孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

神や愛の精神世界を知らなくても欲張らないで生きていればその人生に失敗はありません。

2013年01月14日 | Weblog
私の過去からして思うのですが、
無学無教養で遊びボケしているし、しかも神仏霊魂や精神世界を無視した無縁の生き様と薄情なほどに義理人情愛情やの感情が出てこない(成り行き任せの)(ほっとけさんの)私が何で精神世界の中に身を置いても違和感無く素直に順応し、しかも既に精神世界を熟知したが如くの立場環境状況(過疎地での単身暮らし)に我が身を置いていたのですから(しぜんに仕組まれていたのですから)、それを思うにどうやら、

人それぞれの進むべき道筋が意識が原因からして既にレールの如くに敷かれていて、それを言い換えると前世からして引き継いでいるように思えるわけです。

だから現在宗教に染まっている人であれば(私の事例のように)元からして宗教が似合う意識に成っていたと言うことです。
だから宗教に入信することを反対する人がいてもそれを押し切ってまでも入信する事になるはずです。
それが説得されて入信を諦めるような意識の人であれば元からしてまだ入信するほどの意識にまで至っていないと言うわけです。

それと同じくして完全真理を学び知ってもその実践が出来ないのであればその元からしてまだ実践できるような意識には至っていないと言う事になります。

そして神懸り超能力に魅せられ引っ張りこまれることになれば(信者意識)それに似合った意識を持ち合わせていたことになります。
すなわち意識が原因にしてのその結果ということになります。


ところで精神世界と無縁だった私が「此れしかない」と思えたほどですから、精神世界を意識していた人たちなら一目散に駆け寄るかと思っていたのに、ところがどっこい、未だにその仲間が極限られているし、その中には実践どころか真理の学びさえ中途半端なのですから、まだまだ先が長いことになるかもしれません。

それでも耕栄さんのように重病を患い高熱からして目覚めたら意識変わりしていたことがあるように、何かの有事がきっかけからして意識変わりが始まることもありますので、やはり精神世界を意識した生き方を続けていく必要があります。

その耕栄さんも前世を引き継いだから今があるわけですから釈迦やイエスも同じくそれ以前の前世を引き継いできたわけですしアダムやイブもそれ以前の前世(命意識)を引き継いできた事は間違いありません。

その前世を引き継いだ耕栄さんも(釈迦やイエスも含めて)生まれ出たときから精神世界の諸々を説き語ることは到底不可能ですから、今の耕栄さんになるまでに必然ご縁からして(成り行きからして)色々と学び知り悟ってきたはずです。

だから伊勢白山道なる人も前世を引き継いできたと自らが語るように釈迦やイエスの前世を持つと自己主張する人もいます。

また女流作家として名を馳せその恋愛経験豊富からして目覚めたかのように禁欲の仏門に下った人がいるのも前世から引き継いだその資質・素質・意識があってのことになります。

また波乱万丈の人生からして精神世界に目覚める人がいたりするでしょう。


ところで私の娘のように20代で精神世界を意識しだしたように、ところがその親の私は先程に書いたような有様ですから、
現在は精神世界に無縁であっても成り行きと有事などがきっかけからして年齢に関係なく精神世界に目覚める可能性は誰にもあります。

ところがどうも自然の成り行きからではなくして(強い意志からして)(願望欲望野心からして)捜し求めたり、または苦悩を癒され解消されたいと願う(他力頼り)などの欲絡みの思いからして精神世界に身を置くことになると、何やらおかしげな方向の意識に進んでいくのも確かなようです。

それを簡単に言うと<欲>があるうちは(欲絡みだと)精神世界には(教える側も学ぶ側も)(絶対的に)不向きだと言うことです。

またその精神世界の学びからして我が身の欲を洗い流そうと目論むのもどうやら無理があるようです。
何たって持って生まれた欲を消すことは(修行しても)絶対に無理なのです。

だったら、その欲が出てこないような生活・生き方を実践するしかないのです。
そうすれば欲が原因の不平不満も自己満足もありませんから当然ながら苦楽のない生き方になりますし、当然ながら私が正しいの潔癖完璧や正義感やその自己主張もその守り意識も出ないままに(出しようがないままに)、
ただ食って寝て糞をして生きているだけのような(しかし味わい深い)生活観&人生観になっていきます。

しかしその欲が出る状態状況立場で生活している限りにおいては(修行しても消えないだけに)精神世界の形に無縁のほうが(後に振り返ったときに)良かったと思えるはずです。

何たってお金と時間をかけて学び知ってもその実践が出来ないのだから、
だったら学び知る必要もなかったも同然で、
絵に描いた餅を眺めて(現実ではない夢心地で)暮らすことになるからです。

そして過去も現在もその欲が原因からしてすべて失敗している事実があります。
そこで失敗しないために精神世界に身を置いてもそこで欲張れば失敗します。
そしてその苦楽の思いだけをもって来世につながります。

だから神や愛の精神世界を知らなくても欲張らないで生きていれば(自己縮小の実践と同じですから)その人生に(真坂の衝撃的な有事がきっかけの)失敗はありません。

何たって欲張ってないのだから
そして欲がなければ失うことも恐れていませんから。

その平然とした成り行き任せからして(苦楽もなく)(悲惨なこともなく)成る様になっていくことが続きます。

そんな己の意識を死して後もこれまた来世で己が引き継ぎその意識を永遠に(玉ねぎの皮を剥ぐように)磨き続けることになるのです。

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