孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

何事も「否定反発」せずに<知りたがる><やりたがる>実践意識が功を成すときがあります。

2010年11月04日 | Weblog
人間として生まれたからには、今まで知らなかったことを知ることになり、そしてそれを信じることから始まりますが、それを否定反発して信じなければ何事も始まりません。
ただそれが記憶に残って蘇ることもある場合からすれば、いつの日かそれに気付き目覚めることにもなりますから、やはり知らなかったことを知ることは大切な事となります。
・・・だから相変わらず書き込んでいる次第ですが・・・

その信じることから始まったことがいつまでたっても信じているだけであれば、それは事実・真実を知ったことにもなりませんし、それを自覚確信することになったり、更に悟り英知になることは決してありません。

ところが完全真理で言われるところの「良い悪い」を持たない実践であれば、その教えの通りに「人を責めたり」自分を責めることにもならないし、それが「不平不満」にもならないことが誰にでも素直に理解できますから、完全真理を信じるか否かの問題ではないことが即座に理解できるし、それを実際に実践すれば正にその通りになり、決して人を責めたり不平不満になったりしませんから、その完全真理には嘘も方便も矛盾も妥協も無く、確かな事実真実を説いている本物であることが理解納得できます。
だからこそ(本物だからこそ)誰もが自信を持って実践出来るのです。

そしてその実践で確かに不平不満を持たないでお陰様とお互い様の調和で心穏やかにすごせる事を味わい知れば、それが自覚確信になり更に悟り・英知になりますから、二度と良い悪いで判断しない完全意識を持つことになり、それが不変不動のものとなります。
・・・これが完全真理の基本になります。

ところが人間に生まれた時から既に良い悪いで判断して自分の都合が良い様に自己主張する個人意識・差別意識・特別意識を持っているだけに、それが原因で心穏やかに生きていくことが出来ないばかりか(怒り嫉妬に)進化拡大して更にあだ討ち仕返しの制裁報復復讐から破壊意識まで持つようになり、自らが自滅していくまでに至っているのが現状です。

その最たる破壊意識に「自己破壊」の自殺願望と「他者破壊」の人殺しや道ずれ殺人や無差別殺人などがありますが、更にそれを大きくしたのが戦闘・戦争・核兵器であり、またその仕返し報復の侵略報復戦争や聖戦テロ行為や自爆テロ行為があります。
だからこそ「良い悪い」で分離判断しない完全真理の完全意識が如何に大切なのかを「知る」ことにもなるのです。

ところがそれでも自分には関係ないとばかりに良い悪いで判断しては不平不満を持ったり、その不平不満を解消して自己満足するという繰り返しばかりしているのが我々個人意識の人間でありその人間関係です。
その自己満足をしたがる良いとこ取りによって文明文化が急速に進化発展してきたのですが、その良いとこ取りの裏の弊害副作用も同時に進化拡大して、地球・人類が破壊崩壊の危機に至っているのも事実なのに、それでも自分さえ良ければの個人意識を改め修正する自己意識改革に取り組んでいる人は少ないようです。

その良いとこ取りをしたがる個人意識を無くしていく実践が思わしく進んでいない人の場合であれば、それは完全真理を知っているだけで実際には実践はしていません。
また奇跡を成す山田耕栄さんやそのファバラを「信じて」いるだけに止まって、しかもそれで自己満足している場合も多いようですし、どこで錯覚勘違いしたのか他力本願に思っている人も多いようです。

そして一番多いのが実践意識よりも知ったかぶりの人(言うだけ聞くだけの人)、そして自分勝手に解釈したり、その解釈の幅を狭めたり広げたり歪めたりして、自分に都合がいいことには気付くが自分に都合が悪いことには気付けない人がいて(聞く耳さえ無くしている人もいて)、完全真理までも「良いとこ取り」をしている人も多いようです。

だからそんな人の場合は良い悪いで判断している事に気付かないことが多いし、しかも真理の教えであっても自分に都合が悪くて気に入らなければ言訳正当化・否定反発したがるところがあるし、また自信確信が無くて信じていることが多いだけにその裏の不信感も併せ持っていることからして、実践決意・決心がつかないままに中途半端で止まっていることに気付かない人が多いのも確かなようです。

私の場合ですが・・・私が知らないことを(他から聴いたりして)知る事になっても・・・自分の判断だけで簡単に否定反発することよりも、更に深く知りたがる意識が強いことから、それが事実か嘘かを確かめ続けることも未だに多く、だから自分の中では解決していない不確かな事柄であれば(人様の参考意見として明記して書くことはあっても)それを自分のものとして書くことにはありません。

だから約20年前の健康関連や環境関連の事柄でも、またその後の見えない世界や霊魂霊界・霊力や宇宙エネルギーの事柄の時でも、そのHPやブログに書いていることの内容には終始一貫したものがありますし、また見当違いの間違ったことを書いた覚えも無いし、それら内容がすでに事実現実になっていることからして、今も確かな自信になっています。

・・・私自身が否定反発せずに「知りたがる」ことが多かっただけに・・・それには物質金銭欲やその実績を捨てる必然も何度かあったし、(その選択が功をなしたのか)真理で言うところの神や愛のことを深く知る前に「自由」のありがたさを知ることになりましたし、(その自由を実際に味わったことから)互いに束縛制限し合っている人間関係の矛盾・不完全に気付き知ることにもなりましたが・・・

それも自分の願望・欲望から捜し求めた結果ではないだけに・・・来るものは拒まず去るものは追わずの<ご縁・必然>の「成り行き任せに」任せている己自身にもそれなりの自信がありますから・・・
やはり「欲」が少なければ惑わされることも少なく、また何かと必然の巡り合わせのご縁も起こることから、(それが成るようになって)自ずと進む道が定まっていたように歩んでいました。

とは言っても(私も未熟な不完全意識ですから)私のこの先のことは不透明で確かなことは言えませんが・・・完全真理から離れる事無く、また実践意識を怠る事無く、このままに歩んでいくと思っていますし、少なくとも未練後悔の執着心や守り闘う不完全意識はあまり出てこないような気がしています。 


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