孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

未熟にしても完全真理を意識した生活でなければその完全を知り悟ることにはなりません。

2013年01月15日 | Weblog
世間で言われる「見えない世界」の摩訶不思議や神仏霊魂の精神世界などを語るには「見える」形にしたり如何にも見えているように語るしかありません。
それが神懸り超能力を使って見える形にしたり、また霊力霊感感性でもって如何にも見えたが如くに語るしかありません。

その語り説くときに使う言葉は自らが此れまでに学び知った言葉を使うことになりますから、釈迦やイエスと言えども先人の使った言葉を使うことになるし、説明する文言が長いのを(現在の若者が如くに)省略短文の略語にして、その略語のその説明を加えて何度も使っているうちにその略語が四文字熟語のようになって定着していきます。

その釈迦やイエスらが使った熟語に更に意味づけして新たな略語を創作する人も出てきますから、同じ似たような意味のあるその略語熟語新語が増えています。
しかもそれら簡略した熟語を使って語り合い説明する者が賢者のように思われることからして、その道の講演会や仲間内で使うその熟語だけが先走りしていれば、私のような者や初心者には理解しがたい言葉になっている場合があります。


それともっと厄介なのが神懸り超能力者を「神」に思っているその信者のその思い期待からして(仮初めに)語ったことが人づてに語られているうちにそれが本物事実になって伝わることがあるのも事実にあります。

だから過去の釈迦やイエスに係わる者の中にもそれらがあって、その釈迦やイエスから離れたところで一人走りしていた事例がいつの間にやら本物事実に祀り上げられたこともあったはずです。

だから釈迦やイエスら本人から離れたところで書かれた聖書経典やそれを修正した中にも嘘があるはずです。
それと同じく日本の古事記にも作り話やの嘘が多いはずです。

また信者意識の人は教祖や耕栄さんの思いで語るその言葉を神の言葉・神の声に思い上がる人がいます。
そして神である教祖や耕栄さんが語る言葉は神の声(言葉)だから絶対正しいと思い込むから、矛盾のある不完全な事柄さえもそれが絶対に正しいとなり、そして人集め金集め物売りに駆り出されることにもなるのです。


その点から言えば完全真理は完全ですから、数学の数あわせと同じく正確な答えが出ていますから絶対矛盾することはありません。
だから複雑怪奇な精神世界のことであっても思い悩み思考錯誤やで葛藤することにもなりません。

それと神懸り超能力者の耕栄さんを神様のように思っていた人がその耕栄さんを裏切ったり、また神の如くに期待していたことが間違いだと判ったらすぐさま愛想を尽かして離れていく人が多いのも、肝心要の完全真理に惚れたのではなくして奇跡を成す人間である山田耕栄さんに憧れ敬い信頼し期待していたからです。

だからすべては己の意識に原因があってのことであって教祖や耕栄さんが原因ではありません。
本来なら教祖や耕栄さんから学ぶだけであって、その学び間違いの成否が起こるのは自分の意識からして必然ご縁で起きた結果です。

だから信実事実を知るには自らの意識で気付きまた実践してからです。

その気付き実践なくして他力的に真実事実の本物を学び知ろうとするからいつまで経っても中途半端な矛盾の中で居続けることになるのです。

そして不完全と完全の見極めが出来ないまま鵜呑み丸呑みして更に盲信まですることになるのです。

しかもそんな意識の人たちが大勢集るほどに変な方向性に気付かないままに忠実に従って生きることになるのです。
それが今までの史実にある(歪んだ方向性の)不完全意識の集る形・組織団体(集合体)による犯罪事件や抗争や戦争侵略です。

だから未熟にしても完全真理を意識した生活でなければ不完全意識の集まりに参加協力することにもなりそれが組織化されて変な方向性に行くばかりでして、その完全な真実の神や愛を知り悟ることにはなりません。

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