孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

思惑理想目的というよりも、先々に絶対に起こる有事に対する心がけ実践意識を書いています。

2013年04月02日 | Weblog
過去の釈迦やイエスを含めてこの世の精神世界&真理を説く者さえも良い悪いで判断する矛盾意識・不完全意識を持っているだけに、結局は「言うは易し行ない難し」また「ミイラ取りがミイラになる」そのお手本を見せてくれていることになります。

そこで私からして書くのも変ですが、
完全真理の基本を書いていた書き始めの頃と違って自己縮小が言われ始めた頃からは私の中にある表も裏も併せたその事実を自叙伝風に書いていますから、私の不完全意識に変わりがなくても真理&道理に通じるその事実を書いていることになります。

だから自らの自由&独自独歩の実践をしていることを書き、またその自由のありがたさやその重要性を併せて書いています。

だから否定反発や束縛制限のことや成り行き任せにしていることを書き、そして無理も欲も無い食って寝て糞をするだけのような生活をしっかり味わっています。
ゆえに趣味嗜好娯楽&変化刺激&喜怒哀楽に執着することにもなりません。

そして精神世界の実践に「しがらみ」が邪魔なことも事実として書いています。
だから人情愛情&絆の裏表の事実を書いていると思っています。
また肉体や感情体を気にして生きるよりも内なる精神体が重要として書いているだけに私は医者に殆ど縁が無くまた喜怒哀楽の感情が薄く薄情にも思える自分がいます。

しかもそれが確かな自信となったのが「不完全意識が原因のその結果も同じ不完全」だと言うその事実を悟ったからです。

だから人様のことを気にもせずに(それが不義理恩知らずの罪悪感・嫌悪感の自責にもならずに)、また欲張り無理をしないままの(何か事を成すことでもなく)、その成り行き任せの(否定反発・束縛制限・喜怒哀楽の無い)その安心安全な心持のままに生活し続けることが可能になっているのです。

ところが世間一般では自己縮小の実践をするほうが人間として至難の業であって、此れまで通りの俺が我がの個人意識丸出しの自己拡大の生き方のほうが容易いことになります。

だからして(世間で目立つ)大きく生きるほうが容易くて(人知れず静かに)小さく生きることのほうが修行が如くの(仙人が如くの)至難の業になります。

ゆえに(私の場合は)暇で退屈する事になっているのですが、それも同じ自己縮小意識の仲間が身近にいないのが原因ですが、それとてどうしようもないことと自覚して必然ご縁の成り行きに任せています。

だからその必然ご縁からして新たに仕組まれない限り今の生活が急変することも無いと思うが、しかし病気や老後の要介護が仕組まれることは絶対的に覚悟していなければなりません。
またそれゆえに最小限度の面倒で済むように心掛けてその手はずを整え、またそうなるように心掛けた実践生活をしています。

だから前もっての思い思惑理想目的というよりも、先々で絶対的に(年齢性別にも関係なくして)誰にも必ず起こりうることに対するその心がけ意識でもって前準備している格好になります。

だから私が「言うだけ・考えるだけ・書くだけ」ではなくして、私の中の自力と自信と独自独歩でもって実践できていることを書き続けているその格好になっています。

だから私の生き方の真似ができそうでなくても、
私の中の事実を書いているだけに少しは参考になるはずです。
だから熱心に読んでいれば心持意識が変化しているはずだと思っています。

もしそうであればこのブログが理解できるだけのものを既に持っていたことになります、それが何故ならば何の理解も進まない人がこのブログに来るはずも無いからです。
だから必然ご縁からして(前世からして)仕組まれたわけです。

またそれだけにいつでも実践出来るその可能性は十分にあるはずです。
しかしそれを邪魔するものを自らがしっかりと持っているのです。
だからして(致し方なく)その何かの有事がきっかけからして自己縮小が始まるとも書いているのです。

すなわち誰もが遭遇する有事からして自らがもっているものを致し方なく手放す自己縮小の形になることを絶対的に書いているのです。
その最後の有事が人間の死に直面する時になります。

しかしそれよりも先に(前準備の)確かな実践をしているほうがその有事に(動揺し苦悩しない)強い精神力を持つことになるのは確かですと、私の実感を込めて書いているのです。

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