孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「自然と人間」の関係を自問自答すれば先行きが見えてきます。

2015年10月25日 | Weblog
不完全意識を持っているからには「精神の安定」といっても自然界の草木のように即身成仏できているわけではありません。
だから欲もあります。
だから不平不満も出てきます。
然るに自己満足を欲しがります。

しかしそれに拘り執着しないから=頑張り欲張り見栄張り余計なことに無理しないから=無かったも同然になり、心意識精神が乱れないで済んでいるのです。

その食って寝て糞をしながらにして生きているだけのような精神の安定=普通を味わうことよりも、
「此れではダメだ」と思って普通に勝る=特別なことを欲張ることからして、心身が余計に疲れてそのストレスをもって生きることになっているのです。

だから巷の神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラー・予言占いなる形を含めた=見えない世界=全般も特別なのです。

すなわち「此れではダメだ」「何とかしなければ」と思ったことのすべてが特別になるのです。
然るに多くの人が特別を欲しがっているのです。
だからその特別で苦悩することになるのです。

然るに満足していないから不平不満が出てその特別を欲しがっているのです。
ところがその不平不満が出なくなれば満足していることに与えするのです。
そして精神が安定してくるのです。

然るに不平不満から始まったことは自己満足になるだけですから、その苦と楽の喜怒哀楽になりますが、
不平不満が無いのに必然ご縁で仕組まれて人的に満足することがあれば、今を生きていることの付録の「おまけ」に例えられます。

ところがその人的な「おまけ」を欲しがることになればその時点で不平不満を持ったも同然になりますから、
然るに私の場合は人的な「おまけ」が特別になるから、その「おまけ」が無いほうが精神的に安定していられることにも気付きました。

しかしその人的な「特別なおまけ」が当たり前のように続くことになって、それが「普通のおまけ」になれば、その人的な「普通のおまけ」の喜び楽しさを(普通ながらも)(満足に与えする感じでもって)ずーっと味わいながら生きていけます。
然るにそれが続いて「至福」に進化すれば申し分ないのです。

ちなみに私の事例として「特別なおまけ」にならない=普通のおまけ=が自然界の中で暮らしていることで味わい感じる事柄を根堀り葉堀り書いていますが、ここでは省略します。

とにかく自然界の中で暮らしていることからして巷の特別が無くても満足しているも同然の暮らしぶりにもなるのです。
だから月5万円の年金暮らしなのに(過去の贅沢さとは違うが)(中味の質のよい)贅沢しているようにも感じるのです。

ところが多くの人は自然界の普通のことさえも常に味わい感じることが出来ないから多くのことが特別になっています。
だから私の生活ぶりに関心を寄せる人の中にひとつあるのが自然界と戯れて暮らしているその羨ましさ憧れではないでしょうか。

ところが皆さんにはそれらは特別ですから、その一時の自己満足で終わって帰りますから、それが本物にはなりません。
だから帰る道すがらにも早々と不平不満が出てきたりまた執着している事柄を思い浮かべ考え悩むことにもなります。

ちなみに過疎地で暮らしている人たちが素朴謙虚そうに見えても特別で囲まれた生活をしていますし、
ブログで人気のある家畜と家族が共に暮らしているのも(私も経験しています)特別に美化した形だからその苦楽を相当味わっているはずですし、
宗教がらみで生活が素朴謙虚に見えるも、それに関わる人間関係で苦楽を味わっていたり、お仕着せ型枠にはまり束縛制限されたり、また何がしを否定反発して自縛していたり、とにかく自由ではありません。
だから普通ではなくて何がしの特別に囲まれているはずです。

だから「此れではダメだ」「なんとかしなければ」と何らかの特別を捜し求めている特別意識の人たちがその特別な形に憧れ期待して集まってくるのです。
そんな偽善矛盾=差のある特別意識でもって何を成せども余計なことにお金と時間の浪費で終わって無駄になるだけです。

とにかく「自然と人間」の関係を根堀り葉堀り自問自答しては如何ですか。

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