孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「知った」ことを「やる」のが「生きる」こと

2008年10月03日 | Weblog
延々と長らく良い悪いで判断して人と比較競争してきたから負けることを嫌います。
だから人様が失敗するのが自分には都合良く思える醜い心が隠れています。
人の不幸をみて、(自分で無くて)自分が幸せに思えるときがあるように、人の不幸・失敗が自分の幸せになる・・・そんな醜い心を隠し持っているのが私・個人意識です。

だから人様の幸せそうな様子を見て“よかったね″と思う反面、その幸せが「自分」ではなかっただけに、幸せそうな相手を見て(心の中で)何故か反動的になり、羨み妬む嫉妬の心になったり、悔しい思いになったりして、・・・その人がいつか何処かで何か失敗して困ったことになるのを思い浮かべるような・・・醜い心を隠し持っているものです。
・・・我が子夫婦・肉親はもとより、友人知人仲間内の人にさえ隠し持つ心です。
・・・世直し人助けを思い願う聖職者・宗教家も持っています。
・・・心底を探れば空恐ろしいほどの心を隠し持っているのが人間です。
見せ掛けの笑顔微笑を見せた後に・・・心の奥に潜んでいる醜い心が出てくるのです。

そして人様から被害を受けたときの悲しみの奥に憎しみ・怒りのあだ討ち仕返し報復復讐心を持つことが正しい正義になり、「私が正しい」と思っているから平気で制裁や処刑を求めたり、見境無く自爆テロまでして正義正当性を主張誇示したりもできるのです。
「私が正しい」から出る怒り(破壊衝動心・破壊意識)や嫉妬・復讐心が如何に恐ろしい心なのか、そのことにまったく気付いていないようです。

心の病気である不平不満・不安心配・怒りの原因に必ず「私が正しい」があるのです。
そしていつも私は正しいと思っていたいから、誰もが「負ける」のはいやなのです。 
まして完全に負けるのが非常に怖いから、たとえ自分が間違っていても必ず正当化・言い訳を繰り返しながら粘り続けて言い張り、何かと決着をつけないままに中途半端な妥協で終わらせたり、また途中で投げ出して(逃避して)うやむやにしておいて、それさえも言い訳正当化して自分なりに自己満足・納得しておきたいのです。 

このような中途半端にうまくごまかして妥協で逃避しているからには心の気付き成長はありません。 それで満足して真理や宗教に関わっているかぎり成長することもなく人間が終わります。

私は正しいの正義感や完璧主義や潔癖症を「正しいこと」と自己満足・自己主張・顕示している人が大勢います。 それは自分の心の奥底を覗く以前から「私は正しい」の観念で支配されているからです。 自分が自分の心を拘束しておいて、(生きることに)息が詰まるから早く自由になりたいと思っている人が大勢います。 そして自殺する人の中にも「私は正しい」と思い続けて死んでいく人も大勢いると思います。
本質真実を知らないで「私は正しい」と思い違い錯覚勘違いしているのです。

私自身にたくさんの醜い心があるのを知っています。 完全真理を知ったことから自分の醜い心に気付いています。 
私自身の個人意識は過ぎるほど持っています。 だから自己拡大を止めた今の田舎暮らしが、今の私にはちょうど都合がよくてお似合いになっているのです。 
しかし田舎暮らしとは言え、私の個人意識を無くしていくことは自力では無理だと思っています。 でも個人意識が有るより無い方が「心の安定」につながることを、形の上での自己縮小・田舎暮らしの実感でもって「知った」から、個人意識の自己縮小を迷うことなく続けていける自信があります。

有って当たり前だったこと、有ることが正しいとさえ思っていたものを減らし無くする自己縮小は大変です。 でも完全を「知った」かぎりには「やる」しかありません。
それが「生きる」ことだと「知った」ばかりです。