孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

<執着から始まり終わる>その人生になる原因に「守り意識」があります。

2012年04月10日 | Weblog
「良い悪い」で判断するのが人間ですから、良いことも悪いこともあって当然ですし、良いことが後に悪い事になったり、またその反対もありえます。
だから家族が同じ屋根の下で暮らすことにも都合がいい時と悪い時もあります。
だから親や夫や妻や子供がいて都合が良いときと悪いときがあります。
だから無邪気な赤ちゃんさえも良いときと悪いときがあります。
また人様からお世話になって良いこともあれば同じ人からお節介されて困ったことにもなるときがあります。

私の此れまでの人生で様々な事をしてきただけにその苦楽・喜怒哀楽も世間並み以上に味わっています。
例えば昭和の高度成長期に丁稚奉公並みに雇われたこともありますし、その後自営業を継いで商店主にもなり、また世間一般的ではなかったビデオを先駆けそれを商業化に発展させて専属カメラマンを育てることから自主制作編集まで独自独歩の自力でやって商業化・企業化を成してその社長の経験もしてきました。

ゆえに下働きの丁稚から一応商店主になりそして企業を起し小さいながらもその事業の社長を経験してきました。
また趣味嗜好娯楽も戦後の素朴なものから、高度成長期に新たに出てきて始まった目新しいものまでのその多くを味わってきました。
特に遊ぶことが好きだっただけに素朴な伝統的なものから最新式・最新形までもの多くを味わってきました。
その中の最新式の釣り道具や初登場のアクアラング潜水やビデオ撮影に関してはお手本が無かっただけに、殆どが独自独歩とその創意工夫によって先覚者気取りでやっていました。

また商売柄の必然で誤魔化しインチキして帳尻併せすることもしたが、その反対に誤魔化されたようになって損したこともあります。
また脱税することもあったが今は所得税ゼロになっています。
また仕事関係では、自己結果・自己責任だけでは済まされない、いわれのない不平等・いじめ・八つ当たり・責任転換・えこひいき・お節介を受けることも多くありました。

また私生活についてはこのブログに時おり書いていますので省略しますが、その苦楽も十分に味わってきました。
また幼い頃は放任主義に育ってきました、それだけに遊ぶ事は得意でした、それだけに学力学歴はお粗末です、そして赤面症があったが自信を持つようになってからは消えたし、閉所恐怖・高所恐怖はまったくありません、また集中熱中するが潔癖・完璧を求めません、手先も足先も器用に使います、臭い汚い暗い危ないの意識もないほどです、だから衛生意識はまったくありません、また見栄や世間体よりも思うがままの自由が好きでした、否定反発するよりも何でも知りたがるやりたがるほうです、それだけに必然ご縁の仕組みによって「見えない世界」全般を学び知りそれらを味わっていることもブログに書いている通りです。

そして前項の同じ屋根の下で暮らすことから離れて山間の過疎地で単身ながら独自独歩の生活をしていることもブログに書いていますが、その世間や家族やの「しがらみ」から離れたことで、その仕事を含めた世間や家族やの「わずらわしい」「ややっこしい」人間関係やその常識・伝統風習や道徳やに影響されないその暮らしぶりもブログに書いている通りです。

だからこのブログは私の歴史でもあります。
すなわち良いと悪いで判断する矛盾のある世間の中で、私は(上も下も、表も裏も、また素朴・普通・特別も)そのあらゆる形を広く浅く数多く味わってきたのです。
だから企画演出・装飾された内容ではなくして、完全真理の完全な真実事実と、その完全真理を学び知った私が(昨日までの過去のことをふまえて)実際に味わい学び知り気付いたことを書いているわけです。

しかも私自身が過去も今も個人意識丸出しで生きているだけに、同じ不完全意識を持っている皆さんにも通じるところが多々あると思って書いています。
また本来なら己の独自独歩で一人歩きしていればいいことですが、世間一般よりも(必然ご縁で仕組まれ)まれに見る特異な経験体験をしているだけに、また収益性・生産性の低い実生活の関係からして、その余暇・時間がありすぎて暇で退屈している事実からして(そのように仕組まれた必然ご縁から)このブログを書いているつもりです。

