孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

万物すべてが完全な神であることを知る

2008年10月11日 | Weblog
人間は思い考える事が出来ますが、知らないことを思い考えることは絶対に出来ません。
だから先ずは知る事が重要です。 でも知った知識だけでは不十分・不完全です。 そこで知ったことを行為行動実践する必要があります。 そして実践から納得確信・悟りになっていきますが、良い悪い(善悪・優劣・損得)で分離判断する裏表の矛盾があったり、中途半端な妥協であったり、自己満足や自己主張するために言い訳正当化されたものであれば、全て不完全になり本物・実在ではありません。
その本物・実在・完全を知った人は極僅かしかいません。 しかも知っただけでは不完全だし、実践も中途半端でまだ本物にはなっていません。

宇宙のすべては・・・終わりなき始まりである・・・ひとつの完全から始まったことです。 だから完全なる全知全能によって新たな完全が生まれ続けています。 その完全から生まれた完全を神と言えば「すべてが神」となります。
すなわち動物・植物・生物・微生物、鉱物・液体・固体・気体などのすべてが神であること、神以外の不完全は存在実在していないことになります。 そして神だから与え続ける愛、失うことを恐れない愛があり、その愛は命ある意識から出ていますから、すべてが神・愛・命・意識となります。 だからその命・意識には神・愛のエネルギーがあります。 そして完全な仕組み全知全能・宇宙の法則・自然の法則ですべての命が永遠に生き長らえるように上手く調和して噛み合っています。 一神にして多神、多神にして一神の関係ですべてが実在しているのです。

完全な神である人間は他の神の命を頂いて食ったり飲んだり吸ったり使ったりして生きることができます。 だから生かされ生きていることにアリガタイ心が先に無ければなりません。
ところが生きていることの感謝、生かされていることの感謝、生きている命のありがたさが失われたことから、いつしか「我神なり」を忘れた個人意識の人間になったのです。

すなわち、すべてが神であることを忘れてしまって、そのアリガタイ心を無くしてからというもの自己中心に思い考え好き勝手し放題にして、自分の思い通りに生きることをしているのが・・・我神なりの神意識を忘れた今の個人意識の人間なのです。
だから自分に都合がいいように自分の尺度で「良い悪い」で分離判断差別する事があたり前の世の中になったのです。 すなわち”ひとつ”のものを分け隔て分離する不完全な意識の非実在で生きているのです。 先程の頭の中で思い考え想像することができる知識だけを詰め込んだ非実在の想像の世界で生きていたり、完全な神を知らない中途半端な不完全な意識のままで止まっているのです。
完全な神を知らないから「喜怒哀楽」「生老病死」「趣味嗜好娯楽」で生きることになり、その悩みや不安や恐れを試行錯誤・思考分析しても解決に至らないので、いつまでもその苦悩や混乱と葛藤で生きているのです。

そこで先程の「完全を知る」ことが重要になっているのです。
そして知ったことを「実践する」ことから「本物」を見抜く力・自力が付き、実在する神・本物の神を納得確信・悟ることになり、身に付いてしまった個人意識を捨てる「我神なり」の神意識に至る自己縮小の実践が始まるのです。

「完全を知って、完全になる」のが人間の生き方であり役割個性です。
それ以外の不完全をいくらやり続けても絶対に完全には至らないのです。
思考分析・試行錯誤・言い訳正当化された「私は正しい」の形(宗教思想哲学道徳風習)で自己満足・自己主張・自己顕示することで一時の満足があっても、その矛盾で悩み混乱葛藤するだけで完全には至りません。
そのことを「知る」のも、完全に至る終わりなき始まりの第一歩となります。