目的意識を持たなければ喜び感動が大きくなる。
例えばオリンピックでメダルを取ることが有望視されている人と、メダルにも届かないような人が大活躍した場合とでは喜び感動の伝わり方が事実違っていましたね。
そして有望視されていた人が棄権したり敗退したりすれば落胆も大きくて批判の対象になったりして気の毒な立場になったりしていますね。
行楽のキャンプであれこれ予定を立てないで、思いついたバーベーキューで持ち合わせの材料やお隣のキャンパーから譲り受けたり差し入のお蔭で思わぬバーベーキューをすることができたり、予定していなかったけれど近くに落ちている流木や枯れ木を見て思いついたキャンプファイヤーであれば思わぬ新鮮な感動を味わえます。 しかしバーバーキューをする目的でいけばその準備だけで大忙しで大半の時間を費やしたことになります。 バーベーキューという結果は同じであっても、あらかじめ想像していた事の目的が達せられた喜びと、想像もしていなかった思わぬ喜びとは違いが大きいですね。
家族家庭内でも同じです。
誕生日のプレゼントと思わぬプレゼントとは喜び感謝が違いますね。
誕生日のプレゼントはあたり前の儀式・儀礼の感謝になっていませんか?
記念日を祝う習慣・風習・伝統がなければ、その記念日を忘れていても何ら問題にはなりません。 しかし思ってもいなかったプレゼントを記念日に頂ければ大喜びの感動になりますね。 同じ記念日のプレゼントなのに何でここまで違うの? おかしいと思いません?
好き同士なら、夫なら、妻なら、夫婦ならと、自分勝手な都合で相手に期待したり見返りを望んだりする目的意識があったり、此れくらいのことはお互い様であたり前と権利義務関係のような当然に思っていませんか? してもらってあたり前、やってあたり前・・・夫ならこうしてくれるだろう、妻なら此れくらいはあたり前にしてくれるであろう・・・そんな(思い想像・目的)意識で毎日過ごしていませんか?
喜び感謝を前もって思わなければ(過去未来・目的が無いから)すべて初めての新たな新鮮な喜び感謝になるのです・・・それを「今に生きる」と言います。
オリンピックの喜び感動も、行楽や家庭の中の喜び感動も同じなのです。
私が過疎地で暮らすようになる以前から大した目的はありませんでした。
子供の頃に山遊びしたように山で松や竹を切ったり、道具機械を使うことが好きなから草刈機で雑草を刈ることやチェンソーで丸太を切ったりしたかったのです。 そして廃屋を整理して週末の別荘感覚で寝泊りすることを考えていたのです。
しかしそれ以上の物珍しさや自然現象もあり、そして遊び感覚で味わえる炊事洗濯やお風呂などの日常生活の楽しさ呑気さ、そして質素倹約の面白さが味わえたのです・・・だから山で年金暮らしを始められたのです。
だからお仕組みご縁のあった方が山へくる時に必ず言うことにあるのが・・・目的意識を持たずに、ぶらりと立ち寄る気分で来てください・・・おもてなしはいっさい無いので好き勝手にやってください・・・です。
その言われた通りにして・・・自前で買ったローソンのおむすびを食べてからベランダで寝転び昼寝をしただけで満足して帰り、また突然やってくる人もいました。
あれも此れもと慌ただしく過ごしていれば自然の中での昼寝は味わえません。
そんな何でも無いことが喜び感動になるから人間は生きていけるのです。
自分の目的を達するためだけに生きているから一時の自己満足しか味わえず、その半面不平不満の苦労や悩みが付いて回るのです。 もういい加減に気付いたらどうですか?