だから自惚れといえば自惚れにも思えますし、自己満足や自己主張になるといえばそれもあるし、とにかくも不完全意識の私には間違いありません。
そんな未熟な私が到達した事にあるのが、この世の人間は「執着で始まり終わる」ことです。
それだけにその<執着>を無くしていくのに役立つような事例を事細かく書いているつもりです。

ところがその執着しないでいられる所・場所・環境が自然界の中くらいしかないのも事実です。
しかしその自然界にいても、過去未来の事を思って執着するのが人間です。
だから「どうしようもない」のです。

そこで少しでも執着を減らし続けるしかありません。
それが「素朴」に生きて、自前の自力を多く使って、その充実・自信で生きる事を続けていると、その素朴の中の真実事実を十分に味わうことになり、その充実・自信が意識力・精神力にもなり、そして人様の不完全意識・原因を絶対にどうすることも出来ないこともわかりますから、時おり気になる(どうしようもない)人様のことに執着しないようになるのです。
また執着することがあっても直ぐに消えて、(記憶に残っても)その記憶に執着し続けることにはなりません。

だから執着することが増えないためにも自然界が適しており、また素朴を味わうのにも立地条件的に都合がいいようです。
その形による自己縮小が本物になるにも絶対に必要なのが、「執着」しないでいられることのその有難さ・アリガタイを自らが実感で味わうしかありません。

ところが日々快適便利で変化刺激に富んでいてその自己満足の多い生活の中で果たして素朴が味わえるのかとなると(その生活に意識が多く使われているから)私は疑問に思います。
それどころかその生活を守ることに執着したり、前項の家族関係にも執着することにもなり、また社会的外見やの見栄や世間体が邪魔することにもなり、(私は)到底無理だと思っています。

しかし完全真理を深く学び知り、それに反する不完全意識のその矛盾をも深く味わい学び知り、また小さなことにも気付き、その不完全な「どうしようもない」事に執着しないでいられる意識になることは可能です。
そこで心底から執着することの少ない生き方になれば大丈夫かと思いますが、それを試されるが如くに(己の意識が原因の)大小様々な有事や(その弱点をつかれた)真坂の有事が仕組まれ続けますから、それにさえ執着しないでいられる精神・意識になることです。

しかしそれも多分無理でしょう。
何故なら自分を守りたがる守り意識が執着になるからです。
だから「守るべきものを持たない」「守る必要のない」その意識になることが先決です。

すなわち「手放して」初めて<知る>のが・・・己の自己防衛・守り本能(様々な有事から身を守りたがる)であり、それが私は正しいの言い訳・正当化やの自己主張・顕示や潔癖・完璧・正義感であり、それが思うままにならないことからして妬み憎悪・やきもち嫉妬からの虐め・仕返し報復・破壊意識を(小さくても)持っていることであり・・・それらに執着している己の不完全意識に気付くことです。

それも「完全真理」を深く理解したことから(小さなことにも)気付くことができるのです。
また日常の不完全意識の苦楽やその忙しさに執着することのない、その時間帯が多いほどに気付きも多くなります。
またその気付きが多いほどにその分だけ執着することも減っていくのです。
だから完全真理の実践は「気付き」にあるのです。

また私のような無学で世間知らずで神仏を信じることもなかった半端者が、いつの間にやら完全な宇宙の神・愛の真実を語ることにもなるように、特別立派なひな壇に祀られたり額縁に入れられて飾られることもないごく普通の中で真実の宇宙や神の愛が語られるのが本筋・本物であって、しかもそれを信じるか否かではない確信でもって学び知り気付くものであり、またその真理の実践も自力を多く使う質素素朴な(彩り・飾りのない)<普段着>のままに無理なく実践できる「自己縮小」しかありません。

また完全真理を実践していようが怠っていようが、また神仏や神がかりの人を信じていても、その自己縮小が余儀なくされる有事が遅かれ早かれ必ずありますから(皆が同時で一緒で無くても)人間皆が人それぞれに(余儀なく)自己縮小した形になることが絶対的に訪れます。
そしてその有事に動揺して執着するか否かで、その人生・運命の方向性が自らの意識が原因で選んだその結果となって必ず現われることでしょう。

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