわち・・・失い無くなっていくことを不平不満・不安心配に思い、そうなる事に「恐れ」を持って生きていることになるのです。

しかし・・・「恐れ」を持っていれば「生きた」心地がしません。
そこで好きな嗜好趣味娯楽に興じることや夢や希望を持っていなければ生きてはいけません。
ところが・・・それら手にすることに意識がいけば今の不安・恐れから逃避は出来ますが・・・(良い悪いで判断している限り)以前に増してそれ以上の不平不満や不安心配や苛立ち恐れを抱え持つようになります。
だからまたそれ以上のこと(強い刺激)を捜し求めて生きることを繰り返すことにもなっています。

・・・すなわち・・・生きてはいるが・・・生きた心地がしていないので・・・死んだも同然の状態になるのです。
その内に・・・それら困難なことに取り組んでいることが生き甲斐になって(生きていると思える証になって)(我が身を苦しめることで生きていることを確認したがることになって)・・・理想や夢に向かって鍛錬試練に耐えることや波乱万丈の人生を歩むことを選んで、その成功を自慢したがるか、失敗を卑下したがるかの・・・その両極端な(良かったことや悪かったことの)生き様を人に見せつけようと自己主張することにもなっています。

しかし・・・それらの原因を見ずにして結果だけを見て・・・そんな人を憧れ羨ましがったり、真似したがったり、反対に妬み逆恨みすることになったり・・・
また・・・蔑んだり、気の毒に思ったり・・・また救い助けてあげたくなったりしていますが・・・そう思う自らが「良い悪い」で判断していることに気付かないかぎり(調和にならずに)・・・あらゆる努力が自分の為でも人の為でもなくなり・・・ただ浪費と混乱が続くだけになります。

それを例えれば・・・ニュース報道で熱心に救済援助奉仕貢献・金集め人集めに関わっている人や、娯楽番組で波乱万丈の人生を紹介したり、学校を建てたりする取り組みを見ていると・・・それらの人の真剣な努力や生き生きとした表情を見たりしていると・・・そんな真似は到底ながら私には出来ないことだけに、頭が下がる思いもするし心打たれて涙も出てきますが・・・★じゃそれで此れから先はどうなっていくの?・・・となると・・・形は変わっても(一時しのぎの)矛盾や妥協のある此れまでと同じ繰り返しが見えてくることから・・・無駄に思えるのです。

すなわち・・・善意と言われる形で何千・何万・全ての人が救われ助かっても・・・ また全ての人の教育が同等になっても・・・ 良い悪いを持たない調和の意識になっていない限りにおいては・・・逆境から助かったことや知恵が付いたことがアダとなって・・・経済発展で更に自然破壊が進んだり、また増え続ける問題・不平不満を解消すべき反体制派になって世情を混乱させることになったり、以前に増して比較競争が激しくなりその勝者を目指すことで起こる貧困格差や、無いものを欲しがり奪う侵略・戦争にもなり、その被害者が仕返し制裁・報復テロをするような・・・これまでの繰り返しが形を変えて増え続けるだけです。

だから・・・やっぱり根本的な個々の意識改革が先になければとなり・・・今の私に出来ることとして・・・「完全真理」のことをブログに書き込んでいるのです。