結果は後からついてくるのもです。 やってさえいれば結果・喜び感動は自ずと出てくるのです。 まじめ真剣にやっていればその結果も出てくるのです。 愛は絶対に裏切りません。
思ってもいなかった成果成績結果が出れば喜び感謝の至福になりますが・・・先に結果を予測するから思いもよらない結果にもなるのです。
それが例え自分の思い通りになっても至福の喜び感謝には至りません、一時の自己満足で終わり、あとは新鮮味の無い燃え尽き症候群のようにもなるのです。
・・・何でその事に気付かないの・・・言葉知識ではなくて実践で・・・
例えばオリンピックでメダルを取ることが有望視されている人と、メダルにも届かないような人が大活躍した場合とでは喜び感動の伝わり方が事実違っていましたね。
そして有望視されていた人が棄権したり敗退したりすれば落胆も大きくて批判の対象になったりして気の毒な立場になったりしていますね。
行楽のキャンプであれこれ予定を立てないで、思いついたバーベーキューで持ち合わせの材料やお隣のキャンパーから譲り受けたり差し入のお蔭で思わぬバーベーキューをすることができたり、予定していなかったけれど近くに落ちている流木や枯れ木を見て思いついたキャンプファイヤーであれば思わぬ新鮮な感動を味わえます。 しかしバーバーキューをする目的でいけばその準備だけで大忙しで大半の時間を費やしたことになります。 バーベーキューという結果は同じであっても、あらかじめ想像していた事の目的が達せられた喜びと、想像もしていなかった思わぬ喜びとは違いが大きいですね。
家族家庭内でも同じです。
誕生日のプレゼントと思わぬプレゼントとは喜び感謝が違いますね。
誕生日のプレゼントはあたり前の儀式・儀礼の感謝になっていませんか?
記念日を祝う習慣・風習・伝統がなければ、その記念日を忘れていても何ら問題にはなりません。 しかし思ってもいなかったプレゼントを記念日に頂ければ大喜びの感動になりますね。 同じ記念日のプレゼントなのに何でここまで違うの? おかしいと思いません?
好き同士なら、夫なら、妻なら、夫婦ならと、自分勝手な都合で相手に期待したり見返りを望んだりする目的意識があったり、此れくらいのことはお互い様であたり前と権利義務関係のような当然に思っていませんか? してもらってあたり前、やってあたり前・・・夫ならこうしてくれるだろう、妻なら此れくらいはあたり前にしてくれるであろう・・・そんな(思い想像・目的)意識で毎日過ごしていませんか?
喜び感謝を前もって思わなければ(過去未来・目的が無いから)すべて初めての新たな新鮮な喜び感謝になるのです・・・それを「今に生きる」と言います。
オリンピックの喜び感動も、行楽や家庭の中の喜び感動も同じなのです。
私が過疎地で暮らすようになる以前から大した目的はありませんでした。
子供の頃に山遊びしたように山で松や竹を切ったり、道具機械を使うことが好きなから草刈機で雑草を刈ることやチェンソーで丸太を切ったりしたかったのです。 そして廃屋を整理して週末の別荘感覚で寝泊りすることを考えていたのです。
しかしそれ以上の物珍しさや自然現象もあり、そして遊び感覚で味わえる炊事洗濯やお風呂などの日常生活の楽しさ呑気さ、そして質素倹約の面白さが味わえたのです・・・だから山で年金暮らしを始められたのです。
だからお仕組みご縁のあった方が山へくる時に必ず言うことにあるのが・・・目的意識を持たずに、ぶらりと立ち寄る気分で来てください・・・おもてなしはいっさい無いので好き勝手にやってください・・・です。
その言われた通りにして・・・自前で買ったローソンのおむすびを食べてからベランダで寝転び昼寝をしただけで満足して帰り、また突然やってくる人もいました。
あれも此れもと慌ただしく過ごしていれば自然の中での昼寝は味わえません。
そんな何でも無いことが喜び感動になるから人間は生きていけるのです。
自分の目的を達するためだけに生きているから一時の自己満足しか味わえず、その半面不平不満の苦労や悩みが付いて回るのです。 もういい加減に気付いたらどうですか?
結果は後からついてくるのもです。 やってさえいれば結果・喜び感動は自ずと出てくるのです。 まじめ真剣にやっていればその結果も出てくるのです。 愛は絶対に裏切りません。
思ってもいなかった成果成績結果が出れば喜び感謝の至福になりますが・・・先に結果を予測するから思いもよらない結果にもなるのです。
それが例え自分の思い通りになっても至福の喜び感謝には至りません、一時の自己満足で終わり、あとは新鮮味の無い燃え尽き症候群のようにもなるのです。
・・・何でその事に気付かないの・・・言葉知識ではなくて実践で・・・