孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

人間は「生きている」だけでもストレスを積み重ねています。

2020年08月06日 | Weblog
ちなみに私は…人間として生きていく中で変化刺激と矛盾偽善がある趣味嗜好娯楽から離れた生活にして食って寝て糞をしながら生きているような有様ながらも(仙人が如くは無理だから)あまりにも退屈なことからして欲張っているわけでもないが、ふと思い付くままに雑多をしていますが…

そんな…どうでもいいような・ほっとけばいいような雑多を暇つぶしにするとき…うまい具合に事が進めばいいのだが…そんな雑多でさえも思うがままに事が進まないことも多々あります。

そうなると余計なことをしたばかりに精神的にちょっと苛立つことにもなりストレスを感じます。
…然るに未熟なのです…

だから…暇で退屈していることを含めて(生きているからには)何やら精神修行させられているような感覚になる時があります。

だから人間関係を含めて数多く欲張って事を成している人なら尚更に苦労苦悩や苛立ちの連続となるやもしれません。

しかも運良く結果が出ても苦と楽の矛盾がある喜怒哀楽になりその矛盾のストレスを抱える繰り返しとなり・山ほどのストレスを積み重ねているやもしれません。

それで…宇宙唯一の人間として…本当に大丈夫なのでしょうか?

ちなみに人間として生きているだけでも肉体的ストレスや感情的ストレスや精神的ストレスを抱え込んでいるのに、それに輪をかけたように積み重ねているのだから、喜びもあれば苦もあるなんて呑気なことを言っている場合ではありません。

然るに肉体の老衰が早まったり内臓や頭脳や聴覚・味覚・視覚・嗅覚などの衰えが早まります。
とくに視覚と聴覚が衰えることで老後の生活に大きな障害になります。

ちなみに身体的障害を持ったり内臓の病気や感覚障害でもって困っている人が大勢います。
しかもその状態でもって苦しみながら死に至ることにもなるのです。
…人間ならそれが当たり前と思い違いしていませんか…

ちなみにご近所のおばさんがひどい耳鳴りでもって独身の息子とさえも会話できずに家の中に閉じこもり寂しくわびしい老後生活を5年以上味わい続けて1年前に死にました。
…過疎地の住人であっても欲が過ぎている人ばかりで謙虚な人はいません…

ところで私は幼い五歳の頃に事故で入院したこと以外は医者や薬に縁のない健康体でしたが、遊び半分に始めた過疎地暮らしが気に入って・食生活のためではなく趣味娯楽的にヤギや鶏や烏骨鶏などを飼育し野菜や果物をちょこっと栽培していましたし、年に三回のほどの草刈りから冬の燃料の薪作りに精出していたことや山の生活が初心者のために肉体を酷使することにもなり、それが腰痛になり、三月経過しても治まらなかったから、神経痛やの持病となれば医者通いや薬漬けになると思い立ち、思い立ったが吉日にして早速下山するも、国民健康保険証を忘れていることに気付き途中でUターンし自宅に帰ってきた途端に奇跡が仕組まれ腰痛が収まりました。

その奇跡が仕組まれたことからして…何かと拘り執着してはダメよ…と見知らせ・お伝え・メッセージが届いたと自覚し…
そこで飼育していた(ストレスの原因にもなっていた)家畜が自然死するまで世話をしても増やすことはやめましたし自家栽培もやめましたから暇な時間を持て余すことになりました。

そんな時に…ご縁がご縁を呼ぶ奇跡が仕組まれて…香川県の私が徳島県の赤の他人となる牛舎のオーナーとご縁がつながり現在に至っています。

ちなみに暇つぶしがオーナーに喜ばれそれが収入となっている有様だけに労働する肉体的ストレスがあっても感情や精神的なストレスとはなり難いので、暇つぶしの仕事が暇つぶしのままに10年近く続いています。

前置きが長くなりましたが…
とにかく不満と欲と矛盾でもって間違い狂っている中で<欲張らずに生きる>ことは修行と同じかもしれません。

とにかく東西南北の老若男女の誰もが公平に実践出来る簡単なことなのに・それが簡単とならない矛盾があります。

何はともあれ…現代文明は私が幼い頃に見たSF空想が現実となっている超近代的な時代でもあり、また幼い頃は食糧難でしたが今や豊かな自然界の恩恵でもって衣食住に満ちているからには…欲張らなくてもそれだけでも十分満足できます。

なのに欲張ることが当たり前が如くに思い違い・錯覚勘違いして・欲張り続けているの人が多いのも事実です。

そんな現代っ子が素朴謙虚な自己縮小にして・暇で退屈するような生活に慣れるはずもありません。

ちなみに私の娘は田舎暮らしに憧れ・また完全真理をも先駆けていたのに…自己縮小の実践どころか快適便利な生活を追い求め続けていますからこのブログとも無縁のままですし、また田舎暮らしを憧れていたのに初期の頃に何度か山へ来ましたがもう10年以上は来ていません。

要するに世界初の完全真理に目覚めたのではなくて主催者の超能力に魅せられ妄信信者になっていたのです。

しかしその娘が縁からして私が過疎地暮らしとなり、また完全真理にご縁があり現在となっているのですから、やはり縁は異なもの味なものとなるのです。

しかしそれも原因あっての結果だけに、その原因となる意識の有様が重要となるのです。

然るに暇な時間を如何にして過ごすかも、私の意識が原因の結果となるのです。

だから欲張らずにして生きることで精神が安定し心穏やかな暮らしが幸せにも思えるのです。

しかし未熟なところがありますから…暇することで…何だか修行させられていると思うわけです。